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第一章

第二十四話

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悠花のか細い指が幼子の頭を撫でるように動く。智晃もまた母親に縋りつく子どものように悠花を抱きしめていた。
  何か言葉を発すれば、聞かなければいけないし、話さなければならない。
  知れば知るほど壊れていくなら、知らないままでいたほうがいい。
  言葉を紡げば紡ぐほど互いを傷つけ苦しめるなら言わないでいたほうがいい。
  逃げてはだめだと、智晃は頭のどこかで冷静なその声を聞いていた。いろんな情報が一気に入りすぎて何から整理していけばいいかわからないから、きちんと順序立てて解決すべきだ。仕事ならそう組み立て直して多方面から分析できるのに、こと恋愛になるといつもうまくいかない。
  晴音のときも優先順位がわからなくなったことがあった。彼女の命を優先するのか、気持ちを優先するのか、自分の欲望とどう折り合いをつけるのか。
  愛することの横暴さと残酷さを智晃は嫌というほど味わってきた。
  今また同じことを繰り返そうとしている。
  彼女の気持ちを優先すれば失うし、自分を優先すれば彼女を壊しかねない。
  それでも晴音のときは彼女の気持ちは自分にはなかった。そこがひとつの区切りになった。
  でも今回は違う。悠花が本当は何を求めているか、自分のことをどれだけ思ってくれているか端々に感じ取ることができるが故に、冷静に対処できない。
  何も知らずとも受け止めてくれる。
  そうして重ねてきた関係が心地よすぎて、知ることで起きた混乱が煩わしくてならない。何も知らず考えずまっさらな気持ちで向き合えば、シンプルなものしか残っていないことを二人で実感してきたのだから。
  彼女と抱き合っているとぬくもりが伝わりあう。
  智晃はそっと悠花から離れると視線をふせたまま顔を近づけた。彼女は小さく身動ぎしつつ智晃を凝視する。彼女が受け止めるべきか逡巡したのは一瞬で、そっと目を閉じると同時に唇がわずかに開いた。
  智晃も目を閉じて唇を押し付けた。
  話をすべきだとわかっていた。セックスに逃げればまるで、それだけを目的に会っているような気分にさえなる。「会うのを最後にしたい」と言った彼女を無理やり引き留めて、意のままに欲望の対象にしている身勝手さもわかっている。
  晴音の妊娠、理人の苦悩、初めて食べた彼女の手料理。
  桜の木の下で穏やかにほほ笑む彼女。
  確かにあった現実は夢のように消え去って行って、残るのはこの感触だけ。
 「悠花……嫌だったら拒んで」
  舌をいれたいのを我慢して、唇を離した瞬間にだけ言葉を発した。
 「あなたにされて……嫌なことなんて、ないっ」
  声をふるわせて答えた悠花の頬に堪えていた涙が流れる。見たくなくて唇ですくいとった。話しもせず、泣かせているくせに、それでも触れ続ける。何も知らず「会いたい」気持ちだけで会い続けて触れてきたこれまでと同じように。
 「……名前、知らなきゃよかった?」
 「…………っ!」
  悠花の肩が震えて、嗚咽が漏れる。
  そうだ、たぶん名前など聞かずに、知らずにいれば……もう少し長く一緒にいられた。
  もっと幸せな気持ちで体を重ねあえた。
  今更遅い、言っても仕方がないことを言って何を確かめたいのか。
 「……知らずにいれば……「ナツ」!」
  「ナツ」でいれば、たわいのないメールをかわしあって、会う約束をして会って、抱き合って、少しずつ互いのことを知っていけたのか。
 「「アキっ」」
  全てをなかったことにして、知らずにいたころを思い出すようにキスを深めていった。




