螺旋の中の欠片

まみか

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最終章 旅立ち

37 逃避

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敷地内の指定の場所に駐車して、澪はキーをくるくる指先で回しながら鼻歌交じりで玄関のドアを開けた。
心配していたよりもずっと円滑に仕事ができそうで、これからが楽しみでならない。
もちろん不安はあるけれど、今は期待の方が大きい。
また一歩前に進むことができた。
進む先さえ見失っていたのが嘘みたいに、次々と好転していく。
そのどれもが福田の何気ない一言から始まっているのだから。
本人は無自覚だろうけれど、福田の影響力は大きい。
こうして周りの影響を少しずつ受けながら、変わっていく日常が今は楽しくて仕方ない。
そんな少し浮かれた気分は、重い大きな扉を開けた途端消え去った。
「…おかえり…」
指先からすっぽ抜けしそうになったキーを、澪は慌てて掌に握り込む。
「悠真?」
玄関ホール、階段脇に置かれた背もたれのないソファーに、足を組み、その腿に肘をつき、その手の甲に顎を乗せた悠真がいた。
その顔を見て、出がけの不機嫌さを思い出した。
その悠真の思いがけない出迎えに、澪は硬直する。
「…え…学校は?」
学校が終わる時間にしては早い気がして。
「終わったよ」
じっと睨むように澪を見つめた、悠真の声は心なしか低い。
「…そ、そう…お迎えなんて珍しいね」
収まっていたはずの浮かれた気分がふつふつと蘇ってくる。
悠真に話したい。
今日あったこと。
一緒に喜んでもらいたい。
「………」
戸惑いながらも澪が近付くと、悠真は無言で立ち上がり二階へ上がっていく。
澪はそれを慌てて追いかけた。
なんだか様子がおかしい気がするけれど、きっと自分のことを心配してのことだろう、と。
けれど今日あったことを話せば、それも治るはず。
報告と、浮かれる気持ちそのままに言葉を発する。
「倉石さんの旦那さんて、初めて会ったけどなんか思ってたのと違う感じだったよ。悠真はあったことある?」
「ない」
素っ気なく短い悠真の返事にも、澪は気にしなかった。
そう簡単に収まる気分じゃなくて。
「倉石さんが厳しい人だから、旦那さんもそうなのかな、って思ってたけど、全然そうじゃなくて。なんか龍一さんといいコンビって感じだった」
ぴくり、と悠真の肩が揺れたのにも、思い出し笑いをしていて見逃した。
「掛け合い、みたいなのがなんだかアットホーム的で。すごくいい雰囲気だったよ」
足早に歩いていく悠真を追いかける澪の足取りは軽い。
「しばらくは龍一さんが僕の勤務時間に合わせてくれるって…」
部屋に辿り着くと同時に腕を引っ張られ、澪は悠真の周りを回るようにして部屋の壁にぶつかった。
「!?な、に、悠真、どうし…」
訴えかけようとした澪の瞳に、悠真の歪んだ顔が映る。
ぞっと背筋を何かが走っていく。
乱暴に腕を絡め取られ、唇が塞がれる。
悠真の表情と行動が合わない。
何か怒っているようなのに、怒鳴るわけでもなく、貪るように舌を絡めるキス。
混乱しながら抗おうと身を捩ると、悠真の左手に両腕を掴まれ、高く上げたまま壁に押し付けられた。
「悠真!?」
再び乱暴に口付けをしてきた悠真を、首を振るように避ける。
こんな、悠真は知らない。
力で押さえつけて、乱暴に奪われる。
澪が抗うのが気に入らないのか、腕に力が込められ、押さえつけられた手首が軋んだ。
「やめっ、悠真!」
腕と、さらにのしかかるように、壁に押しつけるように、重なってきた体に身動きを塞がれ、悠真の手がジーンズのボタンにかかる。
何が起ころうとしているのか察して、澪は足をばたつかせた。
「悠真!」
呼んでも返事がない。
無理やり捻じ込まれてきた手が、急所を掴み、澪は反射的に膝の力が抜け、がくん、と落ちる。
足の間に割り込まれた悠真の膝に支えられるように立たされた。
これじゃ。
これじゃ、レイプと同じ。
