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1巻

1-3

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 香澄はガックリと肩を落とした。
 眉目秀麗びもくしゅうれい、仕事の能力にも秀でているという完璧な男性なのに、重度の手首フェチだとは――衝撃的な事実だ。
 しかも香澄の手首を理想だと言い放った。
 喜んでいいのか悲しんでいいのか、複雑な気持ちだ。
 いずれにしても関わらないのが賢明だ、と彼女は思う。
 これ以上彼に近づけば周囲の要らぬ嫉妬しっとを買うことが、火を見るよりも明らか。やっかいごとを背負い込むのはごめんだ。
 いきなり退席してしまった謝罪と、ごちそうになったお礼は、明日伝えればいいだろう。
 彼のプライベートの連絡先など知らないので、今夜中に伝えるのは不可能だ。

「突然あんなこと言われたんだから、失礼はお互いさまよね」

 香澄は自分にそう言い聞かせた。


     ***


「おはよう、立花さん。偶然だね」

 翌日。朝の北名吉駅に着いた途端、香澄は後ろから肩を叩かれた。
 彼女はいつも音楽を聴きながら通勤している。他人に迷惑をかけない程度のボリュームに抑えているつもりだが、普通に声をかけただけでは気づかなかったのかもしれない。
 彼女がびっくりして振り返ると、そこには碓氷がいた。
 ギョッとしながら、香澄はイヤホンを外す。

「う、碓氷さん……おはようございます……」
(ま、まさかストー――)

 待ち伏せをされていたのかと、口元を引きつらせた。
 けれど碓氷は、ほんの少しだけ驚いたような声音で言葉を継ぐ。

「俺のいつも乗る駅、本当はづきなんだけど、今日たまたまここに用事があって寄ってたんだ。立花さんは北名吉に住んでるんだね」

 彼は隣の駅名を挙げて、偶然を喜んでいるみたいな嬉しそうな表情をした。

(あ、そうなんだ……そうだよね。私住んでるところ教えてないし……)

 安堵あんど感と自意識過剰に対する軽い自己嫌悪で、香澄の心は入り乱れる。複雑な気持ちを抱きつつ改札に向かうと、碓氷が隣に並んできた。

「あ、の……昨日はごちそうさまでした。すみません、いきなり帰ってしまって……」
「いいんだ。俺がいきなりあんなことお願いしちゃったんだから。……で、どう? 考えてくれた?」

 自動改札を通った後、再び隣に来た彼は、香澄の顔を覗き込む。彼女は慌ててかぶりを振った。

「え、む、無理です……っ」
「嫌なの?」

 断られたのが意外だ、とでも言いたげにそう尋ねられ、香澄は軽く眉根を寄せる。

「嫌じゃない人がいると思います?」
「えー。今まで断られたことなかったけどなぁ」

 碓氷は過去にも何度か、理想に近い手首を持つ女性に同じことを頼んだ経験があるらしい。
 断られたことはなく、彼女たちはむしろ喜んで手首を提供してくれたという。

(そりゃあ……)

 碓氷のことが好きな女性なら、それを受け入れるかもしれない。
 断って嫌われたくはないだろうし、彼に触れられることに喜んで手を差し出した女性もいたに違いなかった。
 でも、香澄は碓氷のことが好きではない。
 嫌いというわけでもないが、そもそも好き嫌いを語れるほど彼のことを知らないのだ。
 昨夜はむしろ、彼の性癖を聞かされてドン引きした。
 だから断ることで彼にどう思われようが、かまわない。
 ホームに着くとちょうど電車が来たので、二人で乗り込む。碓氷は当然のように香澄の隣に立ち、小声で彼女に話しかけた。

「もちろんタダで、とは言わないよ? お礼はするつもり」
「いやいやいや、何かもらっても無理ですから」
「そう? うーん……困ったなぁ……」
(困ってるのは、こっちだからー!)

