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第一章

第十三話

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  休みの日の駅の構内は、平日とは異なる様相を見せる。
  彼に会いたいと思いながら何度も訪れた駅、時間をつぶすために歩いていた駅ビル。ついこの間、悠花はお気に入りの雑貨屋でお弁当箱を買ったし、本屋さんでお弁当雑誌も買った。
  あの時とはまるで真逆な気持ちで駅構内を歩いている自分が、まるで違う世界の住人であるような錯覚さえ覚えた。
  私はどうしてここに来ているんだろう……
 悠花は錘でもついていそうな足をなんとか動かして歩いていた。気持ちは何度も足を立ち止まらせたいと、踵を返したいと思っているのに、進めずにいることはできない。

  会社で顔を合せることがないように気を付けていたつもりだった。
  車通勤していて地下駐車場を利用していることも知っていたけれど、退社時間まではまだ余裕があった。副社長の忘れ物を届けるためだけのほんの些細な時間で、彼との時間が重なるなど思ってもみない。何より、あんな一瞬で悠花だと見抜いてしまうとも。
  涙が枯れ果てるまで泣いてしまえたら、もうこれから先どんなことが起こっても泣かずにいられるだろうか、そんなことを考えてしまうほど泣いて、結局泣きつかれた。当然眠りは浅く、早々に目は覚めた。夜が明けていくのを見たくなくて、カーテンは隙間がないほどきちんとしめていたのに、やっぱり時間は進んでいく。
 今日会う予定をキャンセルするつもりで考えたメールの文面は、今も保存フォルダに残っている。
  送信して、会う約束を避けて、少しずつ距離をおけばいい、そう考えていた悠花の思惑を嘲笑うかのような一瞬の逢瀬。
  彼は悠花の制服姿を見て、あの会社に勤めていることにすぐに気が付いた。あの後、副社長とともに車に乗ってでかけたのなら、副社長にだって何か話を聞いている可能性もある。たとえ今日会う約束をキャンセルしたとしても、彼は悠花の勤務先を知ったのだから、避けることは無理だった。
  そう考えると、今日予定通り素直に会って、そして自分の意志を伝えるべきだという答えにいきつかざるを得ない。
  正解はわかっていても、家をでかける間際も、電車に乗っている間も悪あがきのように何度も送信ボタンを押したいと思った。でもそんなことに意味はない。ここで逃げて会わずにいても、どうせいつかは向き合わなければならない。忙しい立場にある彼の時間を無駄にすることも、自分とのことで浪費させるのも忍びない。
  だから頭の中で何度も同じ言葉を繰り返す。

 「もう、会わない」

  今日悠花がすべきことは、彼にそう伝えること。
  そのためだけに悠花は彼に会いに来た。
  改札を抜けて駅ビルを横目で見ながら、ひきずりそうな足を進めていく。
  一線を越えてもなお、バーでの偶然の再会を期待した夜。もう会わないほうがいいと思いながら、会えなければ二度とここには訪れないと決めていた。バーに彼は来なかったのに、この駅で呼び止められた。関係が急速に深まったのは、それがあったからだ。
  バレンタインデーには、初めて昼間から会う約束をして、この駅で彼と待ち合わせをした。
  彼に会うためだけに降りるこの駅で……今日こそ彼に名前を教えてもらって、自分の名前も知ってもらって新たな関係を築くはずだった。
  二人の恋をはじめるはずだった。
  桜が咲くころを見計らって、お花見に行く日を決められたらいい。年度末で忙しいのであれば、桜が散り際でも構わない。お弁当を作って、初めての手料理を食べてもらって、二人でゆっくり過ごしながら恋人としての距離を縮めていく。もう一度誰かのために料理を作る喜びを感じることができる。穂高との恋を思い出にして、別の誰かを愛していける未来がある。
  
  そう夢見ていた。
  
  なのに今は、その未来を自ら断ち切るために前を向いて歩いている。
  悠花はもう一度同じ言葉を繰り返した。彼に会ったら、最初に伝える言葉。台本通りに言えばいい。言葉に気持ちなどのせずに、音をつらねていけばいい。

