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第一章

第十五話

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 唇を押し付けられれば、反射的に開けてしまう。彼の上唇がほんの少しだけ中に入り込むけれどそれだけだ。奥に閉じこもっている舌は今の悠花と同じで、外に出るのを怖がって、怯えて縮こまっている。彼は悠花が自ら出てくるのを根気強く待っていて、角度や強さを変えて唇を挟む。時折漏れてくる唾液で唇の表面は湿り、反して悠花の涙は乾いていった。
  彼の手は悠花の髪を優しくなでたかと思えば耳を弄んだ。首筋から腕をたどると手首のブレスレットをからめとる。
  もう会わないほうがいいと、せめて今日を最後にしようと伝えるだけのはずだったのに、悠花は彼のマンションで彼に抱きしめられながらキスを交わしている。
  未来は本当に自分の思い通りになんてならない。
  彼に会ってから悠花はどこまでも流されてきたように思う。波もない穏やかな小さな入り江に閉じこもっていたはずなのに、雨と風が悠花を外へ連れ出して大きな海に放りだした。外の世界は怖いのに、悠花の手をつかんで離さないでいてくれるから、運ばれるままについていく。
  だから、出ておいでと彼の舌が悠花の唇を小さくなめたとき、置いていかれたくなくて咄嗟に追いかけた。舌先が触れた瞬間それをきっかけにキスは深まる。
  これまでの戯れが嘘のように、激しく口内をまさぐられた。
  悠花の舌の動きになど構うことなく、忙しなく彼の舌が悠花の口の中でうごめく。歯列を深くなぞり、頬の裏側をえぐり、舌の裏側にも伸ばされる。自分のか彼の舌なのかわからなくなった頃、どろりとしたものが送り込まれた。悠花は彼に求められている実感で、じわりと奥を疼かせた。彼に送られた唾液が悠花の体の中をめぐって、蜜となってあふれでるかのように。
 「あなたを抱きたい……足りないんだ。でも無理やりにはしたくない。
 僕はあなたに触れていい?抱いていい?あなたの奥に入っていい?悠花……教えてくれ」
  最後に、低くかすれた声が「ナツ」ではなく、本当の名前を呼んで、ガラスが割れていく音が聞こえた気がした。
  「会いたい」気持ちは、彼に出会った時から止め処なくある欲求。それらを抑えることはいつもできなくて、理性を破壊する感情が怖くてたまらないのにぞくぞくする。心と体の望むまま、何も考えずに感じずに彼の物になりたいと願ってしまう。
  理性を越える本能。
  悠花は智晃に腕を伸ばして自ら抱き付く。その勢いに乗じて彼の耳元に声を落とした。
 「触れて、抱いて……私の中に、入って、きて……」
  会わずにいることも、惹かれずにいることも、忘れることもできないのなら。
  壊れてしまいたい、彼の腕の中で。



