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第一章

第二十五話

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浴室から届くシャワーの音を聞きながら、智晃はキッチンに入った。パントリー横には60本収蔵できるワインセラーを設置している。仕事中心の生活の中でワインだけが趣味のようなものになって、半分以上は飲み頃がまだ先の物になってしまった。彼女はあまりアルコールが強くないようだけれど、今夜は少し頼りたい気分だった。ソーテルヌほど甘みが強くない、ロワールの白を選ぶ。すっきりした酸味の強いものではなく、蜜のような甘みと花の香りで口当たりがやわらかい。
  大事な女性が初めて自分の部屋に泊まる夜にしては、甘い空気は微塵もない。せめてワインぐらいはと封を開けて、何か簡単につまめるものを冷蔵庫から探った。食欲はなくてもテーブルに置けば少しはつまむ気分なるかもしれない。彼女が泊まることは予定していたので、必要最低限の食材はそろっている。生ハムやチーズ、ドライフルーツを皿に盛って、ワイングラスにワインを注いでいると彼女がバスルームから出てきた。
  お風呂で暖めたのか、目元の腫れはひどくない。出していたドライヤーも使えたようで、乾かしたばかりの髪がしっとりと頬をつつんでいる。ワンピースタイプの部屋着は、前ボタンのシンプルな紺色のもので素の彼女の姿にやっぱり愛しさがわきあがる。
 「ドライヤー使わせていただきました……」
  ダイニングではなくローテーブルに軽食を準備して、再度ソファに座るよう促した。腰をおろすのを待って、部屋の照明を減らし、温かみのある間接照明だけの明かりにした。
 「少し飲む?」
 「いただきます」
  彼女はゆっくりとグラスをもち、鼻を近づけた。香りを嗅いでから一口口に含むと少しずつ喉に流し込む。
 「おいしい……」
  やわらかくなった表情に安堵して、智晃も口にした。
  感情を露わにして泣き叫んだけれど、シャワーを浴びて少し落ち着いたように見える。
  ワンピースの袖口にある証に気が付いて、はずさないままでいてくれることに安堵した。彼女が困らないためにあえて細いブレスレットを選んだけれど、もう少ししっかりしたものにすればよかったと今更ながらに思う。あまりに儚く繊細すぎて、すぐにでも切れてしまいそうだ。まるで今の自分たちのように。
  いや、と思う。最初からずっと危うい関係だった。いつ切れてもおかしくないほど薄い関係にすがりついてきた。そのつながりを切るのか強固にするのかはおそらく自分たち次第。
  でも彼女はきっと名前を知ってから、あきらめる方向に気持ちが向かっている。ゆっくりと近づいてくれていた過去と裏腹の早急なスピードで、関係を断ち切ろうとしているのを智晃は感じていた。
 「あなたの過去を……聞いてもいい?」
  悠花は頷くと手にしていたグラスをテーブルに置いた。「ナツ」のままでいい、その叫びは彼女の本心だったのかもしれない。ふとその横顔を見て思った。
 「彼とは同じ大学で私が一年、彼が四年の時に知り合って、夏から付き合い始めました。彼は卒業後留学することが決まっていて、私にも一緒にきてほしいと言いました。私も元々留学は希望していたので交換留学の制度を使って彼と一緒に二年間留学していたんです。
 日本に帰ってきて彼は就職し私は大学に戻りましたが……彼が日本に戻る直前に、彼のお父様が社長退任に追い込まれました」
  父親が社長退任に追い込まれた、その言葉だけで彼女が交際してきた男がどんな立場にあったかすぐに気づいた。そして二人の関係の長さにも。大学一年のときから交際し、希望していたとはいえ男について留学までする行動力に双方の想いの強さを感じ取る。智晃は苦いものを感じてそれを流し込むべくワインを飲んだ。
 「彼は跡を継ぐつもりで努力していました。だから、父親を退任に追い込んだ会社に予定通り就職しました。彼の味方はほとんどおらず、肩身はかなり狭かったと思います。私は彼の助けになりたくて望まれるまま彼と同じ会社に就職しました。
しばらくして、彼の努力が認められて少しずつ流れが変わってきました。後任の社長の経営は悪化していましたし、社内の空気も悪くなっていました。逆に彼の評価があがるにつれて派閥ができると、社長側と明確に対立するようになりました。
 彼のそばにいた私は……いろんな意味でいい駒だったのだと思います。
 彼を貶めるための弱点にもなりました。同時に、将来有望な彼のそばに、なんの後ろ盾もない私の存在は妬みの対象にもなりました。留学していたこともあって私たちの交際はあまり知られていませんでした。ですから余計に新入社員のくせにいきなり彼のそばに現れた目障りな女に見えたのだと思います。調査書に書かれている噂は……そのときのものが大半です」
  悠花の語る内容は簡潔で、口調は淡々としていた。聞かれたら答えられるようにあらかじめ準備されていた問答集のように、感情を抑えている。そして自分も同じような立場にあるから余計に、智晃にはそういう実情がすぐに理解できてしまう。
 「噂には嘘もまじっていますが、真実に近いこともまじっています。別の視点から見れば……身の程をわきまえずに彼にまとわりついているようにも見えたでしょうから。
 彼を推す役員の中には、私との交際を反対する人が出始めました。もっと力のある女性と結婚しなければ、社長派との戦いに負け会社は守れないと。事実……社長派を追いこむことは結果的に会社を追いこむことになった。彼が勝ったとき、守ったはずの会社はぼろぼろでした」
  悠花は一旦言葉を区切ると、ワインを口にした。あまり飲みなれていないはずのそれをやや多めに含んでいく。このまま語らせていいのか迷いが生まれたけれど……聞かずにいることはできない。聞かずとも今の彼女の現状と調査書の内容で流れは見える。
 「彼は……会社を守るために別の女性と結婚するか、それでも私と付き合い続けるかの選択をつきつけられました。同時に、私への圧力は私の実家にまで及びました。小さな商売をやっていた実家には些末な噂が命取りになった。跡を継いでいた兄は私のせいでしなくていい苦労を抱えました。以降実家とは絶縁状態です。
 彼は、融資と引き換えの結婚の条件をなんとか取り下げてもらうと努力してくれたけれど……私はもう耐えられなかった。私たちは別れて彼は結婚しました。会社は持ち直しています」
 「もう、いいよ……もうわかった」
  耐えかねて吐き出した智晃を、悠花は哀しげに見て首を左右に振る。
 「副社長のことは……彼のお父様と副社長が親友だったそうで、彼と付き合い始めたころから存じていました。留学先でお会いしたこともあります。私たちの関係を見守ってくれて、彼のお父様が退任に追い込まれたときも心配してくれていました。だから私が会社を辞めた時も……支援を申し出てくれたんです」
  調査書に彼女の相手の名前は出ていなかった。でもこれだけの情報を与えられれば、調べることは簡単だった。何より叔父はすべてを知っている。彼に直接聞けばなにもかも智晃は知ることができる。そうでなくても……最近おこった退任劇……結婚により持ち直した会社、これまでの世間の流れをなぞっていけば予想はつく。
 「穂高のお父様が退任に追い込まれなければ……会社が傾かなければ……もし彼が、神城穂高でなければ……何度も何度もそう思ったんです。だから私は……重要な立場のある方には近づかないと決めました。近づけば……どうしても彼の世界に触れてしまう。些細にでも接点を持てば過去を暴かれて、また誰かを巻き込んで傷つけてしまう。
あなたは……ご実家のことは関係ないと言ってくれたけれど、私はその世界を垣間見ていろんなことを知りました。だから怖いんです。あなたを傷つけることも、またあの人に迷惑をかけてしまうことも、自分が苦しむことも」
 「悠花!」
 「「ナツ」と「アキ」のままだったら……もう少し一緒にいられたんでしょうか?」
  智晃は腕を伸ばして悠花を抱きしめた。もうこれ以上つらいことを語らせないためでも、拒否の言葉を防ぐためでもあった。悠花の手も智晃の背中にまわされる。抱き合っているし触れ合っているのに、どうして隔たりを感じてしまうのか。彼女の何もかもを知って、今まで知らなかったことを埋めているはずなのに、なぜ隙間はどんどん開いていくのか。
  「話してくれてありがとう」とは智晃には言えなかった。自分が教えてほしいと言ったくせに、聞かなければよかったと思った己に嫌悪を抱く。
  砂も水も手の隙間から毀れていく。そして花は散っていく。
  命の儚さを知っているから、後悔はしたくない。心から大事だと思うから手放したくない。大切にして愛して、そばにいる覚悟はできても。
  彼女を傷つけて苦しめて泣かせる覚悟まではできなかった。




