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第一章

第十四話

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 構内を抜けると、ロータリーが見渡せる場所で悠花は立ち尽くした。肌寒さを感じるかすかな風に、ベージュのストールを再度首に巻きなおした。灰色に覆われた空は降りそうで降らなかった過去と同じ色をしている。季節も場所も異なるのに、なぜ空は似た様相を見せるのだろうか。
  悠花は彼の車を思い出しながら、時折ロータリーを見て、今ここに自分が立っていることが不思議でならなかった。「会いたい」その気持ちだけで、続けてきた関係を断つために会いにきている現実。だったら「会いたい」などと思わずに、最初からあの偶然を最後にすればよかった。
  「好き」だなんて自覚しなければよかった。
  「名前を教えてほしい」などと甘えたことを考えなければよかった。
  悠花はふっと人の気配を感じて、顔をあげた。車で迎えに来ると言っていた人物が目の前にいて悠花に向かって歩いてくる。
  濃いグレーのパンツに、臙脂の長袖のカットソーというカジュアルな姿で、やっぱり困ったような形の眉をして悠花の前に立つと淡くほほ笑む。
「はじめまして。世田智晃です。あなたの名前を教えていただけますか?」
  名前を……ずっと知りたくてたまらなかった名前を、彼は何のためらいもなくあっさりと口にする。「今度会うときに名前を教えてください」そうメールをした返事を、声にして口にして伝えて来る。
「あの、え……と、なつ、き名月悠花です」
  名前など教えずに……「もう会わない」と言うはずだった。「今日で会うのを最後にしたいから、もう名前など教え合わずにいましょう」と身勝手なセリフを並べ立てるはずだったのに、悠花は反射的に答えていた。
「名月悠花?……名前にナツが入っているのかと思っていたのに、名字の方だったんだね。でも可愛い名前だ」
  彼の唇が悠花の名前を呼ぶ。「ナツ」ではなく、本当の名前。この瞬間をずっと待っていたはずなのに、悠花は曖昧な笑みさえ浮かべることができない。彼は悠花の抱えている迷いなど気づいていないかのように手を伸ばし、悠花の手をつつみこんだ。
「車を駐車場に停めているんだ。とりあえず行こうか」
「あのっ!」
「駐車料金も気になるし、まだ肌寒いから話は車に乗ってから……ね」
  車に乗るつもりはなかった。この場で話をして言葉を告げて終わりにして逃げ出してしまいたかった。けれど彼の手は逃がさないとでも言いたげに、強く悠花の手を掴みひく。
  駐車料金のことや、彼自身上着を羽織らずに薄着でいることや、たくさんの人が行き交うこの場所でやりとりをすることも憚られて、悠花はついていくしかなかった。
  なにより姿を見ればやっぱり「会いたかった」と心が動く。自分の手を包む彼の手の大きさと温もりにほっとする。
  前回と同じ車の助手席のドアを開けると、彼は自然な動作で悠花を車内に促した。まだ温もりの残る空気には彼の香りがかすかに漂う。このままここにいれば、どこまでも欲が膨らんで離れられなくなる。
  彼が運転席に座ってキーをまわす仕草をした瞬間、悠花は頭の中で繰り返していた言葉を口にした。
「あのっ!!お会いするのは今日で最後にしたいんです!」
  いつでも車から降りられるように、シートベルトもせず、浅く腰かけたまま悠花は続ける。
「突然すみません。でも、こんなふうに会うのも……メールももう終わりにさせてください。今日はそれをお伝えしたくて来ただけなんです」
  彼の顔を見ることはできなかった。うつむいた視線の先に見えるのは、自分の足元だけ。勝手なことを言っているのはわかっていた。だから怒鳴られても非難されてもどんな言葉も受け止めるつもりだった。
  彼が小さく息を吐く。
「理由を……教えてくれる?」
  低くかすれたその声に、動揺を感じ取って悠花の頭の中は真っ白になる。「もう会いたくないと思ったからそう言った」だけじゃだめなのだと暗に聞かれている。「あなたが世田智晃だと知ったから」そう言えばきっとさらに理由を問われる。