  ***



  渇いていた時間の長さと失いかけた一瞬が、智晃の理性を焼き切った。どこまで自分が冷静でいられていて、思惑通りにすすんだのかどうかも判断がつかない。些細でも対応を間違えるわけにいかないことはわかっていても、どうしたら間違えずにすむかなどわかるはずもない。
  とにかく彼女の真意をなんとか聞き出すこと、そのためにも自分のテリトリーに引き入れること。マンションに連れてきたのは戦略のためのはずなのに、欲望の解消となっている。
 「会うのは最後にしたい」
  そう言われるかもしれない予想はしていても、答えがあっていたからと喜べるはずもなく、むしろ彼女の声で彼女自身から告げられたせいで、狂うスイッチが入った。
  智晃の頭の中は彼女をどう攻略するかでいっぱいだった。
  マンションについてきてくれただけで大半は主導権を握れているとは思ったけれど、彼女が首元からストールをはずせば、綺麗な鎖骨の見える襟元に欲情した。コートを脱いでひっかかった袖口に、あるべきものを確認できたのも欲に拍車をかけた。
  どんなに苦しんでいても、もう会わないと口にしていても、彼女の手首にはまだ自分がつけた枷がきちんとある。多分それが理性の破壊の後押しをした。
  ベッドルームに連れこむ間に、智晃は悠花の服を脱がせていた。もうどんな抵抗も無意味にするつもりで、昼間から自分の部屋のベッドで彼女を抱いている。
  名前を教え合った後は、もっとおしゃべりをしてゆっくり過ごして、スマートに自宅に誘い込むつもりだった。会えなかったせいで彼女の肌に飢えていたのは事実でも、貪るようなセックスなどせずとも名前を呼びあいながらゆったりと肌を重ね合わせたかった。シーツに散らばる髪を、黒いカバーに映えるだろう彼女の白い肌を堪能して、声を響かせ香りを染みつかせる。汗と蜜でシーツが汚れることさえ望んでいた。
  こうして激しく抱いている今でも、もっと落ち着けよと自分を叱咤するのとは裏腹に、行為を抑えることができない。
  繊細に優しく大事に触れてあげたい。
  どこか頑なさを残す蕾を、薄い花びらを破かないように一枚一枚剥いでいきたい。そうすれば彼女は可憐な花を咲かせ、甘い蜜をしたたらせる。智晃はそれを目で愛で、舌で味わい、手でなでてかわいがればよかったはずだった。そんなふうにして彼女を抱いて、羞恥をなくし快楽に導いてきた。
  でも今はそんな悠長な抱き方ができない。
  彼女の反応など確かめもせず、ただ欲望のまま手を伸ばす。どこかもわからず唇が肌にすいつけば、強く痕を残す。指先が濡れればもっと濡らすために激しくも繊細に動かし、内壁を覚えるようになぞる。触れない場所などなにひとつないように、智晃の体全部をつかって。
 「あっ……やんっ、はっ」
  うつぶせにして腰を支えると後ろから押し込む。雲に覆われた空は光を届けることはせずとも、カーテンの開いた部屋にやわらかな明度を生じさせる。暗くも明るくもない室内で、黒いシーツは彼女の白くて丸い臀部を浮かび上がらせ、そこに抜き差しする自身が見えた。
  深くどこまでも突き刺さってしまえばいい。そうしてここで繋がり続けていれば離さずに済む。湿った音も彼女の嬌声も心地いいだけで、感じさせるためよりも自分が触りたくて感じたくて彼女を追い詰める。
  智晃が腰を打ち付けるたびに胸が揺れる。それは掌にすっぽりとおさまって、指の間に尖った部分をはさめば、肌が慄く。やわらかさが気持ちよくてもみこんで、首筋でわかれていく髪から肌が見えてくれば舌でなぞりたくなる。
 「はっ、やあっ……だ、めっ、そこっ」
 「ここ弱いね……膨らんで気持ちいいよ」
  智晃は彼女の腰をつかむと、上体を起こした。後ろから彼女の中に入ったまま自分の上に座らせる。角度が変わったせいでふたたび彼女が声をあげ、触りやすくなった弱い場所を指で小刻みに動かした。連動して彼女の中がうごめき、智晃を締め付ける。うねるような動きに持っていかれそうになって、それを耐える。どこから湧き出してくるか不思議なほど蜜が絡んで、卑猥な音を響かせた。智晃の太腿にも垂れてくるその感触さえ気持ちいい。
  腕の中で彼女の背中がびくびくと震え達していく。声を抑えようと口を覆った彼女の手を、智晃はひきはがした。
 「声は抑えないで……大丈夫だから」
 「やあっ、ああっ、ふっ、さけんじゃ、う」
 「いいよ、叫んで」
  その部分に手を伸ばせば、簡単に在処がわかるほど、そこは膨らんでいて智晃は容易にかわいがることができる。抑えられない甘い声に彼女自身がとらわれて、達し続けているのがわかった。
  いつもなら緩めて逃げ場をつくってあげるのに、智晃はそうせずに追いこんでいく。「壊して」と言われた夜は、あれでも冷静な部分を残していたけれど、あえて今は余裕などなくした。
 「あっ、アキっ……こわいっ」
  彼女は時折まだ、アキと呼ぶ。だからそのたびに訂正して教える。
 「智晃、だ。悠花、名前を呼んで」
 「あっ、と、もあきっ」
 「悠花っ」
  名前などただの表記でしかないのに、呼ぶたびに愛しさが増す。あやふやだった形がはっきりとしたものに変化して、彼女自身を今まで以上に感じている気がした。
  彼女をドロドロに溶かして自分も溶けてしまいたい。そうして液体になって混じり合えばずっと離れずにすむ。彼女が蜜を滴らせる中に、避妊具越しに智晃も液体をばらまきながらどうしようもない考えにとりつかれる。
  互いに達した後、もつれるようにして快楽の波の中に意識を委ねた。





