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第一章

第十一話

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  誰の元にも平等に朝はやってくる。
  わずかに開いたカーテンの隙間から覗く変化を、悠花は膝を抱えてながめていた。空気はまだ寒くブランケットを肩にかけなおす。闇に覆われていた景色が、少しずつ白んで薄らいでいく。濃い青はその色を薄め、いずれ光の余韻を受けて輝きを増すのだろう。
  明けない夜がないことが忌々しくて仕方がなかった。このまま夜が明けずに、暗い闇の中でずっとうずくまっていたい。
  いつかもこんな朝を迎えた時があった。涙で滲む景色など頭には残らず、でも目を閉じて眠ることもできない。それでも人は朝を迎えて日常に戻らざるを得ない。
  悠花は湿って重くなったハンドタオルをふたたび目元に押し当てた。
  悠花が吐いたこともあって、桧垣からはすぐに家に帰るように言い渡された。病院に行って診てもらえとも言われたけれど、原因がわかっていた悠花は謝罪をしてタクシーに乗って家に帰ってきた。シャワーだけはなんとか浴びたが、食欲など当然あるはずもなく、ベッドに横になってうつらうつらしては目覚めて泣いた。
  夜は最悪なことしか考えない。
  壊れてしまいたいぐらい最悪な気分の時に、出会った人。銀糸のような雨が降り注ぐ中、差し出された透明の傘。悠花を心配して少しの夜の時間を一緒に過ごして、手だけを触れ合わせた。溺れかけている悠花を支えるかのような手に安堵して、それだけで終わるはずだった出会い。
  偶然と作為を繰り返して、不確かな「会いたい」気持ちを積み重ねてきた。
  名前を教え合う機会はいくらでもあったし、互いに教えて構わないと思っていた。
  最初はきっと、胸の奥底に抱く「大事なもの」が互いにあると知っていたから、踏み込まずにいた。いつでも逃げだせて、他人に戻れる距離にいることで、自分の身を守る。同時に、知らないからこそ心をさらけだし、甘えあえる関係にいつしか心地よさを感じていたのも事実。
  名前など知らなくても、「ナツ」と「アキ」でいれば二人だけの世界は成立していたから。 
  そんな曖昧な関係に甘えてきたツケが一気にきた。
  教えられる前に知ってしまった名前。
  「世田智晃」
  よりによって恩人ともいえる副社長の甥で、親会社会長の孫。一般的な女性であれば、偶然知り合った男性が御曹司だったなんて、まるでシンデレラストーリーのようで嬉しいのかもしれない。
  けれど悠花は知っている。
  シンデレラストーリーの先にある苦難の未来を。
  ただ一心に穂高のことを好きで、彼を支えていきたかっただけなのに、彼をとりまく環境も状況も悠花を排除し傷つけた。自分だけが苦しむのなら傷つけられるのなら、穂高がそばにいてくれさえすればそんなことには耐えられた。けれど自分の家族にまで被害が及んだ時、一緒にいることの限界を知った。
  もう二度と……そんな人は選ばない。
  そう決めて、もう誰も愛せないさえと思っていた自分が……勇気を出して関係を深めようとした相手がまたそんな人だったなんて。
  悠花は両手で顔を覆った。泣いても涸れることのない涙が掌を濡らしていく。
  もう、会わないほうがいい、それだけが出てくる唯一の答え。
  いまだ名前を教え合っていない今なら、連絡を絶つことなど簡単だ。土曜日の約束を反故にして、メールを受信拒否にすれば簡単に切れてしまう。会社も辞めて、引っ越しをして逃げてしまえば、彼に会うことなど二度とない。
  射しこんできた光が壁に反射して、視界の隅に煌めくものが入る。かかげた左手首には彼がクリスマスイブにくれたプレゼントのブレスレットが輝く。
  闇の中の光のようにも悠花を突き刺す刃のようにも見えて、悠花は夜が明けていく様をぼんやりと見つめていた。



  ***



  泣きつかれては眠って、お腹が空けば軽く何かをつまむ。どんなに苦しいことがあっても人の体は日常を取り戻そうと動いていく。
  社会人としてあるまじきことだと思いながらも悠花は昨日一日だけ休みをもらった。
  今朝は昨夜つくった雑炊の残りを食べて、小さなおにぎりと缶詰のフルーツをお弁当箱に詰めた。部署で一人きりの昼食をとっているとこういうとき気を遣わなくていい。
  腫れぼったいうえにクマの残る目元を誤魔化すために、いつもより濃い目にファンデーションを塗った。髪をひとつにまとめ見栄えのしないスーツを着ると、地味な女がそこには、いる。
  冴えない顔色は心配されるかもしれないし、休んだ言い訳にもなるだろう。
  彼に会わないほうがいいことはわかっていても、会社を辞めることは現実的じゃない。思考がぐちゃぐちゃだった夜とは違い、朝を迎えて時間が経つごとに、冷静さが戻ってくる。
  仕事は悠花にとって生活の糧だ。
  穂高との結末では逃げるように会社を辞めるしかなかった。迷惑をかけた身で実家に戻れない悠花は、わずかの期間であったもののその後の再就職活動で辛酸をなめた。穂高と悠花のことを知っていた副社長が手を差し伸べてくれたから、こうして一人で生活していけている。その苦労を知っているのに自分の生活の土台を自ら手放すことは到底できない。
  彼が悠花の会社にいるのは期間限定のことだ。その間だけ会わないように気をつければいい。彼の仕事部屋は役員フロアではないし、手伝いも総務の事務がメインで行う。悠花は他部署に行くことも少ないし、大勢の人間が働いているのだ、すれ違っても気づかない可能性が高い。
  彼と会う夜は、悠花もそれなりに着飾ってメイクもしていた。こんな地味な格好をしていれば、わからないはずだ。とにかく会社で彼に会いさえしなければ、そしてもう二度とこのまま会わなければいいのだから。
  非日常だった彼との関係。
  悠花は彼のことを何も知らない。
  重なる時間にだけ二人で過ごして、甘い言葉をささやいて、快楽を共有して、自身をさらけだす。酔いしれた空気で交わした言葉など男女の駆け引きのエッセンスで、どこまでが本気かなど判断できない。
  悠花は左手をぎゅっと握りしめる。何度もはずそうとしてできなかったそれはブラウスの袖口の奥にしまいこんで、革ベルトの時計をつけることでずれて見えないようにした。メールアドレスとブレスレットだけが彼の存在を現実のものにしていた。救いだったはずのそれが今は悠花を追い詰める枷になる。
  玄関で靴をはいて、悠花は足を止めた。
  ドアを飛び出していく一歩がこんなに重かったことはない。



