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1巻

1-2

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「売れ残ったり、落札価格が借金の額に満たなかったりしたら、おまえらの身内を引っ捕らえてきて売るぞ。それが嫌なら、少しでも高い金額でり落とされるよう努力しろ」

 その言葉を聞いて、クロエの心は凍り付く。

(ああ……お父様、お母様……アミール……。彼らをこんな恐ろしい目にあわせるわけにはいかない……)
「高く売られるコツを教えてやる。反抗的な態度を取らず、客にびへつらえ。運がよければ上位貴族の愛人になれる可能性だってあるわけだからな」

 ジョシュアが扉の取っ手を握った。ギィィと嫌な音をたて扉が開く。
 クロエたちは屈強な男たちに鎖を引かれ、扉の向こうへと進んだ。
 そこは大広間で、中央に舞台が設置されていた。その上部にはシャンデリアがぶら下がり、舞台を明るく照らしている。
 それに反して、舞台以外のところは灯りが少なく薄暗い。舞台を中心として放射状に配されたソファに、大勢の客が座っている。ローテーブルにはワインやつまみが置かれ、客たちは楽しそうに談笑していた。
 一見、普通の座談会かパーティのように見える。違う点は、客が全員、顔を隠すために仮面を着用していることくらいだ。
 ジョシュアが堂々とした態度で舞台に立ち、さっと手を振り上げる。

「大変お待たせいたしました。ただ今よりオークションを開始いたします」

 部屋中から歓声がわき上がった。
 一番手として、クロエの隣に立っていた黒髪の女性が舞台に引きずり出された。
 男たちが女性の服を脱がそうとする。

「や、やめてください」

 手枷てかせを外されるやいなや、女性は身じろぎして抵抗を示した。
 だがあっという間に、しゅるしゅると音をたててドレスの背中の紐をかれる。
 肩が大きく露出したドレスは、するりと足元に落ちてしまった。女性はショーツ一枚というはしたない格好で、観客の目にさらされる。
 観客席からさらなる歓声が巻き起こる。声が反響して地面を震わせ、シャンデリアを揺らし、会場は興奮の坩堝るつぼと化した。
 こんな非道な行為に、喜ぶ人たちがいるなんて。異様な光景をたりにして、クロエは恐怖で身震いした。
 恐慌状態におちいった女性が悲鳴を上げて、その場にしゃがみ込む。
 だが男たちが彼女を強引に立ち上がらせた。さらに彼らは女性の両手首を掴み、高く上げさせる。

「ああっ……いやぁ……」

 男たちに背中を押され、彼女は豊満な胸を観客のほうに突き出す体勢になった。

「ひっ……」

 クロエは思わず悲鳴を上げた。自分もこんなはずかしめを受けることになるというのか。

「お許しください。どうか……」

 ジョシュアは女性の懇願こんがんを無視して、客席に向かって叫んだ。

「まずは子爵令嬢。二十一歳です。いかがでございますか」

 クロエの背筋を、ぞわりと悪寒おかんが駆け上がった。
 大きな拍手や歓声が、クロエの精神をむしばむ。大きすぎる音のせいで、足に力が入らなくなってしまった。
 客たちが次々と金額を口にする。いくらも経たないうちに、巨漢の男が子爵令嬢に最高値をつけた。
 その男は、顔が大きすぎて半分しか仮面で隠せていない。のそのそとソファから立ち上がり、身体を左右に揺すりながら舞台に近付いていく。
 男はふくれ上がった太い指を女性のあごに当て、くいっと持ち上げた。もう片方の手は、彼女の腰をいやらしくでている。

「健康でしっかりした腰と尻をしている。これなら毎日でも抱けそうだな。愛人にうってつけだ」

 黒髪の女性は、巨漢の男と彼の従者に連れていかれた。
 クロエはエメラルドグリーンの目を見開いて、事の成り行きを見守る。
 性欲処理のためだけの愛人。クロエもそのような扱いを受けることになるのだろうか。

(怖い、怖い……。助けて、誰か……。お父様、お母様……)

 いくらクロエが狼狽うろたえても、オークションは無情に進行していく。
 若く筋肉質な男性を年配の女が、クロエより若い少女を年老いた男がり落としていった。そうして次々と人が売られていき、とうとうクロエの番が来た。

「最後になりました。本日の目玉、美しき伯爵令嬢です」

 手首の鎖を外され、舞台の中央に押し出される。
 客席から、どよめきが起こった。

「なんという美しさ。たぐまれなる美貌ではないか」
「まさか翠玉すいぎょく真珠しんじゅの……? なんということだ。彼女を我がものにできる機会が巡ってこようとは……!」

