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翌週。
ユイの心の中では、鷹臣の言葉が雪のように少しずつ積もっていった。
――それは、“わるいこと”だ
――していいことじゃない
一度聞いただけの言葉なのに、忘れようとしても溶けることはない。
明也の相手をするたび、公園でお友だちの相手をするたび、その雪は踏み固められる。
今までとは違う何かを、ユイには言葉にできないままでいた。
パン屋の仕事が休みの日、公園での“いたずら”が終わった帰り道。
(また、きすとさわるのと、せーえき…)
ユイは、汚れた姿のまま、家に向かって歩いていたはずだった。
塀の向こうで、猫が走った。
灰色の影が、ひらりと跳ねる。
「……あ、ねこ」
考えるより先に、足が動く。
見失わないように、気付かれないように、時に隠れながら。
どこまでも追いかけた。
気づいたときには、道は広くなり、音が増え、看板の光が、目に刺さる。
繁華街だった。
そのころ鷹臣は、仕事終わりに友人と合流しようとしていた。
ユイのことは、頭の片隅にはあったが、特に連絡もなかった。
生活は続く。
放っておいたわけじゃない。
ただ、追わなかっただけだ。
正直、気に留めるほどでもなかった。
(とはいえ、大丈夫かな…連絡先、俺は知らないし)
人混みの端で、見覚えのある小さな背中が目に入る。
「……あれ?」
友人が横を見る。
「どした~?」
「……ん、ちょっとね」
近づくと、ユイは服の裾を引っ張って途方に暮れているようだった。
「……うー……」
声が、ユイの喉の奥で鳴る。
湿っていたはずの場所は、もう乾いている。
白っぽく、光を失って布に貼りついていた。
公園の水道で洗おうとした。
手でこすった。
水をかけた。
でも、だめだった。
――いつもは、何も思わなかった。
ただ、汚れたと思うくらいで。
Ωだから、普通。Ωだから、仕方ない。
でもやっぱり、何か違う。
名刺は結局どこかに行ってしまった。
ポケットにしまってたはずなのに、落としたのか、捨てたのか、捨てられたのか。
(わるいこと、しないひと…)
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「……カピカピ、とれない」
ユイは、また裾を引っ張った。
「……ユイ?」
鷹臣の声に、ユイが顔を上げる。
「ねこ、おいかけてたら、まよったの」
ユイの言葉は、初めて出会ったときと同じ、嘘はなかった。
でも、視線が落ち着かない。目を合わせないままたどたどしく続けた。
「それで、カピカピもとれなくて、めいしもなくて、でも、まよ、ったら、あえた。たけおみさん」
最後は安心したのか、にこっと笑った。
友人が小さく息をのむ。
「……なぁ、この子…その、大丈夫そう?」
名前間違えられてんぞ、という指摘に鷹臣は一度、友人を見た。
「…いいから。
悪い、今日はやめとくわ」
「おー、また今度な?」
「ん、」
それ以上は言わない。
「ユイ、少し歩こう。大丈夫?」
優しく進む方向だけを示す。
ユイは、こくりと頷いた。
少し静かな路地に入る。店の裏口。
人の気配が薄くなる。
「座れる?また迷子になっちゃった?
