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1巻
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陽子の出産直後は、疲弊した彼女に代わって出来る限りの家事育児をしたし、今でも空いている時間には面倒を見ており、翔の好きな幼児番組やアニメまで一緒になって観賞している有様だ。映画も劇場まで観に行くし、翔のためにイベントの行列に並んだりもする。
そういった依里佳の溺愛ぶりが実を結んだのか、翔は叔母によく懐いていた。今も翔はソファで依里佳の膝に座ったまま、アニメ映画を観ている。そこが二人でテレビを観る時の定位置だったりするのだ。
見返りを期待せずに自分を好いてくれる男は、もはやこの世で甥っ子だけだと依里佳は思う。
「あーえりか、またないてるー。しょうがないなぁ、もう」
子供向けアニメを観てボロボロ泣いている依里佳に、翔がティッシュの箱を渡してくれた。
「だって、だって……っ、うさぎが、うさぎがぁ……」
二人が観ているアニメ、『もこもこりゅうととんがりうさぎ』――通称『りゅううさ』は、雲から生まれた竜と水晶から生まれたうさぎが出逢い、一緒に旅をする物語だ。元々は絵本が原作だが、数年前からテレビアニメが放映されている。キャラクターの造形の可愛らしさとワクワクとドキドキが詰まったストーリーが子供たちだけでなく大人にも受け、今や国民的アニメとも呼ばれるほどの人気を誇っている。
その『りゅううさ』のみならず、依里佳は家ではいつも翔と一緒に子供向け番組ばかりを観ている。
だから同年代が観ているようなテレビ番組は、ここ四年はほとんど観ていない。翔が寝た後なら時間も出来るのだが、空けば空いたで家事を手伝ったり、お風呂に入ったり――と、結局観ないで終わることの方が多かった。
そのせいか、男性と二人で出かけてもまず話が合わない。
依里佳も年頃の女性なので、以前はちょっと気になる男性から誘われた食事やデートに出かけることもあった。
彼らは彼女の気を引こうと、皆一様に流行りの話題を口にする。ファッション、ドラマ、バラエティ番組、デートスポット、レストラン、ヒット曲――けれど当の依里佳が、それについていけないのだ。
おそらくうんうんと話を聞いていれば、反応として間違いないのだと思う。実際、依里佳もそうしてきた。しかし彼女も流行にアンテナを張り巡らせていると当然のように思われているので、相手から好みや意見を尋ねられる。
もちろん、上手い反応など返せない。
ファッションはともかくとして、ドラマやバラエティ番組なんてほとんど観ないし、翔と出かけるのは公園かペットショップか動物園か遊園地、好きな食べ物はB級グルメ、そして毎日聴くのはアニメソングか戦隊ヒーローもののテーマ曲だ。これでは会話など噛み合うはずもない。
一度など『私、甥っ子とアニメしか観ないので……』と発言したところ、こんな反応が返って来た。
『蓮見さんがアニオタとか、何の冗談?』
『え……マジなの?』
『ちょっと……それはない』
そしてやはり『イメージと違う』と引かれてしまうのだ。
中には多少話が合わなくてもかまわない、と言う男もいたが、そういう場合は大抵あからさまに依里佳の身体が目当てだったので、彼女の方が拒否反応を示すこととなる。
自分が他の女性とかなり違う嗜好をしているのは、もちろん自覚している。けれど、こんな自分を変えたいとは思わないし、変えてまで男性とつきあいたいとも思っていない。
このままの自分を受け入れてくれる男の人がいればいいのに……と、考えることもあるけれど、それはなかなか難しそうだ。
(私、一生結婚出来ないかもしれない)
依里佳は半分、恋愛を諦めていた。
「依里佳ちゃん、翔、夕飯出来たよ~。食べよう」
陽子がダイニングから依里佳たちに声をかけてきた。
「あ、陽子ちゃん、お手伝いしなくてごめん」
「いいのいいの、翔のこと見ててもらってるし」
陽子の仕事は弁護士だ。しかし翔がもう少し成長するまではと業務量をセーブし、基本的には在宅勤務をしている。なので今は蓮見家の家事の半分以上を彼女が引き受けていた。
依里佳も週末など、出来る時にはちゃんとやっているが、平日の夜は翔の相手をするだけが多かった。
「翔、お手て洗ってきて。ご飯だよ」
膝から翔を下ろして床に立たせる。
「やだぁ、これまだみたい~」
「録画してるから、夜ご飯食べたら続き観よう?」
依里佳が目線の高さを合わせてそう言うと、翔は『わかったぁ』と、しぶしぶ洗面所へ行った。
(なんだかんだでちゃんと言うこと聞いてくれるのが、また可愛い……!)
