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第弐部-Ⅱ:つながる魔法
116.紫鷹 願いと覚悟
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「尼嶺(にれ)から、婚約を承諾するとの知らせがありました、」
執務室で、母上に告げられた言葉が、すぐには理解できなかった。
耳が聞いたはずの言葉を頭の中で何度も反芻し、ようやくそれが俺と日向の婚約の話なのだと分かる。
「なぜ、今、」
こぼれた声が震えた。
視線を向けた先で、母上が強く鋭い視線で俺をじっと見つめる。
俺の問いに母上は答えない。
代わりに、母上が俺に問う。
「日向さんの全てを受け入れて共に生きる覚悟が、紫鷹さんにはありますか、」
母上の執務室。
宮城から帰った俺がここへ呼ばれた理由は、日向だろうとは思った。
日向が隠れ家に籠るようになって2週間が経つ。
今日も日向は隠れ家を出ず、学院も休んだ。
何度声をかけても返事はなく、隠れ家の扉は開かない。
それなのに、目の前の母上にだけは、その扉が開かれるようになった。
日向が隠れ家に籠ってちょうど1週間たった日、日向は倒れた。
理由は色々あっただろうが、元々疲労や心労がたまると日向の胃腸は荒れるから、体が限界だったのだろう。
久しぶりに見た日向は、やつれてひどい顔色だった。
それでも、久しぶりに顔を見られたのが嬉しかった。
ベッドに横たわって眠る日向の髪に触れた時、ずっと埋められなかった何かが満たされた気がする。
なのに、目を覚ました日向は、やはり震え、俺を拒んだ。
久しぶりに聞いた声が呼んだのは、俺ではなく、母上の名。
俺ではなく、母上に縋り、泣いて、抱きしめてほしいと日向は願ったのだ。
あれから何日も、なぜと問うのに、母上も、日向も、誰も、答えをくれはしない。
だから今日、母上に呼ばれたのは、日向が母上に訴えた何かを聞かせるためだろうと疑わなかった。
けれど、母上は何の答えもくれず、ただ俺の覚悟を問う。
「この書簡を承認すれば、名実ともに、日向さんは紫鷹さんの婚約者となります。正式な婚姻は成人を待つとしても、国と国の取り決めですから、覆すことは容易にはなりません、」
母上の白い手に、尼嶺の印が刻まれた書簡が握られていた。
その手紙に視線を奪われ答えられずにいると、母上は厳しい声で続ける。
「紫鷹さんは、日向さんの負う責任を、代わりに担いたいと望みましたね。」
「…はい、」
「日向さんが紫鷹さんと婚約を結べば、帝国も尼嶺も、日向さんに皇子としてだけでなく、紫鷹さんの伴侶としての責任も求めます。例え、日向さんが幼く未熟で、自分を守る術を持っていないのだとしてもです。」
「…分かっています、」
「その全てから、日向さんを守る覚悟があると言えますか、」
何を、と思った。
初めからそのつもりで、俺は日向を伴侶に迎えたいと母上に願ったのだ。
母上もそれに同意して、皇帝陛下に推したのではないか。
「元より、その覚悟です、」
絞り出した声が荒れた。
もう2週間近く、俺はまとも眠れていない。母上の言葉に荒ぶる気持ちを抑えることができなかった。
「日向との約束は成りました。今さら、何ですか、」
俺の左の薬指には、日向との約束の証があるだろう。
魔法で結ばれたこの約束だって、容易に破れないことは、母上だってご存じのはずだ。
日向の番いになると約束したのは、俺だ。
母上や他の誰でもなく、俺だ。
「この先二度と、日向さんが隠れ家から出られなくても?」
苛立ちを隠せず視線を向ければ、逆に母上の厳しい視線が俺を射抜いた。
「…は、」
「日向さんの心は、私たちが思う以上に繊細です。傷ついた心を取り戻せる保証はありませんし、例え取り戻せたとしても、この先日向さんが負うものが、また隠れ家へ連れ戻すかもしれません。…いつか、取り戻せないほど壊れてしまうことだってあるかもしれません、」
「何を…、」
「日向さんが、貴方の望むように側にはいてくれるとは限りませんよ、」
それでもいいか、と母上は問う。
構わない、と答えるはずだったのに、言葉は声にならなかった。
喉の奥で声が震え、言葉が詰まる。
寝不足でぼんやりとするのに、頭の中は沸騰し、体中が熱くなったり寒くなったりして、奥底から震えるような感覚があった。