 苦笑いする様子ですら、碓氷はとてもさわやかだ。香澄は拒否している自分が悪いような気になり、まいってしまう。

「……ところで、立花さんって、街田の彼女の律子ちゃんと仲がいいんだって? 昨日、街田から聞いたんだけど」

 これ以上電車の中でする話ではないと踏んだのだろう、彼が話題を変えた。

「仲よくしてもらってます」
「立花さんは? 彼氏いるの?」
「……いません」
「そっかそっか、よかった」
「っ!?」

 一瞬ドキッとしてしまった自分が情けない、と香澄は内心で悔しがる。どうせそれに続く言葉は分かっているのに。

「だって、さすがに彼氏いる子に、頼めないからさ」
(やっぱり……)

 予想通りの言葉に、苦笑いした。普通、あんなことを頼む前に尋ねるだろうとも思ったが、口にはしない。

「そう言う碓氷さんは、彼女いるんですか?」

 先日、街田が『碓氷はフリーだ』と言っていた気がするが、あえて尋ねる。

「ん? 今はいないよ」
「ですよねー。さすがに彼女いる人が、他の女性に頼めませんよねー」

 少しばかり意地悪い表情で碓氷の言葉を真似て、そう言ってみた。

「あははは。だよね」

 碓氷は平然とした顔で返し、それからは、世間話と会社の話をした。
 そうして電車が桜浜の駅に着く。ホームから改札に向かって二人で歩いている時、後ろから声が聞こえた。

「碓氷さん!」

 振り返ると、同じ部署のながさとがいた。彼女は、人混みに身体をねじ込むようにして碓氷の隣に陣取る。
 碓氷に熱を上げる女子社員の中でも特に力が入っているように見える彼女は、ふわふわと可愛らしい容姿で、男性受けするタイプだ。元々身だしなみに気を遣っている女性ではあるのだが、彼が赴任してきてからはおしゃれに一段と磨きがかかっている。
 男性社員からの人気がある彼女だからこそ、碓氷の美貌に臆することなくアプローチしていけるに違いない。

「あぁ、おはようございます」
「立花さんもおはようございます!」
「あ、おはよう」

 須永は香澄より入社は二年後輩なのだが、四大卒なので年齢自体は同じだ。可愛らしい見た目に似合わず、性格は少々きつい。
 今もさわやかに挨拶をしてきたものの、香澄に向ける視線には敵意めいたものを宿らせていた。

(こういうことになるから……!)

 香澄は軽く唇を噛む。
 碓氷との距離が近くなるということは、それだけ彼をしたっている女性ににらまれる確率が高くなる危険性を秘めているのだ。

「碓氷さんは、今日は立花さんとご一緒だったんですか?」

 須永が大きな目を見開き、探るように尋ねてくる。

「電車でたまたま会ったんで、仕事の話をしてたんです。……ね? 立花さん」
「は、はい……っ」

 同じ駅から乗ってきたなどと言えば、変に勘ぐられるかもしれない。それに碓氷も自分の住居の情報を安易に提供したくはないのだろう。
 彼はあくまでも車内でばったり会ったというていで話をしていた。香澄にとっても、それはありがたい。
 内心ホッとしつつ、香澄は人混みを利用してさりげなく碓氷と須永から離れる。
 そして会社に向かって歩きながら、ふと気づいた。

(――でも私には日月に住んでるって言ってたなぁ、さっき)

 須永にはぼかしていたけれど、香澄には隣の駅を利用しているとはっきり言った。
 昨夜食事をした時、彼は、香澄を口が堅い女性だと認識していると発言をしている。そのせいかもしれない。
 あんな性癖を暴露するくらいだ。住んでいる場所をバラす程度どうってことないと思っているのに違いなかった。

(ともかく、昨日碓氷さんが話していたことは、誰にも言わないようにしなきゃ)

 これは彼のためなどではなく、自分のためだ。
 女の争いに巻き込まれたくないがゆえの自己防衛。
 取り戻した平穏な生活を、二度と乱したくはない。
 やっぱり碓氷には極力近づかないようにしよう――香澄は改めてそう誓った。


「……」

 その日の終業後。社用スマホのディスプレイをながめながら、香澄はため息をついた。

  “昨日の件、了承していただけたら嬉しいです”

 香澄の堅い決意を嘲笑あざわらうかのように、碓氷がメッセージを送ってきた。すぐ目の前に座っているのに、だ。
 当の本人は香澄に目を向けることなく平然と自席で仕事をしている。

  “申し訳ありません”

 それだけ返信する。

 “どうしても?”

