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22話 戸惑いの先に
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昼下がりのオフィス。来客受付に名前が告げられた瞬間、春菜の胸がわずかに跳ねた。
「高瀬蒼真様がお見えです」
エントランスに向かう足取りは自然を装っていたが、内心は穏やかではなかった。
ガラス越しに見えた蒼真は、いつも通りの落ち着いたスーツ姿。けれどどこか、少しだけ表情が柔らかい気がした。
「お邪魔します」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
春菜は応接スペースに案内し、ふたりは向かい合って腰を下ろした。
「今日は急にすみません。……どうしても、直接伝えたくて」
そう言って蒼真が差し出したのは、春菜が送った資料に目を通した形跡のあるプリント。いくつかのページに、丁寧に書き込まれた赤字があった。
「非常に良い内容でした。ただ、うちの上層部に説明するには、ここをもう少し簡潔にすると伝わりやすい。……あくまで“中の人間”の視点としてだけど」
「ありがとうございます。参考になります」
春菜は頷きながら、彼の目をそっと見た。
(仕事の話だけじゃない――そう思ってしまうのは、私の思い込み?)
ふと沈黙が訪れる。その数秒が、やけに長く感じられた。
(……やっぱり、私の思い込みだったのかな)
そんな自分が恥ずかしくて、下を向いた。
蒼真はふと時計を見て、小さく息をついた。
「……そろそろ行かないと。水沢さん、今日はありがとう」
蒼真がゆっくりと立ち上がりかけたその瞬間、春菜の口から思わず言葉がこぼれた。
「……あの、私、何か失礼なことをしてしまいましたか?」
蒼真は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、すぐに柔らかく微笑んで首を振る。
「いや、全然。むしろ、助かってます。……ただ、約束があるので」
その優しい口調に、春菜はふと胸の奥がざわついた。
「……その……もしかして、お約束って、結婚のお相手と…ですか?」
自分でもなぜそんなことを聞いたのか分からず、声がしぼむ。
言い終えた瞬間、顔が熱くなるのを感じた。
蒼真は、ほんの少し間を置いて、小さく頷いた。
「……そんなところです」
そう言って、そっと視線を逸らすと、彼は軽く頭を下げ、静かに立ち去っていった。
春菜は、何かを言いかけたまま、その背中をただ見送った。
――やっぱり、どこかで期待してたから、こんなに苦しいんだ。期待なんて、するんじゃなかった……
エレベーターのドアが閉まり、蒼真の姿が完全に見えなくなった瞬間、春菜はそっと息を吐いた。
応接室に残るのは、湯気の消えかけたコーヒーと、資料の束だけ。
(……聞かなければよかった)
けれど、あのまま何も言わずにいたら、もっと苦しくなっていた気がする。
胸に広がるのは、後悔とも、安堵ともつかない、名もなき感情。
それでも――。
(あの人は、嘘をつかなかった)
遠くを見つめるように、春菜はそっと椅子に腰を下ろした。
指先が、ほんのわずかに震えていた。
少しして、デスクに戻った春菜のスマートフォンがかすかに震えた。
メッセージの通知。篠原からだった。
《高瀬社長、お帰りになりました?》
その一文に、春菜の指が止まる。
ためらいながらも返信を打つ。
《はい、先ほど。資料の件でした》
するとすぐに、篠原から返ってきた。
《そうですよね。でも……あの人がああして出向くの、ちょっと珍しいなって。水沢さん、何か言われませんでした?》
少しの沈黙のあと、春菜は悩みながらも返した。
《普通にアドバイスをいただいただけです。でも、少し……個人的なことを聞いてしまったかもしれません》
メッセージを送ったあと、すぐに後悔が押し寄せる。
(なにしてるんだろう、私)
すぐに篠原からの返信が来た。
《えっ、大丈夫? 高瀬社長、嫌な顔してた?》
春菜は思わず微笑んだ。心配してくれる篠原の気遣いが、少しだけ胸に沁みる。
《いいえ。優しかったです。ただ……私のほうが、ちょっと後悔してるだけ》
画面を見つめながら、春菜は小さく呟いた。
「……踏み込みたくなかったのに。気づいたら、心が先に行ってた」
それは、まだ恋と呼ぶには不確かな感情。
でも確かに、彼に惹かれている――そんな自分を、もう否定できなかった。
(……私、なんであんなこと聞いたんだろう)
デスクに戻った春菜は、胸の奥がざわざわするのを抑えきれず、そっと胸元を押さえた。
「結婚のお相手と…ですか?」――あの言葉が、耳の奥で繰り返される。
(プライベートなことだって分かってたのに。仕事の相手に、こんなこと聞くなんて)
理性がそう囁く一方で、心のどこかが反論する。
(でも……知りたかった。知ってしまいたかった)
彼の瞳の奥に浮かんだ、ほんの一瞬の迷いの色。あれを見てしまったからこそ、黙っていられなかった。
けれど――。
(答えてくれたのに。私は、ちゃんと向き合えなかった)
蒼真の「……そんなところです」という曖昧な返答。そしてすぐに視線を逸らして立ち去った、その背中。
言いたくないのか、言えないのか。その理由までは分からない。でも、彼の中に何かがあったことだけは、はっきりと伝わってきた。
――自分は、思っていた以上に、あの人のことを見ようとしていたんだ。
そう気づいた瞬間、春菜はそっと目を伏せた。
まるで自分の中の扉が、ゆっくりと開いたような気がした。
「高瀬蒼真様がお見えです」
エントランスに向かう足取りは自然を装っていたが、内心は穏やかではなかった。
ガラス越しに見えた蒼真は、いつも通りの落ち着いたスーツ姿。けれどどこか、少しだけ表情が柔らかい気がした。
「お邪魔します」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
春菜は応接スペースに案内し、ふたりは向かい合って腰を下ろした。
「今日は急にすみません。……どうしても、直接伝えたくて」
そう言って蒼真が差し出したのは、春菜が送った資料に目を通した形跡のあるプリント。いくつかのページに、丁寧に書き込まれた赤字があった。
「非常に良い内容でした。ただ、うちの上層部に説明するには、ここをもう少し簡潔にすると伝わりやすい。……あくまで“中の人間”の視点としてだけど」
「ありがとうございます。参考になります」
春菜は頷きながら、彼の目をそっと見た。
(仕事の話だけじゃない――そう思ってしまうのは、私の思い込み?)