日向が二度と、隠れ家を出ない。
あの顔を見ることも、掠れた声を聞くことも、この腕に抱くことも二度とできない。
「…いや、だ、」
俺の情けない声に、母上の紫色の瞳が大きく開く。
母上に苛立っていたはずの感情が、急激にしぼんで、不安と恐怖でいっぱいになった。
日向の声が聞きたい。日向の顔が見たい。少しでいいから、抱きしめて生きてることを確かめたい。
「日向が二度と隠れ家の外に出ないなんて、俺は嫌だ。せっかく外に出たのに、あんなに楽しそうだったのに。隠れ家より俺が良いって言ったのに、なんで、」
強く鋭かった母上の瞳が、ゆるゆると緩んでいく。
俺が泣きだしそうになるのと一緒に、母上の顔もくしゃりと歪んで眉が下がった。
母上がそんな顔をするから、俺はますます情けなくなっていく。
「紫鷹さん、」
「嫌です、母上。日向が二度と隠れ家から出ないなんて、俺は嫌だ、」
「落ち着きなさい、」
「日向を隠れ家に一人ぼっちにさせる気ですか、なんで、」
「違います、紫鷹さん、」
「何故今それを聞いたんですか。日向はなんで、…日向は母上に何を言ったんですか、」
感情が、うまく制御できなかった。
母上の問いに覚悟を示すべきだと分かっているのに、感情が高ぶる。声が大きくなって、座っていることさえできなくて、母上の執務机に縋り付く手が大きな音を立てた。
それを、慈しむような、憐れむような瞳で母上は見つめる。
なぜそんな目で。
「日向さんは、…紫鷹さんの望むものになれないことを謝っていました、」
「…は、」
「紫鷹さんの望むものになれない、それが日向さんが今1番怖いものです、」
「俺は、何も、」
「…日向さんが魔法を制御できなければ、紫鷹さんの不安は消えないのでしょう?」
ごめんね、しおう。
頭の中で、小さな王子が俺を見て泣く。
「紫鷹さんは、日向さんを愛しているからこそ心配で、不安にもなるし、恐怖も感じる。…仕方のないことです。」
「でも、日向さんはね、貴方のその不安を感じるたびに、自分は紫鷹さんの望むものになれなかったのだと感じてしまいました。紫鷹さんが不安になるたび、今の自分では受け入れてもらえないのだと。何度も何度も、自覚しなければならなかったんです。」
だから、一生懸命だったでしょう?と、泣き出しそうな母上が言う。
字が書けるように、1人で食事が取れるように、帝国史の講義が分かるように、演習で誰より目敏く蜘蛛の巣を見つけられるように、学院の噂で傷つかないように、魔法が使えるように。
俺を不安にさせないように。
ごめんね、しおう。
頭の中で、小さな日向が何度も謝る。
俺が不安で薄い腹を抱くたびに、日向は水色の瞳を揺らして俺を見上げていた。
ごめんね、と何度も言って、俺を安心させようと抱きしめたり、口付けをしてくれた。
「本当は、魔法ができるようになって、紫鷹さんを安心させてあげたかったんですって。でも、自分の魔法は、みんなと違って、紫鷹さんを不安にさせるしかできないのだと、日向さんは気づいてしまいました、」
いいよ、と脳裏の日向が俺を慰める。
難しい魔法の授業を、日向は嫌がることもせず、喜んでやった。
できた、と飛び跳ねて喜ぶのを―――不安でいっぱいになって抱きしめたのは俺だ。
「学院に通って、多くの物を見て、自分があまりにも周囲と違うことを日向さんは理解したそうです。努力すれば、いつかは同じになれると信じていた多くのことが、自分には不可能だと言うこともちゃんと気づいていました。」
誰も口にしないが、多分、日向は俺達ほど大きくはなれない。
手や足が、俺たちのように自由に動くこともないし、言葉が流暢になるにはどれだけ時間が必要か分からない。
日向の魔法は、次元が違い過ぎて、誰にも分からなかった。
どんなに望んでも、16歳の間に、日向が16歳らしくなるのは無理だと、日向は気づいている。
それでも努力していた。
字を書けるようになって、授業に参加して、メモを取って、難しい話を一生懸命聞いて、一人でできないことを俺や東に手伝ってもらいながら、いつだってひたむきに頑張っていた。
だけど。
「どれだけ努力しても、どれだけ頑張っても何度も何度も突きつけられるんです。日向さんはできない。できるようにならない。みんなと同じにはならない。紫鷹さんの望むものにはなれない、と。――それに耐えられるほど、日向さんは強くはありません、」