  ***




  馴染んだ舌が入り込んでくる。同じお弁当を食べたはずなのに、彼の唾液の味はいつもとかわらない。唇をあわせる角度も、送り込まれる唾液を飲み込むタイミングも二人でつくりあげてきた。
  顔を固定する掌は時折気づいたかのように悠花の涙を拭う。追い付かない時は唇ですいとる。海風にさらされた肌が気になりはするものの、流れを止めることはできない。
  悠花の情報は小出しにされただけで、彼はおそらくいまだ知らないことの方が多いはずだ。話を聞きたくて調査書をわざわざ見せたのだと思うのに、副社長の存在を明確に知らせたことと拒もうとする言葉がスイッチになったのか。
  「名前を知らないほうがよかったか?」そう言葉にされた瞬間、そうかもしれないと思った。
  互いの素性など知らずにこれまでと同じように「会いたい」ときにだけ会う。余計な欲など抱かずに会っている瞬間だけを大事にしていく。純粋さとはかけ離れた関係でも、互いの気持ちはまっさらでいられた。
  愛しいと思う気持ちで彼に触れ、抱き合い、言葉を交わしあう。
  名前を知らなかった頃を演じれば、自分たちの関係も元に戻るのだろうか。
  心の中がどんなにぐちゃぐちゃでも、智晃が与えて来る快楽が悠花に襲い掛かかり思考をうやむやにする。いや、互いに溺れてもうきっと何も考えたくないだけだ。
 「はっ……んっ」
  キスだけで喘ぎが漏れ、彼が乱暴にメガネをはずした。ゆったりとした大きめのソファは、悠花の体が押し倒されても余裕があった。やわらかな皮に身を鎮めて、何度も角度のかわる性急なキスを受け止めて、自らも舌をのばしてからめた。ぬめる唾液のからむ音と、互いが漏らす熱い吐息だけが静かな部屋に流れていく。
  彼の手は頬に触れ、髪をからめ頭を固定するけれど、体には触れてこない。そこに躊躇いを感じてもどかしささえ感じた。
  聞かれれば答えようと思っていた。でも彼はきっといまだ戸惑っている。聞いて知って決断することを恐れている。悠花も知られて彼が出す答えに怯えている。予想もしない現実が急に襲ってきて冷静でいられない。
  きっと第三者が見れば、すべてをさらけだしたうえで二人で考えて決めれば簡単に答えが出ると言うだろう。
  そんなことはわかっている。
  でも導き出した答えが望ましいものとは限らない。むしろ望ましくない答えが出そうな不安を抱えているから、先延ばしにしている。
  これまで怯えていたのは悠花だけだった。彼はゆっくり待ってくれていた。
  でも今は彼もまた怯えている。求めるように激しくキスをするくせに、それ以上体に触れようとしない。
  そうしたのは自分だ。
  悠花は手を伸ばして彼を抱きしめた。ぴくりと彼の体が震える。そのまま背中をそっとさすると、腰骨にそわせた。体重をかけまいと浮いていた部分にすべりこませてベルトをさぐる。キスをされながらも指を動かして、ベルトをはずした。気づいた彼が逃げるように体を起こす。
 「っ!……ナツ?」
 「知らなかった頃に……戻ってもいい。名前なんか知らずに、ただ抱き合っていた頃に戻って、会いたいときに会って、抱きたいときに抱いて……ナツって呼んで……それでもいいの!!」
  彼を追いかけてベルトを抜く。悠花もスカートの中に手を入れて、下着を脱ぎ去った。ズボンのチャックをおろしたときは、まだやわらかさのあったそれは、悠花が無理やり引き出して指でさするとすぐに固さを取り戻す。すかさず口に含むと、行為を止めようとした彼の手が肩をつかんだ。けれどひきはがすほどの力はこめられずに、悠花は舌をからめて喉の奥へ誘う。
  スカートを太腿まであげて白い足を晒すと、悠花はあえて腰をあげて口淫を続けた。手でつけねを小刻みにしごいて、先端をなめまわす。闇にのまれるには早い時間帯に、まだ明るいリビングで男を襲う自分が信じられないのに、止まらない。
 「……っ、はっ」
  低くかすれた彼の喘ぎも、行為を増長させた。ぴくりと跳ねる手の中の物を舌で嬲っては、口をすぼめて吸い上げた。汗と体液とがまじりあった独特の味は唾液をまぶすごとに薄まっていく。そのうち先端からにじみ出てきたものが口内に広がった。
 「くっ」
  そりあがり固さが増す。喉の奥にいれるにはきつくてすべてを飲み込めない。落ちてくる自分の髪が邪魔でも指を離せない。
 「……っか!悠花っ」
  ナツでいいのに!と紡いだ名前が別の物に聞こえた。自分の名前でありながら、どこか遠い。彼の前ではただのナツでいたかった。過去も現在も何も知らず、ただ体を重ねあうだけの関係であれば、甘くて優しい時間を続けることができる。
 「は、るかっ、だめだっ」
  ぐいっと肩に力がいれられて、悠花の口から跳ねるようにそれが飛び出した。
 「ナツでいい!悠花じゃなくて、ナツって呼んでください!あなたのまえでは、ただのナツでいたいのっ」
  濡れた唇の周囲を乱暴に拭って悠花は叫んだ。彼は自分の物を舐めていたことにも構わずに悠花の唇をふさぐ。やわらかくて小さな舌が蠢いて、強く吸い付かれた。
 「悠花っ!!」
 「名前を知りたいなんて、思わなきゃよかった!!」
  奥底からせりあがってくる浅ましい感情を悠花は吐き出した。
  名前を知りたい、呼びたい……互いに教えても構わなかったことを先延ばしにして、名前を教え合ったら二人の恋を始めよう、そんな言葉に酔いしれていた。
  過去に愛した人以上に、目の前の人を愛することができるか不安でたまらなかったから。
  余計な欲を抱かなければ、曖昧なままで、甘いものを与え合えたのに。
 「知らなければよかった!」
 「ごめん!!それでもやっぱり僕は……あなたの名前を知りたかった、呼びたかった。
 僕の名前を呼んでほしかった、知ってほしかった。知らなかった頃には戻れない!」
 「ふっ……うっ……」
  声をあげて泣き叫びたい。それでも悠花は手で口を押えるとうずくまる。彼の腕がまわり、ぎゅっと抱きしめられて、悠花は抑えられない涙を流し続ける。
 「ごめん……つらいこと言わせて。悠花……悠花」
  「ナツ」はもういないのだと言い聞かせるように、彼は悠花の名前を呼ぶ。どんなに後悔しても過去は戻らない。どんなに望んでも知らなかった頃には戻れない。
  訪れるのは未来だけ、それがどんなに望まぬ未来でも。
  夜は明けていく。太陽が昇る部分だけ薄まっていく紺色が、少しずつ少しずつ広がって水色にかわるのを悠花は見てきた。闇に覆われる直前の空は、終わりに向かっているはずなのにどこか朝と似ている。「終わり」が来るのが当然であるのと同じで「始まり」も必ず来る。
  未来はいつも気づかない間にいつのまにか始まっている。

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