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しおりを挟む「立花さんすみません! もらってきた領収書、水たまりに落とした上に人に踏まれて。一応乾かしたけど、見るも無惨なことになっちゃいました……っ」
そう言われ、立花香澄の目の前に差し出された紙は、かろうじて領収書の体を成している程度の、ひどい有様だった。
それを香澄はニッコリと笑って、受け取る。
「あぁ、これなら大丈夫。金額も但し書きも読めるもの。出張旅費と一緒に申請してね」
「よかったぁ~。いつもありがとうございます。……あ、これお土産です。みなさんに配っておいてください。それからこれは、立花さんに」
安堵した様子の女性社員が、香澄のデスクに菓子折りと、それよりもやや小さな箱を置いた。
それは何種類かの佃煮が納められた贈答用の箱だ。
「あ、これ、すずき屋の佃煮詰め合わせじゃない。結構お高いよね」
「いつもお世話になってるんで、そのお礼ですっ。立花さん、細かい食べものが色々詰め合わせになってるの、好きですよね?」
「うん、好き好き。わーい、ありがとう。いただきます」
小さな箱を両手で包むように受け取り、香澄は頬ずりする。
――立花香澄、二十六歳。入社六年目のベテランOLだ。
彼女は短大卒業後、海堂エレクトロニクス技術研究所・桜浜開発センターに事務職として入社した。それ以来ずっとサイバーセキュリティ研究開発部第一開発課の庶務を担当している。
社員のための事務仕事を一手に引き受ける日々はなかなか忙しいが、基本的に面倒見のいい彼女は、この仕事が自分に向いていると思っていた。
業務を滞りなく行えるよう社員を手助けするのは好きだし、彼女なりに各方面に気を配っているためか、多くの社員が出張などの土産を買ってきてくれるのも嬉しい。
土産は皆一様に『食べ物の詰め合わせ』だ。
というのも、香澄の趣味が食べ歩きだからだった。食べ歩きといっても、なんでもいいわけではない。『美味しいものを、少しずつ、数多く』食べるのが好きなのだ。
だからレストランや居酒屋に行けば盛り合わせを注文するし、お弁当は幕の内か松花堂を頼む。おしゃれなビアガーデンでは、何種類かを少しずつ試せるサンプラーを飲むことにしている。
いろんな味をよくばりに楽しむのがいい。
そういう香澄の趣味を、ほとんどの社員が知っているのだ。
今日も自分好みの土産をもらった香澄は、それを机の引き出しに大事にしまった。
「立花さん、ちょっといい?」
ちょうどその時、上司である第一開発課長の品川が、少し離れたデスクから香澄を呼んだ。彼女はすぐに返事をして彼のもとへ行く。
「なんでしょうか?」
「シアトルの研究開発センターから一人、うちに異動になるんだ。来週のお盆明けから来る予定だから、机と備品の準備、転勤費用精算のサポートをお願い」
「承知しました。机はどちらになりますか?」
「立花さんの斜め前。ほら、坂本くんがいた席」
このセンターでは、各部署、八つの机が二列に並べられた状態が一つの島と認識されている。その島を見渡すような形でもう一つ机が置かれており、そこを管理職か庶務が使うことになっているのだ。
香澄の右斜め前にいた社員――坂本は先頃、名古屋に転勤になった。以来そこは空席になっていた。
「分かりました。机の掃除をして、必要な備品を置いておきます。それからスマホと……あと名前が分かるのであれば、名刺の手配もしますが」
「あ、名前ね。ネットワークに辞令がアップされてるはずだけど……。メールで送っておくから、よろしくね」
品川がそう言い、机の上に置かれたパソコンを立ち上げる。
香澄は会釈し、自席に戻った。間もなく、ノートパソコンがメールの受信を告げる。品川からのメールだったので、彼女は添付されたファイルを開いた。表示された辞令には『碓氷圭介』という名前が載っている。
「んと……名前は、と。……ウスイケイスケ、って読むのかな。名刺の注文は読み方を聞いてからにしよう」
ひとりごとのようにブツブツと呟きながら、総務部に読み方確認のメールを送る。それから社内用スマートフォンや備品の手配を済ませた。
一通り終わったところで、給茶機から緑茶を入れる。一息つき、パソコンの画面を眺めていると、再びメール受信のサウンドが鳴った。
先ほど問い合わせた転勤者の情報が届いている。