「ひな、た、は、」
「…紫鷹さんが日向さんを心配するたびに、日向さんは追い詰められてしまったんです、」
一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
いつの間にか母上が机のこちら側に来て、俺の手を握っているのに、感覚がしない。
紫鷹さん、と呼ぶ母上の声が聞こえても、俺のことだとわからなかった。
小さな王子が、隠れ家の中で怯えている。
手負いの獣のように。幼い子どものように。
何が怖い。何が嫌で、何が耐えられなかった。
何度も尋ねても、答えてくれなかったのは、俺がそうしたからか。
俺が、自分の不安を日向に押し付けて、日向の努力を何度も否定して、日向が仕方ないと受け入れようとした自分さえも拒んだから。
俺が、日向の心を壊した。
母上の白い腕が、俺を包む。
俺の方が大きくなったのに、母上はまるで小さな子どもみたいに俺を包み込んだ。
こんな風に、俺は日向を抱きしめたかったのに。
「日向さんも、紫鷹さんが自分を大事に思っているから心配するのだと、頭では分かっています。でも、紫鷹さんの不安を感じるたびに、受け入れてもらえないと、心の居場所を失くしてしまうんです、」
日向を失うのが怖かった。
俺の知らない間にぐんぐん成長して、俺の知らない魔法でどこかへ行ってしまう。
抱きしめたいのに、いなくなってしまう。
「紫鷹さんが日向さんを心配するのは仕方ありません。私だって、貴方が大事だからこそ、心配もするし、今も貴方の心が壊れてしまうのでないかと不安です、」
でもねえ、と母上は強く言う。
「日向さんが紫鷹さんの不安に触れるたびに、受け止めきれないのも仕方のないことです。――それも日向さんですから、」
隠れ家の中の、俺の番い。
小さくて弱くて未熟な。
「ゆっくりしか成長できないし、日向さんの心の中にはいつだって不安や恐怖が巣くっています。紫鷹さんがどんなに望んでも、魔法がすぐに扱えるようにはなりません。なのに、紫鷹さんの不安に絶望する。…それが、日向さんなんですよ、」
ぎゅうと力強く、母上の腕が俺の肩を抱いた。
「その全てを受け入れて、慈しむ覚悟が、紫鷹さんにはありますか。」
執務室で、母上に告げられた言葉が、すぐには理解できなかった。
耳が聞いたはずの言葉を頭の中で何度も反芻し、ようやくそれが俺と日向の婚約の話なのだと分かる。
「なぜ、今、」
こぼれた声が震えた。
視線を向けた先で、母上が強く鋭い視線で俺をじっと見つめる。
俺の問いに母上は答えない。
代わりに、母上が俺に問う。
「日向さんの全てを受け入れて共に生きる覚悟が、紫鷹さんにはありますか、」
母上の執務室。
宮城から帰った俺がここへ呼ばれた理由は、日向だろうとは思った。
日向が隠れ家に籠るようになって2週間が経つ。
今日も日向は隠れ家を出ず、学院も休んだ。
何度声をかけても返事はなく、隠れ家の扉は開かない。
それなのに、目の前の母上にだけは、その扉が開かれるようになった。
日向が隠れ家に籠ってちょうど1週間たった日、日向は倒れた。
理由は色々あっただろうが、元々疲労や心労がたまると日向の胃腸は荒れるから、体が限界だったのだろう。
久しぶりに見た日向は、やつれてひどい顔色だった。
それでも、久しぶりに顔を見られたのが嬉しかった。
ベッドに横たわって眠る日向の髪に触れた時、ずっと埋められなかった何かが満たされた気がする。
なのに、目を覚ました日向は、やはり震え、俺を拒んだ。
久しぶりに聞いた声が呼んだのは、俺ではなく、母上の名。
俺ではなく、母上に縋り、泣いて、抱きしめてほしいと日向は願ったのだ。
あれから何日も、なぜと問うのに、母上も、日向も、誰も、答えをくれはしない。
だから今日、母上に呼ばれたのは、日向が母上に訴えた何かを聞かせるためだろうと疑わなかった。
けれど、母上は何の答えもくれず、ただ俺の覚悟を問う。
「この書簡を承認すれば、名実ともに、日向さんは紫鷹さんの婚約者となります。正式な婚姻は成人を待つとしても、国と国の取り決めですから、覆すことは容易にはなりません、」
母上の白い手に、尼嶺の印が刻まれた書簡が握られていた。
