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01 山奥のスタンピード
しおりを挟むその日、平穏は崩れ去った――――
「グルオオオオォォッ!」
「ギャアギャア!」
「キェエエエエエエエェェェッ!!」
迫り来る人間ではない生き物の叫び声。近くだろうと遠くだろうと、それが聞こえる度に恐怖を駆り立てる。
魔物――人々の生活を脅かすと言われているその存在が、突如暴れ出した。
その原因は一切不明。
分かるのは、数分前まで当たり前だった日常が、あっという間に崩れ去ったということぐらいであった。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
獣道をひたすら駆け抜ける少年は、息を切らせながら足を動かし続けていた。
希望という名の光は見えない。どこまで走ったところで、薄暗い景色が晴れるとは思えなかった。
むしろますます暗くなっているような気さえする。
走れば走るほど、力が抜けていく感じだった。
気のせいなんかじゃない。少年の心の叫びが現れているのだ。助かりっこない、このまま倒れたらすぐにでも楽になれる、もう十分走ったじゃないか――と。
「グルアアアァァーーーッ!」
重々しい唸り声が聞こえたのは、まさにそんなときであった。
「えっ?」
――ずしぃん!
思わず間抜けな声を出したと同時に、地面が揺れるほどの着地音が響き渡る。
「グルルルル……」
その唸り声は、まるで己の心の振動を表しているかのようであった。
立ち塞がる巨大な獣。まっすぐ見下ろすその視線とともに、荒い息と口の端から漏れ出る粘り気のある液体が、少年を恐怖を通り越した絶望へと突き落す。
「なんで……」
ドサッ、と膝から崩れ落ちながら、少年はぼんやりと呟いた。
「なんで僕がこんな目に……僕が何をしたっていうんだ……」
震える声で問いかけるように言葉を放つも、それに対して答える声はない。
獣はジロジロと、少年を品定めするかのように視線を動かしている。どこから食べてやろうか、どのようにして仕留めれば美味しくなるのか――恐らくそんなことを考えているのではないかと、何故か呑気にそう思えてしまった。
(……意外だな。魔物って、手当たり次第に食い散らかすわけじゃないのか?)
それは、一種の現実逃避であった。むしろ諦めと言ったほうが正しいだろう。どうあがいても自分が助かる可能性はゼロに等しいのだから、下手に怯えたところで体力を消耗するだけだと。
ここで人生が終わってしまうというのに、体力の心配をする必要性が果たしてどこにあるのだろうか――今の少年に、そこを考える余裕はない。
ある意味、冷静じゃないからこその考えとも言える。
投げやりと言われればそれまでの話だが。
(いきなり村に迫って来てたから、正気を失ってるのかと思ってたし……)
もはや自暴自棄に等しい気持ちでいるからか、少年は呑気に、ここに至るまでの経緯を思い出していた。
人間界の山奥にある小さな村――取り立てて特別なものなんて存在しない、知っている人は限りなく少ないであろうそこに、魔物の大群がいきなり雪崩の如く押し寄せてきたのだった。
それが『スタンピード』と呼ばれるものであることは、すぐに分かった。
何故、どうして、という疑問が浮かんでくるが、そんなものは不毛であると即座に思っていた。
そもそも魔物に理屈を求めるなど無意味――少なくとも少年はそう考えていた。
加えて状況的に、そんなことを考えている暇もなかった。
山奥での暮らしは、ほぼ自給自足。それ故に体力は人並み以上というケースも珍しくないが、所詮は戦いの訓練を受けていない素人。暴れる魔物に対して、冷静に対処できる者は皆無に等しい。
だからこそ阿鼻叫喚な状況になるのは、必然とすら言えていた。
その時の衝撃は、恐らく一生忘れることはないだろう。いつもは大人しくて真面目で頼りがいのある大人が、打って変わって子供のように泣き叫びながら辺りを走り回る光景は、少年にとって別の意味でショックだった。
無理もないと分かっていながらも、納得はできない。そういう意味では自分も、普通に子供なのだろうと少年は思えてしまう。
涎を垂らしながら顔を近づけてくる獣を見上げ、薄ら笑いを浮かべながら――
「グルルルル……グオオオォォォーーーーッ!」
唸り声からの咆哮。そして振り上げてくる鋭い爪を携えた巨大な腕。あと数秒と経たぬうちに、ミンチとされることだろうと、少年は思う。
何故か魔物の腕が、スローモーションで動いていた。
これまでの十八年間に対し、思いを馳せる時間を神様がくれたのかもしれない。少しは優しいところがあるじゃないかと、笑みを浮かべてしまう。
(次に生まれ変わったら、もーちょっとマシな人生を歩んでみたいなぁ……)
それ以外に願いなんてなかった。後悔こそないが、もう少し色々とやりようはあったんじゃないかと、今更ながら脳裏に浮かび上がってくる。
(きっと『アイツ』は……いや、多分もう変わんないか)
特に、真っ先に思い出した一人の少女。
いつも眩しい笑顔をしており、まるでお花畑をイメージさせるその姿は、どれだけ年を重ねても大きな変化を見せるとは思えない。
人生の終わりが近づけば、それすらも懐かしく思えてくるようだ。
段々と獣の腕が、鋭い爪が近づいてくる。差し込む太陽の光に照らされたのか、鈍くギラリと光って見えた。
痛いのは一瞬だけにしてほしいなぁ――そんなことを考えつつ、少年はゆっくりと目を閉じた。
――ずどおおおぉぉーーーんっ!
しかし、いつまでも痛みや衝撃が来ることはなかった。訪れた重々しい音も、少年が受けたものではない。
何かがおかしいと思った少年は、恐る恐る目を開けてみると――
「…………えっ?」
たっぷりの間を空けて、呆けながら放たれたのが、その一声であった。
それくらい、驚かずにはいられない光景が目の前にあったのだ。
ほんの数秒前まで、自分に向けて詰めを振り上げていた巨大な獣が、仰向けになって大の字になって倒れている。その傍らには、それまでいなかったはずの一人の存在が立っていた。
「ふぅ――図体デカい割には呆気ないもんね。期待ハズレだわ」
凛とした低めの声が、やけにはっきりと聞こえた。サラサラと風に乗って流れる長い銀髪が、神々しく輝いて見える。
アレンは口を開け、目を丸くしていた。
もしかして神様が助けてくれたのではないかと、割と本気で思っていたその時、くるりと彼女は振り向いてきた。
なびく銀髪を右手で抑え、『美』を象徴させる小さな笑みを浮かべながら。
「もう大丈夫よ。ケガは特にしてなさそうね。良かったわ」
切れ長の赤い目がニッコリと微笑まれたその瞬間、木々の間から太陽の光が彼女を一直線に照らしてくる。
「……女神だ」
アレンは思わず、そう呟いたのだった。
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