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序章

#1 敵の手

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 誰かが階段を駆け降りる足音――。それは一定の速度で足早に続き、階下へと響いていた。突然、その足音が途絶え、静かになったかと思うと、少し後に『――タン!』と、大きな音が鳴る。
 着地音だ――。
 足音の主は、駆け降りている階段を一気に数段飛び越えるため、残り数段の所で跳躍し、勢いよく着地しているに違いない。そんな光景が目に浮かぶ音だった。

 ここは、エンブレミア王国、エンブレミア城――。
 中央棟、東棟、西棟の三棟に分かれており、中央棟は大広間や来客用に造られた豪華な内装であることは言うまでもないが、一方の東西の棟は、二階までは、兵士や使用人の宿舎や詰め所、稽古場、厨房、洗濯室、食料庫、倉庫などに使われている。
 中央棟と東西の棟の間を連結するように、それぞれ塔も立っている。中は階段が続いていて、階層と階層の間に踊り場がある折り返し階段になっていた。
 しかし、東塔、西塔の階段も、東棟、西棟の通常階段のどちらも、一階から上っていくと、二階の階層までしか続いていない。三階以上の階層へと行くには、一度、中央棟の通常階段から三階へ上がり、再び各塔に入る必要がある。中央棟三階から各塔への扉を開け、その連絡通路を通ると、各棟の三階へと行くことができる。
 三階は、低層階部分の三階層目でもあるが、上層階部分の一階層目でもあり、低層階と上層階を繋ぐ中間的な階層となっている。
 各塔の階段も各棟の通常階段も、その三階からはまた最上階まで続いており、一階二階の低層階と三階から最上階までの上層階は、三階を境にして明確に区別されているのである。
 ちなみに、中央棟から東塔へ、中央棟から西塔へと繋がる出入口には扉が付いているが、それぞれの塔から各棟へと通り抜けられる出入口には扉は付いていない。
 足音の主が、足早に階段を駆け降りているのは、東塔の階段だ――。
 先程から何度も、足早に階段を駆け降り、残り数段の所まできたら、一気に飛び越えるため跳躍し、そして勢いよく着地――という一連のこの流れを繰り返している。
 もうかれこれ、それを4回は繰り返した足音の主も、そろそろ息が切れてきたようである。少し苦しそうに、息を切らす息づかいも聞こえ始めたが、それでも余程急いでいるのか、足音と着地音は止むことなく続いている。
 
 そして――。また足音が途絶え、一度静かになる。それは、ほんの二秒くらいの間で、着地音が聞こえてくる筈だ。
 足音の主が駆け降りる足音の続く時間も、足音が途絶えてから着地音が聞こえるまでの間隔も、ずっとそれが規則的に繰り返されていたせいか、気付けばすっかり頭が記憶してしまっている。

 ――タン!

 やはりそれは、予想通りのタイミングだった。足音の主は、何段までは駆け降りて、あと何段は飛び越えて進むと、決めているらしい。
 今の着地音が聞こえたので、6回目だった。塔の階段が、折り返し階段であることを考えると、一階層降りる毎に、6回、あの着地音がする筈である。
 ……ということは、足音の主は、既に三階層を降りてきた所であり、塔の階数は、少なくとも八階――いや、それでもまだ足音の主が姿を現さないことから考えても、九階は確実に存在するだろうと推測できた。
 
 しかし、一連の流れの音が、ついに7回目になろうとした時だ。足音の主は、もうかなり近くまで来ていることはわかっていたが、小さな悲鳴とともに、先程とは違うタイミングで駆け降りる音が途絶え、これまで聞こえなかった音がした――。

 ――タッ……!
「ぁ……」

 そして――――。
 エンブレミア城は東棟五階――。足音の主が五階と六階の中間にある踊り場から、この五階へと向かおうとする中、その階下には、この繰り返す音の方へと、廊下の歩みを進めていたひとりの青年が、ちょうど塔への入り口に差し掛かろうとしていた――。
 規則性のあった一連の流れの法則が崩れたことに、青年は、足音の主に思わぬアクシデントでも起きたのかと、その階下へと足を早め、階段の上を見上げた瞬間だ――。
「――わ……!?」
 青年が身構えるより早く、小さな悲鳴とともに、突然の衝撃が青年を襲った――。

