極上エリートに身も心も絆されています (旧題:Sweet kiss Secret love)

沢渡奈々子

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1巻

1-2

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 そんな中、香澄は、あくまでも担当の庶務として碓氷の手助けをしている。それ以上でも以下でもなく、だ。

「立花さん、時間がある時にでもこれ、配っておいてくれる?」

 ふいに、課長の品川が菓子折を渡してきた。
 昨日、名古屋に出張に行っていたので、その土産みやげなのだろう。大きな箱におせんべいがたくさん入っている。

「はい、分かりました。いつもありがとうございます」
「それからこれは立花さんに。こちらこそ、いつもありがとね」

 机に置かれたのは、ういろうの箱だ。小さくはあるが、何種類もの味が詰め合わせになっている。

「わっ、わざわざすみません! ありがとうございます、私、ういろう大好きなんです」

 それは、社交辞令でもなんでもなく、香澄の心からの言葉だ。ういろうやすあまのような和菓子が大好きなので、思わず笑顔になる。

(お昼に律子と一緒に食べよう)

 香澄はニコニコしながらうやうやしく受け取り、それを机の中へ入れた。

「それはよかった。――あ、そうだ。碓氷くん、来週の木曜日に東京でやるITエキスポなんだけどさ。外国人向けの説明をする予定だった担当者が入院しちゃったらしくて。碓氷くんなら出展製品について詳しいし、英語も話せるから代わってもらえないか、って」
「来週の木曜ですか……はい、今のところ重要な予定はないので、私でよければ出席します」

 ついでのように、品川が近くの席にいた碓氷に出張の打診をする。彼は手帳をパラパラとめくった後、そこに予定を書き込み始めた。

「あ、ほんと? よかった。じゃあ担当管理職には連絡しておくよ。そっちから連絡あると思うからよろしくね」

 毎年開催されるそのITのイベントには、香澄の会社も製品を出展している。海外からも多数の参加者が訪れるので、英語や中国語などの外国語で応対できる社員は重宝ちょうほうされていた。
 今年のイベントに出展する製品の一つは碓氷が関わったものなので、それに関しての説明を依頼されたようだ。
 第一開発課の社員は過去にも説明員として参加したことがある。その時、香澄がサポートをしていたので、大体の勝手は分かっていた。
 だから品川が碓氷にその話をした後すぐ、総務に連絡し、イベントの概要が記載された書類やスタッフ証などを依頼する。そして、碓氷にはオンラインでの参加者登録をうながすメールを送った。


 翌日。必要書類が届いたので、香澄はメモ書きした付箋ふせんを貼りつけ、碓氷の机に置いておいた。
 すると自席に戻った彼がそれを見て、声をかけてくる。

「立花さん、これありがとう。すごく分かりやすいメモをつけてくれて、助かります」
「あ……いえ。不明な部分があれば遠慮なく聞いてください」

 本当は本人に直接手渡して説明したほうがいい。けれど香澄は、彼が席に不在がちであるのをいいことに、書類やメモを机に置いて済ませることが多かった。
 だからせめて、説明書きくらいはきちんと分かりやすくしておこうとしたまでのことだ。
 お礼を言われると恐縮してしまう。

付箋ふせんにほぼ書かれてるみたいだから大丈夫だと……あ、そうだ。仕事と関係ない話でごめん、今週、シアトルで同僚だったアメリカ人がこっちに出張で来るんだけど、お土産みやげに持たせられる桜浜名物とかあるかな?」
「名物、ですか……桜浜は実は隠れたぶどうの産地だったりするので、お菓子がいろいろありますよ。ゼリーとかお饅頭まんじゅうとか。駅のお土産みやげ屋さんで手に入ります。あと、以前出張で来ていたアメリカの方が、抹茶まっちゃとピスタチオのサブレが美味おいしいって言ってましたね。これも駅で買えます」
「あぁ……アメリカ人、抹茶まっちゃ好き多いからね」
「それから、桜浜名物ではないですが、唐辛子やわさびのおせんべいとか、おかきも意外に人気あるみたいです」
「そういやアメリカにもわさび味のお菓子とか売ってるな……そっか、ありがとう。さすがいろいろ知ってるね、立花さん」
「お役に立てればいいんですが。……私、ちょっと総務に用事があるので失礼しますね」

 笑顔で会釈えしゃくをしてから、香澄は提出用の書類を持って席を離れる。
 碓氷が配属されてから今日まで、むやみに彼に近寄らないようにしていた。
 何かを尋ねられた時は快く応じているが、自分から話しかけることはしない。
 一ヵ月も過ぎれば女性社員たちの碓氷熱は多少落ち着くだろう。それまではこの戦法でやり過ごすつもりでいる。
 自意識過剰なのは分かっていたが、余計な騒動に巻き込まれたくないのだ。