「あ、やっぱりウスイケイスケでいいんだ。あとはスマホの番号が分かれば名刺注文できる。……ん?」
そこで香澄は、ふと疑問の声を上げる。
「碓氷圭介って……どこかで聞いたような……」
転勤者の名前に聞き覚えがあった。つい最近ではなく、何年か前に聞いた気がするのだ。
「うーん……どこでだったかなぁ」
部署が違うとはいえ同じ会社に属しているのだから、名前を耳にしたことがあっても不思議ではない。だが、どこか引っかかった。
しばらく考えるものの、思い出せない。
「……ま、いっか。本人を見たら思い出すかもしれないし」
香澄は、基本的に過ぎたことは忘れるようにしている。
日々の生活において、周囲から供給される情報は多すぎる。すべてを覚えてなどいられない。
そのため、どうでもいいことはあっという間に忘れてしまう。
仮にこの転勤者と過去に接触があったところで、忘れているということは、大して重要な出来事ではなかったのだろう。
そう判断した香澄は、仕事に集中することにした。
その日の昼休み。
「香澄、聞いた? あの碓氷さんが一開に配属になるって」
香澄が社食から戻るや否や、隣の課にいる同期の藤田律子が席に来た。律子の物腰は落ち着いているが、目は異様に輝いている。ちなみに一開とは、香澄が所属している第一開発課のことだ。
「碓氷さん……あぁ、お盆明けから来る人ね。律子、知り合い?」
「うっそ、香澄知らないの? 碓氷王子を! 辞令を見たうちの課の女性陣は、みんなガッツポーズしてたわよ」
「へぇ~、そんなにカッコイイ人なんだ?」
「ちょっと香澄ったら、覚えてないの? 見たことあるはずなのに。時々、桜浜にも出張で来てたよ?」
いまいちピンと来ていない香澄に、律子が不満そうにくちびるを尖らせた。けれど、香澄は特になんの感慨もなく、納得する。
(あぁ、だから名前に聞き覚えあったのか~)
出張でこのセンターに来たことがあるのなら、名前くらい耳にしていてもおかしくない。
ただ、それでも碓氷の顔を思い出せないでいると、律子が親切にも説明してくれた。
曰く、異例の早さで本社から海外異動になった、とか。
曰く、本当は三、四年かかるはずだった海外勤務のプロジェクトを二年半程度で終わらせた、とか。
曰く、本人が桜浜開発センター勤務を希望した、とか。
どこから仕入れてきたのか、律子は碓氷の様々な情報を吹き込んでくる。香澄はそれを苦笑いで聞いた。
とある事情から、香澄は社内の男性にそれほど興味を持てないので、反応も薄いのだ。
しばらくして一通り語り終えた律子は、満足したのか一息ついた。
「――はぁ、いろいろ語ったら暑くなっちゃった。……っていうか香澄、よく長袖着てられるわね? 冷房きいてるとはいえ、今日は結構暑くない?」
律子は、香澄が着ているカーディガンの袖を指差す。
「大丈夫ー。むしろ少し寒いくらい。だって、ここ冷房直撃するんだもん」
香澄はかなりの寒がりだ。夏でも社内ではカーディガンなどの上着を欠かさない。
さすがにこの八月上旬の猛暑の中、通勤する時は、半袖、もしくは七分袖を着ているけれど、会社では年間を通してほぼ毎日長袖で過ごしている。
「確かにここは涼しいわ~。私がここに座りたいくらい」
律子が天井にある冷房の吹き出し口に手をかざした。
「それより律子、お盆は街田さんとハワイに行くんでしょ? いいなぁ~、ハワイ」
彼女の話は終わったと判断した香澄は、パソコンを開いてログインしながら言う。
街田とは律子の彼氏の街田朔哉のことだ。彼は、律子と同じ課に在籍している。
香澄の知る限り、もう三年のつきあいになるだろうか。来年には結婚する予定らしく、律子と街田はお盆休暇を利用してハワイに住んでいる街田の姉に会いに行くそうだ。
律子は、ぱっと明るい笑顔になる。
「お土産は任せて!」
「チョコレートかコナコーヒーの詰め合わせ、期待してる~」
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、律子は自分の課へ戻っていった。
(律子も結婚かぁ……)
香澄はふっと物思いにふける。
律子は香澄の同期ではあるが、大学卒なので二歳年上だ。
配属当初こそ敬語を使っていたものの、律子が嫌がったので、以来気の置けないつきあいをしている。さっぱりとした性格でスマートな美人の彼女とは、同期の中では一番仲がよかった。