何が悠真をここまで激昂させているのか、澪にはわからない。
けれど、これじゃあ…。
「悠真ぁっ」
思わず溢れてきた涙が、首筋を噛むように吸い上げていた悠真の頬を濡らした。
澪の意思を無視して、悠真が欲望をぶつけてくる。
怖い。
嫌。
ばたつかせた足が悠真の脹脛に当たった。
それでも腕も身体も解放されない。
掴まれた手首がずきずきと痛んだ。
発情期以来何度か重ねた身体は、いつも悠真に触れられただけ熱くなる。
悠真の身体も、手も、いつも熱くて。
でも今は、悠真の手が冷たい。
触れられても、気持ちよくない。
むしろぞわぞわと悪寒が走る。
「やだ、はるまぁ」
ぴくりと悠真の背が揺れる。
「お願い、悠真、やめて」
懇願するように繰り返すと、悠真の手がジーンズの中から出て行った。
「…なんで!?」
押さえつけたままの悠真が、突然叫んだ。
「悠真?」
思わず聞き返す。
なんで、と聞きたいのは澪の方。
珍しく出迎えてくれて、驚いたけれど嬉しかったのに。
豹変した悠真に戸惑っているのは澪の方なのに。
「なんで、俺から離れようとするんだよっ!」
首筋に顔を埋めたままの悠真が再度怒鳴る。
耳元の大きな声に、反射的に体がびくついた。
「そ、そんなことしてない!」
「してるだろっ!」
再び怒鳴られる。
何がなんだかわからなくて。
悠真の怒りの理由すらわからない。
こんなことは初めてだった。
「…してない…」
溢れてくる涙を止めようもない。
怒ってるなら、その理由を言えばいい。
こんな風に力づくで押さえつけるなんて、悠真らしくない。
それとも。
それすら澪の幻想だった?
ふっと唇に息がかかって、澪は思い切り顔を背けた。
ぎり、っと悠真が歯を鳴らす。
「なんで、そんなこと、言うの?」
澪はしゃくりあげながら、小さく、独り言のように呟く。
「僕が、バイトをすること、そんなに嫌?」
バイトの面談から帰宅して早々の出来事。
珍しく出迎えてくれたのもそう。
不機嫌そうに見送ってくれた。
全てそこに繋がってる。
「………」
悠真は答えない。
悲しくて。
涙が止まらない。
「なんで?僕は、悠真を煩わせたくなくて…」
「煩わしくなんて思ってないっ」
即座に悠真に否定される。
「…僕は、悠真に…養われるだけじゃ、嫌、なのに…」
「なんで嫌なんだよっ!?別にいいだろっ!?俺が全部お金なら出すよ!」
悠真の手が顎を掴んで振り向かせ、やはり無理やり唇が合わせられる。
澪は食いしばって、それを拒んだ。
なんで?
なんで今、キスするの?
まるで。
性的に言うことを聞かせようとしてるみたいに。
歯を固く閉ざしたまま、瞳も唇も閉じる澪に、悠真は焦れたように無理やり舌をねじ込んでくる。
それを首を振ることで避けると、歯に何かが当たった感触がした。
微かに鉄の味が口の中の広がった。
小さく瞳を開けた澪は、唇の端から流れる血を悠真が悔しそうに拭うのを見た。
「悠真は、僕に、そうゆうのを、望んでるの?」
「………」
悠真は違うと思ってたのに。
「ただ、囲われていれば、いいの?僕は…」
澪が一番嫌う、悠真といる形。
はっきりと悠真に伝えたことはなかった。
発情期を恐れたのも、結局、愛人のように扱われたくなかったからなのに。
悠真は、それを望むのか。
「………」
悠真は答えない。
否定もしない。
悲しくて。
なぜ、今になって。
こんなに深く入り込んで、二人で共に歩く将来を現実に求めて、歩き始めた矢先に。
ひどい。
「悠真、離して」
澪が訴えても、悠真は動かない。
「離してってば!」
目一杯に体を捩って、腕も千切れてもいいとばかりに動かして、悠真の足を蹴飛ばした。
やっと緩んだ腕を引き抜くと、悠真を突き飛ばして、澪は部屋を飛び出した。
悠真が怖い。
逃げなきゃ。
ほとんど本能的に体が動く。
「澪!」
悠真の声が聞こえたけれど、澪は振り向かず走り続けた。
そのまま階段を駆け下りて、玄関の扉も勢いのまま開けた。
車まで走って、息を切らせながらポケットを探る。
「…ない!?」
車の鍵がどこにもない。
悠真に出迎えられて、驚いて手の中に入れたけれど、その後どうしたっけ?