 今度はそう返ってきた。
 “どうしてもです”と打って返信しようとすると、須永をはじめとした女性社員が数名、碓氷のもとへ駆け寄っていくのが見えた。
 香澄は慌てて文面を消し、スマホを伏せる。

「碓氷さん、この後飲みに行きませんか? 素敵なお店見つけたんですよ」
「あー……すみません、嬉しいお誘いなんですけど、今、家族がこっちに来ているので、都合が悪いんです」

 碓氷が眉尻を下げつつ須永の誘いを断るが、彼女は控えめな口調で食い下がった。

「それじゃ、もしよければご家族もご一緒にどうですか?」
「親戚の集まりとかいろいろあるので、すみません。また今度誘ってください」

 碓氷は愛想よく笑うと、手早く荷物をまとめて「お先に失礼します」と周囲に告げ、職場を後にした。

「碓氷さん、なかなかつきあってくれないよねぇ」
「ほんとは彼女いるんじゃない?」
「嘘、いないって聞いたよ?」
「それって本人から?」
「違うけど……」

 女性たちが、口々に言いながら残念そうに去っていく。
 碓氷は嫌な顔一つしていなかった。毎日のように誰かしらから誘われているというのに、すべてに誠実に対応している。
 よく切れずにいられるなぁと、香澄は感心した。

(モテるっていうのは大変だ……)

 やれやれと肩をすくめ、帰り支度をする。会社を出て電車に乗り、北名吉で降りた。
 すると、改札口を出たところで、碓氷に肩を叩かれる。

「立花さん」
「碓氷さん?」
「やっぱり会えた」

 香澄はイヤホンを外して応対した。

「え……もしかして、私を待ってたんですか? ご家族と約束があったんじゃ……?」
「あぁ、家族が来てる、っていうのは嘘」

 碓氷が悪戯いたずらっぽく笑った。
 家族をだしに使えば、引き下がってくれると思ったと言う。

「それでも食い下がってくる子もいるんだね。女性ってすごいな」
「はぁ……」

 もっともらしい態度と言葉で女性たちに弁解していたから、香澄はすっかり彼の言葉を信じていた。

(断り慣れているなぁ……)

 素直に感心する。
 そうできるようになるまでには、いろいろと苦労があったのかもしれない。
 碓氷の表情を見ていたら、なんとなくそう思った。

「まぁでも、家族――というか親戚と約束があったのは、ほんと。従兄いとこが北名吉に住んでるんだ」
「そうなんですか」
「あぁ。だから、従兄いとこの家に行く前に、立花さんにもう一度お願いしておこうと思って」

 そう言って、彼が首をちょこんとかしげる。可愛さを演出しているらしい。

「え……だから無理ですって」
「別に裸を見せて、って言ってるわけじゃないのに」
「あの……もう、その発言の時点でセクハラですからね」
「あははは、そういえばそうだな。……でもね、こう見えて俺も必死なんだ。諦めるつもりはないよ」

 セクハラだと認めたものの、彼はひるむ様子もなく堂々と言い放つ。宣言通り、引き下がるつもりはなさそうだ。

「そんなこと言われても……」

 香澄は言葉尻を濁してうつむいた。
 ここで「それじゃあ、仕方がないので触ってもいいですよ!」なんて言えるはずがない。

「ともかく、もう一度よく考えてほしい。……じゃあ」

 そんな彼女の肩をポン、と叩き、碓氷がきびすを返す。

「あ、う、碓氷さん……!」
「よろしく!」

 笑顔で香澄に手を振り、走っていった。
 その後ろ姿までもが、実に清々すがすがしい。

「うぅ……」
(まったく、涼しげな顔でなんてこと頼んでいくのよ~!)

 香澄は困って頬をふくらませたのだった。


 それからも、碓氷は何かと香澄に接触してきた。
 会社でメッセージを送ってきたり、出張精算書に貼りつけた付箋ふせんに「例の件、お願いします」と書いてみたり、自席でパソコンとにらめっこしたまま「どうしたらOKもらえるのかな……」と、聞こえよがしにつぶやいてみたりする。
 さりげなく、それでいて確実に香澄の目や耳に入る形で訴えてくるのだ。
 その度に彼女は断ったり無視したりするのだが、めげる彼ではない。
 そんな一連のやり方に困らされてはいるものの、香澄の中で碓氷の株が少しだけ上がっていた。
 というのも、彼のアプローチはすべて周囲の目につかない形で行われているからだ。
 誰に見られることも聞かれることもなく、ほぼ水面下で接触してくる。エンカウントするのは、必ず北名吉駅近辺だ。
 これは碓氷が彼女を気遣ってくれてのことなのだろうと分かっていた。
 開発センターでもかなり目立つ存在である彼が堂々と香澄に言い寄ろうものなら、彼女は女子社員の嫉妬しっとの的になる。
 そういった自分の影響力の大きさを、彼は十二分に理解している。

