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恋は秋菊の香り
其れゆるく其れゆるくせんや、既にすみやかならん。逃げるときはのんびりせずにさっさと去ろう!
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「その女官がお前を一人で囲い込んで連れだした理由なんぞ、ひとつだ。お前をくどくためだ。身請けしてほしかったのだろうよ。ところがお前は何を言っても乗ってこん。お涙ちょうだいまで演出するとは、この女も必死だったのだろうよ。それさえも気づかず、お前は女の媚態を都合良く受け取っておきれいにしているだけだ、その女官も哀れなものだ。女は西へ行こうと言う。己の故郷は西だ、と言い切る狄は、西戎の可能性が高い。まあ、本人に答えを確かめようがないが、我が君が買い付けるほどの商人が扱う奴隷だ。狄でもある程度格が高かろう」
狄女の出身地に関する推測はともかく、品性が卑しかったと言われたようで趙武はふくれっつらで俯いた。
視界に、惨い姿の狄女が映る。ほんのひととき話したていどの、名もしらぬ、奴隷の女である。何故か見とれてきた顔、凶事に怯える瞳、ぐいぐいと寄ってくるような空気、いきなりの笑顔や悲しむ姿。
少女というものは、かくもめまぐるしいものか、と趙武に教えて、とうとつに死んだ。色素の薄い肌を血で汚し、幼げに見えた顔は半分叩きつぶされている。
「あの望郷に薄汚い計算があったと思えないです」
趙武は惨い死体から目をそらしたり、じっと見たりをくり返しながら、ふてくされたように言った。この青年は、えげつない死体を見たくないという本能と、女官が哀れだという誠実さで妙な行動をくり返している。
士匄は、挙動不審の趙武の言葉に、心底呆れた。
「計算などあるか。趙孟。女がくどくも、弱みを見せるも、計算ではない本能だ。が、この女官がお前にそれをしたのは、どうも不自然……。まあ、いい。行くぞ」
立ち去ろうとした士匄の服を、趙武が即座に掴んだ。幼児の仕草であった。感傷か、むずがっているのか。士匄がオボコの非礼にどなってやろうと振り向くと、趙武が蒼白な顔をして、この死体、と呟く。
「……あの。范叔。この女官の体。顔。かおが、叩き潰されているんです。一息に大きなもので打ち潰したものでは、ないです。この、くらいの大きさのものが、何度も何度も、何度も何度も叩きつけられて潰れて、る」
服を掴んでいないほうの手で握り拳を作りながら、趙武が震える声で言った。彼の手は男のくせに細く小さい。まるで女の手である、大きさも含めて。
士匄は狄女の体をもう一度、見た。引き裂かれたのは、腕と腿である。これは、歩けないようにするもの、と士匄は思っていた。それは、きっと確かだ。山に捨て置く、戻れぬようにするなら手足を斬るのが一番である。その腕と腿は切り裂かれてはいなかった。衛女と同じように、こじ開けられている。むしり取ったように、こじ開けられている。
趙武が士匄から手を離すと、さっと座って狄女の体に手を伸ばした。打撲のあと、裂かれた傷に手を這わせる。不浄そのもの、瘴気が趙武につたっていく。士匄は眉をひそめた。
「趙孟、何を――」
「やっぱり、私の手で合わせるとわかりやすいです。あなたはご覧になられましたでしょうが、わかったとなって、重くお考えになっていないのでしょう。私もこれが重要かなんてわかりません。この女官の頭を潰したのも、肉を裂いたのも、手、ではないでしょうか。私と同じくらいの……この女官と同じくらいの大きさの、手ではないでしょうか。ひとつの手でなく、たくさんの」
趙武が血に汚れた手をそのままに、厳しい眼差しを向けてくる。士匄は趙武の言わんとしているところがわかり、口はしをゆがめた。
元々、呪殺であろう、というのが士匄と趙武の共通見解である。これは、現代で言わば同一犯の刺殺事件だろう、と思う程度のことである。しかし、趙武の言葉にはさらに推測が付け加えられる。
集団によるものではないか。
もしくは、集団を使っているのではないか。
一人の人間の恨み辛みによる呪いではなく、集団で淫祠を行っているのではないか。もしくはそのようにそそのかしているのではないか。
前述しているが、淫祠は文明的ではない、民間宗教である。それはインチキ宗教やカルト的な信仰に繋がりやすく、また、組織の腐敗にも繋がる。
例えば、逆らえば神の生け贄にするぞ、と淫祠と地方官が手を組む逸話もある。宮中の奴隷の間でそのようなものが浸透しているとなれば、とんでもない問題であった。
「新たに入れ込んだ女官の中に、淫祠がいる。考えられる話だな」
商品票を護符だと喜んでいた衛女を思い出す。お守り、祟りという二つの言葉で民は簡単に言いくるめられるものであった。