「……名前を教え合ったら、新しく関係を始めようと言ったよね……。終わるつもりがあったのなら「名前を教えてほしい」なんてメールをせずに、受信拒否をすればそれですんだはずだ。そういうことも想定して僕たちは名前を教え合わずにきたんだから」
  優しい口調で淡々と言葉を紡がれて、悠花はさらに何を言えばいいのかわからなくなった。ただ混乱する。どうすればこの人を納得させられるのか、傷つけずに済むのか、「もう飽きたから」「ただの遊びだった」なんて言葉で誤魔化せるほど、曖昧ではなかった。何も知らなかったからこそ、本音をさらけだしあってきたせいで、何もかもを見抜かれそうだと思った。
「「今度会ったときに名前を教えてほしい」そうメールしてきたとき、あなたは覚悟を決めて送ってきたんだろう?僕たちは何度も名前を教え合う機会があった。あなたが覚悟を決めるまで待っていただけだ。なのにあれからそう経っていないのに、気持ちが変化した理由を……僕は知る権利があると思う。本当はどこかへでかけようと思っていたけど……話ができる場所に行こう。最後なら最後できちんと話をしたい」
 どこまでも冷静に話をしようとする彼に、悠花は反論する術を失っていた。最後なら最後できちんと終わらせたいと思うのは悠花も一緒だ。昨日あんな接触がなければ、名前を知らないまま逃げだすという卑怯な手段をとることができたのに。
 悠花の返事など聞かずに、彼がエンジンをかけたとき、悠花はシートベルトをはめることしかできなかった。




  薄暗い雲の群れが悠花を責めたてる。
  未来はいつも曖昧で見えない。選択しているのは自分自身のはずなのに、思い通りに運んだ試しがなくて、地に足がつかない浮遊感がいつまでも付き纏っている。
  「理由を知りたい」と彼は言ったけれど、明確な理由を言えるのか悠花には自信がない。「あなたが世田の御曹司だから、お世話になった副社長の甥だから、これ以上迷惑をかけたくない」そう正直に言えばきっと、自分の過去も語らざるを得ない。
  何も知らなかったから楽しめた関係なのだ。どこまでが本気でどこまでが演技か、何が本当で何が嘘かなんて自分にさえわからない。
  彼だって悠花の素性を知れば、あっさり掌をかえすかもしれない。悠花のような女を選ばずとも、彼はどんな女性も選べる立場にある。会社の女性たちも彼との接触を望んでいるし、彼自身もその背景もとても魅力的だ。
  そんなふうに考えた自分を悠花はいやらしいと思った。
  愛していた女性を忘れられるかわからない、そう言った彼が……強引にできる立場にありながら一切行使せずに悠花の気持ちが固まるのを待ってくれていた彼が、そんな男性であるわけがないのに。
  突然「会うのを最後にしたい」と切り出した悠花に、彼は怒りもせずに冷静に対応した。理由が知りたいと落ち着いて問われれば、無下にできない空気を彼は滲ませる。悠花がいつもめちゃくちゃに迷惑をかけてきたのに、いつも穏やかに冷静に対処するから、そこにふんわりくるまれている。それが心地よくて、手放せなくて、守られている感覚が深まって離れられなくなった。
  今だって言い逃げすることだってできたのに、悠花は車に乗って運ばれている。
  彼と同じ空間にいる。それだけでもう足は動きそうになかった。互いに無言の状況さえも、現実感が気薄だ。
  車は駅からすぐの低層マンションの駐車場に入っていった。ゆっくり話ができるところなら、公園かファミレスにでも行くのだろうと思っていたのに、予想外の場所に連れてこられて今更に戸惑う。
 「ここは……」
 「僕の住んでいるマンション。近くて人目につかない場所で思い浮かぶのはここしかなかった。あなたが嫌がるようなことは決してしないから、来てほしい」
  彼が悠花の嫌がるようなことをするとは思っていない。今日で会うのを最後にする予定の相手の名前を知り、そのうえ住んでいる場所まで知ることに躊躇っているだけだ。けれど人目がつかないという言葉で悠花は納得せざるを得なかった。一人暮らしの男性の部屋を訪れるリスクもちらりと頭をかすめたものの「嫌がるようなことは決してしない」という言葉は、これまでの関係からも信じられたし、彼の立場を考えれば、そんなリスクを負うとも考えづらかった。
  何より静かで穏やかでありながら有無を言わせない空気が彼からは伝わってくる。
