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第一章
第二十三話
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智晃は悠花が消えていった建物を見上げた。
ベージュと白がいりまじったタイルの外壁と曇りガラスのベランダは、清潔感とシンプルさが際立つ。マンション名を示すプレートには智晃の記憶にある名称が描かれていて、思考はめまぐるしく動き、ゆっくりと大きく息を吐いた。
名前を教え合い「会うのを最後にしたい」と言われ、あげくに彼女の素性調査をした。
結果を知って自分がどう動くか考えあぐねていた時に起こった晴音の入院。
急に約束をキャンセルして会えないと思っていたのに会おうと決めた。
一日の間にどんなに感情が大きく揺れ動いても、会えば愛しさがわきあがった。
それでも今の衝撃をどう受け止めればいいのか、智晃は心臓がぎゅっと掴まれたような居心地の悪さの中にいた。
悠花が住んでいるこのマンションの所有者は叔父だ。単身の女性専用マンションは居住者および登録した人間しか入ることができない、セキュリティの厳しい物件だった。
24時間の有人監視や監視カメラの設置をはじめ、オートロックでありながら各戸のドアはもちろん窓にも、戸建て並みのセキュリティがなされている。登録時には身分証明の提示が必要であり、恋人や友人はもちろん家族も登録しなければマンション内に入ることができない。
怪しい人間が入り込む隙はないが、親しい人を招くためには煩雑な手続きが必要であるため入居時はそれらを了承できることが前提になる。
実験的に取り組み始めた当初は、身内のためのシステム構築が第一の目的だったため、稼働率は気にしていなかった。しかし昨今の安全神話が崩れている世情もあって意外に入居希望者は多い。特にストーカー被害や、DVで苦しんだ人などが入居を検討していると聞いていた。
悠花はここに住んでいて、調査結果によればコネで今の会社に入った。
「叔父……か」
彼女を支援しているのはおそらく叔父なのだろう。そう考えれば何もかもがつながってくる。
自分をコンサルタントとして招き入れたことも、地下駐車場で偶然会ったことさえも、三住が手に入れた調査書の不自然さも。
どこまで叔父が関与しているか定かではないが、あの人とのことだから聞いても答えなど教えてくれはしないし、真意などもっと読み取らせない。
彼女が話してくれるまで待とうと思っていた。でも何も知らないで悠長にしていれば、逆に叔父によって関係を裂かれる可能性も浮かんでくる。叔父が敵になるか味方になるか読めない。
何より本来知り合うことなどないはずの、叔父と彼女の接点がなにか考えると胸騒ぎがする。
智晃はハンドルに置いた腕に額をつけた。彼女もきっと智晃が気づくことはわかっていたのだろう。
名前を知ればもっと近づけると思っていた距離は、むしろ遠ざかっている気もする。嘘をついているわけでも隠そうと騙しているわけでもない。知れば知るほど気持ちが揺らいでしまうとは思わずに「会うのは最後にしたい」と告げてきた先週の彼女の気持ちさえもなんとなく理解できてしまう。
「僕は……彼女を苦しめているのか?」
つぶやきは消えていき、苦味だけが心に残る。
晴れやかだった空はゆっくりと陰り、太陽が赤い光を帯び始めていた。
***
彼のマンションに着くまで車内は無言だった。地下駐車場に入ってから彼が「夕食は、もしお腹がすいたら何か頼むか買いに行こう」と気づいたように言うまで。
このマンションの1階部分には高級食材を扱うことで有名なスーパーが隣接していた。駐車場やエントランスとは逆側のため先週来た時は気づかなかったが、コンシェルジュに購入を頼むこともできるらしい。
微妙な時間帯に食事をしたせいで、お腹はしばらく空きそうにないので彼の提案に素直に頷いた。
悠花の住んでいる場所を知って、彼がいろいろ考えたのだろうことは予想がつく。何か聞かれることも、考えたいから時間が欲しいと言われることも、今夜はやっぱりこのまま帰ると言われることも覚悟していたのに、そのどれも当てはまらずにここまできてしまった。
部屋の様相は先週とあまり変化はない。悠花の気持ちも彼の気持ちも目まぐるしく変化しているのに、変わらないことがうらやましいぐらい。コーヒーを準備するキッチンから届く音を聞きながら、先週と同じ場所に座って、あと何度来ることができるのだろうかとぼんやり考えた。
「終わり」は必ず来る。それが遅いか早いかだけで。
そしてその終わりは今夜かもしれない。きっとこれからも「今日が最後かもしれない」と思いながらここにこうして座るのだろう。
