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第一章

第十二話

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  渇望という言葉の意味を実感する。心も体も渇いていて、欲しいものを求めている。
  智晃は座り心地のいい椅子に背中をもたらせると、青い背表紙のファイルを机に置いた。与えられた部屋に準備してもらった長机は、最初多すぎたかと思ったけれど今は茶色い部分が見えないほどファイルで埋め尽くされている。
   経営分析のための資料は多岐に渡る。経営計画書や収支報告書、決算書など基本的な業績に関係するものから、一見コンサルティングに関係なさそうな、福利厚生や冠婚葬祭関係の資料まで集めてもらっている。
  ネット上にあげられたものは与えられたログインパスワードで大方把握できる。しかしパソコン上に残されていないものや、過去の物は紙の資料を見なければならない。
  文字の羅列だけで何がわかるのかという輩がいるが、データや文字で起こされたものほど客観的なものはない。日々の業務に流されていると目の前のものをこなすことで手一杯になる。例年やっているから今年もという慣例も増えてくると、どこを削ってどこに重点をおけばいいか見えなくなるものだ。横のつながりは見えても縦の流れは見えない。自分の仕事がどんな実績につながっているのかわからずに働いている人間も多い。
  資料は確かに一側面しか表さないかもしれないが、それも大切な要素のひとつだ。
  個人経営の小さな事業所だと、そういった書類が完備されていないことも多々ある。データ化して目に見える形にすれば、具体的にどこをどう改善すればいいか支援しやすい。企業の大きさに関わらず必要な作業だった。
  ノックの音が聞こえて智晃は椅子から背中をおこして返事をした。
 「世田さん、ご希望の資料持ってきました」
  台車を部屋にいれて段ボール箱をおろすと男性社員は広がったファイルを見て目を丸くした。
 「すごいですね、これすべてに目を通すんですか?」
 「仕事だからね」
  若手の男性社員が素直に驚きを口にする。彼はこの会社の総務の人間で、手伝いとして智晃の補佐をしてくれていた。最初は女子社員が手伝いに入ってくれていたが、智晃の素性が知れ渡っているせいで煩わしいことになり、重い荷物の運搬も必要だからという理由で男性社員に変えてもらった。いまだ学生気分が抜けていないところもあるけれど、こういう時期だけの特権だと見逃している。そうできるのは自分が年を経たことも関係しているのだろう。
 「それはあちらの棚に置いてほしい。こっちの箱は戻してもらえるかな?」
 「わかりました」
  机に散らばっている分、スチール棚の空いた部分にしまうように指示すると、智晃は補助資料と記されたファイルを手にした。こういう大企業になると資料の大半はマニュアル化されて毎年同じ書式で書かれていることが多い。けれど秘書部から運ばれた資料と一緒に添えられたこれは、少し様式が違っていた。補助資料という名の通り、原文から大事なものをピックアップしてまとめられている。忙しい役員が目を通しやすいように内容がまとめなおされているうえに、目の悪い人に配慮されている。文字も大きめで、グラフの色遣いもすっきりとわかりやすかった。何より大事な部分が漏れなく記載されている。
  海外の大学に進学した智晃は、こういった資料の作成方法を学んだことがあった。おそらく秘書部の中に海外留学して学んだ人間がいるのだろう。
 「じゃあ、こちらは戻しておきます。他に何かありますか?」
 「いや、今のところはもう大丈夫」
 「何かありましたらいつでも呼んでください」
 「ああ、ありがとう」
  今週いっぱいで粗方の資料を把握して、そしてそれを元にして現場の様子を見に行くことになる。自宅に帰ってからまとめる必要もあるだろうし、その手伝いを自社の社員にしてもらわなければならない。