 こうして女子社員の嫉妬しっとを招く行為を避けつつ、碓氷が桜浜に慣れるようサポートし――彼が赴任してきて一週間ほどが経った。
 お盆を過ぎたというのに、まだまだ盛夏にも似た暑さが続いている。
 そんな最中、社内のエアコンが故障するという事態が起こった。幸いだったのは、故障が社内全館ではなく、香澄の所属する課だけだったということだ。
 課員は涼を求めて空調の効いている会議室や他部署の空きスペースなどに移動している。
 香澄だけが、仕事柄あまり移動できず、自席にいた。
 他部署の友人が卓上扇風機を貸してくれたので、それを置き、開けられる窓は開放している。
 ただ、こんな状況では長袖など着ていられず、カーディガンを椅子の背もたれにかけていた。

「さすがに暑いや……」

 軽く汗ばんだ香澄は、扇風機の風を顔に当てて大きく息を吐き出す。そこへ、ノートパソコンを抱えた碓氷がやってきた。

「立花さん、第三会議室に客が来ているから、お茶出してもらえるかな。四人分おねが――」

 そう香澄に告げかけた途端、彼は動きを止める。どうやら彼女の手元を凝視しているようだ。

「あ、はい、分かりました。……? 碓氷さん、どうかしました?」

 手を団扇うちわ代わりにして顔をあおぎながら香澄は立ち上がり、動かない碓氷に首をかしげる。

「――っぱり、君だ」
「え? ……っ!」

 なんと言われたのか分からなくて聞き返すと、腕をいきなりつかまれる。

「――見つけた、俺のシンデレラ……!」
「っ、な、なんですか……?」

 碓氷はつかんだ彼女の腕をじっと見つめていた。どうやら左手首のほくろを見つめているらしい。
 彼の視線には、どこか執念めいたものが見え隠れしている。

(何この人、怖い……!)

 背筋に寒気が走り、香澄は思わず碓氷の手を振り払った。右手で左手首を隠すように握る。

「あのっ、第三会議室にお茶、ですよね!? 今、持っていきますからっ」

 軽く会釈えしゃくし、逃げるようにそそくさとその場を走り去った。

「ったく……シンデレラって何……!?」

 普段はまぶしくなるほどさわやかな雰囲気の碓氷から感じた重いオーラに、香澄はこの暑さの中、身体を震わせる。
 しかし自分の職務は遂行しなければならない。
 深呼吸を一回すると、職場の冷蔵庫から麦茶を出し、四人分用意した。

「うぅ……これ出しに行くのやだなぁ……」

 会議室には碓氷もいるだろう。あんなふうに腕を振り払って逃げた後で顔を合わせるのは、気まずい。
 それでも逃げ出すわけにはいかず、会議室へ向かう。
 ドアの前で少し躊躇ためらった後、軽くノックをしてそっとドアを開けた。

「失礼します……」

 小声でそう言って部屋へ入る。
 首に来客用のタグをぶら下げた人物が二人、そして品川と碓氷がいた。香澄は小さく頭を下げ、各人にお茶を出す。

「……」

 碓氷が香澄の所作――というより、手首をつぶさに見ているのを感じた。
 緊張するのと同時にすごく恥ずかしくなった香澄は、お茶を出し終えさっさと会議室を出る。

「……疲れた」

 直後、ドアを背にして、大きくため息をついた。
 そして、急いで席に戻ると、暑いにもかかわらずカーディガンを着る。
 自意識過剰かもしれないが、碓氷の目に留まらないようにするためだ。
 それから数十分して、碓氷が再び自席に戻ってきた。香澄の服装を見て彼がクスリと笑っていたのは、おそらく気のせいではない。

(多分、他の誰かと間違えてるんだ……きっとそう、絶対そう!)

 香澄は心の中で落ち着けと自分に言い聞かせた。
 それから一時間ほど後、空調が直ったのと同時に課員が続々と部署へ戻ってくる。それにホッとして、彼女は長袖のまま庶務業務を続けたのだった。


 昼間のことを忘れようと仕事に没頭し、その日、香澄は少しだけ残業をした。
 帰る支度をしていると、社内用スマートフォンがテキストメッセージを受信する。
 発信者は碓氷だ。
 香澄はドキリというよりギクリとした。斜め前にいる彼にこれといったアクションはなく、普通に仕事をしている。
 無視をするわけにもいかないので、香澄はとりあえずメッセージを開いた。

 “今日、これから時間ありますか?”