ふと沈黙が訪れる。その数秒が、やけに長く感じられた。
(……やっぱり、私の思い込みだったのかな)
そんな自分が恥ずかしくて、下を向いた。
蒼真はふと時計を見て、小さく息をついた。
「……そろそろ行かないと。水沢さん、今日はありがとう」
蒼真がゆっくりと立ち上がりかけたその瞬間、春菜の口から思わず言葉がこぼれた。
「……あの、私、何か失礼なことをしてしまいましたか?」
蒼真は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、すぐに柔らかく微笑んで首を振る。
「いや、全然。むしろ、助かってます。……ただ、約束があるので」
その優しい口調に、春菜はふと胸の奥がざわついた。
「……その……もしかして、お約束って、結婚のお相手と…ですか?」
自分でもなぜそんなことを聞いたのか分からず、声がしぼむ。
言い終えた瞬間、顔が熱くなるのを感じた。
蒼真は、ほんの少し間を置いて、小さく頷いた。
「……そんなところです」
そう言って、そっと視線を逸らすと、彼は軽く頭を下げ、静かに立ち去っていった。
春菜は、何かを言いかけたまま、その背中をただ見送った。
――やっぱり、どこかで期待してたから、こんなに苦しいんだ。期待なんて、するんじゃなかった……
エレベーターのドアが閉まり、蒼真の姿が完全に見えなくなった瞬間、春菜はそっと息を吐いた。
応接室に残るのは、湯気の消えかけたコーヒーと、資料の束だけ。
(……聞かなければよかった)
けれど、あのまま何も言わずにいたら、もっと苦しくなっていた気がする。
胸に広がるのは、後悔とも、安堵ともつかない、名もなき感情。
それでも――。
(あの人は、嘘をつかなかった)
遠くを見つめるように、春菜はそっと椅子に腰を下ろした。
指先が、ほんのわずかに震えていた。
少しして、デスクに戻った春菜のスマートフォンがかすかに震えた。
メッセージの通知。篠原からだった。
《高瀬社長、お帰りになりました?》
その一文に、春菜の指が止まる。
ためらいながらも返信を打つ。
《はい、先ほど。資料の件でした》
するとすぐに、篠原から返ってきた。
《そうですよね。でも……あの人がああして出向くの、ちょっと珍しいなって。水沢さん、何か言われませんでした?》
少しの沈黙のあと、春菜は悩みながらも返した。
《普通にアドバイスをいただいただけです。でも、少し……個人的なことを聞いてしまったかもしれません》
メッセージを送ったあと、すぐに後悔が押し寄せる。
(なにしてるんだろう、私)
すぐに篠原からの返信が来た。
《えっ、大丈夫? 高瀬社長、嫌な顔してた?》
春菜は思わず微笑んだ。心配してくれる篠原の気遣いが、少しだけ胸に沁みる。
《いいえ。優しかったです。ただ……私のほうが、ちょっと後悔してるだけ》
画面を見つめながら、春菜は小さく呟いた。
「……踏み込みたくなかったのに。気づいたら、心が先に行ってた」
それは、まだ恋と呼ぶには不確かな感情。
でも確かに、彼に惹かれている――そんな自分を、もう否定できなかった。
(……私、なんであんなこと聞いたんだろう)
デスクに戻った春菜は、胸の奥がざわざわするのを抑えきれず、そっと胸元を押さえた。
「結婚のお相手と…ですか?」――あの言葉が、耳の奥で繰り返される。
(プライベートなことだって分かってたのに。仕事の相手に、こんなこと聞くなんて)
理性がそう囁く一方で、心のどこかが反論する。
(でも……知りたかった。知ってしまいたかった)
彼の瞳の奥に浮かんだ、ほんの一瞬の迷いの色。あれを見てしまったからこそ、黙っていられなかった。
けれど――。
(答えてくれたのに。私は、ちゃんと向き合えなかった)
蒼真の「……そんなところです」という曖昧な返答。そしてすぐに視線を逸らして立ち去った、その背中。
言いたくないのか、言えないのか。その理由までは分からない。でも、彼の中に何かがあったことだけは、はっきりと伝わってきた。
――自分は、思っていた以上に、あの人のことを見ようとしていたんだ。
そう気づいた瞬間、春菜はそっと目を伏せた。
まるで自分の中の扉が、ゆっくりと開いたような気がした。
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