男の部屋で二人きりなのに甘い雰囲気も何もなく、戸惑いだけが積み重なっていく。レースのカーテンからは、低くなった太陽が名残の光を振らせて室内を淡く照らしていた。
テーブルに二脚のコーヒーカップと、二冊の薄いファイルが置かれた。
「これは……あなたに関する調査報告書」
「…………」
「何から聞いていいのか僕にもわからない。あなたが話したくないことを無理やり聞き出したいわけでもない。でも……曖昧にしないほうがいいと思った。
あのマンションのオーナーは僕の叔父だ。あそこは特殊で……入居審査が厳しい」
彼が調べる可能性もわかっていたし、実際調べられたことは副社長によって、そして今日彼からも告げられた。けれど調査書の実物を目の当たりにして、悠花は呼吸を一瞬詰まらせた。
誰かと深く関係を築くたびに、これからもきっとこんな思いをするのかもしれない。
悠花には過去になんら恥じる気持ちがなくとも、それが嘘にまみれているとしても、こんなことを書かれてしまう人間であるという事実が、噂話のようなあやふやさでなく形となって目の前にあるのだ。
そう、嘘か本当かなど関係ない。こういう噂にまみれた人物であるということ自体が、智晃のような世界に住んでいる人間にはマイナスになる。
「副社長とは昨日お話をしました。そこで智晃さんが私を調査したことを聞かされました。この調査結果にどんなことが書かれているかも教えられています。あのマンションを手配してくれたのも、あの会社に中途採用してくれたのも副社長です。
私たちが知り合ったこと、驚いていらっしゃいました。
そうですよね、副社長は私の過去を……全てご存じです。そのうえで私を特別に雇って、お世話までしてくれました。迷惑をかけてお世話になっている身でありながら……その甥御さんと関係を持つなんて、恩を仇で返したようなものだと思っています」
悠花は一気に言葉を発した。どうせ隠せることじゃない。彼は調べようと思えば調べられる力がある。たとえ個人として見てほしいと本人が願っていても、世田の一族であることは事実だ。自分の行動がどう影響するか考えることもできる。
騙されていてもいい、そう言ってくれた言葉だけで十分だった。
「会いたい」気持ちはある。
未来だって一緒に歩いていきたいと思う。
彼がそう心から願っていることも感じている。
でもこんな調査内容を書かれる人間が彼の傍にいていいとは思えない。
「私の過去はきっと、あなたを苦しめる……。今こうして話していることさえきっと、あなたを悩ませているのだと思います。だからできれば何も知られずに最後にしたかった。
少し考えればわかるはずだったのに浮かれていたんです。あなたに会って「会いたい」って思って、あなたにもそう思ってもらえて。私でももう一度誰かを大切にできるならって。でも今回のことで気づかされました。私は……やっぱり」
「ちょっと待って!」
智晃の手が悠花の肩をつかんだ。少し強い力にびっくりして見上げると、傷ついた表情をした彼が悠花を見つめる。
「待って!そういう結論を出すのは待ってほしい。さすがにあなたの口から……そう何度も拒否の言葉は聞きたくない。先週から……何も変わっていないどころかますます悪化して、会えば会うほど話せば話すほど関係が壊れていく気がする……だから、待って」
彼の言葉が真実だと、悠花は思う。
会えば会うほど、知れば知るほど自分たちの関係はきっと壊れていく。「終わり」はきっとものすごい速さで二人に訪れる。その予感はずっと悠花の中にある。
彼の名前を知ったあの瞬間から、砂のお城が波にさらわれて消えていくように、作り上げたものはあっけなく壊れる。
それが苦しくてたまらないのに、それでも「会いたい」気持ちが勝る。これがいつか逆転して二度と会いたくないと思うまで、どれほど苦しむのだろうか、どれほど苦しめることになるだろうか。
彼だってわかっているはずだ。こうして待って、時間をかけて覚悟を決めたとして、苦しむその果てにあるのは「終わり」でしかないと。
智晃は視線を伏せるとそのまま悠花の肩に額をつける。大人の男性である彼の縋りつくようなその仕草に胸が痛む。自分が苦しめた結果、引き出された苦悩の色が、夜に覆われる世界のように暗く深く沈んでいく。
ビニール傘の透明、ブレスレットの銀色、冷たい雪の白、桜の薄紅、重ねてきた綺麗な色がぐじゃぐじゃに混ぜられて、暗く濁っていく。それが元に戻ることはない。
漂う森林の香りだけが小さな癒しで、悠花は腕を伸ばしてそっと智晃の頭を抱きしめた。やわらかな髪の間に指をうめると彼の手も悠花の背中にまわる。暖かいコーヒーを一度も飲むことがないまま、冷えていく香りだけがいつしか掻き消えていった。