  優しい手が悠花の髪を撫でている。時折髪先をからめては、再び撫でて大事に慈しまれていると思える動きが心地いい。目をあけるとベッドサイドのライトが、彼の表情を照らしていた。額に厚めに落ちた前髪は彼を幼く見せる。メガネがないせいなのか、怒られる前に泣きそうなこどものようにも見えて、泣かないでと抱きしめたくなった。
  窓の外には少し強めの雨音が響いていて、レースのカーテン越しに夜になりきらない景色が浮かんでいた。
  目覚めた悠花に気づいて、彼はサイドボードから水の入ったグラスを差し出す。肘をついて体を起こそうとすると、彼の腕が背中を支えて、与えられたコップの縁に唇をつけて一口飲んだ。喉がやっと動き出して続けざまに水を飲む。そこで初めて喉がどれだけ渇いていたか気づいた。
 「大丈夫?かなり無茶なことをした、ごめん……。でも、嫌わないでほしい」
  見慣れないくやしげな表情はいつもの困った眉の形のかわりに、眉間にしわが寄せられている。彼の言う通りこれまで以上に激しく抱かれた自覚はあった。彼はいつも先に悠花を高みに昇らせて、むしろ悠花を快楽の中に落とすことに熱心だった。悠花は守られた腕の中で体が望む快楽に身を任せていればよかった。
  でも今回は違った。悠花を導くのではなく彼の欲望をぶつけられるセックス。
  足りないと宣言された通り、不足を補うように求められた。悠花は必死に受け止めることしかできなかった。一方的と言えばそうかもしれない抱き方。けれど彼とのセックスに馴染んでいた悠花はちゃんとそれでも貪欲に感じていた。
 「……嫌いになったりしない」
  空になったカップをサイドボードに戻し終えた彼に悠花は告げた。
 「嫌いになることなんかない」
  むしろ嫌いになれれば楽だ。嘘でも言えればきっともっと簡単だった。彼は小さく驚いた後、その目をすっと細めた。悠花の左手首をつかんで片手で支える。指先がブレスレットを弄んだ。
 「はずさないでいてくれて、ありがとう。あなたに僕を覚えていてほしくて渡しただけだったのに、今はこれがあなたの手首にあることが僕の安心材料になっている。これを見て安心したからちょっと強引なことした……」
  細いチェーンは切れそうなほど儚くても切れない。悠花の気持ちだっていつもあやうく途切れそうに揺らぐのに、結局彼とのつながりを望んでいる。
  彼は穂高と同じように、いつか悠花を選べない時が来るのかもしれない。そうなる前に、他に好きな人ができたり、嫌われたりする可能性だってある。

  終わりが来るその日まで、心のままに愛してもいいのだろうか。
  「会いたい」という気持ちのまま彼に会い続けた過去の自分と同じように。

 「僕たちは知っていることもある代わりに、知らないことも多い。互いに経験も積んで過去もある。不安になることも苦しむことも、傷つくこともあるだろう。でも、一緒に乗り越えて行ってほしいんだ。怖いことがあれば、それを少しずつでも解消していこう。不安になれば、素直にぶつけてほしい。僕はあなたと一緒に生きていく努力をしていくから」
  触れ合った指先がゆっくり動いて、指をからめて手をつなぎ合う。彼の大きな手につつまれるだけでなく、互いに伸ばしあって、同じ強さで求めることができれば、決して離れることはないのかもしれない。
 「私は……あなたに伝えないといけないことがたくさんあります。でもそれを知られるのは怖い」
  互いの努力を重ねても、叶えることのできない未来があることを悠花は知っている。
  彼がどんなに悠花を求めてくれても、悠花が求めても、深く愛し合っていても、重なることができない未来があることを。
  終わりのある未来に怯えて今から逃げ出すことと、終わりが来てから傷つくことと、どちらが楽なのかずるい思考は比較するのに、感情はついていかない。
 「あなたにいつか嫌われるとわかっているのに……そばにいて好きになりすぎたら……私は今度こそもう二度とっ……愛すること、なんて、できなくなるっ」
 「悠花……」
  からんだ手に力をいれると、同じだけ返された。この手を自ら離す時がくるとわかっているのなら、今離したほうがいい。未来の悠花はきっと、今の悠花を見ればそう言ってくるだろう。
 「僕もあなたを嫌いになったりしない。僕はどうすればあなたの不安をやわらげられる?悠花の抱えているものを、ゆっくりでいいから僕に教えてほしい。頼むから……会わない選択だけはしないでくれ」
  彼の手が頬をつつみ涙をぬぐう。額をこつんと合わせると真摯に願う目がそばにある。この目でずっと見つめられたい。この人をずっと見つめていたい。同じぐらい、苦しむ未来の訪れに怯えている。
  穂高とでも乗り越えることのできなかった壁を、彼とともに乗り越えることができるのか。
  彼の世界はきっと、穂高がいる世界ととても似ているのに。この人を傷つけて苦しめることになるかもしれないのに、それでも一緒にいることが幸せにつながるのか。
  悠花は肯定も否定もできなかった。
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