 青年は、咄嗟にぶつかってきた誰かを、受け止めようとしたが、勢いよく飛び込んできたそれを受け止めきれる筈もなく、床に背中を強く打ち付けられた。おまけに肘で思いっきりみぞおち辺りに一発食らわされ、少しの間声も出なかった。
 あまりにも突然のこの衝撃とは裏腹に、ふわりと漂ってくる花のいい香り――これは、薔薇の香りだろうか。もしかしたら、死んで女神や天使が迎えにでも来たのかもしれない――とすら思った。
 
(……はぁ。いいや……人間、そう簡単には死なないとして、くそ……全身に痛みが……)

「はぁ……はぁ……」

 咄嗟に受け止めようと試みたおかげで、多少衝撃は和らいだとはいえ、足音の主も全くの無傷ではないだろう。それでも、その人物が直接、床に身体を打ち付けられるよりはマシであった筈だと、そう思いたい。
 青年は、階段のある左方向から直接ぶつかられたため、その衝撃を受けた左半身の痛みと、勢いよく倒れ込んだ際に打った背中、今現在もその足音の主が身体の上に乗っかっているため、痛みがあるのはもはや全身だな……と冷静に自分の状態を分析していた。
 青年は、身体に少し力を入れてみる。
「く……」
 やはり思ったよりも痛みが強く、青年はまだ動くのは諦めることにした。
 そして青年は、ここはやはり文句のひとつでも言おうと薄目を開けた。
『――ったく、危ないだろう!』
と、青年は言うつもりだった――。ところが、青年は目を見開いて、目の前の存在を凝視した。
 そこにいたのは、淡い翡翠色をした長い髪の毛の少女だった――。
(お、女の子……? それに、淡い色味の翡翠色の髪……? 珍しい髪の色だな……)
 花のいい香りが、辺りにふわりと漂っていたのは、この目の前の少女からだったのだろう。

 青年は思わずぱちぱちと瞬きをすると、途中で言葉を飲み込んだ。

「――っはぁ……はぁっ……はぁ……」

 少女は、苦しそうに息を切らしている。あれだけ急いでいたのだ。一度休憩などしてしまえば、呼吸が整うまで、しばらくはもう動けないだろう。
 青年は、そんな辛そうな少女に声を荒げては可哀想になり、仕方なく少し優しい言葉に変えた。

「ったく、危な…………かったな。はぁ……。えと、大丈夫か?」
 
 少女は静かに目を開けるが、青年の方を見ずに、青年の身体の上に乗ったまま、手で静止の合図をした。
『――少し待って』と、そう言いたいのだろう。
 少女は、まだとても答えられるような状態ではないようだ。再び、きつく目を閉じると、苦しそうに呼吸を整えようとしている。
「わ、わかった……。喋れるようになってからで良い……」
 青年は、自身もそのまま、廊下の天井を見上げて、少女の呼吸が整うのを待つことにした。
(まだ少しかかるか。しかし、頬を紅潮させながら息を切らした少女が、自分の身体の上に、覆いかぶさった形で倒れているこの状況は、早く何とか回避したいところだな……)
 誰かに見られてしまえば、あらぬ誤解を招いても決しておかしくはない構図だ。
 青年は、それをどうすることもできないこの状況に、溜め息を吐いた。
(はぁ~あ……何故、こんなことになってしまったのか――。冷静に考えて、足音の主であり加害者なのは、勿論この少女だ。階段を駆け下りるタイミングが突然変わるとは……つい、気になって少女の着地点に急に現れてしまった俺も悪かった……かも……しれないが……)
 もし、青年が階下に現れていなければ、少女と青年の衝突事故は免れていた。しかし、少女が単独で階段から落ちるという事実は、おそらく変わらないことだ。
 何故、突然タイミングを変えたのだろうか。
 少女が目指していたのはこの階であり、最後の最後で一気に段飛ばしをした可能性も考えられるし、不慮の事故の可能性も考えられた。あれだけ急いで駆け降りていれば、階段から足を踏み外してしまったとしても不思議ではない。
(とにかく……そろそろ俺の方は動けそうだ)
 ついに青年は肘に力を込め、少し上体を起き上がらせると、少女に声をかける。