ベージュと白がいりまじったタイルの外壁と曇りガラスのベランダは、清潔感とシンプルさが際立つ。マンション名を示すプレートには智晃の記憶にある名称が描かれていて、思考はめまぐるしく動き、ゆっくりと大きく息を吐いた。
名前を教え合い「会うのを最後にしたい」と言われ、あげくに彼女の素性調査をした。
結果を知って自分がどう動くか考えあぐねていた時に起こった晴音の入院。
急に約束をキャンセルして会えないと思っていたのに会おうと決めた。
一日の間にどんなに感情が大きく揺れ動いても、会えば愛しさがわきあがった。
それでも今の衝撃をどう受け止めればいいのか、智晃は心臓がぎゅっと掴まれたような居心地の悪さの中にいた。
悠花が住んでいるこのマンションの所有者は叔父だ。単身の女性専用マンションは居住者および登録した人間しか入ることができない、セキュリティの厳しい物件だった。
24時間の有人監視や監視カメラの設置をはじめ、オートロックでありながら各戸のドアはもちろん窓にも、戸建て並みのセキュリティがなされている。登録時には身分証明の提示が必要であり、恋人や友人はもちろん家族も登録しなければマンション内に入ることができない。
怪しい人間が入り込む隙はないが、親しい人を招くためには煩雑な手続きが必要であるため入居時はそれらを了承できることが前提になる。
実験的に取り組み始めた当初は、身内のためのシステム構築が第一の目的だったため、稼働率は気にしていなかった。しかし昨今の安全神話が崩れている世情もあって意外に入居希望者は多い。特にストーカー被害や、DVで苦しんだ人などが入居を検討していると聞いていた。
悠花はここに住んでいて、調査結果によればコネで今の会社に入った。
「叔父……か」
彼女を支援しているのはおそらく叔父なのだろう。そう考えれば何もかもがつながってくる。
自分をコンサルタントとして招き入れたことも、地下駐車場で偶然会ったことさえも、三住が手に入れた調査書の不自然さも。
どこまで叔父が関与しているか定かではないが、あの人とのことだから聞いても答えなど教えてくれはしないし、真意などもっと読み取らせない。
彼女が話してくれるまで待とうと思っていた。でも何も知らないで悠長にしていれば、逆に叔父によって関係を裂かれる可能性も浮かんでくる。叔父が敵になるか味方になるか読めない。
何より本来知り合うことなどないはずの、叔父と彼女の接点がなにか考えると胸騒ぎがする。
智晃はハンドルに置いた腕に額をつけた。彼女もきっと智晃が気づくことはわかっていたのだろう。
名前を知ればもっと近づけると思っていた距離は、むしろ遠ざかっている気もする。嘘をついているわけでも隠そうと騙しているわけでもない。知れば知るほど気持ちが揺らいでしまうとは思わずに「会うのは最後にしたい」と告げてきた先週の彼女の気持ちさえもなんとなく理解できてしまう。
「僕は……彼女を苦しめているのか?」
つぶやきは消えていき、苦味だけが心に残る。
晴れやかだった空はゆっくりと陰り、太陽が赤い光を帯び始めていた。
***
彼のマンションに着くまで車内は無言だった。地下駐車場に入ってから彼が「夕食は、もしお腹がすいたら何か頼むか買いに行こう」と気づいたように言うまで。
このマンションの1階部分には高級食材を扱うことで有名なスーパーが隣接していた。駐車場やエントランスとは逆側のため先週来た時は気づかなかったが、コンシェルジュに購入を頼むこともできるらしい。
微妙な時間帯に食事をしたせいで、お腹はしばらく空きそうにないので彼の提案に素直に頷いた。
悠花の住んでいる場所を知って、彼がいろいろ考えたのだろうことは予想がつく。何か聞かれることも、考えたいから時間が欲しいと言われることも、今夜はやっぱりこのまま帰ると言われることも覚悟していたのに、そのどれも当てはまらずにここまできてしまった。
部屋の様相は先週とあまり変化はない。悠花の気持ちも彼の気持ちも目まぐるしく変化しているのに、変わらないことがうらやましいぐらい。コーヒーを準備するキッチンから届く音を聞きながら、先週と同じ場所に座って、あと何度来ることができるのだろうかとぼんやり考えた。
「終わり」は必ず来る。それが遅いか早いかだけで。
そしてその終わりは今夜かもしれない。きっとこれからも「今日が最後かもしれない」と思いながらここにこうして座るのだろう。
男の部屋で二人きりなのに甘い雰囲気も何もなく、戸惑いだけが積み重なっていく。レースのカーテンからは、低くなった太陽が名残の光を振らせて室内を淡く照らしていた。
