【完結】わるいこと

さか様

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朝は、静かに始まった。

カーテン越しの光はまだ薄く、夜の名残を引きずったまま部屋に滲んでいる。

キッチンの窓は半分だけ開いていて、冷えた朝の空気がゆっくり流れ込んでいた。

トースターが控えめに鳴り、コーヒーの湯気が細く、頼りなく立ちのぼる。

ユイはダイニングテーブルの端に腰かけ、トーストの耳を小さくちぎっていた。
噛むでもなく、落とすでもなく、ただ指で、同じ幅に裂く。

裂いて、並べて、また裂く。

「……たかおみさん、ゆい、きょう、パンやさん?」

声は軽い。
昨夜のことを、夢の底に沈めたままの声だった。

「あー、えーと、」

鷹臣はコーヒーを注ぎながら、返事を探していた。

「休もう」「様子を見よう」「何もしなくていい」
どれも正しくて、どれも決定打にならない。

そのとき

ピンポーン

チャイムが鳴った。

ユイの手が止まる。
裂かれたトーストの耳が、指の間で潰れた。

一拍遅れて、呼吸が浅くなるのが分かる。

もう一度。

ピンポーン。

「……だれ」

声が、少し慎重になった。
喉を通る音が、ぎこちない。

鷹臣は何も言わず、静かに立ち上がった。
モニター付きのインターホンへ向かう。

画面に映る男は、昨日の路地裏の影とは違うように見えた。

清潔な服。
整えられた髪。
人の前に立つことに慣れた姿勢。

――だが。

蔑むような目線と、自身に満ちた顔。
鷹臣の背中に、嫌な確信が走る。

(明也、)

「……ユイ?」

スピーカー越しに、名前が呼ばれた。
ユイが反射的に顔を上げる。

「っ…」

声が出かけて、止まる。
昨日の路地裏での出来事、冷たい壁と増えた影。

喉が鳴り、ユイは椅子の背を強く掴んだ。
鷹臣は、オートロックを解除せずに、わざと問いただした。

「どちらさまですか」

外の男――明也が、軽く笑う。

「いや、昨日会っててよそよそしくない?
昨日からGPSがここで止まっててさ。
来たんですけど?」

(やっぱGPS使ってるか…)

確信が、重く腹に落ちる。

ユイの呼吸が浅くなる。
肩が、音を立てずにすぼむ。

「……いかない」

溢れる小さな声。
それでも、逃げなかった。

鷹臣はモニターの前に立ち、自然に身体をずらす。
ユイの視界から、明也を隠す位置に立つ。

「本人は会わないって言っている…今日は帰ってくれ」

「へぇ?」

声が、わずかに冷える。

のに?
随分急だね。ユイ、聞こえてる?」

「…帰ってくれ」

言葉は増やさないで、淡々と繰り返す。

沈黙。

その直後――

――ガン

オートロックのガラスが揺れて、鈍い衝撃音がした。

「……はっ、さすがに割れないか。…また来るわ」

淡々とした予告。
怒りも、冗談も混じらない。

足音が、離れていく。
完全に消えるまで、鷹臣は動かなかった。

――

静けさが、ゆっくり戻る。

ユイは椅子に座り込むように腰を落とした。
膝を抱え、視線を床に落とす。
千切ったパンの耳は綺麗に並べられたまま。

「……あっくん、きたね」

確認するような声。

「もう来させない…ように、考える」

鷹臣は、考えを巡らせながら言った。
この録画を警察に持っていけば、接近禁止令が出たりするだろうか。

ユイはすぐには頷かない。
でも、数秒後、小さく首を縦に振った。

「あっくん、かえっちゃったもんね」

――

「……さっきの何するって話。
ユイさ、ヒートだし、今日はパン屋休もう」

鷹臣はスマホを取り出し、ユイの代わりに電話をかける。
要点だけ、簡潔に。

「俺も今日は休む」

通話を終え、スマホを伏せる。
今度は自分のスマホで会社にメールで連絡を入れた。

「……おやすみ、ふたり?」

ユイが、ぽかんと見上げる。

「いっしょ?」

「そ、いっしょ」

それだけで、肩の力が抜けるのが分かった。

それからその日の時間は、驚くほど静かに流れた。

フェロモンに振り回されることもなく、抑制剤の影響なのか、ユイは少しぼんやりしている。

窓から入る光が、少しずつ白くなる。

鷹臣は、距離を詰めすぎない位置で隣に座る。

(あ、)

ふと、昨夜のことが胸をよぎる。

「……ユイ」

「ん?」

「昨日、キスした……ごめん。ユイにはしないって言ったのに、俺、ユイの話聞いて、どうしようってなって、」

ユイは一瞬考えて、首を傾げた。

「……わかんなくなっちゃったんだ?
でもさ、あったかかったね」

それだけ。

意味を測っていない声。
だからこそ、胸が締めつけられる。

「……あぁ、そうだね」

それ以上は、言えなかった。

その夜もユイは鷹臣の部屋のベッドで、鷹臣は隣に敷いた布団で眠った。

昨晩のようなパニックもなく、夜はゆっくりと過ぎていった。

――

翌朝。

鷹臣の部屋のカーテンが、勢いよく開かれた。

「パンやさん、いく!」

光が、部屋に溢れ、元気な声で鷹臣は目が覚めた。

「時間…5時?!」

眠い目をこすり、鷹臣は布団を出た。

「……早起きだね、ユイ」

「うん、パンやさんいくから!」

鷹臣は、寝ぼけた頭で即座に条件を考えた。

「無理しない。何かあったらすぐ俺に電話する、」

(明也は…さすがに、施設まであんな態度では来ないだろ)

「うん」

「あ。あと、朝は俺も一緒に行くから」

ユイの目が、ぱっと輝く。

「……どーはんしゅっきん?ゆい、しってるよ!」

「いや。違うし。
どこで覚えたの、そういう言葉」

「マンガでみたよ」

得意げな顔で胸を張るユイに、鷹臣は思わず吹き出した。

朝の光は、昨日より少しだけ強い。
それでも、急ぐ必要はなかった。

今日は、隣を歩ける。それだけで、十分だった。
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