ニヤニヤしながら翔の後をついていく依里佳の姿は、端から見ると相当薄気味悪いだろう。そう自覚しつつも、叔母バカを抑えるつもりは毛頭ない依里佳だ。
(翔が可愛すぎるのがいかんのよ! こんなに可愛い幼稚園児いる!? 園でも女の子にモテるんだろうなぁ)
そんなことを考えながらポテトサラダを食べる依里佳に、突然陽子が切り出した。
「そういえばね、叔父さんが今度こそお見合いはどうか、って聞いてきてるんだけど。依里佳ちゃんみたいな美人さんがフリーなんて! って、また張り切ってるのよねぇ」
依里佳は口の中のサラダを呑み込んだ後、申し訳なさそうに答える。
「……ごめん、陽子ちゃん」
「だよねぇ。大丈夫だよ、断っておくから」
「いつもごめんね」
「気にしないで! 私だって、大事な義妹の依里佳ちゃんには、望まない相手と結婚してほしくないし! 俊輔だってそう思ってると思うよ?」
そんな話をしていると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま~」
「あら、噂をすれば、俊輔がご帰還だわ」
「あ、おとうさんだ! おかえり!」
翔は椅子から転がり落ちる勢いで駆け出し、ダイニングに入って来たスーツ姿の俊輔の腰に抱きついた。彼は鞄を床に起き、息子を高く抱き上げる。
「翔~、ただいま~! いい子にしてたか~? ……あ、依里佳、うちの部長の息子さんが、おまえをどこかで見かけて気に入ったそうで、是非紹介してくれって言われたけど、断っておいたぞ」
「あ、ありがとう……お兄ちゃん」
兄夫婦の双方から似たような話を立て続けに振られ、依里佳は苦笑する。
「ったく、どこで俺の妹だって知ったんだか。いきなり部長に会議室に呼ばれて驚いたわ」
「え~、俊輔ってば勝手に断っちゃって。一応依里佳ちゃんに確認するくらいはしなさいよ。私だってちゃんと聞いてるのに」
「だってな、その部長の息子、職場でも噂になるほどダメ息子って有名なんだよ。とにかく金にも女にもだらしがないって。だから『妹はアメリカの有名投資家のご子息に見初められて婚約中です』って、断っておいた。そう言えばさすがに諦めるだろ。大事な妹をそんなろくでもないやつと引き合わせたら、あの世の父さんと母さんが化けて出そうだもんな」
「お兄ちゃん……いくら何でもその嘘は、あまりにも現実離れしすぎ……」
陽子の身内や俊輔の知人にも依里佳の美貌のほどは伝わっているらしく、見合い話や紹介してほしいという依頼がしばしば舞い込んで来る。中にはいい条件の相手もいるのだが、実際に会ってみると、例によって相手が依里佳の見た目と中身のギャップに困惑して、話が立ち消えになってしまうのだった。
何回かそういうことがあって以来、俊輔と陽子が見合いの前に盾になってくれている。必要とあらば依里佳の性格や嗜好を相手側に説明し、見た目から想像するような女性ではないことを伝えてくれるのだ。
ほとんどは本人の代わりに断りの返事を伝えるだけなのだが、それをいとわず請け負ってくれる兄夫婦に、依里佳は頭が上がらなかった。
***
「こんなもんかな……」
鏡に映る自分の顔を見て依里佳は呟いた。
化粧一つ取っても、かなり気を使う。何故なら、素顔に近いような薄化粧で会社に行けば『すっぴんでも美人だって言いたいの?』と嫌味を言われ、しっかりメイクで行けば『ケバい』と嘲笑されるからだ。もちろん、例の三女子に。
気にしなければいいのだが、あれこれ言われるのも面倒くさい。だからいろいろ勉強して腕を磨いた。ケバくもなく手抜きでもない、ちょうどいい具合のメイク術。
なので会社に入ってから、メイクの腕は格段に上がった。その点については、彼女たちに感謝してもいいかもしれない……と、依里佳はポジティブに考えるようにしていた。
身支度を済ませてリビングへ行くと、スーツ姿の陽子が慌ただしく動き回っていた。
「ごめんね、依里佳ちゃん。翔のこと、お願いね」
「大丈夫だよ、ちゃんと幼稚園まで送るから、行ってらっしゃい」
在宅勤務をしている陽子だが、クライアントと会うために外出することも多い。場合によっては今日のように朝早く家を出なければならないこともあり、そういう時は俊輔や依里佳が送り迎えをしている。
陽子が家を出てから三十分ほど経った頃、依里佳は翔に声をかけた。
「翔、幼稚園行くよ~」
「わかったぁ」
飼育ケースの中を覗いていた翔は、名残惜しそうに蓋を閉めた。
翔は幼児番組やアニメも好きだが、何より好きなのが爬虫類だ。三歳の頃には庭でトカゲを捕まえては飼育ケースに入れて観察をしていた。
動物園に行けば爬虫類館に入り浸り、専門のペットショップへ行けばイグアナやカメレオンを買ってくれと駄々を捏ねる。
そんな翔は、今はジャックとアニー――一週間ほど前に捕まえてつがいで飼育しているカナヘビに夢中だ。メスのアニーが昨日卵を産んだので、大喜びで世話をしている最中なのだ。食べ終わったプリンカップに土を入れ、そこに卵を隔離している。
『カナヘビのたまごは、おみずをあげなきゃいけないんだよ』
どこで覚えてきたのかそんなことを言い、定期的にたっぷりの水で土を湿らせていた。
さらに翔は毎晩寝る前には図鑑を眺め、枕元に置いて寝ている。知識をどんどん吸収していくため、依里佳はそろそろ翔の爬虫類フリークぶりについていけなくなりつつあった。
爬虫類は別に苦手じゃないが、でも大好きというわけでもない。翔がいなければ興味なんて持たなかったし、カナヘビのオスメスの区別すらつかなかったと思う。今やしっかり判別可能な上に、素手で触ることも出来るわけだが。
こんなことに慣れてしまった自分に苦笑してしまうけれど、可愛い甥っ子のためなら仕方がない。
翔はカナヘビに『いってきまーす』とあいさつをし、それから手を洗って依里佳のもとへ来た。