  やらなければならないことを一つ一つこなしていく作業は嫌いじゃない。
  でも今は、彼女になかなか会えない状況がきついと思う。今が一番大切なタイミングだと思うから。
  智晃は部屋の隅に準備された休憩スペースに行くと、コーヒーメーカに保温されていたコーヒーをカップに注いだ。部屋の広さとこのスペースを気に入ってこのフロアを仕事場として選んだ。おかげで、わざわざ誰かがお茶を持ってくることもなく気楽だ。少し煮詰まったコーヒーは苦味が勝っていたけれど、逆に頭をはっきりさせてくれる。
  会えないから会いたいと思うのかもしれない。
  「今度会ったときに名前を教えてほしい」というメールがなければ、土曜日の会う約束がなければ、あやふやすぎる関係に痺れを切らしていた。
  大事にしたいと思う。甘やかしてあげたいと思う。
  それと同じぐらい智晃も彼女に会って癒されたいと願っていた。




  ***




  このまま春に突入するのではないかと思うほど暖かかったかと思えば、急に気温がさがったりする。冬と春の間を行き来する日々は、前に進んだかと思えば後ろに下がっている自分に似ているのかもしれない。天気予報は桜の開花予想を伝えてくれるけれど、いまだ花開く気配は微塵もなかった。
  「桜の花が咲くのが待ち遠しい」そのメールの返事は結局できずに、保存ボックスには明日の約束を反故にする文面が眠っていた。
  彼との遭遇を回避するために、悠花はいつもなら関心のない噂話にも耳を傾けるようにしていた。世田の御曹司というバックグラウンドはよほど魅力的なのだろう。周囲は興味津々で彼の話題には事欠かない。
  物腰がやわらかで親しみやすい印象は、誰もが感じているようだった。けれど意外にもすぐに、隙がなくてなかなか近づけないという評判に変化した。彼は総務部から手伝いとして与えられた女子社員を早々に男性社員に変えてもらったという。与えられた部屋から出ることはほとんどなく、車通勤で地下駐車場を利用しているので、退出時にも会う機会がない。昼食も初日こそ副社長と一緒に社食を利用したらしいが、以降は姿を見せないそうだ。
  彼があまり社内を出歩いていない事実は悠花をかなり安心させた。彼が役員フロアに来る機会も少ないだろうし、あったとしても部屋の奥で業務をしている悠花に目を留めることもないはずだ。他部署へのお遣いを快く引き受けてくれる事務職員がいるので、悠花も出歩く必要がない。悠花は出社してから昼食も含めて、秘書部から動くことはない。彼がいるらしい三週間ほどを乗り切ればいいのだと言い聞かせることで、心を落ち着かせていた。
  今夜か、明日の朝にでも「体調を崩して会えない」とメールを送ればいい。これだけ気温差が激しい時期だし年度末でもある。あやしまれることはないだろう。そうして少しずつ距離を置けば彼だって悠花が何をしようとしているか気が付く。
  名前も知らない体だけの関係の女に執着などせずとも、彼ならどんな女性でも選ぶことができる。
  互いの素性を知らないから、会うのが心地よかった。会っているその時間帯だけまるで恋人同士のように過ごして楽しむ。甘い言葉をささやき、果たさずともいい約束を交わし、誰にも見せない姿をさらす。大人の男と女が楽しむ恋愛ごっこ。
  名前を教え合わないという秘密が、関係を深めて、だからだらだら続いただけだ。
  もし初めから素性を明らかにしていれば、意外に早く破たんは訪れた可能性だってある。彼の立場であれば悠花の素性を調べるだろうし、調べて簡単にわかるような内容を知れば見切りをつける。
  終わることは決まっていた。
  なのに、情報を知るための噂話が悠花の知らない彼を教えてきて胸が苦しくなる。彼のことを考えざるを得ないせいで、囚われる。相反する状況と感情に疲弊していく。仕事のミスがないことだけが救いなくらい。
 「名月さん!副社長が部屋に必要な資料を忘れたらしいの。地下駐車場にいるから届けてもらえる?」