  悠花は車を降りると彼の後をついていった。高層マンションとは違いこじんまりとしていても、内装は上品で質がいい。黒い絨毯敷の内廊下は足音を響かせず、エントランス脇の来客用スペースは、重厚なソファとスタイリッシュなテーブルが置かれ、天上には細工の繊細なシャンデリアが釣り下がっている。エレベーターは最上階に停まり、突き当りに向かうまで他のドアは見当たらなかった。
  促されて入った玄関は、こげ茶の収納扉の下部から照らす間接照明が、白いタイルを艶やかに輝かせていた。ほんのりとしたぬくもりに混じって、彼から香るものと同じものが漂っている。
  「コートとストールを預かるよ」と言われて、悠花は玄関先で慌ててそれらを脱いで彼に渡した。玄関わきの収納にしまうのを見て、彼が部屋に入るといつも上着をハンガーにかけていた仕草を思い出した。
  短い廊下の先のリビングは曇り空にも関わらず、一面が窓のためか明るさがある。
 「ソファに座っていて。コーヒーと紅茶どっちがいい?」
 「……コーヒーでお願いします」
  キッチンスペースはリビングからは見えない位置にあるようで、そこから聞こえた声に返事をした。一人で座るには大きすぎるコーナーソファもセンターテーブルもテレビボードも白くて、大きなテレビと敷かれたラグが黒を主張する。ダイニング側の壁面の書棚はいろんな本で埋め尽くされていて、センターテーブルの下に積み重なった雑誌や、置きっぱなしの新聞などに彼の生活感が垣間見えた。
  彼らしい暖かな空間に、悠花はこんな気持ちで彼の部屋にいることが切なかった。
  ずっと知りたかった名前を教えてもらって、彼の部屋に連れてきてもらう。彼が日常を過ごす場所で同じ時を刻む。彼が何を好きで、休みの日には何をしているか、恋人同士であればゆっくりと知り合っていくことを積み重ねていく。
  悠花はソファの端に浅く腰かけた。こぽこぽとお湯が沸く音が静かな部屋に響く。不安と緊張で寒いのか暑いのかしっとりと手のひらが汗をかく。
  カタンと小さな音をたてて、カップが二脚テーブルに置かれた。
  彼が少し悠花と距離を置いて隣に座る。こんな状況なのに、穏やかで優しい視線が絡んで悠花はそこから目をそらせなかった。
 「僕は世田智晃。コンサルティング会社を経営していてその代表を務めている」
 「名月悠花です。あの会社で契約社員として働いています」
  彼の言葉につられて悠花は素直に答えていた。彼は困ったような形の眉をしてふっと息を吐く。
 「昨日は……本当に驚いた。まさかあなたがあの会社に勤めているとは思わなかった……だったら多分僕のことを知っているんだよね」
  悠花は肯定も否定もできず彼からわずかに視線をずらす。知っているといえば噂を聞いていることになるし、知らないとも言えない。湯気のたつコーヒーはいい香りを放っていても、互いに手にとることはなかった。
 「叔父は副社長で……祖父は世田グループの会長だ。兄たちもそれぞれ関連企業で働いている。でも僕は独立して自分で会社を経営しているし、グループ企業の跡を継ぐ気もない。
 給料は一般的な人よりはいいかもしれないけど、その分経営のリスクを背負っている。僕自身はしがない個人事業主だ」
  跡を継ぐ気がない、と聞いて一瞬穂高を思い出した。彼は跡を継ぎたくて必死だった。父を追い出した会社を取り戻すために、そしてぼろぼろになった会社を立て直すために。けれど「継ぐ気はない」と「継がない」には大きな隔たりがある。本人にその気はなくても周囲はそうは思っていない。彼が本社からではなく外部のコンサルティング会社からきたことも、そのために副社長が画策したことも、そうした背景に彼に関連企業を任せたい思惑があるらしいとの噂も広まっているのだ。
  優秀であればあるほど、周囲は放っておかない。
  穂高をほしくてたまらなかった人達が、彼の周囲には大勢いて、だから彼は立派なお城に逃げ込まざるを得なかった。きっと彼も、そんな人だと確信する。
 「あんなふうに偶然会ったから……あなたからメールが来るんじゃないかと期待していたんだ。僕の素性を知ったとしても、あなたが特に何も感じていなければ、「世田智晃だとは思わなくてびっくりした」ぐらいのメールはね、来ればいいなと思っていた。むしろ御曹司でラッキーみたいな感覚でいてくれたらって」