 メッセージにはそう書かれている。

(何!? ちょっと怖いんだけど……!)

 もう一度チラリと碓氷を見ると、心なしか口元がゆるんでいる。と同時に、再びメッセージの受信音が鳴った。

 “仕事の件で相談したいことがあります。立花さんの好きなレストランでよいので、この後食事の時間を取ってもらえますか?”

 乗り気にはなれないが、『仕事の件で』と言われると、無下に断るわけにもいかない。
 香澄は恐る恐るスマホを操作して返信した。

 “少しなら……”

 そんな書き出しで、先日律子たちに連れていってもらったステーキハウスを指定する。
 あの店は会社から離れている上に、個室とまではいかないもののボックス席がある。別々に行けば、会社の人間に碓氷と一緒にいるところを見られることはおそらくない。

 “了解です。その店なら知ってるので、俺の名前でボックス席予約しておきます”

 すぐにそう返信が来たかと思うと、彼は目配せもせずに立ち上がる。

「お先に失礼します」

 金曜日なので食事に誘いたくて仕方がない女性陣が近づく中、それを無視する形でニッコリと笑い、さっさとフロアを後にした。
 女性から誘われることが多いのであろう碓氷は、あしらい方がいさぎよい。

(バッサリ切っていくなぁ……)

 一連の流れを見て、香澄は思わず口元を引きつらせた。
 少し時間を置いた後、香澄も荷物をまとめて「失礼しまーす」と挨拶をし、職場を出る。
 彼女の自宅は会社から私鉄に乗って七駅ほど北に進んだ町にある。今日の目的地はその三駅ほど手前だ。
 いつもは降りない駅で下車し、そこから徒歩で五分ほどのところに、碓氷と待ち合わせをしている『ステーキハウス・オオムラ』はあった。
 扉を押し、顔を覗かせるようにして店に入っていく。
 近くにいた店員に予約のむねを告げると、奥へ案内される。あまり目立たないボックス席で、すでに碓氷が待っていた。
 香澄の姿を見た途端、ぱぁっと輝くような笑顔を見せる。

「お、お待たせしました……」
「急に誘って悪かったね、立花さん。来てくれてありがとう」
「いえ……」

 ぺこりと頭を下げ、香澄は彼の前へ腰を下ろした。

「なんでも好きなもの頼んで。もちろん、俺が出すから」
「はぁ……」

 メニューを差し出されたので、おずおずと開く。

(あ……そうだ)

 そしてふと思い立ち、碓氷の顔を見た。

「碓氷さん、ちょっと注文したいものがあるんですが、一人じゃ食べきれないので、一緒に食べてもらっていいですか?」
「ん? いいよ」

 少ししてやってきた店員に、先日街田が頼んでくれた裏メニューの盛り合わせを注文する。

(せっかくまた注文できたんだし、食べる時くらいは楽しんでやるんだからっ)

 相談ごとを聞く前に、食べたいものを食べてやろうと、香澄は気合を入れた。
 すぐに出された盛り合わせは、やっぱりどれもこれも美味おいしそうだ。それを取り分けながら、彼女は口元がゆるむのを抑えきれなかった。

「へぇ……一皿でいろんな肉が食べられるんだ。こんな裏メニューがあるなんて知らなかったなぁ」

 碓氷が目を丸くして感心している。

「私もつい最近知ったんです。街田さんに教わったんですよ」
「えー。街田、俺には教えてくれなかった……友達なのに」

 悔しそうにくちびるを尖らせる、そんな姿もさまになるのだから、美形というものは得だ。

「同期なんですってね、碓氷さんと街田さん」
「そうだよ。同期の中で気が合う三人組でね、俺たち」
「三人……? ってことはもう一人いるんですね。どなたなんですか?」
「第二開発課のだよ」
「えっ、あの織田さんですか?」

 香澄は驚きで目をぱちぱちとまたたかせた。

「そう、あの織田なお。立花さん知ってるんだ? あいつのこと」

 織田は碓氷と並んで海堂エレクトロニクス技術研究所のイケメンと評される社内の有名人だ。隣の課に所属していることもあり、香澄も面識がある。

「そうだったんですね~」
「――っと、できたてが冷めちゃうな。食べようか」
「はい。いただきます」

 香澄は手を合わせてから、皿に載ったエビフライを口に運ぶ。

「ん~、やっぱ美味おいしい~」
(サクサクのころもにタルタルソースを絡めて食べるのがたまらない)
「ここのエビフライ、初めて食べるけど美味おいしいな。ステーキハウスなのにエビフライがうまいって、どういうことだ……」