さくらはま幼稚園は蓮見家から徒歩三分ほどのところにある。だから翔は園バスを利用せず、歩いて通園していた。
「おはようございますー」
園庭を掃除している職員に挨拶をし、それから昇降口へと入る。そこはすでに登園している園児で賑わっていた。
「翔くん、おはよう」
翔の担任が、他の園児の身支度を手伝いながら声をかけてきた。
「かなみせんせい、おはよう!」
「かなみ先生、おはようございます」
「おはようございます。今朝は依里佳さんが送り担当なんですね」
「はい、よろしくお願いします。……じゃあね、翔。いい子にするんだよ?」
「じゃあねー、えりか!」
翔が入園してから、依里佳は園の行事に出来る限り顔を出していた。可愛い甥っ子の幼稚園での姿を見たかったのもあるけれど、何より翔の保護者の一人だと周囲に認識してもらいたかったから。
その甲斐あって、今では幼稚園の教職員のほぼ全員が依里佳を翔の保護者であると理解してくれている。
「蓮見さん……!」
園の職員に会釈をし、園庭の門から外へ出てそのまま会社へ向かおうとしたところで、後ろから声をかけられた。
「副園長先生、おはようございます」
さくらはま幼稚園の副園長、関口曜一朗がそこにいた。急いで追いかけて来たのか、少し息を切らせている。
「蓮見……依里佳さんがいらしていると伺ったので……!」
依里佳は追いついた関口の息が整うのを待った。
「何かご用ですか? 翔が何か?」
「いえ、翔くんはとってもおりこうですよ。いつも元気ですし、他の子にも優しくて頼りになります。……っと、そうではなくて。実は依里佳さんにお願いがありまして」
居住まいを正して関口が言う。
彼は園長の息子で、言うならば次期園長だ。年は三十に届くか届かないくらいか。品のよい美形である上、眼差しや物腰がいつも柔らかく、包容力のあるタイプに見える。襟足が隠れる長さに整えられた焦げ茶の髪はサラサラで清潔感があり、それがまた彼の上品さを引き立てていた。背もかなり高いので、園長に高所の作業をよく頼まれているらしい。
当然、教職員や保護者からの人気も高い。独身の職員やシングルマザーの中にも、本気で彼を狙っている女性は少なくないと、依里佳は園ママから聞いたことがあった。
関口は幼稚園教諭免許を持ちながらも、元々は他に会社を経営していた実業家らしい。園を学校法人化するに当たり、理事長や園長に乞われて幼稚園経営にも加わったとか――どこからそんな情報を仕入れてくるのか、園ママから聞かされるたびに依里佳は脱力してしまう。
「何でしょう?」
「今度、園の課外活動で合気道を始めたいと考えているんです。依里佳さんは以前合気道を習ってらしたと伺ったので、もし講師に心当たりがあればご紹介いただけないかと思いまして」
課外活動とは、放課後に園の設備を提供して行うお稽古ごとのことだ。講師は外部から招き、生徒はもちろん、さくらはま幼稚園の在園児や卒園生が対象になる。
思いがけない申し出に依里佳は一瞬目を丸くしたが、すぐにうなずいた。
「そうですね……じゃあ、私が教わっていた師範に聞いてみます」
確かに依里佳は、高校生の時まで合気道を習っていた。陽子か俊輔に聞いたのだろうか。
「それで……そのことに関するやりとりもしたいので、もしよろしければ携帯番号とかメッセージアプリのIDを教えていただけませんか?」
「はい、かまいませんよ」
依里佳はバッグからスマートフォンを取り出して、関口と番号の交換をする。
「合気道のことだけじゃなく……個人的な内容を送ったりしてもいいですか? 世間話とかそういった類の」
関口が少しばつが悪そうに尋ねた。
「あはは、いいですよ。律儀ですね、副園長先生」
メッセージのやりとりをするのに、わざわざ内容の許可を取るなんて。彼の礼儀正しい人柄に、思わず笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます。依里佳さん、これからご出勤ですよね? すみません、朝のお忙しい時にお引き止めして。行ってらっしゃい、お気をつけて」
依里佳は優美な笑みを浮かべた関口に送り出された。
出社すると、三女子が待ってましたとばかりに嫌味を連発した。もちろん、課長たちにはバレないようこっそりと、だ。
「重役出勤なんて、余裕あるよねぇ」
「夜遊びしすぎて寝坊したんじゃない?」
「いいよねぇ、美人は遅れて来ても何も言われなくて」
「昨日の内にフレックスタイム出社の申請をして、勤務予定表にもそう入力しておいたんですが……ご存知なかったようで失礼しました」
依里佳は一応、やんわりと反論はしておいた。それが彼女たちに響いているのかどうかは別として。
(っていうか、私にあれこれ言うヒマがあるなら仕事してほしいわ、ほんとに……)
仕事を中断したり課を越えてまで顔を出したりして嫌味を言いに来る価値が、私にあると思っているのかしら――依里佳は首を傾げた。
とはいえ、いつまでも気にしていても仕方がないので、自分の仕事に集中することにする。客先に出向いている同僚からの電話を受けてデータを送ったり、企画の草案を練ったり、関係部署から回ってきた報告書に目を通したりと忙しく働いていると、声をかけられた。
「蓮見さん、これだけど。確か企画二課が競合相手について割と綿密に調査していたから、資料借りてきて参考にしてみるといいかも」
「あ、はい、分かりました」
営業企画一課の課長・橋本は、依里佳のことをよく理解して普通に接してくれる数少ない男性である。過去に三女子の言動を知り、彼女たちに注意しようとしてくれたのも彼だ。
しかし彼女たちが『課長までたらし込んでいる』などと吹聴し始めたため、依里佳は橋本に、自分を庇ってくれなくていい、と申し出た経緯があった。