 次々と価格が提示され、どんどん高値になっていく。
 ジョシュアはしたり顔で、部下の男たちに目配せをした。
 クロエも他の人たちと同様、ドレスを脱がされそうになる。
 恐怖のあまり、クロエの目から一筋の涙がこぼれた。
 母親やメイド以外の人間に肌をさらしたことはない。それもこんな大勢の人たちの前でなんて、想像すらしたことのない事態だ。
 観客は皆、クロエを見ている。興味津々きょうみしんしんそそがれる、たくさんの視線がとても怖い。

「ぼやぼやするんじゃない。早く脱がしたまえ」

 男性陣から野次やじが飛ばされたかと思えば、女性陣からも声が上がる。

「そうよ。早く脱がしなさい」
「お高くとまっている小娘をひんいて!」

 悪口雑言あっこうぞうごんがクロエの耳に入り、たまらず耳をふさぎたくなる。
 だが、屈強な男たちがそれを許してくれない。

(助けて……誰か……)

 クロエが心の中で祈った、その時――

「最高価格を出す。だからドレスは脱がさなくていい」

 明瞭でんだ声が、どこからか響いた。
 声のした方向を見ると、ストロベリーブロンドの男性が挙手していた。
 仮面のせいで顔は判別できないが、この声には聞き覚えがある。

(もしかしてユリアン様なの?)

 彼が助けに来てくれたのだろうか。
 エメラルド色の目が、熱い涙で満たされた。ところが、すぐさまクロエの希望は打ち砕かれる。

「私がその倍の価格をつけよう」

 低く鋭い声が、その場に響きわたる。
 クロエのみならず、全員が大広間の後方に立つひとりの男に視線を向けた。
 深い闇の色をした髪に、浅黒い肌、高い鼻梁びりょう、そして薄い唇。
 仮面をつけていてもわかる。バースデーパーティで目にした、エキゾチックなあの男性だ。

「倍だと? では、それよりも高値をつけさせてもらう」

 ユリアンらしき男性が食い下がる。
 だが、黒髪の男は淡々とした口調で返した。

「さらに倍だ。彼女が手に入るなら、どんな価格になっても構わない」

 会場が静まり返る。
 黒髪の男は、他を圧倒するようなオーラを持っていた。


「……なんということだ」

 ユリアンらしき男性が悔しそうにこぶしを握りしめる。
 黒髪の男は、カツリ、カツリ……と杖の音をたてながら、ゆっくりとこちらに近付いてきた。やはり足が悪いようだ。
 彼はジョシュアの前に立つと、威圧感たっぷりの態度で彼を見下ろした。
 近くで見ると、とても背の高い男だ。
 彼は革鞄かわかばんからいくつもの札束を出すと、床に叩き付けるように放り投げた。
 何が起こったのか分からないという表情で、ジョシュアがまばたきを何回も繰り返す。
 黒髪の男が苛立いらだったように言った。

「何をしている。私がそのお嬢さんをり落としたのだ、さっさと引き渡したまえ」
「ええと……はい。おめでとうございます。こちらのお嬢さんは旦那のものです。どうぞ」

 ジョシュアが面食らったように言うと、観客席がざわめく。
 黒髪の男は広間中の視線をものともせず、クロエの腕をさっと掴んだ。

「来い。この部屋から出るぞ」
「は、はい……」

 クロエは男に先導され、入ってきた扉とは別の扉から会場をあとにした。



   第二章 漆黒しっこくの救世主イルヴィス


 クロエは黒髪の男の指示で、館の庭園に停めてあった馬車に乗り込んだ。
 男が「宿に戻る。急いでくれ」と言うと、御者ぎょしゃは無言でうなずき、むちを一振りした。
 馬がいななき、勢いよく走り出す。
 つい数時間前には、憂慮ゆうりょと恐怖に支配されながら馬車に揺られていた。けれど今は、クロエの心は困惑でいっぱいだった。
 窓の外を見ていたクロエは、向かいに座る黒髪の男性に視線を移した。
 男は仮面をむしり取ると、ジャケットの胸ポケットにしまい込んだ。

「なんとか間に合ったな。無事助け出せてよかった」

 彼の低い声がクロエの鼓膜こまくを震わせ、身体中に染み渡っていく。

(わたくしは助けられたの? 本当に……?)