「もしくは、みなさまの心を惑わす方。口に出したり動くわけではなく、いるだけで不祥を振りまく方がおられると、范叔は以前おっしゃってた」
狄女をもっこで丁寧に包みながら趙武が言った。
そこにいるだけで周囲を不幸にする、不祥の人間。その推測は、誰も悪意が無いという前提であった。甘ちゃんめ、と士匄は肩をすくめると、手で促して歩き出した。趙武が立ち上がり、後に続く。
「お前の言う不祥のものは、瘴気がえぐい。わたしはそのようなものを見てはいない。あんなものと同じ屋根の下でいるだけで吐くわ。淫祠にせよ不祥の人間でも、我らの手に余る。僕大夫に言上する」
「はい。韓主は何事も動じず冷静に対処するかたです。韓伯にお願い致しましょう」
僕大夫、韓主、すなわち韓無忌の父韓厥である。冷静さ、公平さ、そして恐ろしいほどの有能さで、事態を収めてくれるであろう。
大人にばれないよう、おおごとにならぬようなどと言っている場合ではない。本当に淫祠による集団ができあがっているのであれば、晋公の余計な与党になりかねない。うさんくさい私兵を従えた晋公と、貴族集団を束ねる卿たちの対決など、地獄である。若輩の大臣候補には確かに手が余る。
――杞憂なら、良いのであるが。
士匄と趙武は同じことを思いながら宮中の奥から出ようと歩いていく。この当時の『後宮』も門が出入り口である。士匄たちは、そちらへ向かって、確かに歩いていった――はずだった。
「……私たち、どうして逆へ歩いてしまったのでしょうか?」
門が見えていたはずなのに、別の堂へと渡り、歩き続け、趙武が困惑し問うた。士匄は応じず、趙武を掴むと改めて外へ向かう。こうなれば、庭を越え、出て行っても良い。門だろうが垣根だろうが、とりあえず出るしかない。
しかし、向けていた足は何故か左折したり右折したり、目の前に門があるのに後ろにふり返って歩き出したりと、士匄と趙武は何故か外に出ようとしなかった。
外に出ようと思っているのに、何故か、できない。茫然とする趙武を無視して、士匄は通りすがりの女官たちに怒鳴りつける勢いで命じた。
「我ら卿の嗣子はお役目により政堂に向かわねばならぬ。ここは我が君のお住まいのところ、勝手に進むわけにはいかぬ。お前たち、案内せよ」
男の大きな声に女官たちはびくりと震えた。男の裂帛の声というものは、女にとっては怪物の吼え声に等しい。
さてそれはともかく、こわばっていた女官たちは少し考え込んだあと、不思議そうに首をかたむけた。みな、同じ仕草でするものだから、趙武には花畑のように見えた。
「おそれいります、大夫さま。そういえば、お外にはどのように行けば良いのでしょうか」
わたしたち、どうやって出入りしていたのかしら。
趙武は茫然とし、士匄は舌打ちをした。――やられた。
「誰か知らん、場を固定しやがった!」
どのような技、どのような咒であるか。そのようなことはどうでもよい。士匄と趙武は、閉じ込められた。
狄女の出身地に関する推測はともかく、品性が卑しかったと言われたようで趙武はふくれっつらで俯いた。
視界に、惨い姿の狄女が映る。ほんのひととき話したていどの、名もしらぬ、奴隷の女である。何故か見とれてきた顔、凶事に怯える瞳、ぐいぐいと寄ってくるような空気、いきなりの笑顔や悲しむ姿。
少女というものは、かくもめまぐるしいものか、と趙武に教えて、とうとつに死んだ。色素の薄い肌を血で汚し、幼げに見えた顔は半分叩きつぶされている。
「あの望郷に薄汚い計算があったと思えないです」
趙武は惨い死体から目をそらしたり、じっと見たりをくり返しながら、ふてくされたように言った。この青年は、えげつない死体を見たくないという本能と、女官が哀れだという誠実さで妙な行動をくり返している。
士匄は、挙動不審の趙武の言葉に、心底呆れた。
「計算などあるか。趙孟。女がくどくも、弱みを見せるも、計算ではない本能だ。が、この女官がお前にそれをしたのは、どうも不自然……。まあ、いい。行くぞ」
立ち去ろうとした士匄の服を、趙武が即座に掴んだ。幼児の仕草であった。感傷か、むずがっているのか。士匄がオボコの非礼にどなってやろうと振り向くと、趙武が蒼白な顔をして、この死体、と呟く。
「……あの。范叔。この女官の体。顔。かおが、叩き潰されているんです。一息に大きなもので打ち潰したものでは、ないです。この、くらいの大きさのものが、何度も何度も、何度も何度も叩きつけられて潰れて、る」
服を掴んでいないほうの手で握り拳を作りながら、趙武が震える声で言った。彼の手は男のくせに細く小さい。まるで女の手である、大きさも含めて。
士匄は狄女の体をもう一度、見た。引き裂かれたのは、腕と腿である。これは、歩けないようにするもの、と士匄は思っていた。それは、きっと確かだ。山に捨て置く、戻れぬようにするなら手足を斬るのが一番である。その腕と腿は切り裂かれてはいなかった。衛女と同じように、こじ開けられている。むしり取ったように、こじ開けられている。