依里佳は席を立ち、営業企画二課へと向かう。二課にはミッシェルがいる。声をかけたところで昼休みのチャイムが鳴ったので、美沙も誘って食堂へ移動した。
「へぇ~、水科くんって依里佳と同じ駅だったんだぁ」
「ん」
「企画一課の有名人二人が同じところに住んでるとか知られたら、また誰かさんたちの格好の餌食になりますなぁ、依里佳」
日替わり定食の焼きサバを口にしながら驚くミッシェル、オムライスを頬張りながら頷く依里佳、チキンカレーを掬いながらからかう美沙――この三人が仲良くなったのは、新人研修の時だ。
依里佳はその頃にはすでに有名人と化していた。それはミッシェルも同様で、顔を合わせた瞬間に同類であることを感じ取った二人は、『同志よっ!』と、固く抱きしめ合ったのだった。
美沙は顔の造作では二人に及ばないものの、スタイルのよさは同期一で、特にGカップの胸は男性だけでなく、女性の注目も集めている。ウエストがきゅっとくびれ、ラテン系女性のような美尻を誇っているため、三人の中でもっともいかがわしい視線を受けてしまっていた。
しかし美沙はそんなことには慣れっこ、といった様子で気にする風でもない。三女子から嫌味を言われても、『私のスタイルのよさがあなた方に迷惑をかけたかしら?』と言い放ち、彼女たちを黙らせていた。それを見た依里佳とミッシェルが、美沙を師匠と仰いで懐く形になったのも当然の流れである。
それから二年経ち、ミッシェルは今ではだいぶ美沙に感化され、見た目で何かを言われても、『はいはーい、嫉妬乙!』くらいは返せるようになったし、三女子にも嫌味で対抗出来るようになった。
依里佳はまだミッシェルほど開き直れてはいないものの、そこそこの反論なら出来るようになり、屋上でストレス解消することも覚えたためか、滅多に凹むことがなくなった。
「――ねぇねぇ知ってる? 企画一課の水科くんがうちの持株会社の社長の息子だって噂があるの」
突如として三人の耳に入って来たひとこと。女性社員たちが、食事をしながら噂話を始めたのだ。
「え、そうなの? でも社長の名前って『海堂』でしょ」
女性社員の一人が尋ねる。
依里佳たちが勤務する会社は『海堂ホールディングス』傘下の『海堂エレクトロニクス』というIT企業だ。ホールディングス現社長は海堂義孝といい、創業者の孫に当たる。
「でも海堂社長と水科くんってどことなく似てるから、実は隠し子なんじゃないか、って」
「マジでぇ?」
「あ、でも誰かが水科くんに聞いてみたら、笑って否定されたって」
「だろうねぇ。仮に隠し子っていうのが本当だとしても、聞かれて認めるわけないじゃん」
「何かその話、嘘くさ~い」
「まぁ、あくまでも噂、だからね」
「ねぇねぇそれより! 今日ね、技術研の織田さんが来てたよ~。相変わらずイケメンだった~」
女性社員たちは、何事もなかったかのように次の話題に移っていった。
それを黙って聞いていた依里佳たちは、顔を見合わせて苦笑する。
「水科くんも大変だよねぇ……」
三人が同時に呟いた。
「あ、そうだ。依里佳に言わなきゃと思ってたことがあったんだわ」
美沙がパン、と手を合わせて切り出した。
「ん? どうしたの?」
「この間、弟がスマホゲームやってて、私に画面を見せてくるから何かと思ったら、そのゲームキャラが依里佳に激似でさぁ! 思わず弟にスクショ送ってもらっちゃったわ。見て見て」
美沙がスマートフォンのアプリを開き、弟から送られたという画像を拡大した。
「あれまぁ、ほんとそっくり」
ミッシェルが目を丸くする。
そこにいたのは、ロココ調ドレスを身につけて、レースをふんだんに使ったパラソルを手にしたCGキャラクターだった。
たれ目がちの大きな瞳、左目の下の泣きぼくろ、ダークブラウンのショートボブヘア――依里佳とまったく同じパーツを持つ少女が、そこにいた。自分でも納得のそっくり度合いだ。
「わ、ほんとに似てる……」
「でさ、聞いて驚け、このキャラの名前、東雲エリカって言うらしいの。しかも女王様キャラだからってことで、ファンからは『エリカ様』と呼ばれているらしいわ」
「あらら、名前まで一緒なのに性格は全然違うねぇ。ねぇ? エリカ様?」
「ちょっとやめてよ、ミッシェル」
依里佳はからかってくるミッシェルの腕をつついた。
「まさかとは思うけど、あんたがモデルとかじゃないわよね?」
「そんなわけないでしょ~」
美沙の問いを一笑に付した後、依里佳はふと黙り込んだ。
(エリカ様、ねぇ……。あ、そういえば……)
ふと彼女の脳裏に、何ヶ月も前の出来事がよみがえる。
昨年の秋のことだった。『りゅううさ』のきぐるみイベントが都内で開催されるということで、依里佳も翔を連れて出かけていた。人気声優が出演するとかで、会場は声優ファンであふれ返り、ほんわかした世界観の作品にしては、随分と熱狂的なイベントだったのを今でも覚えている。
何とか翔を守りつつ最後まで観覧していたのだが、隣に立っていた中学生くらいの女の子が帰ろうとする人の波に押されて転んでしまったのだ。依里佳はとっさにその子を助け、普段から翔のために持ち歩いているファーストエイドキットで、彼女の擦りむいた膝の応急処置をしたのだった。
その時の女の子が呆然としながら『エリカ様……』と呟いていたのを思い出す。初めは自分が呼ばれたのかと思ったが、名前は教えていないはずだし、ましてや初対面の相手に『様』なんて敬称をつけて呼ばれる覚えもなかった。だから気のせいだと思って聞き流したのだけれど。
(もしかして、あの時の子も『エリカ様』のファンだったのかなぁ……)
確かとても可愛らしい子だったと記憶している。
ゲーム自体に興味はなかったが、自分に似ているキャラがいるならちょっとやってみようかな――などと考えつつ、昼食を済ませた依里佳は、ミッシェルに借りた資料を抱えて部署に戻った。