「気を遣ってくれてるのか、強引なのか、よく分からない……」

 香澄はぽつりとつぶやく。
 そして、彼女の手首に対する碓氷の執着はかなりのものらしい。
 ある日彼は、ついにワイルドカード級の条件を提示してきたのだった。


「――香澄ちゃん、今日こそ返事を聞かせてもらうから」
「返事ならとっくにしてます……っていうか、どうして名前で呼ぶんですか?」
「ここ一週間でだいぶ親しくなった感ない? 俺ら」
「そうでしょうか」

 あれから一週間が経った週末。香澄は大事な話があると碓氷に言われ、北名吉駅で待ち合わせさせられた。
 二人は、駅前から少し奥まったところにある、会社の人間には出くわしそうもないクラシックな雰囲気のカフェに入る。
 向かい合わせに座り、香澄はカフェオレを、碓氷はブラックコーヒーを頼んだ。

「まぁそんなことはどうでもいいや。香澄ちゃん、君さ、ジョアン・マッキーのファンだよな」

 碓氷のいきなりの言葉に、香澄はびっくりする。

「えっ、ど、どうしてご存じなんですか!?」

 ジョアン・マッキーとは、今、アメリカで人気のある女性シンガーだ。ポップスからカントリーまで幅広いジャンルを歌い、出す曲出す曲、ほとんどがチャートインしている。
 年齢は三十歳ほどで、可愛らしい雰囲気と素晴らしいプロポーションを誇る美女でもあった。

「秘密。でも香澄ちゃん、いつもジョアンの曲聴いて通勤してるよね。一、二度音漏れしてるの聞こえてきた。だからファンなんだろうな、って」

 音漏れには気をつけていたはずだが、十分ではなかったようだ。碓氷に聞かれていたことに、香澄は少し恥ずかしくなった。

「はい、ジョアン大好きです。CDもライブのブルーレイも全部持ってます」

 彼の言う通り、香澄はジョアンの大ファンだ。デビューの頃から好きだったので、かなり年季の入ったファンと言える。通勤時のおともは大抵ジョアンの曲だ。

「そのジョアン・マッキーのサイン入りCDをあげるって言ったら、俺のお願い聞いてくれる?」
「え?」
「アメリカにいた頃の知り合いに、ジョアンの親戚がいるんだ。そいつに頼めば、きっとサインがもらえるから」
「え、っと……あの……え?」

 香澄は困惑していた。いきなりジョアンの話を振られたかと思うと、サインがもらえるかもしれないという展開になっている。

(ど、どうしよう……)

 手首を献上するのは怖かった。けれどジョアンのサインは、喉から手が出るほど欲しい。
 これぞジレンマ、といった状況だ。

「とりあえず、これ見てくれる?」

 躊躇ためらう香澄を前にして、碓氷が自分のスマートフォンを操作し、テーブルの上に置く。

「こ、れ……」

 そこには、写真が表示されていた。碓氷とジョアンが並んで写っているものだ。

「本物だから」

 彼が言う通り、それはどう見ても合成などではない、本物のツーショット写真で……。しかもジョアン自身の自撮りのようだった。
 美形二人が並んで写っているその様子は、とてもまぶしい。

(ほ、ほんとに、ジョアンだ……すごい……)