 「もう、会わない」

  彼を目の前にして言うべき言葉を、悠花は頭の中で何度も何度も繰り返した。



  ***



  桜が花開く前に気温が下がる必要があるのだと聞いたことがある。けれどこんな日は春の訪れなどいまだ先のことのように思えた。
  過去とシンクロする色の空がフロントガラスの前に広がっている。薄い水色を覆い隠す雲は、灰色の空のように低く天を覆っていた。
  智晃は駅のロータリーを通り過ぎると、その先にある駐車場に車をいれる。ちょうど出ていく車があったおかげで心配していたよりスムーズに停めることができた。エンジンを切ると、ハンドルに腕をもたらせて、途切れることなく人を吐き出している駅の方へ視線を固定した。
  エレベーターでの彼女との遭遇は智晃に強い衝撃と動揺を与えた。まさか世田系列の叔父が副社長を務める会社で彼女が働いている偶然があるなど、思ってもみない。興奮に任せて、おそらく不埒な真似をして、彼女との偶然の出会いに感謝していたのはほんのしばらくの時間だけだった。
 「おまえも付き合いなさい」と叔父に付き合わされた会食は、彼の思惑を勘繰るには十分な状況だった。相手から「うちにも年頃の娘がいてね」と切り出されて、なんとかうまくはぐらかすごとはできたと思う。そうされて初めて、叔父が駐車場で名前を呼んだこと、あの会社で広がっているだろう自分の素性について思い至った。
  あの会社に通い始めて数日で、智晃は置かれている現状を把握していた。
  いくつも絡み合う、好奇心を隠さない視線。あからさまではない誘い。ある程度想像はしていたので仕方がないと諦めていたけれど、彼女がそれを知らないとはいえない。
  出会ってすぐに名前を教え合ったとしても、智晃の背景がすぐに知られることはないと考えていた。確かに自分で会社を経営しているが、所詮しがない個人事業主だ。一般的なサラリーマンよりは給料は多めだろうけど、そんな輩は巷に溢れているし、倒産のリスクだって抱えている。知り合う中で徐々に実家のことは教えることになっても、独立している現在においてあまり関係はない。
  智晃自身はそう思っていても周囲がそう見ないこともまたわかっていた。
  智晃の背景を知ると大抵はいい印象を持つし、それが普通だと晴音と出会うまで思っていた。けれど晴音は智晃の素性を知った途端、関係を深めるどころか断とうとした。マイナスになることもあるのだとその時初めて知った。
  彼女はどっちだろうか。
  「アキ」と名乗る男が「世田智晃」だと知って、彼女はどう感じているのか。
  会社で遭遇するという偶然があったのだ。即座に彼女から「驚きました」といった類のメールでも来るかと期待していたのに、一切なかった。いや、交わしたメールの返信が遅いことはあっても、まったくないことなどなかった。「桜が咲くのを楽しみにしている」というメールを送ってから、返信はおろか今日の約束に関する確認のメールさえないことに違和感を覚えながらも、仕事が忙しいのだろうと考えていたけれど。
  「今日は会ってびっくりしたよ」と自分から送ろうかとも思ったけれど、その返信がなかった場合も、望ましくない内容のメールが送られる可能性さえも浮かんで、行動に起こせなかった。
  自分の杞憂であればいいと言い聞かせながら、そのことが智晃を不安にさせ、こうして待ち合わせ時間より早めに来るような行動をとらせた。
  彼女は本当に来るのか、そのときどんな表情で自分を待つのか。あんな場所で一瞬で呼ばれた名前など憶えていなくて、智晃が「世田智晃」だと未だに知らない可能性だってある。
  智晃は時計を見てふっと息を吐くと、意を決して車から降りた。雨が降りそうな天気は肌寒いのか生暖かいのかわからない曖昧な温度で智晃の肌にまとわりついた。
  名前を教え合う特別な日。
  彼女のメールが来た時から、おぼろげに思い描いていたシチュエーションとはほど遠い自分の心情に苦笑さえ浮かぶ。


 「名前を教え合ったら僕たちの恋をはじめよう」


  互いに心に大事な人がいて、過去に愛した人以上の気持ちで相手と関われるか不安を抱えながら、逢瀬を重ね関係を深めてきた。気持ちの変化に怯えていた彼女が出してくれた勇気を大切にして、これからゆっくりと二人だけの形をつくっていければいいと願っていた。
  智晃は人ごみに紛れてゆっくりと彼女がいるだろう場所に向かっていった。車で迎えに来ることは伝えていたからロータリーが見える位置に彼女は立っているはずだ。
  バレンタインデーの日は、初めて昼間から彼女と会った。車で迎えに来た智晃に驚いて、夜とは違うかわいらしい服装で、彼女の意志も確かめずに温泉旅館に連れて行った。
  彼女がバーにきているという連絡は受けていたのに、出張が長引いてあせった夜のことも思い出す。この駅を使うことは知っていても行先は知らない。バーを出たことも律儀に教えてくれたバーテンダーに感謝して、もしかしたらここで会えるかもしれないと、彼女の姿を探した。会えなかったら、もう二度と会えないような気もしていたし、このまま会わないほうがいいのかもしれないという矛盾も抱えていた。
  越えた一線を……さらに越え続けていいかわからなかったから。
  薄いトレンチコートやダウンコートなどばらばらなアウターを身に着けた人たちが通り過ぎていく。たくさんの人間がいる中で、たった一人を見つけるのは難しい気もするのに、智晃はすぐに目的の人を見つけた。
  少しうつむきがちで立ち尽くす姿はどこか儚げに見える。オフホワイトのコートにベージュのストールを首元にまいて、艶やかな髪がその周囲で跳ねている。彼女の姿を見つけて安堵して、その表情を見て智晃は足を止めた。
  泣きそうで不安げで、危うい空気は、出会った時の彼女を簡単に思い出させた。名前を教え合う特別な日だという緊張だけでないものがそこにはあって、あたってほしくもない不安が的中したことに笑いたくなった。


  名前なんて知らない。


  でも、智晃は彼女を知っている。警戒心を抱いているくせに無防備で、「会いたい」と素直な気持ちで向かってくるくせに「怖い」と怯える。羞恥をいつまでも残しながら、智晃の求めるまま快楽に委ね乱れる。一途な想いを抱えて自分を律する強さと、不安に苛まれて危うさを漏らす弱さと、相反する彼女に翻弄されてきたのは智晃の方だ。
  晴音しかいなかったはずの心の中に、いつの間にか彼女は入ってきた。
  晴れた世界の中にいるくせに、雨に濡れていた自分のそばに、同じように雨に濡れながら入ってきた。

  この瞬間、智晃は決めていた。どんなに怖がって逃げようとしても、彼女を手に入れることを。
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