「蓮見さん、渡し忘れた資料があるって、松永さんから預かってきました」
彼女の後を追うように、水科がクリアケースに入った書類を持ってやって来た。
「あ、ありがとう、わざわざごめんね」
「いえいえ、全然わざわざじゃありませんよ。二課に用事があって行ったら、松永さんに捕まっただけです」
「あはは、それは運が悪かったね」
「松永さん、ああ見えて力強いんですもん、ネクタイ引っ張られて首が絞まっちゃいましたよ」
「あー、ミッシェルは空手やってたからねぇ」
職場で男性社員とこんな風に和気あいあいとした会話を交わすのは、何ヶ月ぶりだろう。昨日、水科が『どんどん声かけてください』と言ってくれたので、それに甘えて普通に会話を続けてみたのだが、やってみると意外と解放感があり、いい気分転換になった。
三女子の内の二人が背後からこちらを睨めつけているのが、見なくても分かる。けれど、彼女たちを気にして萎縮するのもなんだか違う気がして。
少しずつ、普通の状態に戻していけたらいいな、と思う。
――思ってはいたのだが。
「媚売っちゃって、いやらしいの」
「水科くん、可哀想~」
ぼそりと呟く声が耳に入って来て、思わずため息がこぼれる。
(……はぁ、私もまだまだ修行が必要だわ)
仕事を一段落させると、依里佳は席を立って倉庫に向かった。一番奥の棚に隠された扉をくぐって鉄骨階段を上り、屋上に通じる扉を開ける。どっと風を受けながら外へ出て、いつもの場所へと足を運んだ。すると――
「あれ……」
誰もいないはずの屋上に見えた人影は、紛うことなき、水科だった。
「どうして……」
棚を動かした形跡はなかった。彼は一体どこからここへ辿り着いたのだろう。
そういった依里佳の溺愛ぶりが実を結んだのか、翔は叔母によく懐いていた。今も翔はソファで依里佳の膝に座ったまま、アニメ映画を観ている。そこが二人でテレビを観る時の定位置だったりするのだ。
見返りを期待せずに自分を好いてくれる男は、もはやこの世で甥っ子だけだと依里佳は思う。
「あーえりか、またないてるー。しょうがないなぁ、もう」
子供向けアニメを観てボロボロ泣いている依里佳に、翔がティッシュの箱を渡してくれた。
「だって、だって……っ、うさぎが、うさぎがぁ……」
二人が観ているアニメ、『もこもこりゅうととんがりうさぎ』――通称『りゅううさ』は、雲から生まれた竜と水晶から生まれたうさぎが出逢い、一緒に旅をする物語だ。元々は絵本が原作だが、数年前からテレビアニメが放映されている。キャラクターの造形の可愛らしさとワクワクとドキドキが詰まったストーリーが子供たちだけでなく大人にも受け、今や国民的アニメとも呼ばれるほどの人気を誇っている。
その『りゅううさ』のみならず、依里佳は家ではいつも翔と一緒に子供向け番組ばかりを観ている。
だから同年代が観ているようなテレビ番組は、ここ四年はほとんど観ていない。翔が寝た後なら時間も出来るのだが、空けば空いたで家事を手伝ったり、お風呂に入ったり――と、結局観ないで終わることの方が多かった。
そのせいか、男性と二人で出かけてもまず話が合わない。
依里佳も年頃の女性なので、以前はちょっと気になる男性から誘われた食事やデートに出かけることもあった。
彼らは彼女の気を引こうと、皆一様に流行りの話題を口にする。ファッション、ドラマ、バラエティ番組、デートスポット、レストラン、ヒット曲――けれど当の依里佳が、それについていけないのだ。
おそらくうんうんと話を聞いていれば、反応として間違いないのだと思う。実際、依里佳もそうしてきた。しかし彼女も流行にアンテナを張り巡らせていると当然のように思われているので、相手から好みや意見を尋ねられる。
もちろん、上手い反応など返せない。
ファッションはともかくとして、ドラマやバラエティ番組なんてほとんど観ないし、翔と出かけるのは公園かペットショップか動物園か遊園地、好きな食べ物はB級グルメ、そして毎日聴くのはアニメソングか戦隊ヒーローもののテーマ曲だ。これでは会話など噛み合うはずもない。
一度など『私、甥っ子とアニメしか観ないので……』と発言したところ、こんな反応が返って来た。
『蓮見さんがアニオタとか、何の冗談?』
『え……マジなの?』
『ちょっと……それはない』
そしてやはり『イメージと違う』と引かれてしまうのだ。
中には多少話が合わなくてもかまわない、と言う男もいたが、そういう場合は大抵あからさまに依里佳の身体が目当てだったので、彼女の方が拒否反応を示すこととなる。
自分が他の女性とかなり違う嗜好をしているのは、もちろん自覚している。けれど、こんな自分を変えたいとは思わないし、変えてまで男性とつきあいたいとも思っていない。
このままの自分を受け入れてくれる男の人がいればいいのに……と、考えることもあるけれど、それはなかなか難しそうだ。
(私、一生結婚出来ないかもしれない)
依里佳は半分、恋愛を諦めていた。
「依里佳ちゃん、翔、夕飯出来たよ~。食べよう」
陽子がダイニングから依里佳たちに声をかけてきた。
「あ、陽子ちゃん、お手伝いしなくてごめん」
「いいのいいの、翔のこと見ててもらってるし」
陽子の仕事は弁護士だ。しかし翔がもう少し成長するまではと業務量をセーブし、基本的には在宅勤務をしている。なので今は蓮見家の家事の半分以上を彼女が引き受けていた。
依里佳も週末など、出来る時にはちゃんとやっているが、平日の夜は翔の相手をするだけが多かった。
「翔、お手て洗ってきて。ご飯だよ」
膝から翔を下ろして床に立たせる。
「やだぁ、これまだみたい~」
「録画してるから、夜ご飯食べたら続き観よう?」
依里佳が目線の高さを合わせてそう言うと、翔は『わかったぁ』と、しぶしぶ洗面所へ行った。
(なんだかんだでちゃんと言うこと聞いてくれるのが、また可愛い……!)