…でもユイの言うとおり、また会えた」
ユイは縁石に腰掛け、手を股に挟んだ。
“だいじょうぶな座り方”とは逆の、不安なときの座り方だった。
「…あえた、けど……うー……」
「どこか痛い?」
ユイは首を横に振る。
「……いや……かなしい、たけおみさん、かなしい」
鷹臣の視線が止まる。
「どうして」
ユイは、少し考えてから答えた。
「……このまえ、わるいこと、しないって……」
言葉は、そこで切れた。
半ズボンから覗く脚を伝っていたのは、どう見ても白濁だった。
(やっぱこういうこと、)
鷹臣は黙って上着を脱ぎ、差し出す。
「腰に巻いて」
「……いいの?」
「いいよ」
布の匂いが違った。
知らない人の匂い。でも、嫌じゃない。
裾を隠すと、息が、少しだけしやすくなった気がした。
「……ありがとう」
「ここ、どこかわかる?」
ユイはまた首を横に振る。
「今日は一緒に戻ろう。
大きい道に出れば、分かると思うよ」
鷹臣は手を差し出した。
「……あるける、たけおみさん…
あ、たかおみさん、」
ユイはすっと立ち上がり靴を鳴らした。
「お、名前覚えててくれてどうも、」
実際たけおみのままでも構わなかったし、ここで喜ぶのも不謹慎だが、なんだか嬉しかった。
半歩前を歩く鷹臣の背中。
ユイは、その後ろを鼻歌交じりでついて行った。
全然聞いたことのない音の外れた鼻歌は繁華街には似合わなかった。
「なにその歌、初めて聴いたけど」
「ゆいの、じぶんのうただよ」
服の裾は見えないが、胸の奥の違和感は消えない。
でも、鷹臣の背中は優しくて、あたたかそうで。
(ちょうちょ…ねこ…たかおみさん、)
見失ってはいけないと思った。
――
繁華街を抜ける途中、ユイは急に足を止めた。
「…あっち、きらきら」
指さした先は、明るすぎる建物だった。
ピンクや紫の光が、夜の空気に反射している。
文字は読めなくても、きらきらして楽しそうなことだけは、わかった。
鷹臣は、すぐに視線を追って、察した。
ラブホテルはなぜお城のようだったり、楽しそうな外観なのか。
「だめだ」
声は低く、即答だった。
ユイは一瞬、きょとんとする。
それから、眉がきゅっと寄った。
「……なんで」
「そこは行く場所じゃない」
「やだ」
声が、急に大きくなる。
足踏みをして、腕を振る。
「いきたい! あっち!」
通行人が、ちらりと見る。
鷹臣は一歩、ユイの前に立った。
「落ち着いて、」
「やだやだやだ!」
癇癪に理由はいらなかった。
否定されたという感覚だけが残るものだった。
鷹臣は、短く息を吐いた。
周囲の視線。時間。ユイの状態。
「……わかった」
折れたのは、正しさじゃない。
今、ここを越えるためだった。
ユイの心の中では、鷹臣の言葉が雪のように少しずつ積もっていった。
――それは、“わるいこと”だ
――していいことじゃない
一度聞いただけの言葉なのに、忘れようとしても溶けることはない。
明也の相手をするたび、公園でお友だちの相手をするたび、その雪は踏み固められる。
今までとは違う何かを、ユイには言葉にできないままでいた。
パン屋の仕事が休みの日、公園での“いたずら”が終わった帰り道。
(また、きすとさわるのと、せーえき…)
ユイは、汚れた姿のまま、家に向かって歩いていたはずだった。
塀の向こうで、猫が走った。
灰色の影が、ひらりと跳ねる。
「……あ、ねこ」
考えるより先に、足が動く。
見失わないように、気付かれないように、時に隠れながら。
どこまでも追いかけた。
気づいたときには、道は広くなり、音が増え、看板の光が、目に刺さる。
繁華街だった。
そのころ鷹臣は、仕事終わりに友人と合流しようとしていた。
ユイのことは、頭の片隅にはあったが、特に連絡もなかった。
生活は続く。
放っておいたわけじゃない。
ただ、追わなかっただけだ。
正直、気に留めるほどでもなかった。
(とはいえ、大丈夫かな…連絡先、俺は知らないし)
人混みの端で、見覚えのある小さな背中が目に入る。
「……あれ?」
友人が横を見る。
「どした~?」
「……ん、ちょっとね」
近づくと、ユイは服の裾を引っ張って途方に暮れているようだった。
「……うー……」
声が、ユイの喉の奥で鳴る。
湿っていたはずの場所は、もう乾いている。
白っぽく、光を失って布に貼りついていた。
公園の水道で洗おうとした。
手でこすった。
水をかけた。
でも、だめだった。
――いつもは、何も思わなかった。
ただ、汚れたと思うくらいで。
Ωだから、普通。Ωだから、仕方ない。
でもやっぱり、何か違う。
名刺は結局どこかに行ってしまった。
ポケットにしまってたはずなのに、落としたのか、捨てたのか、捨てられたのか。
(わるいこと、しないひと…)
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「……カピカピ、とれない」
ユイは、また裾を引っ張った。
「……ユイ?」
鷹臣の声に、ユイが顔を上げる。
「ねこ、おいかけてたら、まよったの」
ユイの言葉は、初めて出会ったときと同じ、嘘はなかった。
でも、視線が落ち着かない。目を合わせないままたどたどしく続けた。
「それで、カピカピもとれなくて、めいしもなくて、でも、まよ、ったら、あえた。たけおみさん」
最後は安心したのか、にこっと笑った。
友人が小さく息をのむ。
「……なぁ、この子…その、大丈夫そう?」
名前間違えられてんぞ、という指摘に鷹臣は一度、友人を見た。
「…いいから。
悪い、今日はやめとくわ」
「おー、また今度な?」
「ん、」
それ以上は言わない。
「ユイ、少し歩こう。大丈夫?」
優しく進む方向だけを示す。
ユイは、こくりと頷いた。
少し静かな路地に入る。店の裏口。
人の気配が薄くなる。
「座れる?また迷子になっちゃった?