来年開かれるであろう彼女たちの披露宴では、新郎新婦二人を知る人物として早くもスピーチを頼まれている。もちろん喜んで引き受けた香澄は、どんなことを話してやろうかと今から考えていた。
そんな香澄自身はと言えば、残念ながら彼氏はいない。過去にはいたこともあるけれど、ここ三年ほどそういう存在はなかった。
浮いた話がないわけではない。律子や街田を通した合コンなどに参加してみて、連絡先を尋ねられたりもした。けれど結局おつきあいにまでは至らず。
ルックスはそう悪くないはずと、香澄自身は思っている。ものすごく美人というわけではないものの、つきあった人からであれば『可愛い』と言われたりもした。
肩より少し下まで伸ばした焦げ茶色の髪のトリートメントは欠かさないし、日焼け対策をきっちりしているので肌はきれいなほうだ。その他のパーツも、派手ではないが見られないことはない。
けれど『自分の一番のチャームポイントは?』――そう尋ねられて答えられるのは、手首のほくろだけだ。
左手首の内側にあるそれは、偶然にも三つきれいに横並びになっている。他人にアピールしてもそう嫌味ではなく、話のネタにもしやすい。実際、合コンでも話題にしたことがあった。
そんなふうにみだしなみや会話に気を遣っていても、地味だからか、恋人はできなかった。
もっとも、焦っているかと言えば、そうでもない。そこが一番の問題だ。『いい人がいればいいなぁ……』程度の気持ちしか抱けない。
それどころか、最後につきあった男性が引き金となったトラブルを思い出すと、どうしても恋に臆病になってしまう。
今は、趣味の食べ歩きや友達と遊びに行くことが一番楽しかった。
***
「――シアトル研究開発センターから異動になりました、碓氷圭介です。これからどうぞよろしくお願いいたします」
お盆休暇が明けたその日。碓氷圭介が、香澄のいる第一開発課へ姿を現した。
彼の笑顔は、周囲の女性社員を軒並みとりこにする。
例年なら連休に一日二日有給をつけて休む女性が二人や三人いるものなのだが、今年は全員が出勤していた。しかも普段よりもどことなく彼女たちの化粧が濃い。
しかも他の部署の女性までもが、碓氷を見にフロアの出入り口へ集まっていた。
そわそわと色めき立っているのが、香澄にも伝わってくる。
(な、なんだ、その張り切りっぷりは……っ?)
いつもと変わらない出で立ちの香澄は、面食らった。
確かに碓氷は、律子が言っていた通り、そんじょそこらでは見かけないくらいの美形だ。
切れ長の瞳も、すっと通った鼻筋も、きれいなくちびるも、女性を魅了するに十分な要素を備えている。身長もスラリと高く、脚も長い。それに加えて仕事もできると評判なのだから、女性陣が張り切るのも無理はなかった。
それにしても――
「猛禽類女子が目をギラギラさせてるわね」
いつの間にか隣に来ていた律子が、香澄に耳打ちする。
「そ、そうだね……」
「香澄は普通だね~。草食系女子?」
「そ、そういうわけじゃないよ。でも……」
性格も分からない相手に張り切る趣味はないし、もう社内恋愛はしないと決めてるから――心の中だけでそう呟く。
そして、挨拶を終えて管理職と話をしている碓氷の顔を、まじまじと見つめた。
彼の顔はどこかで見た覚えがある。
(どこで見たんだったかなぁ……)
きれいな横顔を見ながら、思わず首をひねる。
それから碓氷は、管理職に連れられて関係各所に挨拶へ行き、不在になった。
その間に香澄は総務部から受け取ってきた彼の社内用スマートフォンの番号を再確認し、名簿に記載する。必要最低限の備品を用意し、転勤関連の書類もクリアケースに入れて彼の机に置いた。名刺は今日の午後には届くはずだ。
これで、碓氷の転勤に関する今日の仕事はほぼ終了となる。
数十分後、ようやく戻ってきた碓氷は品川に案内され、自席へ着いた。
「あぁそうだ。うちの庶務さん紹介しておくね、碓氷くん。こちら、立花さん。事務手続きのことは彼女に聞くといいよ」
品川が碓氷に向かって香澄を指し示す。
香澄は立ち上がり、彼に頭を下げた。碓氷も彼女に向かって同じようにお辞儀をする。
「立花です。よろしくお願いします」
「碓氷です。こちらこそ、お世話になります」
香澄が顔を上げると、碓氷の目線は下へ送られていた。
彼女の長袖の手元を見つめられている気がする。この暑さの中、カーディガンを着ているのが珍しいのだろうか。
「あの、何か……?」