ニヤニヤしながら翔の後をついていく依里佳の姿は、端から見ると相当薄気味悪いだろう。そう自覚しつつも、叔母バカを抑えるつもりは毛頭ない依里佳だ。
(翔が可愛すぎるのがいかんのよ! こんなに可愛い幼稚園児いる!? 園でも女の子にモテるんだろうなぁ)
そんなことを考えながらポテトサラダを食べる依里佳に、突然陽子が切り出した。
「そういえばね、叔父さんが今度こそお見合いはどうか、って聞いてきてるんだけど。依里佳ちゃんみたいな美人さんがフリーなんて! って、また張り切ってるのよねぇ」
依里佳は口の中のサラダを呑み込んだ後、申し訳なさそうに答える。
「……ごめん、陽子ちゃん」
「だよねぇ。大丈夫だよ、断っておくから」
「いつもごめんね」
「気にしないで! 私だって、大事な義妹の依里佳ちゃんには、望まない相手と結婚してほしくないし! 俊輔だってそう思ってると思うよ?」
そんな話をしていると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま~」
「あら、噂をすれば、俊輔がご帰還だわ」
「あ、おとうさんだ! おかえり!」
翔は椅子から転がり落ちる勢いで駆け出し、ダイニングに入って来たスーツ姿の俊輔の腰に抱きついた。彼は鞄を床に起き、息子を高く抱き上げる。
「翔~、ただいま~! いい子にしてたか~? ……あ、依里佳、うちの部長の息子さんが、おまえをどこかで見かけて気に入ったそうで、是非紹介してくれって言われたけど、断っておいたぞ」
「あ、ありがとう……お兄ちゃん」
兄夫婦の双方から似たような話を立て続けに振られ、依里佳は苦笑する。
「ったく、どこで俺の妹だって知ったんだか。いきなり部長に会議室に呼ばれて驚いたわ」
「え~、俊輔ってば勝手に断っちゃって。一応依里佳ちゃんに確認するくらいはしなさいよ。私だってちゃんと聞いてるのに」
「だってな、その部長の息子、職場でも噂になるほどダメ息子って有名なんだよ。とにかく金にも女にもだらしがないって。だから『妹はアメリカの有名投資家のご子息に見初められて婚約中です』って、断っておいた。そう言えばさすがに諦めるだろ。大事な妹をそんなろくでもないやつと引き合わせたら、あの世の父さんと母さんが化けて出そうだもんな」
「お兄ちゃん……いくら何でもその嘘は、あまりにも現実離れしすぎ……」
陽子の身内や俊輔の知人にも依里佳の美貌のほどは伝わっているらしく、見合い話や紹介してほしいという依頼がしばしば舞い込んで来る。中にはいい条件の相手もいるのだが、実際に会ってみると、例によって相手が依里佳の見た目と中身のギャップに困惑して、話が立ち消えになってしまうのだった。
何回かそういうことがあって以来、俊輔と陽子が見合いの前に盾になってくれている。必要とあらば依里佳の性格や嗜好を相手側に説明し、見た目から想像するような女性ではないことを伝えてくれるのだ。
ほとんどは本人の代わりに断りの返事を伝えるだけなのだが、それをいとわず請け負ってくれる兄夫婦に、依里佳は頭が上がらなかった。
***
「こんなもんかな……」
鏡に映る自分の顔を見て依里佳は呟いた。
化粧一つ取っても、かなり気を使う。何故なら、素顔に近いような薄化粧で会社に行けば『すっぴんでも美人だって言いたいの?』と嫌味を言われ、しっかりメイクで行けば『ケバい』と嘲笑されるからだ。もちろん、例の三女子に。
気にしなければいいのだが、あれこれ言われるのも面倒くさい。だからいろいろ勉強して腕を磨いた。ケバくもなく手抜きでもない、ちょうどいい具合のメイク術。
なので会社に入ってから、メイクの腕は格段に上がった。その点については、彼女たちに感謝してもいいかもしれない……と、依里佳はポジティブに考えるようにしていた。
身支度を済ませてリビングへ行くと、スーツ姿の陽子が慌ただしく動き回っていた。
「ごめんね、依里佳ちゃん。翔のこと、お願いね」
「大丈夫だよ、ちゃんと幼稚園まで送るから、行ってらっしゃい」
在宅勤務をしている陽子だが、クライアントと会うために外出することも多い。場合によっては今日のように朝早く家を出なければならないこともあり、そういう時は俊輔や依里佳が送り迎えをしている。
陽子が家を出てから三十分ほど経った頃、依里佳は翔に声をかけた。
「翔、幼稚園行くよ~」
「わかったぁ」
飼育ケースの中を覗いていた翔は、名残惜しそうに蓋を閉めた。
翔は幼児番組やアニメも好きだが、何より好きなのが爬虫類だ。三歳の頃には庭でトカゲを捕まえては飼育ケースに入れて観察をしていた。
動物園に行けば爬虫類館に入り浸り、専門のペットショップへ行けばイグアナやカメレオンを買ってくれと駄々を捏ねる。
そんな翔は、今はジャックとアニー――一週間ほど前に捕まえてつがいで飼育しているカナヘビに夢中だ。メスのアニーが昨日卵を産んだので、大喜びで世話をしている最中なのだ。食べ終わったプリンカップに土を入れ、そこに卵を隔離している。
『カナヘビのたまごは、おみずをあげなきゃいけないんだよ』
どこで覚えてきたのかそんなことを言い、定期的にたっぷりの水で土を湿らせていた。
さらに翔は毎晩寝る前には図鑑を眺め、枕元に置いて寝ている。知識をどんどん吸収していくため、依里佳はそろそろ翔の爬虫類フリークぶりについていけなくなりつつあった。
爬虫類は別に苦手じゃないが、でも大好きというわけでもない。翔がいなければ興味なんて持たなかったし、カナヘビのオスメスの区別すらつかなかったと思う。今やしっかり判別可能な上に、素手で触ることも出来るわけだが。
こんなことに慣れてしまった自分に苦笑してしまうけれど、可愛い甥っ子のためなら仕方がない。
翔はカナヘビに『いってきまーす』とあいさつをし、それから手を洗って依里佳のもとへ来た。
さくらはま幼稚園は蓮見家から徒歩三分ほどのところにある。だから翔は園バスを利用せず、歩いて通園していた。
「おはようございますー」
園庭を掃除している職員に挨拶をし、それから昇降口へと入る。そこはすでに登園している園児で賑わっていた。
「翔くん、おはよう」
翔の担任が、他の園児の身支度を手伝いながら声をかけてきた。
「かなみせんせい、おはよう!」
「かなみ先生、おはようございます」
「おはようございます。今朝は依里佳さんが送り担当なんですね」
「はい、よろしくお願いします。……じゃあね、翔。いい子にするんだよ?」
