君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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29話 触れた余韻

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「でも、今夜だけは……ここにいさせてください」

春菜のその言葉に、蒼真はしばらく視線を外せずにいた。

街灯の柔らかな光の下、春菜の横顔はどこか切なく、けれど、はっきりと何かを訴えているようだった。

「……春菜さん」

蒼真の声が、夜の静けさに溶けていく。

「僕には――」

その先を言いかけて、ふと蒼真は口をつぐんだ。

春菜は静かに待った。彼が何を言おうとしているのか、もう分かっていた。

「……その方との関係について、聞かせてもらえますか?」

風の音にまぎれてしまいそうな声だったのに、彼は確かに聞き取っていた。
一瞬だけ、目を閉じて、ゆっくりと開く。

「はい……あの時に会った女性がそうです」

沈黙が落ちた。
でも、それは不思議と冷たいものではなく、誠実な告白の余韻だった。

「心は……通っていません。正直に言うと、ただの"決められた関係"です」

春菜の心に、あの日の和食処で見た光景がよみがえる。
穏やかに笑っていたあの女性。春菜に微笑みを返した彼女。

「お互いに、恋愛感情はありません。家同士の話で……僕も、彼女も、それを受け入れているだけです」

蒼真の声には、どこか諦めに似た重さがあった。

「でも」

蒼真の声が重なる。

「僕の気持ちは、もう――あなたに向かっている」

その言葉に、春菜の呼吸がふっと止まる。

「ごめんなさい、突然こんなこと。あなたを困らせたくない。でも、もう隠せなくて……」

春菜は、そっと首を振った。

「困ってなんか、いません……私も……」

言葉が途切れる。でも、その想いは確かに蒼真に届いていた。

ふたりの間に、ゆっくりとした沈黙が流れる。

それは痛みではなく、少しずつやさしく心を満たしていく"始まり"の静けさだった。

---

その夜、それぞれの帰り道。

電車の窓に映る自分の顔を見つめながら、春菜は頬に手を当てる。

(何やってるんだろ、私……)

複雑な状況だと分かっている。でも、胸の奥は確かにあたたかかった。

蒼真の言葉。目線。声。どれも、嘘じゃないと、そう感じたから。

("僕の気持ちは、あなたに向かっている"って――)

意識しないようにしても、心はもう、ときめきを止められなかった。

一方その頃、蒼真もまた、タクシーの窓の外に流れる街並みに視線を預けていた。

春菜に全てを話した安堵と、これから直面するであろう現実への不安が、胸の中で複雑に絡み合っている。

(……彼女に想いを伝えられて、後悔はない)

だが、その一方で、胸の奥に重く沈むものもあった。

――結婚の話。家族との関係。そして、春菜への想いをどう貫けばいいのか。

春菜の真っ直ぐな瞳を思い出す。

(簡単な道ではない。でも、もう……心が止められない)

---

週が明けた月曜日。

オフィスの空気は、変わらず流れている。けれど春菜にとって、それはほんの少し違って感じられた。

メールを開くと、チャットの通知が一件。

> 木曜のレビュー、時間を調整します。資料、別途目を通しておいてください。—高瀬蒼真

春菜は、小さく微笑んだ。

形式的な連絡。でも、どこかに彼の"気配"があるだけで――

今日という一日が、少しだけ違うものになる。

---

木曜日の午後。
レビュー会議を前に、春菜は社内の小さな会議室で最後の資料チェックをしていた。

緊張で手元が少し震える。でも、その奥には、どこか温かな期待も混じっている。

(あの夜から、私たちの関係は確かに変わった……)

「失礼します」

低く抑えた声とともに、ドアが開く。
顔を上げると、そこにはネイビーのスーツに身を包んだ蒼真の姿があった。

「時間、少し早めました。確認、いいですか?」

「はい、お願いします」

資料を差し出す手が、ふと触れそうになって、春菜は反射的に指を引っ込めた。
その一瞬を、蒼真は見逃さない。

「……緊張してますか」

「少しだけ。でも……前よりは、大丈夫です」

春菜は笑う。
その笑顔に、蒼真の視線が一瞬だけ緩む。

「前回より、資料の構成が整理されてます。あとは……伝え方ですね」

「がんばります」

それだけのやりとり。でも、その距離は確かに縮まっている。
お互いが、それを感じていた。

---

会議後、オフィスの外で春菜がスマホを見ていると、誰かの気配を感じた。
振り返ると、蒼真が数歩先に立っていた。

「……また、少し歩きますか」

「はい」

今度は迷いなく答えた春菜に、蒼真も小さく微笑む。

二人は並んで歩き出す。ビルの灯りが水面に揺れる川沿いの道。

「春菜さん」

不意に名前で呼ばれ、春菜の心が跳ねる。

「あの夜のこと……後悔していませんか?」

「していません」

即答だった。

「私も、ずっと言いたかったことが言えて……よかったです」

蒼真は立ち止まり、春菜の方を向いた。

「ありがとう。君がそう言ってくれて……」

月明かりが二人を照らしている。

「これから、色々と難しいことがあると思います。でも……」

「はい」

春菜は静かに頷いた。

複雑な状況だということは分かっている。それでも、想いを伝え合えた今、この気持ちを大切にしていきたいと思った。
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