その手紙に視線を奪われ答えられずにいると、母上は厳しい声で続ける。
「紫鷹さんは、日向さんの負う責任を、代わりに担いたいと望みましたね。」
「…はい、」
「日向さんが紫鷹さんと婚約を結べば、帝国も尼嶺も、日向さんに皇子としてだけでなく、紫鷹さんの伴侶としての責任も求めます。例え、日向さんが幼く未熟で、自分を守る術を持っていないのだとしてもです。」
「…分かっています、」
「その全てから、日向さんを守る覚悟があると言えますか、」
何を、と思った。
初めからそのつもりで、俺は日向を伴侶に迎えたいと母上に願ったのだ。
母上もそれに同意して、皇帝陛下に推したのではないか。
「元より、その覚悟です、」
絞り出した声が荒れた。
もう2週間近く、俺はまとも眠れていない。母上の言葉に荒ぶる気持ちを抑えることができなかった。
「日向との約束は成りました。今さら、何ですか、」
俺の左の薬指には、日向との約束の証があるだろう。
魔法で結ばれたこの約束だって、容易に破れないことは、母上だってご存じのはずだ。
日向の番いになると約束したのは、俺だ。
母上や他の誰でもなく、俺だ。
「この先二度と、日向さんが隠れ家から出られなくても?」
苛立ちを隠せず視線を向ければ、逆に母上の厳しい視線が俺を射抜いた。
「…は、」
「日向さんの心は、私たちが思う以上に繊細です。傷ついた心を取り戻せる保証はありませんし、例え取り戻せたとしても、この先日向さんが負うものが、また隠れ家へ連れ戻すかもしれません。…いつか、取り戻せないほど壊れてしまうことだってあるかもしれません、」
「何を…、」
「日向さんが、貴方の望むように側にはいてくれるとは限りませんよ、」
それでもいいか、と母上は問う。
構わない、と答えるはずだったのに、言葉は声にならなかった。
喉の奥で声が震え、言葉が詰まる。
寝不足でぼんやりとするのに、頭の中は沸騰し、体中が熱くなったり寒くなったりして、奥底から震えるような感覚があった。
日向が二度と、隠れ家を出ない。
あの顔を見ることも、掠れた声を聞くことも、この腕に抱くことも二度とできない。
「…いや、だ、」
俺の情けない声に、母上の紫色の瞳が大きく開く。
母上に苛立っていたはずの感情が、急激にしぼんで、不安と恐怖でいっぱいになった。
日向の声が聞きたい。日向の顔が見たい。少しでいいから、抱きしめて生きてることを確かめたい。
「日向が二度と隠れ家の外に出ないなんて、俺は嫌だ。せっかく外に出たのに、あんなに楽しそうだったのに。隠れ家より俺が良いって言ったのに、なんで、」
強く鋭かった母上の瞳が、ゆるゆると緩んでいく。
俺が泣きだしそうになるのと一緒に、母上の顔もくしゃりと歪んで眉が下がった。
母上がそんな顔をするから、俺はますます情けなくなっていく。
「紫鷹さん、」
「嫌です、母上。日向が二度と隠れ家から出ないなんて、俺は嫌だ、」
「落ち着きなさい、」
「日向を隠れ家に一人ぼっちにさせる気ですか、なんで、」
「違います、紫鷹さん、」
「何故今それを聞いたんですか。日向はなんで、…日向は母上に何を言ったんですか、」
感情が、うまく制御できなかった。
母上の問いに覚悟を示すべきだと分かっているのに、感情が高ぶる。声が大きくなって、座っていることさえできなくて、母上の執務机に縋り付く手が大きな音を立てた。
それを、慈しむような、憐れむような瞳で母上は見つめる。
なぜそんな目で。
「日向さんは、…紫鷹さんの望むものになれないことを謝っていました、」
「…は、」
「紫鷹さんの望むものになれない、それが日向さんが今1番怖いものです、」
「俺は、何も、」
「…日向さんが魔法を制御できなければ、紫鷹さんの不安は消えないのでしょう?」
ごめんね、しおう。
頭の中で、小さな王子が俺を見て泣く。
「紫鷹さんは、日向さんを愛しているからこそ心配で、不安にもなるし、恐怖も感じる。…仕方のないことです。」
「でも、日向さんはね、貴方のその不安を感じるたびに、自分は紫鷹さんの望むものになれなかったのだと感じてしまいました。紫鷹さんが不安になるたび、今の自分では受け入れてもらえないのだと。何度も何度も、自覚しなければならなかったんです。」
だから、一生懸命だったでしょう?と、泣き出しそうな母上が言う。