「じゃあねー、えりか!」
翔が入園してから、依里佳は園の行事に出来る限り顔を出していた。可愛い甥っ子の幼稚園での姿を見たかったのもあるけれど、何より翔の保護者の一人だと周囲に認識してもらいたかったから。
その甲斐あって、今では幼稚園の教職員のほぼ全員が依里佳を翔の保護者であると理解してくれている。
「蓮見さん……!」
園の職員に会釈をし、園庭の門から外へ出てそのまま会社へ向かおうとしたところで、後ろから声をかけられた。
「副園長先生、おはようございます」
さくらはま幼稚園の副園長、関口曜一朗がそこにいた。急いで追いかけて来たのか、少し息を切らせている。
「蓮見……依里佳さんがいらしていると伺ったので……!」
依里佳は追いついた関口の息が整うのを待った。
「何かご用ですか? 翔が何か?」
「いえ、翔くんはとってもおりこうですよ。いつも元気ですし、他の子にも優しくて頼りになります。……っと、そうではなくて。実は依里佳さんにお願いがありまして」
居住まいを正して関口が言う。
彼は園長の息子で、言うならば次期園長だ。年は三十に届くか届かないくらいか。品のよい美形である上、眼差しや物腰がいつも柔らかく、包容力のあるタイプに見える。襟足が隠れる長さに整えられた焦げ茶の髪はサラサラで清潔感があり、それがまた彼の上品さを引き立てていた。背もかなり高いので、園長に高所の作業をよく頼まれているらしい。
当然、教職員や保護者からの人気も高い。独身の職員やシングルマザーの中にも、本気で彼を狙っている女性は少なくないと、依里佳は園ママから聞いたことがあった。
関口は幼稚園教諭免許を持ちながらも、元々は他に会社を経営していた実業家らしい。園を学校法人化するに当たり、理事長や園長に乞われて幼稚園経営にも加わったとか――どこからそんな情報を仕入れてくるのか、園ママから聞かされるたびに依里佳は脱力してしまう。
「何でしょう?」
「今度、園の課外活動で合気道を始めたいと考えているんです。依里佳さんは以前合気道を習ってらしたと伺ったので、もし講師に心当たりがあればご紹介いただけないかと思いまして」
課外活動とは、放課後に園の設備を提供して行うお稽古ごとのことだ。講師は外部から招き、生徒はもちろん、さくらはま幼稚園の在園児や卒園生が対象になる。
思いがけない申し出に依里佳は一瞬目を丸くしたが、すぐにうなずいた。
「そうですね……じゃあ、私が教わっていた師範に聞いてみます」
確かに依里佳は、高校生の時まで合気道を習っていた。陽子か俊輔に聞いたのだろうか。
「それで……そのことに関するやりとりもしたいので、もしよろしければ携帯番号とかメッセージアプリのIDを教えていただけませんか?」
「はい、かまいませんよ」
依里佳はバッグからスマートフォンを取り出して、関口と番号の交換をする。
「合気道のことだけじゃなく……個人的な内容を送ったりしてもいいですか? 世間話とかそういった類の」
関口が少しばつが悪そうに尋ねた。
「あはは、いいですよ。律儀ですね、副園長先生」
メッセージのやりとりをするのに、わざわざ内容の許可を取るなんて。彼の礼儀正しい人柄に、思わず笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます。依里佳さん、これからご出勤ですよね? すみません、朝のお忙しい時にお引き止めして。行ってらっしゃい、お気をつけて」
依里佳は優美な笑みを浮かべた関口に送り出された。
出社すると、三女子が待ってましたとばかりに嫌味を連発した。もちろん、課長たちにはバレないようこっそりと、だ。
「重役出勤なんて、余裕あるよねぇ」
「夜遊びしすぎて寝坊したんじゃない?」
「いいよねぇ、美人は遅れて来ても何も言われなくて」
「昨日の内にフレックスタイム出社の申請をして、勤務予定表にもそう入力しておいたんですが……ご存知なかったようで失礼しました」
依里佳は一応、やんわりと反論はしておいた。それが彼女たちに響いているのかどうかは別として。
(っていうか、私にあれこれ言うヒマがあるなら仕事してほしいわ、ほんとに……)
仕事を中断したり課を越えてまで顔を出したりして嫌味を言いに来る価値が、私にあると思っているのかしら――依里佳は首を傾げた。
とはいえ、いつまでも気にしていても仕方がないので、自分の仕事に集中することにする。客先に出向いている同僚からの電話を受けてデータを送ったり、企画の草案を練ったり、関係部署から回ってきた報告書に目を通したりと忙しく働いていると、声をかけられた。
「蓮見さん、これだけど。確か企画二課が競合相手について割と綿密に調査していたから、資料借りてきて参考にしてみるといいかも」
「あ、はい、分かりました」
営業企画一課の課長・橋本は、依里佳のことをよく理解して普通に接してくれる数少ない男性である。過去に三女子の言動を知り、彼女たちに注意しようとしてくれたのも彼だ。
しかし彼女たちが『課長までたらし込んでいる』などと吹聴し始めたため、依里佳は橋本に、自分を庇ってくれなくていい、と申し出た経緯があった。
依里佳は席を立ち、営業企画二課へと向かう。二課にはミッシェルがいる。声をかけたところで昼休みのチャイムが鳴ったので、美沙も誘って食堂へ移動した。
「へぇ~、水科くんって依里佳と同じ駅だったんだぁ」
「ん」
「企画一課の有名人二人が同じところに住んでるとか知られたら、また誰かさんたちの格好の餌食になりますなぁ、依里佳」
日替わり定食の焼きサバを口にしながら驚くミッシェル、オムライスを頬張りながら頷く依里佳、チキンカレーを掬いながらからかう美沙――この三人が仲良くなったのは、新人研修の時だ。
依里佳はその頃にはすでに有名人と化していた。それはミッシェルも同様で、顔を合わせた瞬間に同類であることを感じ取った二人は、『同志よっ!』と、固く抱きしめ合ったのだった。
美沙は顔の造作では二人に及ばないものの、スタイルのよさは同期一で、特にGカップの胸は男性だけでなく、女性の注目も集めている。ウエストがきゅっとくびれ、ラテン系女性のような美尻を誇っているため、三人の中でもっともいかがわしい視線を受けてしまっていた。