 クロエが彼の顔に目をやると、男もじっとクロエを見つめてきた。
 心臓がどくりと跳ねる。
 黒曜石こくようせきの輝きを放つ黒い目が、クロエに向けられていた。
 意思の強そうな男の視線に戸惑ってしまい、とても居心地が悪くなる。
 それをどうとらえたのか、彼が心配そうに声をかけてきた。

「どうした。怪我でもしたのか? 宿に戻る前に病院へ行ったほうがいいなら、道を変更させよう」
「い、いいえ……。怪我はしておりません。大丈夫です」

 クロエの答えを聞いて、彼はほっとしたような面持おももちになり、「そうか」と低い声で言った。

(この方は、わたくしをあの場から助けるために、あんな大金を……?)

 そればかりか、こんなに優しく気遣ってくれるだなんて、一体何者なのだろう。
 クロエはおずおずと、そのことを尋ねてみる。

「助けていただいて、誠にありがとうございます。あの……どうしてわたくしを助けてくださったのでしょう? 父や母のお知り合いなのですか?」

 すると黒髪の男は目を細め、クロエをいぶかしげに凝視した。

「あの……?」
「私を知らないと?」
「は、はい。あの……申し訳ございませんが……覚えがありません……」

 バースデーパーティで見かけただけでは、知っているとは言えない。それともクロエが忘れているだけで、どこかで誰かに紹介されたことがあるのだろうか。
 男は顔をそむけると、額にかかる黒髪を面倒臭そうにかき上げた。クロエの問いに答えようとはせず、ふうと大きな息を吐く。

「あなたを助けたのには、それなりに理由がある」

 先ほどとはうって変わって鋭くなった声に、クロエは驚いて身をすくめる。クロエを気遣うようだった彼の視線も、なぜかてつくように冷たくなっていた。
 男はクロエの戸惑いを無視して、言葉を続ける。

「私が求めているのは、誰にでも自慢できる清楚せいそで美しい妻だ」
「え……」
(妻? この方は奥様を探していたの? けれど、なぜ非道な闇オークションで妻探しなど……)

 今ひとつ理解しきれていないクロエに、男は説明を続けた。

「私は来週、母国リストニアへ帰国する。その際、万人が淑女しゅくじょと認める美しい妻をともなって戻りたい。それにはあなたがうってつけだと判断し、あのオークションで落札した」
「帰国……でございますか?」
「そうだ。あなたには私の妻となり、リストニア行きの船に乗ってもらう」

 船と聞いて、クロエは慌てて男に訴えた。

「お待ちくださいませ! わたくしは屋敷に突然現れたジョシュアという男の手によって、強引に連れ去られました。そのあと両親と弟がどうなったのか分からないのです。お願いでございます。家族が無事であることだけでも確認させてくださいませ」

 男は腕を組むと「ふむ……」と考えるような表情をした。
 クロエは一生懸命懇願こんがんする。

「図々しく願いごとなどできる立場でないことは承知しております。ですが家族の無事が分からないままでは、心が落ち着きません。これ以上の我儘わがままは申しませんからどうか……どうか父母と弟の安否だけでも……」
「両親と弟か。いいだろう、私が屋敷に遣いを出しておく」

 クロエには、男の一言がまるで神の言葉のように思えた。

「本当でございますか! でも……ジョシュアは屋敷を取り上げると言いました。父母たちが屋敷を追い出されていたら、すぐには見つからないかもしれません」
「構わない。見つかるまで捜索させよう」
「ああっ……お父様、お母様……。アミール……」

 泣き出しそうになるクロエに対し、彼はさらにこう約束した。

「もし保護できたら、不自由のない暮らしができるよう手配し、金を渡しておく」
「あ……ありがとうございます」

 ひとりで両親も探し出せないほど無力なクロエは、彼の言葉にすがるしかない。
 両親と弟を助けてくれる見返りが妻になることだというのなら、受け入れねばならない。恐怖の闇オークションで非道な人物に買われるより、幾分かましだろう。

(わたくしはもう十八歳になったのよ。とつぐことで家族が助かるなら、それくらいやってみせるわ)