「大丈夫か? 起き上がれるか? その……そろそろ、俺の上からは退いてくれると……」
「う……え?」
 青年の言葉に、きつく閉じていた少女の目がうっすらと開く。状況を理解したのか、少女は顔を上げた――。
 青年を見るなり見開かれ、警戒の色も見える橄欖石ペリドットのように綺麗な緑石色の大きな瞳と長いまつ毛――。その整った顔立ちは、あどけなさはまだ残るものの、どこか上品さを兼ね備えていて美しくも可愛らしい――正直とびきりの美少女だ。
 少女は、やっと青年の先程の言葉を受けて、上体を起き上がらせようと、手に力を込めてくれたようなので、それを助けるように青年も一緒にゆっくりと起き上がる。
 少女は床に座り込むと、ぱちぱちと瞬きをして、じっと観察するような視線を青年に向けた。その視線は、一度僅かに左右に動き、それから正面に向けられたので、青年は優しく微笑んでみせる。少女の視線の理由はわかっていたからだ。
 少女は青年の耳を観察していたのだろう。青年の耳は人間のそれとは異なり、先端が少し長くて尖っていた。人間からの好奇の視線には、青年も慣れていた。
 青年は、純粋な人間ではないからだ。
 少女自身も美少女なのだが、青年は人間のそれとはまた異なり、この世の者とは思えないほど、端正な顔立ちをしていた。胸くらいまでの長く真っ直ぐな金色の髪と、長い耳――。とくにその瞳は、金色とやわらかい紫水晶アメジストのような色の二つの色の不思議な色彩の瞳をしていた。
 魅き込まれるようなその瞳から、少女は目を離せなくなっていた。しかし、『おーい聞こえてるかー?』という青年の声に、つい幻想的な姿に見惚れてしまっていたことに気付き、少女は慌てて視線を逸らした。
 大分、少女の呼吸も落ち着いて来た様子なので、事態の収束を早めようと、青年は再び声をかけた。

「――少しは落ち着いたか? どうしてそんなに階段を急いで降りていたんだ?」
 少女は青年の言葉を聞き、思い出したように「あ」の口を開けた。
 チラッと青年を一瞬だけ気にした後、慌てて右足を立て、立ちあがろうとした。
「っひあっ……!」
 しかし、小さく悲痛の声をあげた少女は、すぐにその場にしゃがみ込むと、右足首を押さえている。

(あ~あ、当然というか何と言うか……足を痛めたか。それにしても、何か慌てた様子だったな。やはりどこかに、急いで行かなくてはならない……?)

「……大丈夫か? 足痛めたんだな。無理するな。どこかに急いでるなら連れてくよ、ほら」

 青年は、少女の前にしゃがみ込んだ。背中に乗れという意味なのは明らかだが、少女は動かない。青年が後ろを振り返ると、少女はぶんぶんと顔を横に振った。
「い、急いでるんだろう?」
「……いい」
「遠慮するな……痛むんだろ? そんな足で、辿り着けるのか?」
「……いい! こ、このくらい……大したことはない!」
「はぁ……」
 そう言った少女に、何故か睨まれた青年は、呆れて溜め息を吐いた。
 そして少女は、再びすぐに立ち上がらず、床に膝をついた。
「痛っ……」
 顔を歪めた少女は、体育座りをして膝を確認している。これは、痛そうだった。まだ青いからそんなに目立ってはいないが、その内、痛々しく紫色になっていきそうだ。内出血して青く染まった膝を、床につけるのは苦痛な筈だ。
「うわ……痛そうだな。ほら、助けてやるって」
 青年はそう声をかけたが、少女は言う。
「こ、このくらい……平気……ひぁっ……」
 かなり無理して、その膝を床に付け、少女は足首を痛めた足とは反対の足を床につけ、なんとか立ち上がったようだ。
「や……やった……はぁ……はぁ……」
 少女が少しだけ、顔を輝かせている、しかし、立っただけで、既に息を切らしている。
 青年はその後、どうするつもりなのか、冷めた視線を少女に注ぐ。
 何故、こんなに無理をしてまで、手助けを拒むのか。青年は呆れながらも、腕組みをすると、少女の行動を引き続き見守ってやることにした。いざという時は、助けてやらなくてはならないからだ。
 痛む足ではない足を踏み出せば、痛む足に体重がかかる。痛む足を踏み出せば、今度はその足を床に着地させなければならない。
 どちらも苦痛を伴う選択肢しかないのである。
「う……」
 少女も気付いたようだ。こくっと息を呑んでいる。
「……だから言っただろう? 諦めろ。そんな足で、どーやって進むつもりだった?」