 碓氷が笑いながらエビフライに舌鼓したつづみを打つ。

「あ、これも美味おいしい!」

 彼が注文してシェアしてくれたイカのフリッターを口にした香澄も声を上げた。

「俺はここへ来ると、いつもそれを注文するんだ。気に入ってもらえてよかったよ……それにしても」

 そう言った後に、碓氷がクスリと笑った。何か無作法でもあったのかと、香澄はドキリとする。

「な、なんですか……?」
「立花さん、なんでも美味おいしそうに食べるんだな。見ていて気持ちがいいくらい」
「あ……わ、たし、趣味が食べ歩き、で。こういうふうに、盛り合わせとか頼んで、いろんなものを食べるのが好きなんです。レストランを、はしごすることもあったりして……」

 香澄に好き嫌いは一切ない。大食いではないものの、出されたものはどれも口にしたいし、なんでも美味おいしくいただける自信がある。
 今もテーブルに載っているすべての料理を堪能たんのうしていた。
 揚げ物からサラダやおつまみに至るまで、躊躇ちゅうちょすることなく口に運ぶ。
 もしこれが合コンの席であれば多少ネコをかぶるが、今日は別につくろう必要がない。正直に自分の趣味のことを打ち明けると、碓氷がニッコリと笑った。

「これも美味おいしいから食べてみて」

 彼はたった今来たばかりのベイクドポテトを小皿に取り分け、香澄に差し出す。

「あ、はい。……美味おいしいです! スパイスが効いてますね」
「だろ? これも俺のオススメ。この店、本当にうまいよな。立花さんがここを指定してくれてよかった」

 そして、邪気のない笑顔でそう言った。

(結構、いい人……かも)

 街田の友人なのだから、悪い人間とは思えない。
 彼がなんのために自分を呼び出したのか分からないというのに、早くも香澄の気はゆるみかけていた。
 食事が終わり、碓氷が香澄のためにこれまた裏メニューのデザートの盛り合わせを頼んでくれる。コーヒーゼリーやアイスクリーム、チーズケーキやフルーツなどが載っているプレートだ。

「わぁ、美味おいしそう……」

 香澄は目を大きく見開いた。甘いものにも目がないため、もちろん別腹がスタンバイしている。
 律子たちと来た時はデザートは食べなかったから、この店のデザートは初めてだ。
 早速口にすると、どれも美味おいしい。

「ん~、幸せ」

 チーズケーキを食べた彼女は、声を上げる。

「幸せそうだね」
「すっごく美味おいしいです。ステーキハウスなのにデザートも美味おいしいんですね、ここ。あー、ほんとに幸せ」

 満面の笑みでそう言った時、ふと思い出したことがあった。

「あ、そういえば碓氷さん。相談があるって……」

 フォークを置き、香澄は碓氷を見る。
 彼は「あぁ」とつぶやき、申し訳なさげに謝罪を口にした。

「ごめん、実は仕事の話じゃないんだ。さっきはあんなふうにメッセージを送ったけど、そうでも言わないと時間を取ってもらえないと思って」
「はぁ……。で、お話って?」
「実は立花さんにお願いがあるんだ」
「なんでしょう?」

 神妙な表情で切り出され、香澄は居住まいを正す。

「君の手首を見せてほしい。できれば触らせてほしいんだ」
「……はい!?」

 何を言われているのか理解できずに、香澄はポカンと口を開いたまま固まる。対して碓氷は、それはそれはきれいな笑顔を見せた。

「もう一度言うよ。手首――君の手首が見たい。可能であれば触りたい」
「ど、どうしてですか……?」

 理由を聞く資格はある。香澄は眉根を寄せたまま、碓氷を見つめた。めつけた、と言ったほうがいいかもしれない。
 彼を見る目が瞬時にして胡乱うろんなものになっている。
 すると碓氷が、大仰にため息をついてみせた。
 同情を引くためだろうか。どこかわざとらしさを感じる。

「俺ね……重度の手首フェチなんだよ。女性の身体でまず見てしまうのが手首、っていうくらいに」
「……」

 香澄はいきなりの性癖告白に呆然とするしかない。
 口を閉じるのを忘れ、目の前の男を凝視した。
 いわく、碓氷は手首フェチではあるけれど、誰のでもいいわけではない。彼の中には『理想の手首』というものが存在しているそうだ。

「――ただ、今までそんな手首の持ち主には出逢えたことがなかったんだ」
(ん? “今までなかった”――過去形、ってことは……)

 彼の発言に、香澄ははたと気づく。

「……もしかして――」
「そう、そのもしかして、だよ。こんな近くに理想の手首の持ち主がいたなんて、神様っているもんなんだね」
(わ、私が理想の手首の持ち主ってこと~!?)

