君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

文字の大きさ
65 / 103

65話 水族館の午後とベルーガの視線

しおりを挟む
休日の午後――。
蒼真と春菜は、水族館を訪れていた。青い光に包まれた回廊を歩くと、大きな水槽の中を魚の群れがきらめきながら流れていく。二人の足音だけが静かに響き、まるで別世界に迷い込んだようだった。

「私、水族館って、久しぶりです」
春菜が水槽に手を添えて、ゆらめくクラゲを見上げる。

「そうか。じゃあゆっくり楽しもう。普段とは違う環境で、なんだか新鮮だ」
蒼真の言葉に、春菜の頬はほんのり熱を帯びる。視線を魚へと移すが、胸に強く残るのは隣にいる彼の存在だった。

二人は並んで歩きながら、自然と手が触れ合いそうな距離を保つ。春菜の心が少し弾み、水のゆらめきと静けさに包まれた。二人の距離は自然と近づいていった。

---

やがて、ベルーガの大水槽の前へ。柔らかな光を反射しながら、白い姿がゆっくりと横切っていった。

春菜と蒼真は、思わず顔を見合わせて笑った。それでも、互いの視線はすぐに絡まり合う。胸の奥で熱が募り、彼の顔がゆっくりと近づいて――

「……っ」
春菜は反射的に目を閉じた。

そのとき。
ベルーガが興味を引かれたように、ふわりと近づいてくる。こちらを覗き込むように視線を向けてきた。大きな瞳に真っ直ぐ射抜かれるように見つめられ、二人は思わず息を呑み、動きを止めた。

「……見てる?」
春菜が小声で囁くと、蒼真も苦笑する。
「完全に、見られてるな」

ふっと笑いが込み上げ、自然と手が蒼真の腕に触れた。赤くなった頬を隠すように視線を逸らすと、蒼真も苦笑していた。
二人は互いに意識しながら、少し照れくさそうに笑い合う。心臓の鼓動が、まだ収まらない。

---

帰り、春菜が土産コーナーでイルカのストラップを見つめ、にっこり笑った。
「これ、可愛い……蒼真さん、一緒にどうですか?」

春菜は心の中で(蒼真さん、こんな可愛いのつけないよね)と思いながら口にした。
だが蒼真は少し微笑み、手を差し出しながら、ぽつりと小さな声で言った。
「……じゃあ」

春菜は一瞬、驚き確かめるように見つめ返す。
蒼真はそのままストラップを買い、彼女の手のひらにそっと置き、軽く手を触れた。
「これを」

春菜の頬がほんのり赤く染まり、照れたように小さく笑う。
「ありがとうございます……」

二人の間に、言葉にせずとも伝わる温かい気持ちが静かに流れた。
イルカのストラップが、小さなデートの思い出の証のように、二人の手の間にあった。

---

帰宅後、春菜はバッグからストラップを取り出した。
掌に収まる小さなイルカを見つめ、今日の思い出を噛み締める。
ベルーガに邪魔されたことも、蒼真と過ごす時間も、全部が愛おしい思い出になる――そう思いながら、春菜はそっとストラップを握った。

胸の奥で、蒼真との距離がより近くなった温かさが静かに広がる。
明日も会えるのに、もう会いたい――そんな気持ちが自然に芽生えて、春菜は微笑むしかなかった。

---

一方その頃、蒼真もまた、自宅の机の上に同じイルカのストラップを置いていた。
普段の自分なら選ばない、少し可愛らしすぎる小物。
だが視線を落とすたび、笑っていた春菜の顔、青い光に包まれてはにかんだ横顔が鮮明に蘇る。

春菜が受け取ったストラップと、この小さなイルカが、二人の時間を繋いでいる。
それだけで胸の奥に静かな熱が灯り、心が柔らかく満たされていく。

蒼真はストラップに指先を触れ、ふっと息をついた。
(……また一緒に行きたい。今度は、邪魔が入らないといいな)

そう願いながら、彼は穏やかな気持ちで目を閉じた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

皇宮女官小蘭(シャオラン)は溺愛され過ぎて頭を抱えているようです!?

akechi
恋愛
建国して三百年の歴史がある陽蘭(ヤンラン)国。 今年16歳になる小蘭(シャオラン)はとある目的の為、皇宮の女官になる事を決めた。 家族に置き手紙を残して、いざ魑魅魍魎の世界へ足を踏み入れた。 だが、この小蘭という少女には信じられない秘密が隠されていた!?

氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。 彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。

皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる

若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ! 数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。 跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。 両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。 ――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう! エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。 彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。 ――結婚の約束、しただろう? 昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。 (わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?) 記憶がない。記憶にない。 姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない! 都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。 若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。 後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。 (そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?) ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。 エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。 だから。 この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し? 弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに? ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。

お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚

ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。 五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。 ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。 年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。 慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。 二人の恋の行方は……

【完結】孤高の皇帝は冷酷なはずなのに、王妃には甘過ぎです。

朝日みらい
恋愛
異国からやってきた第3王女のアリシアは、帝国の冷徹な皇帝カイゼルの元に王妃として迎えられた。しかし、冷酷な皇帝と呼ばれるカイゼルは周囲に心を許さず、心を閉ざしていた。しかし、アリシアのひたむきさと笑顔が、次第にカイゼルの心を溶かしていき――。

【完結】ルースの祈り ~笑顔も涙もすべて~

ねるねわかば
恋愛
悪路に閉ざされた貧しい辺境ルースライン領。 兄を支えたい子爵令嬢リゼは、視察に来た調査官のずさんな仕事に思わず異議を唱える。 異議を唱えた相手は、侯爵家の子息で冷静沈着な官吏ギルベルト。 最悪の出会いだった二人だが、領の問題に向き合う中で互いの誠実さを知り、次第に理解し合っていく。 やがてリゼが王都で働き始めたことを機に距離を縮める二人。しかし立ちはだかるのは身分差と政略結婚という現実。自分では彼の未来を縛れないと、リゼは想いを押し込めようとする。 そんな中、故郷の川で拾われる“名もなき石”が思わぬ縁を呼び、リゼの選択と領の未来を動かしていく――。 想いと責務の狭間で揺れる青年と、自分を後回しにしがちな少女。 すれ違いと葛藤の先で、二人は互いを選び取れるのか。 辺境令嬢の小さな勇気が恋と運命を変えていく。 ※作中の仕事や災害、病、小物の知識などは全てフィクションです。史実や事実に基づいていないことをご理解ください。 ※8万字前後になる予定です。

助けた騎士団になつかれました。

藤 実花
恋愛
冥府を支配する国、アルハガウンの王女シルベーヌは、地上の大国ラシュカとの約束で王の妃になるためにやって来た。 しかし、シルベーヌを見た王は、彼女を『醜女』と呼び、結婚を保留して古い離宮へ行けと言う。 一方ある事情を抱えたシルベーヌは、鮮やかで美しい地上に残りたいと思う願いのため、異議を唱えず離宮へと旅立つが……。 ☆本編完結しました。ありがとうございました!☆ 番外編①~2020.03.11 終了

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

処理中です...