あまりにじっと見ているので思わず声をかけると、碓氷ははっとしたように視線を上げ、ニコリと笑った。
「いえ、なんでもないです。転勤手続きとか、いろいろお手伝いしてもらうと思いますが、よろしくお願いします」
そう言って目を細めた彼を見た時、香澄はデジャビュのようなものを感じた。
(うーん……やっぱり)
どこかで会った気がしてならない。少し古い記憶が頭の奥で燻っている。
けれど、どうしても思い出せなかった。
(ま、いっか。多分、大したことじゃないだろうし)
そう結論づけた香澄は、自席の引き出しからスマートフォンを取り出し碓氷に差し出す。
「これ、碓氷さんの社用スマホです。番号は設定画面で確認できます」
「あぁ、ありがとうございます」
「名刺は今日中にお渡しできると思いますので」
「助かります。明日早々にメーカーとの打ち合わせが入っているんで」
碓氷は優等生の笑みを見せる。
それを見た周りの女性たちが、またうっとりとしていた。
その日、研究開発部の女性たちは、庶務でもないのに碓氷の世話を焼きたがり、課を越えて彼のもとへやってきた。
「分からないことがあったら言ってくださいね」
「よければ社食、ご一緒しませんか?」
「社内ご案内しましょうか?」
その声がいつもよりワントーン高いのは、香澄の気のせいではないだろう。
けれど、ハートがまとわりついたそんな誘いの数々を、彼はスマートに笑ってかわしていた。
「大丈夫です、ありがとう」
「同期が一緒にと誘ってくれてるので」
「何度も出張に来ているので、大体は分かっていますから」
そして、碓氷が異動してきた日は平和に終わっていった。
終業後、律子と街田に誘われた香澄は、ステーキハウスで二人と夕飯をともにした。
「わ、こんなにくれるの? ありがと~」
律子からハワイ土産を手渡され、驚きと喜びの声を上げる。
その免税店の袋には、いろんなものが詰まっていた。彼女が希望した通り、チョコレートやコーヒーの詰め合わせ、化粧品やTシャツも入っている。
「俺と律子二人から、だから」
街田がビールを口にして笑った。
彼は碓氷ほどイケメンではないが、すっきりとした、優しい顔立ちをしている。見た目の通り、性格も基本的には穏やかで優しい。しかも律子にぞっこんらしく、彼女に関しては決して妥協しない、固い意志を持っている男だそうだ。
土産を前に三人で盛り上がっているうちに、食事が運ばれてきた。
「お待たせしました」
テーブルに置かれたのは、さまざまな肉の部位のサイコロステーキと、エビフライやフライドチキンの盛り合わせだ。
これは店の裏メニューらしく、常連の街田が香澄のために注文してくれた。これとサラダとパスタを頼み、三人でシェアすることにしたのだ。
「わ、美味しそ!」
香澄が目を輝かせると、街田がそれぞれ取り分けてくれる。
「そういや碓氷も今日、社食でエビフライ食べてたよ。あいつ、揚げ物好きなんだよね」
皿にエビフライを載せながら、彼が言う。
「ああ。碓氷さんが言っていた、一緒にお昼食べる同期って、街田さんのことだったんですね!」
彼から皿を受け取りつつ、香澄は納得の声を上げた。
「そうそう。女の子の誘いを断る口実にされちゃってんの、俺」
「モテる人は大変ですよね」
律子も街田に取ってもらったものを食べつつ、会話に参加してくる。
「ねー……そういや碓氷さんって、お兄さんがアメリカで事業やってるらしいわ。お兄さんの奥さんがアメリカ人なんだってね」
「そんなこと誰に聞いたのよ、律子」
そう尋ねた後、香澄はサイコロステーキを口にする。そして思わず「美味し~」と呟いた。
「あくまでも噂よ、噂」
街田がフライドチキンを割りながらくつくつと笑った。
「碓氷はあまり自分のことを話さないからなぁ。余計に噂が立つんだろう」
「あ、でも海外勤務のプロジェクトは三、四年かかるところだったのに、二年半で終わらせて帰ってきた、っていうのはマジよ。半年くらい前にどうしても帰りたい、って力業で業務をまとめて赴任を終了させたんだって、向こうの開発部の子が言ってたもの。何があったのか、香澄は気にならない? 朔哉、知ってる?」
ほうれん草のクリームパスタをフォークに絡ませた律子が尋ねる。
「俺もその辺りの事情は知らないんだよね。碓氷、ほんとに忙しかったみたいで、帰国するまでほとんど連絡来なかったし。ただ、向こうの上司が泣いて引き止めた、っていう噂は聞いたよ」
