君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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32話 胸の奥の棘

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ローンチイベント当日。

都内の高級ホテル、メインホールには150名の業界関係者とメディアが集まっていた。春菜が企画した通り、洗練された装飾でKITE社のコーポレートカラーが効果的に使われている。

「春菜さん、受付の準備完了しました」

「ありがとう。パネルディスカッションの資料配布も確認して」

運営スタッフとして動き回る春菜。自分が企画したイベントが形になっていく達成感と、緊張感で胸がいっぱいだった。

そのとき、会場の入口から蒼真と香澄が並んで現れた。

蒼真は濃紺のスーツに身を包み、香澄は上品なベージュのドレスを着ている。まさに、会社の顔となるカップルとしての装いだった。

(……やっぱり、お似合いなんだ)

春菜の胸が、きゅっと締めつけられる。頭では分かっていても、実際に目にすると心が揺れる。でも、運営スタッフとしての笑顔を崩すわけにはいかない。

「高瀨社長、香澄さん、お疲れさまです。本日はよろしくお願いいたします」

「春菜さん、準備ありがとうございます。素晴らしい会場ですね」

香澄が微笑みながら言った。その笑顔に、春菜は複雑な気持ちになる。

蒼真は一瞬、春菜の表情を気にするような視線を送ったが、すぐに視線を逸らした。

「ありがとうございます。それでは、開始10分前にお声がけしますので」

春菜は仕事としての対応を続けた。蒼真の微妙な気遣いに気づいて、胸の奥がさらに複雑になる。

---

基調講演が始まった。ステージ上で新サービスについて語る蒼真の姿は、いつも以上に輝いて見えた。

客席の最前列に座る香澄が、誇らしげに見つめている。

(この企画を提案して良かった……でも)
そう思った瞬間、胸の奥に小さな棘のような痛みが走る。

蒼真の言葉が、心の奥で静かに響いていた。
『僕の気持ちは、あなたに向かっている』

でも、現実は違う。彼は今、香澄の前で完璧な婚約者を演じている。

春菜は会場の隅で、進行表を持つ手にわずかに力を込めた。
達成感と、どうしようもない切なさが、同じ場所で渦を巻いていた。

続いてパネルディスカッション。春菜が選んだ登壇者たちが、活発に議論を交わしている。会場からも積極的な質問が飛んでいた。

「成功ですね」

隣に立っていた成瀬が、小さく声をかけてきた。

「……うん。みんなが頑張ってくれたから」

「春菜さんの企画力のおかげですよ。高瀬社長も、すごく満足そうじゃないですか」

ステージを見ると、蒼真が満足そうに頷いている姿が見えた。でも、春菜にはそれが演技にも見えてしまう。

(本当の彼の気持ちは、どこにあるんだろう……)

---

交流会が始まると、春菜は会場を見回りながら各ブースの様子を確認していた。個別相談ブースでは、新サービスに関心を示す参加者への対応が活発に行われている。

ふと顔を上げると、少し離れた場所で蒼真と香澄が並んで立っているのが見えた。香澄が蒼真の腕に軽く手を添えながら、参加者と談笑している。

でも、春菜には分かってしまった。蒼真の笑顔が、どこかぎこちないことを。

(あの夜に言ってたこと、本当だったんだ……)

胸が痛む。彼も苦しんでいるのだと分かったから。

「春菜さん、お疲れさまでした」

交流会の終盤、蒼真が一人で近づいてきた。香澄の姿は見えない。

「高瀬社長。素晴らしいイベントになりましたね。新サービスへの反響も上々のようで」

「君の企画のおかげです。本当に、ありがとう」

蒼真の目に、深い感謝の色が浮かんでいた。でも、その奥に申し訳なさも混じっているのを春菜は感じ取った。

「それでは、片付けがありますので」

春菜は会釈して、その場を離れようとした。

「春菜さん」

呼び止められて振り返ると、蒼真が少し苦しそうな表情を浮かべていた。

「……今日は、本当にありがとうございました。そして……」

彼は言いかけて、口をつぐんだ。きっと、言いたいことはたくさんあるのだろう。でも、この場では言えない。

「こちらこそ。では、失礼します」

春菜は最後まで、仕事としての笑顔を保った。でも、心の奥では蒼真の複雑さを理解していた。

---

イベント終了後、春菜は会場の片付けを手伝いながら、静かに達成感に浸っていた。

「春菜さん、本当にお疲れさまでした!」

成瀬をはじめとする同僚たちが、労いの言葉をかけてくれる。

「みんなのおかげです。ありがとうございます」

笑顔で応えながら、春菜の心は不思議と穏やかだった。

ホテルを出ると、夜風が頬を撫でた。
昼間の熱気が嘘のように引き、空には細い月が浮かんでいる。

(頑張った。本当に、よく頑張った)

胸の奥で何度もそう繰り返す。
達成感と、まだ整理しきれない想い。
そのどちらもが心を満たし、そして空っぽにした。

完全に諦められるわけではない。蒼真の苦しみを理解できたからこそ、余計に彼のことを想ってしまう自分がいる。

(どうすればいいんだろう……)

頭では分かっている。
でも、心はまだ彼を求めてしまう。気づけば、頬を伝うものがあった。 

それが涙だと分かったのは、駅前の明かりが滲んで見えたときだった。それは諦めの涙でも、絶望の涙でもなかった。ただ、どうしようもない想いを抱えた、混乱の涙だった。
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