字が書けるように、1人で食事が取れるように、帝国史の講義が分かるように、演習で誰より目敏く蜘蛛の巣を見つけられるように、学院の噂で傷つかないように、魔法が使えるように。
俺を不安にさせないように。
ごめんね、しおう。
頭の中で、小さな日向が何度も謝る。
俺が不安で薄い腹を抱くたびに、日向は水色の瞳を揺らして俺を見上げていた。
ごめんね、と何度も言って、俺を安心させようと抱きしめたり、口付けをしてくれた。
「本当は、魔法ができるようになって、紫鷹さんを安心させてあげたかったんですって。でも、自分の魔法は、みんなと違って、紫鷹さんを不安にさせるしかできないのだと、日向さんは気づいてしまいました、」
いいよ、と脳裏の日向が俺を慰める。
難しい魔法の授業を、日向は嫌がることもせず、喜んでやった。
できた、と飛び跳ねて喜ぶのを―――不安でいっぱいになって抱きしめたのは俺だ。
「学院に通って、多くの物を見て、自分があまりにも周囲と違うことを日向さんは理解したそうです。努力すれば、いつかは同じになれると信じていた多くのことが、自分には不可能だと言うこともちゃんと気づいていました。」
誰も口にしないが、多分、日向は俺達ほど大きくはなれない。
手や足が、俺たちのように自由に動くこともないし、言葉が流暢になるにはどれだけ時間が必要か分からない。
日向の魔法は、次元が違い過ぎて、誰にも分からなかった。
どんなに望んでも、16歳の間に、日向が16歳らしくなるのは無理だと、日向は気づいている。
それでも努力していた。
字を書けるようになって、授業に参加して、メモを取って、難しい話を一生懸命聞いて、一人でできないことを俺や東に手伝ってもらいながら、いつだってひたむきに頑張っていた。
だけど。
「どれだけ努力しても、どれだけ頑張っても何度も何度も突きつけられるんです。日向さんはできない。できるようにならない。みんなと同じにはならない。紫鷹さんの望むものにはなれない、と。――それに耐えられるほど、日向さんは強くはありません、」
「ひな、た、は、」
「…紫鷹さんが日向さんを心配するたびに、日向さんは追い詰められてしまったんです、」
一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
いつの間にか母上が机のこちら側に来て、俺の手を握っているのに、感覚がしない。
紫鷹さん、と呼ぶ母上の声が聞こえても、俺のことだとわからなかった。
小さな王子が、隠れ家の中で怯えている。
手負いの獣のように。幼い子どものように。
何が怖い。何が嫌で、何が耐えられなかった。
何度も尋ねても、答えてくれなかったのは、俺がそうしたからか。
俺が、自分の不安を日向に押し付けて、日向の努力を何度も否定して、日向が仕方ないと受け入れようとした自分さえも拒んだから。
俺が、日向の心を壊した。
母上の白い腕が、俺を包む。
俺の方が大きくなったのに、母上はまるで小さな子どもみたいに俺を包み込んだ。
こんな風に、俺は日向を抱きしめたかったのに。
「日向さんも、紫鷹さんが自分を大事に思っているから心配するのだと、頭では分かっています。でも、紫鷹さんの不安を感じるたびに、受け入れてもらえないと、心の居場所を失くしてしまうんです、」
日向を失うのが怖かった。
俺の知らない間にぐんぐん成長して、俺の知らない魔法でどこかへ行ってしまう。
抱きしめたいのに、いなくなってしまう。
「紫鷹さんが日向さんを心配するのは仕方ありません。私だって、貴方が大事だからこそ、心配もするし、今も貴方の心が壊れてしまうのでないかと不安です、」
でもねえ、と母上は強く言う。
「日向さんが紫鷹さんの不安に触れるたびに、受け止めきれないのも仕方のないことです。――それも日向さんですから、」
隠れ家の中の、俺の番い。
小さくて弱くて未熟な。
「ゆっくりしか成長できないし、日向さんの心の中にはいつだって不安や恐怖が巣くっています。紫鷹さんがどんなに望んでも、魔法がすぐに扱えるようにはなりません。なのに、紫鷹さんの不安に絶望する。…それが、日向さんなんですよ、」
ぎゅうと力強く、母上の腕が俺の肩を抱いた。
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