君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

文字の大きさ
22 / 103

22話 戸惑いの先に

しおりを挟む
昼下がりのオフィス。来客受付に名前が告げられた瞬間、春菜の胸がわずかに跳ねた。

「高瀬蒼真様がお見えです」

エントランスに向かう足取りは自然を装っていたが、内心は穏やかではなかった。

ガラス越しに見えた蒼真は、いつも通りの落ち着いたスーツ姿。けれどどこか、少しだけ表情が柔らかい気がした。

「お邪魔します」

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

春菜は応接スペースに案内し、ふたりは向かい合って腰を下ろした。

「今日は急にすみません。……どうしても、直接伝えたくて」

そう言って蒼真が差し出したのは、春菜が送った資料に目を通した形跡のあるプリント。いくつかのページに、丁寧に書き込まれた赤字があった。

「非常に良い内容でした。ただ、うちの上層部に説明するには、ここをもう少し簡潔にすると伝わりやすい。……あくまで“中の人間”の視点としてだけど」

「ありがとうございます。参考になります」

春菜は頷きながら、彼の目をそっと見た。

(仕事の話だけじゃない――そう思ってしまうのは、私の思い込み?)

ふと沈黙が訪れる。その数秒が、やけに長く感じられた。

(……やっぱり、私の思い込みだったのかな)

そんな自分が恥ずかしくて、下を向いた。

蒼真はふと時計を見て、小さく息をついた。

「……そろそろ行かないと。水沢さん、今日はありがとう」

蒼真がゆっくりと立ち上がりかけたその瞬間、春菜の口から思わず言葉がこぼれた。

「……あの、私、何か失礼なことをしてしまいましたか?」

蒼真は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、すぐに柔らかく微笑んで首を振る。

「いや、全然。むしろ、助かってます。……ただ、約束があるので」

その優しい口調に、春菜はふと胸の奥がざわついた。

「……その……もしかして、お約束って、結婚のお相手と…ですか?」

自分でもなぜそんなことを聞いたのか分からず、声がしぼむ。

言い終えた瞬間、顔が熱くなるのを感じた。

蒼真は、ほんの少し間を置いて、小さく頷いた。

「……そんなところです」

そう言って、そっと視線を逸らすと、彼は軽く頭を下げ、静かに立ち去っていった。

春菜は、何かを言いかけたまま、その背中をただ見送った。

――やっぱり、どこかで期待してたから、こんなに苦しいんだ。期待なんて、するんじゃなかった……

エレベーターのドアが閉まり、蒼真の姿が完全に見えなくなった瞬間、春菜はそっと息を吐いた。

応接室に残るのは、湯気の消えかけたコーヒーと、資料の束だけ。

(……聞かなければよかった)

けれど、あのまま何も言わずにいたら、もっと苦しくなっていた気がする。

胸に広がるのは、後悔とも、安堵ともつかない、名もなき感情。

それでも――。

(あの人は、嘘をつかなかった)

遠くを見つめるように、春菜はそっと椅子に腰を下ろした。

指先が、ほんのわずかに震えていた。

少しして、デスクに戻った春菜のスマートフォンがかすかに震えた。

メッセージの通知。篠原からだった。

《高瀬社長、お帰りになりました?》

その一文に、春菜の指が止まる。

ためらいながらも返信を打つ。

《はい、先ほど。資料の件でした》

するとすぐに、篠原から返ってきた。

《そうですよね。でも……あの人がああして出向くの、ちょっと珍しいなって。水沢さん、何か言われませんでした?》

少しの沈黙のあと、春菜は悩みながらも返した。

《普通にアドバイスをいただいただけです。でも、少し……個人的なことを聞いてしまったかもしれません》

メッセージを送ったあと、すぐに後悔が押し寄せる。

(なにしてるんだろう、私)

すぐに篠原からの返信が来た。

《えっ、大丈夫? 高瀬社長、嫌な顔してた?》

春菜は思わず微笑んだ。心配してくれる篠原の気遣いが、少しだけ胸に沁みる。

《いいえ。優しかったです。ただ……私のほうが、ちょっと後悔してるだけ》

画面を見つめながら、春菜は小さく呟いた。

「……踏み込みたくなかったのに。気づいたら、心が先に行ってた」

それは、まだ恋と呼ぶには不確かな感情。

でも確かに、彼に惹かれている――そんな自分を、もう否定できなかった。

(……私、なんであんなこと聞いたんだろう)