 混乱を極めている彼女をよそに、碓氷は優雅な所作で食後のコーヒーを口にしている。
 香澄もひとまず気持ちを落ち着かせるために、デザートと一緒に頼んだアイスティーをひとくち飲んだ。ほぅ、と息をつき、チラリと目の前の碓氷を覗き見る。
 彼は笑顔にさわやかさを増して、彼女の反応を待っているようだ。

「……あの」
「何?」
「……そんなに簡単にそういうこと話しちゃっていいんですか? もし私が、今聞いたお話を会社でバラしたらどうするつもりなんです?」

 わずかな沈黙の後、香澄は意地悪な言葉を投げかけた。すると彼は、さらに意味深な口調で意外なことを言い出す。

「立花さんって……俺のこと、避けてるだろ」
「え……?」
「最初は嫌われてるのかなぁ、と思ったけど、とげとげしい雰囲気は感じられない。でもやっぱり、他の社員には手渡しするのに、俺の書類はいない間に机に置かれてたりする。ただ、貼られてる付箋ふせんには親切に説明をぎっしり書いてくれてた。それで思ったんだ。あぁ、これは他の女性社員の手前、俺に接触しないようにしてるのかな、って」
「あ……」

 避けていることがバレていただけでなく、行動理由まで見透かされている。香澄は少し恥ずかしくなった。
 視線を下に向ける。

「立花さんのそういうところとか……それからここ一週間の仕事ぶりや他の社員への接し方を見てきた。君は他人のプライバシーを安易に吹聴ふいちょうするような女性じゃない。……違う? こう見えて俺、人を見る目はあるつもり」

 もちろん香澄に、碓氷の性癖について他言するつもりなんて毛頭ない。それもお見通しだったのかと思うと、恥ずかしさがさらに増した。

「……まぁ、言いませんけど」

 碓氷に手首とはいえ執着されているなんて会社の女性社員に知られたら、彼の評判が下がる以前に自分がどんな目に遭うか分からない。元々言えるはずなんてないのだ。

「――とまぁ、そんなわけで……どうかな?」
「どうかな、って?」
「俺に君の手首を触らせる気、ない?」
「っ、そういえば……少年漫画でそういう悪役、いませんでしたっけ……?」

 香澄は以前、律子の弟に借りて読んだ漫画を思い出した。それに出てくるラスボスが、きれいな女性の手に異様な執着を持っているキャラクターだったのだ。読んだ時には背筋がゾゾゾッとなった。
 それと同じような寒気を今この瞬間、感じ始めている。
 碓氷がさわやかさをまとったままでいるのが、ことさら寒々しさを演出していた。

「あぁ、アレね~。読んだことあるけど、さすがにあそこまではね……」

 どうやら碓氷もその作品を知っているようだ。香澄の話を聞いて、苦笑しながら肩をすくめる。

「……私の手首の、どこがいいんですか?」
「太くなく、極端に細すぎもせず、筋の伸び具合とか骨の出っ張りとかが理想的。何より、そのほくろ。三つきれいに並んでるっていうのが、本当に稀少。ほら、泣きぼくろが好きな人っているだろ? 俺は手首のほくろが好きなんだよね」
(まったく理解できない……)

 香澄は自分の手首をまじまじと見つめた。
 確かに手首のほくろを話のネタにすることはあるけれど、自分がそこに何かを感じるかと言えば、それは決してない。

「ほんとに……君の手首はたまらない……」

 香澄の手首に視線を向けたまま、碓氷がうっそりとつぶやいた。その表情は、見たこともないくらいにとろけている。

(ひぃ~っ)

 背筋にかんを感じた香澄は、ガタッと音を立てて立ち上がった。

「あのっ、し、失礼しますっ。……ごちそうさまでした!」

 深々と頭を下げ、隣に置いてあったバッグをつかむと、その場を逃げ出す。

(危ない……! あの人、危ないよ……!)

 店を出てまっすぐ駅に行き、電車で自宅へ向かった。
 一人暮らしのアパートは、最寄りのきたよし駅から歩いて十五分ほどのところにある。
 香澄は部屋に入って、ほぅと息をついた。ようやく肩の力が抜ける。

「碓氷さんが……あんな変態チックな人だったなんて……。いい人だなぁ……って、ちょっと思ったのに……」


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