  あえてつけなかったのか。明かりのない部屋は、少しずつ薄暗さを増している気がした。静かすぎて自分の呼吸や鼓動さえ響きそうで、悠花は細く息を吐く。彼に言われてそんな考えがまったく及ばなかった自分は、やっぱりどこか違っているんだろうと思った。普通なら喜びこそすれ、会わないなんて言わないのかもしれない。
 「でもあなたからメールはこなかった。いや……僕があの会社に行き始めてから送ったメールには、返信は一切なかった。だからあなたがどう思っているか知りたかった。直接顔を見て確かめたかった。それでも、待ち合わせの場所にいてくれてほっとしたんだ……。あなたの表情を見るまでは」
  彼はいつも悠花が何かを言う前に、考えていることを察している。悠花が何を思って「今日で会うのは最後にしたい」と言ったかわかっているかのように言われて、見透かされていることが後ろめたい。
 「僕が世田の御曹司だと知って、距離を置こうとしたのはあなたが二人目だ」
  一人目が誰かは聞かされなくてもわかる気がした。おそらく彼が心から愛した女性。彼は彼女を愛したけれど、自分は愛されなかった、そう教えられた。悠花はごくりと溜まった唾液を飲み込んで、震えそうになる手を重ねた。
  「御曹司だから距離を置く」そう口にしたわけではないのに、彼はすでに真実を見抜いているようだった。彼にしてみればそれは、智晃自身ではなく彼の背後を見て判断したこと、彼自身の変えることのできない生まれを否定されるということにつながる。そのことに気づかされると工藤に言ってしまった言葉までも思い出して、悠花は自分がいかに身勝手に、保身のために相手を傷つけていたか実感した。
 「だから教えてほしい。あなたが「今日で会うのを最後にしたい」と言ったのは、僕を嫌いになったから?それとも僕が御曹司だと知ったから?他に好きな人ができたからっていうのは……さすがに信じないけど」
  最後を自嘲気味に言った彼は、らしくなく表情を歪める。いつも優しく悠花を見つめるメガネの奥の目は、今は真摯に悠花の本音を待っていた。他に好きな人ができたという言い訳は通用しなくても、嘘でも彼を傷つける言葉を言えばいい。強く結んでいたせいでくっついていた唇を引き離しては言いかけたけれど、言葉は出てこない。
 「私……私は」
 「僕を……嫌いになった?」
  言葉が出ないなら頷けばいい。頷いてもう一度「もう二度と会いません」と言ってここから去ればいい。どう動けばいいかシナリオはわかっているのに、彼に問われた瞬間、かすかにでさえ顔を動かせなくなった。
  そらすことのできない彼の目は、悠花の表情を読んで切なげに細められる。こんな時にでも卑怯に浮かんでくる涙が、駆け引きをする女のようで嫌だと思うのに、留めることができない。伸ばされた手を拒むこともできずに悠花はゆるく彼の腕に抱きしめられる。
 「僕はあなたのことを何も知らない。でも知っていることもある。警戒心を抱いているくせに無防備で、大胆なことをするかと思えば常識的で、素直で一途なくせに……とても怖がりだ」
  ゆっくりと頭を撫でられて、涙が頬を伝った。声を殺せても肩の震えは誤魔化せない。考えていることとやっていること、言っていることすべてが剥離していて、悠花は自分が本当は何をしたいのかわからなくなる。
  胸が苦しくて仕方がなくて、自分が起こす行動が未来にどんな影響を与えるか怖くて一歩も動けない。
  彼の手が髪をからめ肩をなでて腕をすべると、逃がさない強さで悠花の手首をつかんだ。咄嗟にひこうとしたそこには、袖口から煌めきがのぞいた。リブの袖口に隠れるようにしていたはずなのに、コートを脱いだ時にずれたのだろう。彼の指が袖をそっとめくり、ブレスレットをひきだした。
 「あなたに何を言われても……これがここにある限り、僕はあなたを手放したりしない」
  悠花の手をかかげて、彼は目をあけたまま手首の内側に唇を寄せる。いつかと同じ、誓いのようなキスはブレスレットを唇にはさんだまま、痕をつけるように吸い付いた。
 「あなたが名前を教えてくれたら……伝えようと思っていた。
 僕はあなたが好きだ。世田の御曹司としてではなく、僕個人して見てほしい」
  そして唇がふわりと触れる。
  エレベーターでされたときからきっと、悠花はこのキスに囚われている。
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