 クロエは意志を固めて、自分を妻にと望む男性をじっと見つめる。

「どうか、お名前を教えてくださいませ」

 男は表情を変えないままクロエを見返し、そしておもむろに名を告げた。

「私の名はイルヴィス。イルヴィス・サージェント。あなたの夫になる男だ」
「イルヴィス・サージェント様……」

 聞いたことのない名だ。そういえば、ユリアンが異国の貴族だと言っていた気がする。

「わたくし、イルヴィス様のよき妻になれるよう……」

 そのとき、ガタンと大きな音がして馬車が激しく揺れた。

「あっ……!」

 馬車がきしむ音と、激しい揺れ。クロエの心に恐怖がわき上がる。

「あっ……あぁっ……」
「どうした、クロエ」

 問いかけられても、返事すらできなかった。
 自分の身体を抱きしめ、身を小さくしてブルブルと震えることしかできない。

「怖い……音が……」
「音……?」
「も、申し訳……わたくし……」

 事情を説明するべく口を開くと、御者ぎょしゃが小窓を開けて話しかけてくる。

「すみません! 旦那! 道が悪くて車輪を取られました。大丈夫ですか!」
「ああ。気を付けてくれ」

 イルヴィスがそう返すと、御者ぎょしゃは再度「すみません!」と叫んだ。

「大丈夫か」

 イルヴィスに声をかけられ、クロエは大事なことに気が付いた。
 もし心のやまいを持っていると知られたら、結婚相手に相応ふさわしくないと言われてしまうかもしれない。
 そうなれば、両親とアミールを探してもらえなくなる。

「あ、あの……急に揺れたので驚いてしまって……。申し訳ございません。大袈裟おおげさでした」

 高鳴る鼓動を抑え込み、クロエはゆっくりと上半身を起こす。
 そして何事もなかったような素振りで、夫となる人に笑みを返した。

「も……もう大丈夫です。ご心配おかけいたしました」
「……それならよい」

 これ以上弱いところは見せまいと、背筋を伸ばして深く座席に腰掛ける。
 馬車が再び平坦な道を走り始めた頃には、鼓動もおさまっていた。


     * * *


 馬車に揺られて向かった先は、王城の近くにある、王都で最も高級なホテルだった。
 この街には、王城を取り囲むようにして上位貴族の屋敷が建ち並んでいる。
 クロエの屋敷はここから馬車で一時間ほど離れた場所にあり、このあたりには用がない限りめったに訪れない。
 このホテルの最上階に、イルヴィスは宿を取っているとのことだ。

「出港日まで、ここに宿泊する」

 このホテルはクロエも知っている。港が近いこともあって、新鮮な海の幸を使ったレストランが評判で、かつて家族と訪れたことがあった。

「お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ、サージェント様」

 女中もフロントマンも、イルヴィスの顔を見ると慇懃いんぎんな態度で礼をする。
 しかしイルヴィスの背後に控えるクロエには、じろじろといぶかしげな視線を向けてきた。
 不躾ぶしつけともいえる視線に困惑し、ふと胸もとを見る。すると、クロエのドレスは驚くほど薄汚れていた。

(ドレスはボロボロだし、ほこりや汚れもこんなについてる。綺麗きれいに結い上げていた髪もぐしゃぐしゃ。人にこんな格好を見られるなんて恥ずかしい……)

 慌てて汚れをはたき落とし、乱れていた髪も整える。

「服はすぐに用意させる。慌てる必要はない」

 イルヴィスに言われ、クロエはせめて妻として恥ずかしくない態度を取ろうとおもてを上げた。

「今晩から妻も宿泊する。食事はふたり分だ。少々遅い時間だが用意してくれ」

 イルヴィスはフロントマンに端的に命じると、エレベーターへ向かった。

「お帰りなさいませ。イルヴィス様、奥様」

 エレベーターボーイがイルヴィスの姿を確認すると一礼し、蛇腹じゃばら鉄格子てつごうしの取っ手を引く。
 イルヴィスとともに乗り込んだクロエは、扉上部にある半円型の階数表示を、むずがゆい気持ちで眺めていた。

(やっぱり、突然妻として扱われるのは妙な感じがする……。だってなんの心構えもしていなかったのですもの。お父様から結婚のお話を聞かされたときだって、まるで自分の話ではないみたいに思えたし)

 エレベーターを降りながら、クロエは自分の気持ちをイルヴィスに伝えた。

「わたくし、こんなに早く結婚することになるとは思ってもみませんでした」
「縁談のひとつやふたつはあっただろう」
「はい。けれど乗り気ではなかったので、内心お断りしたいと思っていました」
「結婚が嫌なのか」
「そういうわけではないのです。ただ……」

 家族と一緒にいたかった。そう口にしたら、子どもっぽいと思われるだろうか。

「社交界デビューもしていませんもの。パーティなどに出て、いろいろな人とお知り合いになってからでもいいと思っておりました」

 そう返すと、イルヴィスはそれきり黙り込んでしまった。心なしか彼のまとう雰囲気が刺々とげとげしい。

(怒らせるようなことを言ったかしら?)