デスクに戻った春菜は、胸の奥がざわざわするのを抑えきれず、そっと胸元を押さえた。

「結婚のお相手と…ですか?」――あの言葉が、耳の奥で繰り返される。

(プライベートなことだって分かってたのに。仕事の相手に、こんなこと聞くなんて)

理性がそう囁く一方で、心のどこかが反論する。

(でも……知りたかった。知ってしまいたかった)

彼の瞳の奥に浮かんだ、ほんの一瞬の迷いの色。あれを見てしまったからこそ、黙っていられなかった。

けれど――。

(答えてくれたのに。私は、ちゃんと向き合えなかった)

蒼真の「……そんなところです」という曖昧な返答。そしてすぐに視線を逸らして立ち去った、その背中。

言いたくないのか、言えないのか。その理由までは分からない。でも、彼の中に何かがあったことだけは、はっきりと伝わってきた。

――自分は、思っていた以上に、あの人のことを見ようとしていたんだ。

そう気づいた瞬間、春菜はそっと目を伏せた。

まるで自分の中の扉が、ゆっくりと開いたような気がした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

皇宮女官小蘭(シャオラン)は溺愛され過ぎて頭を抱えているようです!?

akechi
恋愛
建国して三百年の歴史がある陽蘭(ヤンラン)国。 今年16歳になる小蘭(シャオラン)はとある目的の為、皇宮の女官になる事を決めた。 家族に置き手紙を残して、いざ魑魅魍魎の世界へ足を踏み入れた。 だが、この小蘭という少女には信じられない秘密が隠されていた!?

氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。 彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。

皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる

若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ! 数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。 跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。 両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。 ――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう! エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。 彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。 ――結婚の約束、しただろう? 昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。 (わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?) 記憶がない。記憶にない。 姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない! 都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。 若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。 後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。 (そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?) ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。 エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。 だから。 この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し? 弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに? ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。

お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚

ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。 五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。 ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。 年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。 慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。 二人の恋の行方は……

【完結】孤高の皇帝は冷酷なはずなのに、王妃には甘過ぎです。

朝日みらい
恋愛
異国からやってきた第3王女のアリシアは、帝国の冷徹な皇帝カイゼルの元に王妃として迎えられた。しかし、冷酷な皇帝と呼ばれるカイゼルは周囲に心を許さず、心を閉ざしていた。しかし、アリシアのひたむきさと笑顔が、次第にカイゼルの心を溶かしていき――。

【完結】ルースの祈り ~笑顔も涙もすべて~

ねるねわかば
恋愛
悪路に閉ざされた貧しい辺境ルースライン領。 兄を支えたい子爵令嬢リゼは、視察に来た調査官のずさんな仕事に思わず異議を唱える。 異議を唱えた相手は、侯爵家の子息で冷静沈着な官吏ギルベルト。 最悪の出会いだった二人だが、領の問題に向き合う中で互いの誠実さを知り、次第に理解し合っていく。 やがてリゼが王都で働き始めたことを機に距離を縮める二人。しかし立ちはだかるのは身分差と政略結婚という現実。自分では彼の未来を縛れないと、リゼは想いを押し込めようとする。 そんな中、故郷の川で拾われる“名もなき石”が思わぬ縁を呼び、リゼの選択と領の未来を動かしていく――。 想いと責務の狭間で揺れる青年と、自分を後回しにしがちな少女。 すれ違いと葛藤の先で、二人は互いを選び取れるのか。 辺境令嬢の小さな勇気が恋と運命を変えていく。 ※作中の仕事や災害、病、小物の知識などは全てフィクションです。史実や事実に基づいていないことをご理解ください。 ※8万字前後になる予定です。

助けた騎士団になつかれました。

藤 実花
恋愛
冥府を支配する国、アルハガウンの王女シルベーヌは、地上の大国ラシュカとの約束で王の妃になるためにやって来た。 しかし、シルベーヌを見た王は、彼女を『醜女』と呼び、結婚を保留して古い離宮へ行けと言う。 一方ある事情を抱えたシルベーヌは、鮮やかで美しい地上に残りたいと思う願いのため、異議を唱えず離宮へと旅立つが……。 ☆本編完結しました。ありがとうございました!☆ 番外編①~2020.03.11 終了

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

処理中です...