部屋に着くなり悠真に引っ張られて、壁に貼り付けられ…。
「部屋に、落とした?」
澪は車に縋り付くようにへたり込んだ。
涙がとめどなく溢れてくる。
どこにも行けない。
逃げることすらできない。
この、悠真の敷地に、囲われている現実が澪を襲う。
ここから歩いて、どこへ逃げる?
人里まで車でも15分はかかる。
もし、逃げたとしても、澪には行くとこなんてどこにもない。
家もない、家族もない。
「うわぁぁ」
口から自然と声が漏れた。
悠真しかいなかった。
今までも、今も。
悠真のところしか自分には居場所がないのに。
悠真はわかってくれると、思い込んでいた。
澪を一人の人間として尊重し、これから共に未来を作っていくんだと、信じていた。
いずれ悠真は玖珂を継ぎ、澪はその助力をするような形で、一緒に、ずっと一緒にいるんだと勝手に思っていた。
そのために悩んで、苦しんで、やっと見つけた道の一つで、悠真自身が壁となって現れるとは思ってなかった。
でも気付くべきだった。
ずっとそうだった。
悠真に悪気はなかった。
澪に物を与えるのも、金銭を渡すのも、少しも悪いと思ってなかった。
むしろ当然のように振舞っていた。
あの時、ちゃんと話をしておくべきだったのだ。
いや、それよりももっと前に…。
悠真に力で押さえつけられて、初めて怖いと思った。
悠真と自分の間にある隙間に気付いた。
気持ちは同じはずなのに。
今はその深い隙間が、二人の間に立ちはだかっている。
今まで誰よりも知っていた、わかっていたはずの悠真がわからない。
澪にとって唯一無二の信じられる存在が、霧のように消えていく。
絶望が澪を襲った。
孤独なのは悠真だと思っていたけれど、本当に孤独なのは澪の方。
思わず握り込んだ拳で車のドアを叩く。
逃げようと思ったこの車さえ、悠真のもの。
まるで籠の鳥。
悠真から逃げたい訳じゃないけれど。
どこにも逃げられない。
もう一度悔しさを紛らすように叩く。
どうすればいいのかもう、わからない。
誰か、助けて。
そう思った時に頭に浮かんだのは、福田、だった。
唯一の友人。
悠真のところに戻れない。
少なくとも今は戻れない。
他に、いない。
ポケットを弄って、必死に硬い感触を探す。
バッグは部屋に置いてきてる。
財布も何もかもその中に入ってた。
でもスマホは確かポケットに…。
見つけた!
澪は震える手でテンキーを押した。



澪は膝を抱えて、じっと座り込んでいた。
考えているのは悠真のこと。
なんで、豹変した?
そのことが気になって。
確かに反対はしていたけれど、あんなに怒るほどではなかったはず。
だから澪も、いずれわかってくれると思っていた。
あの時の会話を何度も思い出して、悠真の沸点を探している。
不意に甘い匂いに誘われ顔を上げた。
マグカップを差し出して、福田が微笑んでいる。
「あ、ありがとう」
受け取りながら言うと、福田はさらに微笑んで、澪の隣に同じように座り込んだ。
どこにも行けなくて、澪は福田の部屋に身一つで転がり込んだ。
他に知り合いという知り合いもいない。
大学でもそれとなく周りと距離を置いていたから、他に友達もいない。
澪の知人は全部、悠真関連の人たちばかり。
その事実にまた愕然となる。
電話口で福田の声を聞いて、澪の涙腺はさらに壊れた。
泣きじゃくるだけで、要領を得ない澪の話に、福田は言った。
『とにかく、さすがに玖珂のお屋敷まで迎えには行けないから、少し歩いて降りてきて?』
「…うん…」
『途中で拾ってあげるから、ね?』
『…うん、ごめんね」
『いいの、いいの。じゃ、後でね』
玖珂の屋敷からとぼとぼと歩き出して、門で一度振り返った。
もう、戻れないのかな?