 一度、振り返った少女は、目の端に涙を溜めながら青年を少し睨んだ。

「う……うるさい! だ、大丈夫だ。大体、私のことなど、放っておけば良いだろうっ」

 少女は、あくまでも青年の手を借りるつもりはない姿勢のようだ。

(あぁ、そうか……。ったく、人が手助けしてやろうと声を掛けてやったのに……。やれやれ。見物といこうじゃないか)

「……はいはい。じゃ、どうぞお好きに」
「く……」
 呆れて両手を上に向ける仕草をしてから、引き続き腕組みをした青年は、少女に聞こえないように息を吐いた。

 少女は、痛む足を一瞬だけ床につけて、もう片方の足で進もうとする作戦に出たようだ。しかし、一瞬でも痛む足に体重を乗せなければならないそれは、酷く痛かったのだろう。
 歩く度に、小さな悲鳴が聞こえる。
 一歩、二歩……。一度立ち止まり、意を決したように三歩進んだ所で、少女は息を切らすと、一度、足首を摩った。そして、再び、痛む足のつま先を床に付けようと、四歩目を踏み出そうとするのを、今、少女はとても躊躇しているようだ。
 三歩試した所で、自分が思っていたより、はるかに足が痛むことを自覚したのだろう。
「…………く」
 少女は立ち止まったまま、呼吸を繰り返している。

(――折れたり……は、していないと思うが、捻挫か何かだとしても痛むだろうな。せめて、壁に手を当てながら進めばいいものを……)

 青年は、呆れて溜め息を吐いた。
 それを聞いてか否か、こちらを一度振り返った少女に、青年は睨まれた。

「……どうした? 助けて欲しいなら、助けてくれと言えば助けてやらんこともないんだぞ」
「!」

 明らかに悔しそうな表情をした少女は、青年を睨んだが何も言わずに、ぷいっと前を向き直ったようだ。

(手を借りないというならどうするのか――)

 青年は、我ながら性格が悪いと思いながらも、少女自身に『もう助けて貰わないと、打つ手がない』と理解させるしかないようなので、引き続き見守った。

 そして、少女が動き始めた。どうやら、次は痛くないもう片方の足で、ぴょんぴょんと跳び進む作戦のようだ。どこまで行きたいのかはわからないが、途中バランスを崩しそうになるのを、何とか持ち直している。
 次第に疲弊した片足が、限界が近づき始めている。
 青年はそう冷静に判断し、予想通りの結果に溜め息を吐いた。
 バランスを変に崩し、痛む方の足を床に思いっきりつけてしまい、悲鳴とともに転倒した少女。
 そして、やはり目の端に涙を溜めた少女に、何故か睨まれる所まで、全て予想通りとなったことに、苦笑が浮かぶ。

「お……俺のせいじゃないぞ……」
 青年は、床に蹲って足首を押さえる少女に、呆れたように言う。

(はいはい。ここまでだな……。さすがに、もう手を借りるしかない状況を、嫌というほど理解したことだろう)

 見守っていた青年は、やれやれと呆れてため息を吐くと、そろそろ少女を助けてやることにした。
 スタスタと歩みを進め、少女に近寄っていく。そして、青年は、少女の承諾など得ずに、ひょいっと抱き上げる。
「⁉︎」
 少女が慌てて『わっ』『何をする』『降ろせ』『子供扱いするな』とか騒いでいる。

「――はいはい、このまま急いでいるその時間に間に合わないよりは、お言葉に甘えておいた方が賢明な判断じゃないか? 連れてってやるから、ほら、どっちだ?」
「くっ……」

 その通りだが、不服だと、絵に描いたような表情を少女が浮かべたので、青年はやむを得ず、少女に行き先を言わせるため、強硬手段に出ることにした。
 その結果――。

「えっ違う……お、降ろせ! あーもう。わ、わかった。あっちだ!」
 結果、少女はあっさりと行き先を青年に白状した。
 青年は、先程まで少女が進もうとしていた進行方向と、逆の方向に体を向け、こう言ったのだ。
『言わないならこっちに向かうけど、異論はないな?』
 青年は、進行方向を指し示した少女に、満足そうににっこりと微笑んだ。
「――よし、じゃあ行くか」
 少女はさぞかし屈辱的だっただろう。青年は少し勝ち誇って、口元が緩みそうになるのを必死に抑えながら、指示された方向へと歩みを進めた。これ以上、少女の機嫌を損ねても面倒くさいだけである。

 一方――。
 目の前の敵の手を借りた気分になった少女は、不服そうに呟いた。












「………………むかつく」
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