テーブルに二脚のコーヒーカップと、二冊の薄いファイルが置かれた。
「これは……あなたに関する調査報告書」
「…………」
「何から聞いていいのか僕にもわからない。あなたが話したくないことを無理やり聞き出したいわけでもない。でも……曖昧にしないほうがいいと思った。
あのマンションのオーナーは僕の叔父だ。あそこは特殊で……入居審査が厳しい」
彼が調べる可能性もわかっていたし、実際調べられたことは副社長によって、そして今日彼からも告げられた。けれど調査書の実物を目の当たりにして、悠花は呼吸を一瞬詰まらせた。
誰かと深く関係を築くたびに、これからもきっとこんな思いをするのかもしれない。
悠花には過去になんら恥じる気持ちがなくとも、それが嘘にまみれているとしても、こんなことを書かれてしまう人間であるという事実が、噂話のようなあやふやさでなく形となって目の前にあるのだ。
そう、嘘か本当かなど関係ない。こういう噂にまみれた人物であるということ自体が、智晃のような世界に住んでいる人間にはマイナスになる。
「副社長とは昨日お話をしました。そこで智晃さんが私を調査したことを聞かされました。この調査結果にどんなことが書かれているかも教えられています。あのマンションを手配してくれたのも、あの会社に中途採用してくれたのも副社長です。
私たちが知り合ったこと、驚いていらっしゃいました。
そうですよね、副社長は私の過去を……全てご存じです。そのうえで私を特別に雇って、お世話までしてくれました。迷惑をかけてお世話になっている身でありながら……その甥御さんと関係を持つなんて、恩を仇で返したようなものだと思っています」
悠花は一気に言葉を発した。どうせ隠せることじゃない。彼は調べようと思えば調べられる力がある。たとえ個人として見てほしいと本人が願っていても、世田の一族であることは事実だ。自分の行動がどう影響するか考えることもできる。
騙されていてもいい、そう言ってくれた言葉だけで十分だった。
「会いたい」気持ちはある。
未来だって一緒に歩いていきたいと思う。
彼がそう心から願っていることも感じている。
でもこんな調査内容を書かれる人間が彼の傍にいていいとは思えない。
「私の過去はきっと、あなたを苦しめる……。今こうして話していることさえきっと、あなたを悩ませているのだと思います。だからできれば何も知られずに最後にしたかった。
少し考えればわかるはずだったのに浮かれていたんです。あなたに会って「会いたい」って思って、あなたにもそう思ってもらえて。私でももう一度誰かを大切にできるならって。でも今回のことで気づかされました。私は……やっぱり」
「ちょっと待って!」
智晃の手が悠花の肩をつかんだ。少し強い力にびっくりして見上げると、傷ついた表情をした彼が悠花を見つめる。
「待って!そういう結論を出すのは待ってほしい。さすがにあなたの口から……そう何度も拒否の言葉は聞きたくない。先週から……何も変わっていないどころかますます悪化して、会えば会うほど話せば話すほど関係が壊れていく気がする……だから、待って」
彼の言葉が真実だと、悠花は思う。
会えば会うほど、知れば知るほど自分たちの関係はきっと壊れていく。「終わり」はきっとものすごい速さで二人に訪れる。その予感はずっと悠花の中にある。
彼の名前を知ったあの瞬間から、砂のお城が波にさらわれて消えていくように、作り上げたものはあっけなく壊れる。
それが苦しくてたまらないのに、それでも「会いたい」気持ちが勝る。これがいつか逆転して二度と会いたくないと思うまで、どれほど苦しむのだろうか、どれほど苦しめることになるだろうか。
彼だってわかっているはずだ。こうして待って、時間をかけて覚悟を決めたとして、苦しむその果てにあるのは「終わり」でしかないと。
智晃は視線を伏せるとそのまま悠花の肩に額をつける。大人の男性である彼の縋りつくようなその仕草に胸が痛む。自分が苦しめた結果、引き出された苦悩の色が、夜に覆われる世界のように暗く深く沈んでいく。
ビニール傘の透明、ブレスレットの銀色、冷たい雪の白、桜の薄紅、重ねてきた綺麗な色がぐじゃぐじゃに混ぜられて、暗く濁っていく。それが元に戻ることはない。
漂う森林の香りだけが小さな癒しで、悠花は腕を伸ばしてそっと智晃の頭を抱きしめた。やわらかな髪の間に指をうめると彼の手も悠花の背中にまわる。暖かいコーヒーを一度も飲むことがないまま、冷えていく香りだけがいつしか掻き消えていった。
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