趙武が士匄から手を離すと、さっと座って狄女の体に手を伸ばした。打撲のあと、裂かれた傷に手を這わせる。不浄そのもの、瘴気が趙武につたっていく。士匄は眉をひそめた。
「趙孟、何を――」
「やっぱり、私の手で合わせるとわかりやすいです。あなたはご覧になられましたでしょうが、わかったとなって、重くお考えになっていないのでしょう。私もこれが重要かなんてわかりません。この女官の頭を潰したのも、肉を裂いたのも、手、ではないでしょうか。私と同じくらいの……この女官と同じくらいの大きさの、手ではないでしょうか。ひとつの手でなく、たくさんの」
趙武が血に汚れた手をそのままに、厳しい眼差しを向けてくる。士匄は趙武の言わんとしているところがわかり、口はしをゆがめた。
元々、呪殺であろう、というのが士匄と趙武の共通見解である。これは、現代で言わば同一犯の刺殺事件だろう、と思う程度のことである。しかし、趙武の言葉にはさらに推測が付け加えられる。
集団によるものではないか。
もしくは、集団を使っているのではないか。
一人の人間の恨み辛みによる呪いではなく、集団で淫祠を行っているのではないか。もしくはそのようにそそのかしているのではないか。
前述しているが、淫祠は文明的ではない、民間宗教である。それはインチキ宗教やカルト的な信仰に繋がりやすく、また、組織の腐敗にも繋がる。
例えば、逆らえば神の生け贄にするぞ、と淫祠と地方官が手を組む逸話もある。宮中の奴隷の間でそのようなものが浸透しているとなれば、とんでもない問題であった。
「新たに入れ込んだ女官の中に、淫祠がいる。考えられる話だな」
商品票を護符だと喜んでいた衛女を思い出す。お守り、祟りという二つの言葉で民は簡単に言いくるめられるものであった。
「もしくは、みなさまの心を惑わす方。口に出したり動くわけではなく、いるだけで不祥を振りまく方がおられると、范叔は以前おっしゃってた」
狄女をもっこで丁寧に包みながら趙武が言った。
そこにいるだけで周囲を不幸にする、不祥の人間。その推測は、誰も悪意が無いという前提であった。甘ちゃんめ、と士匄は肩をすくめると、手で促して歩き出した。趙武が立ち上がり、後に続く。
「お前の言う不祥のものは、瘴気がえぐい。わたしはそのようなものを見てはいない。あんなものと同じ屋根の下でいるだけで吐くわ。淫祠にせよ不祥の人間でも、我らの手に余る。僕大夫に言上する」
「はい。韓主は何事も動じず冷静に対処するかたです。韓伯にお願い致しましょう」
僕大夫、韓主、すなわち韓無忌の父韓厥である。冷静さ、公平さ、そして恐ろしいほどの有能さで、事態を収めてくれるであろう。
大人にばれないよう、おおごとにならぬようなどと言っている場合ではない。本当に淫祠による集団ができあがっているのであれば、晋公の余計な与党になりかねない。うさんくさい私兵を従えた晋公と、貴族集団を束ねる卿たちの対決など、地獄である。若輩の大臣候補には確かに手が余る。
――杞憂なら、良いのであるが。
士匄と趙武は同じことを思いながら宮中の奥から出ようと歩いていく。この当時の『後宮』も門が出入り口である。士匄たちは、そちらへ向かって、確かに歩いていった――はずだった。
「……私たち、どうして逆へ歩いてしまったのでしょうか?」
門が見えていたはずなのに、別の堂へと渡り、歩き続け、趙武が困惑し問うた。士匄は応じず、趙武を掴むと改めて外へ向かう。こうなれば、庭を越え、出て行っても良い。門だろうが垣根だろうが、とりあえず出るしかない。
しかし、向けていた足は何故か左折したり右折したり、目の前に門があるのに後ろにふり返って歩き出したりと、士匄と趙武は何故か外に出ようとしなかった。
外に出ようと思っているのに、何故か、できない。茫然とする趙武を無視して、士匄は通りすがりの女官たちに怒鳴りつける勢いで命じた。
「我ら卿の嗣子はお役目により政堂に向かわねばならぬ。ここは我が君のお住まいのところ、勝手に進むわけにはいかぬ。お前たち、案内せよ」
男の大きな声に女官たちはびくりと震えた。男の裂帛の声というものは、女にとっては怪物の吼え声に等しい。
さてそれはともかく、こわばっていた女官たちは少し考え込んだあと、不思議そうに首をかたむけた。みな、同じ仕草でするものだから、趙武には花畑のように見えた。
「おそれいります、大夫さま。そういえば、お外にはどのように行けば良いのでしょうか」
わたしたち、どうやって出入りしていたのかしら。
趙武は茫然とし、士匄は舌打ちをした。――やられた。
「誰か知らん、場を固定しやがった!」
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