 香澄は食い入るように画像を見つめた。

「ちゃんとサインが本物だって証明もできるから、安心して」

 顔を上げると、ニッコリと笑う碓氷がいる。
 香澄の心情を知ってか知らずか――いや、完全に把握しているのだろう。彼の表情には余裕がにじんでいた。

「っ」

 なんだか憎たらしくなり、香澄は思わず目の前のイケメンをにらんでしまう。その恨みがましい視線をものともせずに、彼は優美な笑みで彼女の答えを待っていた。

「イエスと言ってくれたら、すぐにでも手配する。……ジョアンのサイン」
「うぅ……」

 あれほど堅かった香澄の拒否感は、雑に積んだ積み木のようにグラグラになる。今にも崩壊しそうだ。

「To Kasumiって、名前も入れてもらえると思うんだよな……俺が頼めば」
「っ!」

 その瞬間、頭の中の積み木がガラガラと崩れ落ちるのを、香澄は感じた。

「わっ、分かりました……っ」

 大好きなジョアンのサインが手に入るなら、自分の手首など差し出そう。甘い誘惑に負けた彼女は、今ここで、悟りを開いた。

「っし!」

 ガックリとうなだれる彼女とは正反対に、碓氷は小さくそう叫び、ガッツポーズをする。

「負けた……ジョアンに負けた……」
「負けてないよ。むしろ大勝利だ――香澄ちゃんも俺も、ね」

 今まで見たこともないくらいに彼は上機嫌だ。香澄は、ははは、と引きつった笑みを浮かべた。

「まぁ……イエスと言ったからには、碓氷さんの頼みは聞きます」
「じゃあ、早速ジョアンのサイン入りCDの手配をしておくよ。今日はこれで帰ろう。家まで送るよ」

 碓氷がテーブルの上の伝票を手に立ち上がり、会計を済ませた。香澄は自分の分を支払おうとしたのだが、やんわりと断られる。

「俺の頼みを聞いてくれたから……お礼、というには安すぎるけど」

 彼はそう言って笑った。
 並んで歩いて香澄のアパートまで来ると、碓氷は彼自身のスマートフォンを取り出す。

「今さらだけど、プライベートの連絡先、交換してくれる?」

 これまでは会社のスマホにメッセージが送られてきていた。
 今後は個人的なやりとりが続くだろう。さすがに、それを社用スマホでやるわけにはいかない。
 それは香澄にも分かっていた。

「あ……はい」

 彼女も自分のスマホをバッグから出すと、メッセージアプリのIDを交換する。

「じゃあ、CDが来たら連絡するから」
「は、はい」
「お疲れさま」
「お疲れさまでした」

 優しい笑みを残し、碓氷は帰っていく。
 香澄はその後ろ姿を見送った後、メッセージアプリに登録された碓氷のIDをながめて、ため息をついた。

(あーあ。ついにあの人の世界に足を踏み入れてしまったなぁ……)

 身の回りが慌ただしくならなきゃいいなと、祈ったのだった。


     ***


 碓氷からデートの誘いが来たのは、香澄が陥落した日から数日過ぎた頃だった。

 “CDは今手配しているよ。けどその前に、俺のことをもっと知ってほしい。手首フェチなのはともかくとして、俺自身は決して怪しい人間じゃないから”

 週末は空いているかと尋ねられ、香澄は迷う。

(えー……どうしよう……)

 彼との過剰な接触は、できることならしたくない。
 二人の関係が職場でバレる危険をおかしたくなかった。けれど、かたくなに拒否し続けるのも、どうかと思う。

(一回くらいなら大丈夫かな……)
 “分かりました。土曜日は空いてます”

 数呼吸おいてから、そう返事した。

 “よかった。じゃあ土曜日の十時に北名吉駅の改札で待ち合わせしよう”

 碓氷とのやりとりが終わった後、香澄は律子に電話する。今回のことを報告するためだ。
 もちろん、彼の性癖については黙っているが、万が一にも社内で二人のことが噂になった時、律子と街田が事情を知っていれば、ごまかしてもらえるかもしれないという思いもあった。

『ちょっと香澄、いつの間に碓氷さんとそんなことになってたのよ!?』

 香澄が一通り話し終えると、律子が驚きの声を上げた。

「そんなこと、って、別に何もないから。ちょっと頼みごとをされた、それだけだよ」
『頼みごとって何よ?』
「それは私の口からは言えないけど……でも、そういうんじゃないからね」

 そして香澄はもしもの時のために、律子たちに味方になってもらえないか頼む。

『それなら任せて。朔哉と碓氷さん、同期だしね』
「いろいろお願いね」
『は~い。……この件は朔哉にも言っちゃっていいのよね? っていうか、碓氷さんがもう朔哉に話してたりして』

 それから五分ほど別の話をして、二人は通話を終えた。電話を切ったすぐ後に、律子からメッセージが届く。

 “もういっそのこと、このまま碓氷さんとつきあっちゃえばいいのに”

 にやけ顔の絵文字とともに送られてきたその文言を見て、香澄は脱力した。

「電話で言わないところが律子らしいや……」


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