君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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8話 ふたりの温度

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打ち合わせ当日、春菜はやや早めにKITE社へ到着した。
まだ会議室の照明は落ちていて、静けさが張り詰めた空気をつくっていた。

(……少し緊張してるのかな)

それでも、前回とは違う。蒼真とちゃんと会話ができたという小さな自信が、背中を押してくれる。

まもなく会議室のドアが開き、蒼真が姿を見せた。

「おはようございます、水沢さん。早いですね」

「おはようございます。すみません、ちょっと気合い入れすぎちゃって」

軽く笑った春菜に、蒼真はいつもと変わらない穏やかな表情を浮かべた──ように見えた。

けれど、ふとした瞬間、その目がどこか遠くを見ているように感じたのは、気のせいだろうか。

会議は順調に進み、資料の確認も滞りなく終わった。
仕事としては、何の問題もない。けれど、春菜の中にひとつだけ、言葉にならない引っかかりが残った。

──なんだろう。あの人の目、少しだけ、寂しそうだった。

---

その日の午後、オフィスに戻った春菜は、PCに向かいながらも落ち着かない気持ちを抱えていた。

優斗とのLINEを開いてみる。昨日から既読はついているのに、返事がない。

堀井が後ろから声をかけた。

「KITEの件、おつかれ。順調そうじゃん」

「ありがとうございます。高瀬社長も、すごく丁寧に見てくださって……」

「へえ、あの人が? ちょっと意外」

「意外……ですか?」

「冷静っていうか、感情出すタイプじゃないっていう印象だったから。誰かに特別に丁寧とか、ちょっと不思議」

春菜は、それを聞いてはっとした。

──特別。そう、あの人のあの視線は、たしかに少しだけ特別だったのかもしれない。
でもそれが「仕事相手として」なのか、それとも──。

わからない。でも、気になってしまう。
気にしちゃいけないとわかっていても。

---

その夜、春菜は久々に優斗の家を訪ねた。
インターホンを押すと、優斗は少し驚いたような声で出た。

「春菜?」

「会えるかなって思って……迷惑だった?」

「ううん、全然。上がって」

どうやら寝ていたようで、まだ寝ぼけた様子の優斗がドアを開けた。髪が少し乱れていて、目をこすりながら春菜を迎え入れる。

「ごめん、ちょっと疲れてて」

「大丈夫? 最近、連絡も少ないし……何かあった?」

優斗は一瞬、困ったような表情を見せた。

「……別に、何もないよ。ただ、仕事が忙しくて」

春菜がキッチンに向かい、水を飲みながら後ろを振り返ると、優斗がその場に立ったまま、少し遠慮がちに言った。

「晩ごはん、まだ食べてないでしょ。カレー作ったんだ。温めるよ」

「……ありがとう」

彼の優しさに、春菜の胸がきゅっとなった。でも、どこか距離を感じるのはなぜだろう。

テーブルに二人分の皿が並び、スプーンが軽く鳴る音が響く。

「美味しい」

そう春菜が言うと、優斗はすこし照れくさそうに笑った。

「ルウ、変えてみたんだ。辛口のやつ」

「うん、ちょっと大人っぽい味。好きかも」

しばらく食べ続けながら、春菜は優斗の様子を見ていた。いつもより表情が硬い。何か言いたそうで、でも言えないでいるような。

「……優斗、何か気になることがあるなら、話してくれてもいいよ」

優斗の手が止まった。カレーの匂いがやけに強くなる気がした。

「……気になることって、何が?」

「最近、なんだか優斗が遠くにいるような気がして。私、何か変なこと言っちゃった?」

優斗は視線を落とし、スプーンを皿の端に置いた。

「……変なことなんて、何も言ってない。ただ、俺が……」

そこで言葉を切り、しばらく黙っていた。

「俺が、どうしたいのか、よくわからなくなってるんだ」

春菜は手元の水を口に含み、それからやっと彼の目を見た。

「……一緒にいると落ち着くし、優斗のごはん食べると、安心する。それって、きっと大事なことだよね?」

優斗はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……うん。大事だと思う」

その言葉は確かに優しかった。けれど、どこか遠く感じられた。何かを隠すような響きがあった。

春菜は、自分でも気づかないうちに、小さなため息をついていた。


---

その夜、春菜は久しぶりに優斗の隣で眠った。

くっつきすぎず、でも離れすぎない距離で。

でも優斗は、なかなか寝付けずにいた。春菜の寝息を聞きながら、天井を見つめている。

(……このままでいいのか?)

晃の言葉が頭をよぎる。『誰かの"好き"に曖昧なまま寄り添うのは、やさしさじゃない』

隣で安心しきって眠る春菜を見ていると、胸が痛んだ。この人を傷つけたくない。でも、このままでいることの方が、もっと残酷かもしれない。

---

夜中、ふと目を覚ました春菜は、隣で眠れずにいる優斗の気配を感じた。

(私……いま、誰の目を思い出してるんだろう)

優斗の言葉ではなく。
ふとした瞬間に重なった、蒼真のあの静かな眼差しが、なぜか胸に残っていた。

自分でも理由がわからない。
でも、確かに「何か」が始まりかけている──その予感だけが、今夜は妙に鮮やかだった。

春菜は薄々気づいていた。二人の間に、少しずつ距離ができ始めていることを。
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