 クロエは心配になってしまう。
 イルヴィスは表情を硬くしていたが、すぐに普通の態度に戻った。クロエは安堵し、彼のうしろをついていく。
 彼に案内された部屋は広々としたスイートルームで、上品な内装だった。
 食事が運ばれてきて、ダイニングテーブルに置かれていく。新鮮な魚介を使った料理が所狭しと並ぶのを見て、急に空腹を感じ、思わず喉を鳴らしてしまう。
 だが、こんな汚れた格好で食事をするのは気が引けた。
 どうしようかと迷うクロエだが、イルヴィスは気にした様子もなく椅子いすに腰掛けた。

「じきに新しい服が届く。先に食事にしよう」

 そう言われ、クロエはイルヴィスの前の席についた。そして食前の祈りを捧げ、スプーンを手に取る。すると唐突に、イルヴィスがこう言った。

「これからは何か食べ物を口にするとき、まずは感謝の気持ちを示すように」
「はい……?」

 お祈りだけでは足りなかったのだろうか。
 クロエの知らない異国のしきたりやマナーがあるのかもしれないと、イルヴィスを見返す。

「私の名を呼んだあと、本日の食事をありがとうございますと感謝の言葉を述べなさい」
「え……」

 イルヴィスの国では、食前の祈りを一家のあるじに捧げるのだろうか。クロエは戸惑いながらも彼の言葉に従った。

「イルヴィス様……本日の食事を、ありがとうございます」

 指示どおりの言葉を発したというのに、彼の目は鋭いままだ。
 それどころか、さらなる指示を出してくる。

「言葉だけでは不十分だ。床に膝をつき、もう一度感謝の言葉を捧げなさい」

 イルヴィスの命令は、クロエにとって衝撃的なものだった。

(膝をついて……? これまで誰かに食事をご馳走ちそうされても、そんな屈辱的な体勢でお礼を言ったことなどないわ)

 躊躇ためらうクロエに、イルヴィスが非難めいた表情を向ける。

「今、あなたが食べ物を口にすることができるのは私のおかげだ。私に感謝と敬愛の気持ちを捧げることに、なんの問題がある?」
「問題など……でも……」

 イルヴィスは、唖然あぜんとするクロエにたたみかけるように言った。

「あなたは持たざる者。金も家も何もない。まさかとは思うが、伯爵令嬢という身分があるだけで、日々食事ができると思っているわけではないだろう?」

 さすがにクロエもそこまで無知ではない。誤解されたくなくて、慌てて首を横に振った。

「い、いえ……そのようなことは……」
「黙っていても誰かが食事を運び、服を用意し、寝床を整えてくれるなどと思ってはならない。それらにはすべて金がかかるのだ。今のあなたは一文無し。これからは何かものをもらったり世話をされたりしたら、必ず私を敬い、深く感謝するように。もしそれを拒否し、さからうような真似をすれば……」

 地をうような低い声が、クロエに絡み付く。

「契約不履行ふりこうとして、すぐさま結婚を解消する」
「結婚を解消……?」
「当然だ。あなたは私が金で買った、契約妻なのだから」
(契約妻……つまり私は本当の妻ではないから、家族として扱うつもりはないということなの?)

 クロエを追い詰めるように、彼が再び口を開く。

「さあ。言いたまえ。感謝を示す言葉を」

 クロエがまごまごしていると、イルヴィスはそれを無視して料理を口に運んだ。

(結婚を解消されたら、お父様とお母様……それにアミールを探してもらえなくなる……)

 クロエは膝を折り、冷たい大理石の床にひざまずいた。

「イルヴィス様……。本日のお食事を、ありがとうございます……」

 祈るように両手の指を絡ませ、震える声でそう口にする。イルヴィスは無言のままだ。
 これでよいのか確信が持てないまま、クロエはおずおずと立ち上がり席についた。
 黙々と食事を取りながら、イルヴィスの表情をうかがう。
 イルヴィスは、実に優雅な手つきでナイフとフォークを使っている。

(貴族だとは聞いていたけれど、まるで上位貴族のようだわ……。なんて品のいい食し方……)

 ついじっと見つめていたら、彼は突然鋭い視線をクロエに返してきた。
 驚いたクロエはフォークを取り落としてしまい、カチャンと甲高かんだかい音が鳴り響く。

「……申し訳ございません」

 これではクロエのマナーがなっていないみたいではないか。
 そんなクロエを見ても、イルヴィスは無言で食事を続けている。
 なんという気まずい食事だろう。

(最初は優しくしてくださったのに、どうしてこんなに冷たくなさるの? 何か機嫌をそこねるようなことを言ってしまったかしら……)

 ホテル自慢の魚料理も芳醇ほうじゅんな果実酒も、クロエには砂を噛むように味気なかった。


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