  ***



  「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」秘書部につくと人に会うごとに悠花はそう謝罪した。会社内で体調を崩したこともあって、周囲は「もう大丈夫なの?」と優しい言葉をかけてくれる。ものすごく仲がいいわけではなくても、嫌な空気はここにはない。ここでの人間関係には恵まれていると思う。だからこそ迷惑をかけたくないと正社員になる踏ん切りがつかなかったし、中途半端に辞めることもできなかった。
  悠花は一番に迷惑をかけたはずの桧垣のスケジュールを確認して、彼が午後からしか出てこないことを知った。副社長室に客人がいる時に彼の手を煩わせたのだ。きちんと謝罪はすべきだろう。
  昨日一日で溜まっていた仕事を片付けると、そのほかの雑用も積極的にこなした。仕事に集中していれば余計なことは考えずに済む。変な思考にもとらわれずに済む。同じ会社の屋根の下に彼がいることなど気にしなければいい。
  いつもと同じ席で悠花は普段と同じように一人で昼食をとった。けれどお気に入りのお茶をゆっくりいれて楽しむ気分にはなれずに、途中のコンビニで買ったペットボトルのお茶を飲んだ。帰りは自分が食べられそうなものを調達した方がいいかもしれない。結局おにぎりは食べられなくて、フルーツを少しつまんだだけで終わった。
  彼と会う約束の土曜日まであと数日。もし、過去に戻ることができるなら、彼に「名前を教えてほしい」なんて言う自分を止めるだろう。いや、彼に「会いたい」とバーに通うことも、もういっそのこと穂高との出逢いだってなかったことにしてしまいたい。
  悠花は土曜日の断りのメールの文面を打っては消してという行為を幾度も繰り返していた。前日の夜にでも、断りのメールをすればいい。そのあとはやりとりを減らして、仕事が忙しいことなどを言い訳にして少しずつフェードアウトする。いきなり拒否などすれば勘繰られるかもしれないから、徐々に。嫌いな男と別れるための女のテクニックみたいなことを考える自分に渇いた笑いさえ漏れる。
 「名月さん」
  低く名前を呼ばれて、悠花はパッと顔をあげる。朝はまだ肌寒くても昼間の気温はあがってきているせいか、めずらしくジャケットを腕にかけた桧垣が部屋に入ってきた。
  悠花は慌てて立ち上がると、頭を下げる。
 「申し訳ありませんでした。先日は御迷惑をおかけしてしまい、昨日はお休みまでいただいて。本当にすみません」
 「……体調はもういいのか?」
 「はい……」
  パーテーションで区切られた休憩スペースにまで桧垣は寄ってきて、悠花の顔を見下ろす。
 「まだ顔色が悪いな。食事はとれているのか?」
 「……だい、丈夫です」
  お弁当箱をしまっていてよかったと、悠花は探るような桧垣の視線から目をそらした。彼の纏う空気は悠花をいつも僅かに緊張させる。
 「副社長にもお客様にもご迷惑を」
 「そこは気にしなくていい……体調管理には気を付けるように」
 「はい」
  不意にテーブルに置いたままの悠花の携帯がバイブをならす。桧垣は一瞥するとすぐに背を向けて行った。悠花は小さく頭をさげたあと、静まった携帯を見つめた。鳴らしてくる相手など今の悠花には限られている。おそるおそる指を伸ばして画面を確認した。
 「今日はいいお天気だね。桜が咲くのが待ちどおしいのは初めてな気がします」
  窓の外に広がるのはやわらかな色合いの薄い青。黄色い光と混じり合ったまぶしさに悠花は目を細めてあふれそうになる涙をこらえた。
  今、彼と悠花はきっと同じ空を眺めている。
  小さな蕾をつけた枝が、ぬくもりにつつまれて可憐な花を咲かせる。桃色の花弁が風に舞い散る中、ほほ笑みあって悠花の作ったお弁当を食べて、たくさん名前を呼びあうはずだった。それは幻となって空のスクリーンに吸い込まれていく。
  未来はどこまでも儚くて不確かだった。
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