…でもユイの言うとおり、また会えた」
ユイは縁石に腰掛け、手を股に挟んだ。
“だいじょうぶな座り方”とは逆の、不安なときの座り方だった。
「…あえた、けど……うー……」
「どこか痛い?」
ユイは首を横に振る。
「……いや……かなしい、たけおみさん、かなしい」
鷹臣の視線が止まる。
「どうして」
ユイは、少し考えてから答えた。
「……このまえ、わるいこと、しないって……」
言葉は、そこで切れた。
半ズボンから覗く脚を伝っていたのは、どう見ても白濁だった。
(やっぱこういうこと、)
鷹臣は黙って上着を脱ぎ、差し出す。
「腰に巻いて」
「……いいの?」
「いいよ」
布の匂いが違った。
知らない人の匂い。でも、嫌じゃない。
裾を隠すと、息が、少しだけしやすくなった気がした。
「……ありがとう」
「ここ、どこかわかる?」
ユイはまた首を横に振る。
「今日は一緒に戻ろう。
大きい道に出れば、分かると思うよ」
鷹臣は手を差し出した。
「……あるける、たけおみさん…
あ、たかおみさん、」
ユイはすっと立ち上がり靴を鳴らした。
「お、名前覚えててくれてどうも、」
実際たけおみのままでも構わなかったし、ここで喜ぶのも不謹慎だが、なんだか嬉しかった。
半歩前を歩く鷹臣の背中。
ユイは、その後ろを鼻歌交じりでついて行った。
全然聞いたことのない音の外れた鼻歌は繁華街には似合わなかった。
「なにその歌、初めて聴いたけど」
「ゆいの、じぶんのうただよ」
服の裾は見えないが、胸の奥の違和感は消えない。
でも、鷹臣の背中は優しくて、あたたかそうで。
(ちょうちょ…ねこ…たかおみさん、)
見失ってはいけないと思った。
――
繁華街を抜ける途中、ユイは急に足を止めた。
「…あっち、きらきら」
指さした先は、明るすぎる建物だった。
ピンクや紫の光が、夜の空気に反射している。
文字は読めなくても、きらきらして楽しそうなことだけは、わかった。
鷹臣は、すぐに視線を追って、察した。
ラブホテルはなぜお城のようだったり、楽しそうな外観なのか。
「だめだ」
声は低く、即答だった。
ユイは一瞬、きょとんとする。
それから、眉がきゅっと寄った。
「……なんで」
「そこは行く場所じゃない」
「やだ」
声が、急に大きくなる。
足踏みをして、腕を振る。
「いきたい! あっち!」
通行人が、ちらりと見る。
鷹臣は一歩、ユイの前に立った。
「落ち着いて、」
「やだやだやだ!」
癇癪に理由はいらなかった。
否定されたという感覚だけが残るものだった。
鷹臣は、短く息を吐いた。
周囲の視線。時間。ユイの状態。
「……わかった」
折れたのは、正しさじゃない。
今、ここを越えるためだった。
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