しかし美沙はそんなことには慣れっこ、といった様子で気にする風でもない。三女子から嫌味を言われても、『私のスタイルのよさがあなた方に迷惑をかけたかしら?』と言い放ち、彼女たちを黙らせていた。それを見た依里佳とミッシェルが、美沙を師匠と仰いで懐く形になったのも当然の流れである。
それから二年経ち、ミッシェルは今ではだいぶ美沙に感化され、見た目で何かを言われても、『はいはーい、嫉妬乙!』くらいは返せるようになったし、三女子にも嫌味で対抗出来るようになった。
依里佳はまだミッシェルほど開き直れてはいないものの、そこそこの反論なら出来るようになり、屋上でストレス解消することも覚えたためか、滅多に凹むことがなくなった。
「――ねぇねぇ知ってる? 企画一課の水科くんがうちの持株会社の社長の息子だって噂があるの」
突如として三人の耳に入って来たひとこと。女性社員たちが、食事をしながら噂話を始めたのだ。
「え、そうなの? でも社長の名前って『海堂』でしょ」
女性社員の一人が尋ねる。
依里佳たちが勤務する会社は『海堂ホールディングス』傘下の『海堂エレクトロニクス』というIT企業だ。ホールディングス現社長は海堂義孝といい、創業者の孫に当たる。
「でも海堂社長と水科くんってどことなく似てるから、実は隠し子なんじゃないか、って」
「マジでぇ?」
「あ、でも誰かが水科くんに聞いてみたら、笑って否定されたって」
「だろうねぇ。仮に隠し子っていうのが本当だとしても、聞かれて認めるわけないじゃん」
「何かその話、嘘くさ~い」
「まぁ、あくまでも噂、だからね」
「ねぇねぇそれより! 今日ね、技術研の織田さんが来てたよ~。相変わらずイケメンだった~」
女性社員たちは、何事もなかったかのように次の話題に移っていった。
それを黙って聞いていた依里佳たちは、顔を見合わせて苦笑する。
「水科くんも大変だよねぇ……」
三人が同時に呟いた。
「あ、そうだ。依里佳に言わなきゃと思ってたことがあったんだわ」
美沙がパン、と手を合わせて切り出した。
「ん? どうしたの?」
「この間、弟がスマホゲームやってて、私に画面を見せてくるから何かと思ったら、そのゲームキャラが依里佳に激似でさぁ! 思わず弟にスクショ送ってもらっちゃったわ。見て見て」
美沙がスマートフォンのアプリを開き、弟から送られたという画像を拡大した。
「あれまぁ、ほんとそっくり」
ミッシェルが目を丸くする。
そこにいたのは、ロココ調ドレスを身につけて、レースをふんだんに使ったパラソルを手にしたCGキャラクターだった。
たれ目がちの大きな瞳、左目の下の泣きぼくろ、ダークブラウンのショートボブヘア――依里佳とまったく同じパーツを持つ少女が、そこにいた。自分でも納得のそっくり度合いだ。
「わ、ほんとに似てる……」
「でさ、聞いて驚け、このキャラの名前、東雲エリカって言うらしいの。しかも女王様キャラだからってことで、ファンからは『エリカ様』と呼ばれているらしいわ」
「あらら、名前まで一緒なのに性格は全然違うねぇ。ねぇ? エリカ様?」
「ちょっとやめてよ、ミッシェル」
依里佳はからかってくるミッシェルの腕をつついた。
「まさかとは思うけど、あんたがモデルとかじゃないわよね?」
「そんなわけないでしょ~」
美沙の問いを一笑に付した後、依里佳はふと黙り込んだ。
(エリカ様、ねぇ……。あ、そういえば……)
ふと彼女の脳裏に、何ヶ月も前の出来事がよみがえる。
昨年の秋のことだった。『りゅううさ』のきぐるみイベントが都内で開催されるということで、依里佳も翔を連れて出かけていた。人気声優が出演するとかで、会場は声優ファンであふれ返り、ほんわかした世界観の作品にしては、随分と熱狂的なイベントだったのを今でも覚えている。
何とか翔を守りつつ最後まで観覧していたのだが、隣に立っていた中学生くらいの女の子が帰ろうとする人の波に押されて転んでしまったのだ。依里佳はとっさにその子を助け、普段から翔のために持ち歩いているファーストエイドキットで、彼女の擦りむいた膝の応急処置をしたのだった。
その時の女の子が呆然としながら『エリカ様……』と呟いていたのを思い出す。初めは自分が呼ばれたのかと思ったが、名前は教えていないはずだし、ましてや初対面の相手に『様』なんて敬称をつけて呼ばれる覚えもなかった。だから気のせいだと思って聞き流したのだけれど。
(もしかして、あの時の子も『エリカ様』のファンだったのかなぁ……)
確かとても可愛らしい子だったと記憶している。
ゲーム自体に興味はなかったが、自分に似ているキャラがいるならちょっとやってみようかな――などと考えつつ、昼食を済ませた依里佳は、ミッシェルに借りた資料を抱えて部署に戻った。
「蓮見さん、渡し忘れた資料があるって、松永さんから預かってきました」
彼女の後を追うように、水科がクリアケースに入った書類を持ってやって来た。
「あ、ありがとう、わざわざごめんね」
「いえいえ、全然わざわざじゃありませんよ。二課に用事があって行ったら、松永さんに捕まっただけです」
「あはは、それは運が悪かったね」
「松永さん、ああ見えて力強いんですもん、ネクタイ引っ張られて首が絞まっちゃいましたよ」
「あー、ミッシェルは空手やってたからねぇ」
職場で男性社員とこんな風に和気あいあいとした会話を交わすのは、何ヶ月ぶりだろう。昨日、水科が『どんどん声かけてください』と言ってくれたので、それに甘えて普通に会話を続けてみたのだが、やってみると意外と解放感があり、いい気分転換になった。
三女子の内の二人が背後からこちらを睨めつけているのが、見なくても分かる。けれど、彼女たちを気にして萎縮するのもなんだか違う気がして。
少しずつ、普通の状態に戻していけたらいいな、と思う。
――思ってはいたのだが。
「媚売っちゃって、いやらしいの」
「水科くん、可哀想~」
ぼそりと呟く声が耳に入って来て、思わずため息がこぼれる。
(……はぁ、私もまだまだ修行が必要だわ)
仕事を一段落させると、依里佳は席を立って倉庫に向かった。一番奥の棚に隠された扉をくぐって鉄骨階段を上り、屋上に通じる扉を開ける。どっと風を受けながら外へ出て、いつもの場所へと足を運んだ。すると――
「あれ……」
誰もいないはずの屋上に見えた人影は、紛うことなき、水科だった。
「どうして……」
棚を動かした形跡はなかった。彼は一体どこからここへ辿り着いたのだろう。
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