  電話を受けて悠花の名前を呼んだ秘書に、悠花は急いで席を立った。本来は役員室から持ち出す時には書類に記入する必要があるが、今回ばかりは後でいいだろう。確認の意味で秘書を見ると彼女も頷いてくれる。副社長は取引先との話しを終えた後そのまま接待に入る。明日は地方出張だ。副社長室の部屋の鍵をとりだして向かうと、机の上に置き忘れたと聞いたファイルが、わかりやすくそこに置かれていた。
  悠花はファイルを胸に抱くと腕時計で時間を確かめた。4時をすぎたばかりで、さすがに彼も退社したりはしないだろう。
  スムーズに地下駐車場まで降りたエレベーターから飛び出すと、ヒヤリとした空気が頬をなでた。排気ガスの残りを思わせる独特の匂いと、コンクリートから生じる冷気の中で、エンジンをかけたままの車を見つけた。悠花が近づくと後部座席の窓がおろされ、人の好さそうな副社長の顔が見えた。隣に秘書の桧垣がいる様子はない。
 「すまないね。明日までに目を通さなければならないからわざわざ机の上に置いていたのに、結局忘れてしまった。年には勝てないな」
 「ご確認をお願いいたします」
 「ああ、これで間違いない。ありがとう」
  悠花の立場では、副社長と顔を合わせることはほとんどない。でもいつも慈しむような目で見守られている気はする。初めて穂高と一緒に顔を合わせたときには、友人の息子だという穂高をかわいがっているおじさんという印象でしかなかった。「穂高くんを支えてあげてくれ」と言われたこともある。結局悠花はそれを叶えることはできず、むしろ支えられる羽目になった。
  ひどい噂にまみれていた悠花に手を差し伸べてくれたこの人の、よりによって甥である彼に惹かれるなんて、ひどい裏切りだ。
 「それでは、失礼いたします」
  悠花は頭を下げると踵を返してエレベーターホールに戻った。ボタンを押すと待つ必要もなく扉が開き反射的に足を進めようとして、降りてくる人間に気づいてあわてて下がった。
 「申し訳ありません」
 「いえ、こちらこそ」
  どくんと心臓が音をたてる。聞き慣れた低い優しい声。そしてすれ違いざまに漂う淡い森林の香り。悠花が振り返りそうになるより早く、エレベーターに乗り込もうとした腕をひかれる。壁に背中を押し付けられる前に腕が、悠花の背中をかばう。
 「ナツ?……まさか、本当に?」
  血液がさあっと全身から引いていく気がした。悠花の顔をのぞきこむガラスの向こうの目は、驚きに見開かれている。悠花は叫びだしそうな声を抑えるように両手で口を覆った。
  彼の姿を見かけた時以上の衝撃に、思考が停止する。
 「この制服……ここの会社に勤めているのか?会いたいと思いすぎて、夢でも見ている気分だ」
  興奮気味の彼の言葉も少し乱暴で、それが彼の衝撃の大きさを教えた。無人のエレベーターは静かに扉を閉める。
 「智晃!いるのか?急がないと間に合わないぞ」
  駐車場から副社長の声が響く。彼は駐車場と悠花とを見比べて、舌打ちした。悠花の肩を抱いていた大きな掌が、口を覆っていた悠花の手をほどく。それはこの場にそぐわないほど繊細で、色香の漂う仕草だった。
 「今急いでいるから、明日、約束通り明日会おう。仕事の途中だと思うけど……ごめん」
  そう呟いて彼が顔を傾ける。そっと唇が触れた。ささやかすぎるほど小さなキス。
 「明日、会えるのを楽しみにしている」
  優しく柔らかく触れた唇がそう言葉を紡いで、甘くほほ笑む。名残惜しげに彼は一瞥すると、駐車場に向かっていった。彼を乗せた車の音が消えてなくなるまで、悠花はその場から動けなかった。壁伝いにずるずると腰をおろして座り込む。
  今何が起きたのか、頭は考えることを拒んでいた。呆気ないほど簡単に彼とこの場所で再会したことが、皮肉な運命のように思えて、悠花は嗚咽を殺して涙を流した。頬を濡らす涙が唇をも湿らせ、一瞬の感触を思い出させる。
  静寂につつまれた薄暗い地下で悠花は小さくうずくまった。
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