街田は、クスクスと笑い続けている。香澄は感心して息を一つ吐いた。
「律子と街田さんの情報網にはいつも驚かされるよ、ほんと……」
情報通というのはどこにでもいるが、香澄の周囲では律子と街田の二人の右に出る者はいない。
一体誰から仕入れてくるのか、びっくりするような噂話や情報を話してくれる。そして、そんな彼らの情報に助けられることが度々あった。
「こういうの得意なのよ、私。でも、香澄は香澄で才能があるわよ……庶務の。私は、ああいう全方位に気を配る仕事はできないわー。香澄だからスムーズに回ってるんだと思う、あの課の事務処理」
律子が肩をすくめる。
「ありがと、律子。……あ、このエビフライ美味しい!」
友人に褒められ嬉しくなった香澄は、フライをひとくち食べて思わず声を上げた。
「でしょ? ここステーキハウスだけど、フライ系がうまいんだよ」
「ほんと、サクサクだし、エビがジューシー! これは常連になってしまいそう」
この店は会社から少し離れた駅に存在しているので、香澄は訪れたことがなかった。街田に連れられて今回、初めて来たのだ。
街田は美味しいレストランについても詳しく、有名グルメサイト並みの情報量を誇っている。
香澄はよくお世話になっては、裏メニューなどの恩恵に与っていた。
「律子、これも美味しいよ」
街田が自分の皿にあったタラのフリッターを半分に切り、律子の皿に載せる。
「ありがと。……あ、ほんと、美味しい」
「ランチメニューだと、これのサンドイッチがあるんだよ。今度食べに来ようね。……っと、ん? 何? 香澄ちゃん」
香澄が二人を見てニヤニヤしていると、街田に声をかけられた。
「ふふふ。仲がいいなぁ、って思って。幸せそうですね」
「ありがとう。幸せだよ」
街田が律子と寄り添い、満面の笑みを湛えて告げた。
一番近くで二人を見てきた香澄は、心底安心する。そして、温かい気持ちで食事を進めていった。
「――美味しかったぁ。ここ気に入っちゃったから、今度また来ようっと。裏メニューは一人じゃ食べきれないから頼めないけど……」
盛り合わせを十分に堪能した後で、ひとりごとのように呟く。
「彼氏と一緒に来たらいいのよ、香澄」
律子がニヤリと笑う。
「……いないの知ってるくせに」
「作ればいいじゃない。香澄ならその気になればすぐできるわよ。……ねぇ? 朔哉」
香澄がくちびるを尖らせると、律子は街田に顔を向けた。
「そうだね。よかったら碓氷とつきあえばいい。あいつ今、フリーだよ」
その言葉に香澄は一瞬、目を丸くする。けれどすぐ、堪えきれずに噴き出した。
「やだ、なかなか面白い冗談言いますね、街田さん」
「冗談なんて言ってないのになぁ」
ジョークなど滅多に言わない街田の口から、非現実的な言葉が飛び出たせいで、香澄は笑いが止まらない。
「碓氷さんとおつきあいなんかしたら、周囲の嫉妬の炎で黒焦げになりそう」
自分が飛び抜けて美人だとか、可愛いだとかであれば、嫉妬の炎なんてものともしないだろうが。
(いやいや、ないない)
香澄は自分が碓氷とつりあうルックスではないことをよく理解していた。それに――
「――あっはははは、確かに! アレは露骨すぎよねぇ、みんな」
香澄の物思いを中断させ、ほのかに酔ったらしい律子が楽しそうに手を叩く。今日の女子社員たちの様子を思い出したようだ。
確かにみんな、見た目は可愛らしかったりきれいだったりしたが、闘争心を隠しきれていなかった。お互いを無言で威嚇し合っていたのだ。
その女の戦いに、まかり間違っても巻き込まれたりするものか――香澄は今一度、堅く決意した。
もう二度と、あんな思いをしたくないから……
***
香澄が律子と街田の二人と夕食をともにしてから、三日ほどが経った。
碓氷は香澄のフォローを受けて転勤の手続きを終え、桜浜での仕事にも慣れたようだ。
相変わらず彼の周りにはハートマークを飛ばした女性社員たちが入れ替わり立ち替わりやってきては、あれやこれやと世話を焼こうとする。彼がそれをやんわりと断るのが見慣れた光景となった。
碓氷の爽やかさたるや、そのまま清涼飲料水のCMに登場してもおかしくないほどだ。
女性の誘いを断る時でさえ、嫌味のない、それでいて毅然とした態度を取っている。お陰で周囲の無用な嫉妬や悪意をかき立てることは、ほとんどなかった。
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