君を知る前の僕には戻れない

にまる いお

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39話 フェアのあとさき

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太陽がガラス越しに差し込む午後、春菜と成瀬はイベントホールの控室にいた。
今日はいよいよ、ブライダル紹介フェア本番。

「緊張してます?」

成瀬が春菜に声をかける。春菜は手元の資料を整えながら、苦笑した。

「……まあ、ね。KITEの案件より緊張するかも」

「大丈夫ですって。KITEの時とは違って、今回は自分たちの作品が主役ですから」

二人が手がけたパンフレットは受付に並び、来場者の手に取られていた。表紙には、チャペルの前で並ぶ香澄と蒼真の写真。

「これ、ほんといい写真ですよね。」

「……うん」

春菜は言葉を飲み込みながら、どこか遠い目をした。あの表情が、本物かどうかなんて、今さら問う気にもなれなかった。

ホール内には、式場紹介ブースやドレスの展示、スイーツ試食などが並び、若いカップルたちが楽しげに歩いていた。
そんな中、スーツ姿の蒼真が、香澄を伴って会場を巡っていた。

「お疲れさまです、香澄さん、高瀬社長」

春菜と成瀬が声をかけると、香澄はにこやかに応じた。

「素敵なフェアですね。私、試食のケーキだけで満足しちゃいそう」

成瀬が笑った。

「たくさん食べてください。お腹が満たされると、判断力も鈍りますから」

「ふふ、じゃあ、ついでに"新居探しもお願いしようかしら」

春菜の手が、一瞬だけ止まった。

(新居……もう、そこまで話が進んでるんだ)

胸の奥で、何かがぽきりと音を立てた。蒼真が「決められた関係」だと言っていたのは何だったのだろう。でも現実は、着々と結婚に向かって進んでいる。

蒼真は少し笑ったが、その笑みはどこか曖昧で、一瞬だけ視線をそらした。
春菜はその微妙な表情の変化を見逃さなかった。

(あの人も、何か迷いがあるのかな……)

でも、それでも現実は変わらない。二人は婚約者として、ここにいる。

「素敵ですね」

春菜は努めて平静を保ちながら答えた。でも、その笑顔はこれまでより少し硬いものになっていた。

「……あの、実はパンフレットも好評で。問い合わせが多くて、次回号の特集も組めそうなんです」

「嬉しいニュースね」

香澄は視線をパンフレットに落とした。自分の笑顔が、紙面いっぱいに広がっている。

「こんなふうに"婚約者らしく"見せてくれる写真を撮ってくださったこと、ありがたく思ってるわ」

「……香澄さん」

「でも」

香澄の指先が、写真に触れる。

「これが"現実"かどうかなんて、関係ないのよね。人が欲しがるのは、夢のカタチだもの」

春菜は答えなかった。

ただ、香澄の目が、ほんのわずかに成瀬の方へと向けられたのを見ていた。

蒼真も、その会話を聞きながら、内心で複雑な思いを抱えていた。

(今夜、話をしよう。でも……どう切り出せばいいんだ)

その後――春菜と蒼真がすれ違った時、蒼真がふと声をかけた。

「春菜さん、今日は本当にお疲れさまです」

春菜は視線を落とし、息をついて『ありがとうございます』とだけ返事をした。表情には以前のような笑みはなかったが、微かに動く瞳の奥に、何かを抑え込んでいる気配があった。

蒼真は、春菜の表情をじっと見つめた。

「春菜さん、大丈夫ですか?何か……」

言いかけて、蒼真は言葉を飲み込んだ。今の自分に、彼女を気遣う資格があるのだろうか。

春菜は軽く会釈をしただけで、以前のような温かい笑顔は見せなかった。

蒼真はその変化を敏感に感じ取った。春菜の中で、何かが変わってしまったことを。

(俺が、曖昧な態度を取り続けているから……)

自分への苛立ちが、胸の奥で静かに燃えた。

その直後、成瀬が何気なく春菜の肩に手を置き、いつものように笑ったとき――
香澄は、ほんのわずかに視線をそらした。

(……何、この感じ)

ふと胸の奥に湧いたその違和感。別の感情が入り込んでくるような。

---

フェアが終わり、片付けが一段落した会場で、春菜は一人、真っ白なドレスのマネキンの前に立っていた。

(あの人たちも、いつかこんなドレスを着て……)

想像するだけで、胸がぎゅっと締めつけられる。ドレス選び、パンフレットの完成、そして今日の新居の話。すべてが、現実へと向かって進んでいる。

(もう、これ以上……)

春菜は小さくため息をついた。これ以上期待を抱き続けることは、自分を苦しめるだけだ。蒼真には香澄がいて、二人は結婚に向けて歩んでいる。

その時、会場の入口から香澄が一人、戻ってきた。春菜のそばで、香澄もまた真っ白なドレスのマネキンの前に立つ。

「……夢って、誰のものだったのかしら」

春菜は香澄の横顔を見つめながら、自分も同じことを思った。

でも、もう答えを探す必要はない。夢は夢のまま、現実は現実のまま。

春菜はゆっくりと香澄に会釈をし、その場を離れた。夕日に染まる会場をあとにしながら、胸の内で長く抱えていた想いに、そっと別れを告げた。
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