急に屋敷で起こった楽しい日々を思い出して。
さらに涙が溢れてくる。
皆、優しかったのに。
こんな形で屋敷を出ることになるなんて、思ってもみなかった。
大学を卒業して、一人暮らしをする時に、寂しそうにする悠真や賢木に見送られて、玖珂の屋敷を離れるのだと漠然と思っていたから。
そして、その一人暮らしの部屋には時々、悠真が現れて…。
全てを断ち切るように、澪は屋敷を後にした。
ずっと泣きながら歩いていて、気がつけば目の前に福田の車が停まっていた。
澪が気付くと、微笑みながら小さく手を振ってくれた。
堪らなくて、澪は福田に飛びつくように抱きついた。
それから。
車内で少しずつ訳を話して。
「じゃあ、うちにしばらく泊まればいいよ」
と言ってくれた。
「でも、迷惑じゃ…」
突然身一つで転がり込んでは、福田の家族に迷惑がかかる。
ましてや逃げてきたのが玖珂となればなおさら…。
「何言ってんの?友達でしょ?それとも友達だと思ってるのは僕だけ?」
澪は慌ててぶんぶん首を振る。
「家族も大丈夫。僕が泊めるのは友達なんだから!玖珂は関係ないよ」
だと、いいけれど…。
何も言えず黙り込む澪に、福田は笑いながら肩を叩いた。
福田に貰ったマグカップの中身はココアだった。
そう言えば福田はよくココアを飲んでいたっけ。
一口含むと、甘い香りが口から鼻に抜けて、ちょっと落ち着いた。
「…以前と、逆だね…」
「え?」
「ほら、僕がレイプされた時に、志垣くんが付いていてくれたでしょ?」
「ああ…」
あの時はどうしたらいいのかわからなくて、でも離れがたくて、ただ一緒にいるしかできなかった。
そうか、間違ってなかったんだ。
ただいてくれるだけで、こんなにも心強い。
「…うん、ありがとう…」
「お返しだよ」
ふふふ、と笑った福田に、澪もつられて笑った。
福田は何も聞いてこない。
澪の話を一方的に聞いただけ。
澪が話し終わった時にぽんぽん、と背中を叩いてくれただけ。
でもそれだけで、ずっと、心は軽くなった。
混乱と戸惑いと、絶望に打ちひしがれていた心もやっと落ち着いて、状況を把握しようと動き出せた。
もう一口、ココアを口に含むと思わず溜息が出た。
どうしよう、これから。
ぶるぶるとポケットのスマホが震えている。
実のところずっと、何度も震えている。
でも一度も見ていない。
メールなのか、着信なのか、それすら確認していない。
誰からなのかも。
今は誰とも話したくない。
目の前の福田にさえ、何を話していいかわからない。
大学は、どうしよう。
始めたばかりの仕事は?
大学は、玖珂のお金で通っているのだから、逃げてきた以上通うわけには行かないだろう。
仕事は…。
大学にも行かないのなら、働くしかない。
できればそのまま働きたいけれど、龍一がいる。
今は悠真と関係のある人に会いたくない。
始めたばかりだったのに。
助かる、って言ってくれたのに。
………。
悠真は、どうしてるだろう。
探してる?
それとも。
言いなりにならない澪に愛想を尽かした?
なんで、あんなに怒った?
言いなりになんて、ずっとなってなかったのに。
なんで急に?
会いたくないのに、悠真のことばかり考えてる。
他に考えなくてはいけないことはたくさんある。
いつまでも福田の部屋に転がり込んでるわけにも行かないから、住む所を探さなきゃ行けない。
働き口も…。
大学、行きたかったな…。
勉強したかった…。
悠真のために。
…………。
もし、賢木のように優秀なら、また悠真のそばに戻れるだろうか。
恋人に戻れなくても、悠真の仕事の手伝いは出来るだろうか。
そしたらまた悠真は自分を閉じ込めようとするだろうか。
でも、性的な関係がなかったら…。
愛人として成り立たないから…。
あ…。
また戻ってきてしまった。
澪は気付いた。
一番最初の悩んでいた頃と、また同じことを悩んでる。
結局、悠真といようとするならば避けられないということなのだろうか。
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