  ***




  抱きしめられて眠るだけで心地よかった。彼の匂いに包まれて息遣いを感じて、悠花を確かめるように触れてくる手に守られるみたいで。
  泣きつかれた悠花は智晃に抱きしめられたまま彼のベッドに横たわっていた。
  自分に関する噂話を知られたら嫌われるかもしれないと思っていた。けれどそれならそれでいいのだと言い聞かせていた。そして心のどこかで彼がそんなことぐらいで自分を嫌ったりはしないと願っていたし、過去も含めて丸ごと受け止めてほしいとも期待していた。
  先週は会うのを最後にしようと覚悟しておきながら、このベッドで抱かれた。今夜は何もせずに二人で同じベッドで横たわっている。
  こんなにも近くにいるのに、遠くに感じる。
  彼と会うとき、いつも悠花は心の中にいろんな矛盾を抱えていた。きっとこれからも「会いたい」と「会わないほうがいい」の間を行き来していくのかもしれない。
  智晃の腕からのがれると悠花は体を起こした。部屋を見廻して時計を探して時間を確かめた後、わずかに開いたカーテンの隙間から漏れる光に目を向けた。
  夜明け前のささやかな光がすっと入り込んで、ぼんやりと部屋を浮かび上がらせる。あの光が明るさを増していくのを見たくないとやっぱり悠花は思ってしまう。カーテンをきっちり閉めて、彼と二人きりのこの空間だけはずっと夜の闇にひたしてしまえばいい。
  初めて会った夜も、いつかも……空が白けていくごとに現実に戻っていった。朝がきたら離れて、夜がきたら会って。だったら朝が来なければずっと二人で一緒にいられるのに。
  でもきっと智晃はそんなことを望んでいない。
  彼はいつも窓の外を眺めては、明るさを取り戻していく世界を待っていたような気がする。
 「ナツ」と「アキ」のままでいられればと悠花は思うのに、彼は「悠花」と名前を呼ぶ。
  光りを求め、明日を待ち、未来へ進んでいこうとする。傷ついた過去があっても、叶わなかった想いがあっても、悲しみを抱えながらも歩んでいく、そんな柔らかな強さみたいなもの感じていた。だから惹かれたのかもしれない。
  悠花はそっと智晃を見た。
  閉じられた瞼……寝ているときでも時折困ったように下がる眉、小さなひげが見える顎。
  すぐに立ち止まってしまう悠花を、いつも手を差し伸べて待ってくれる人。決してその手を強引に伸ばして歩かせたりしない。悠花自身が一歩を踏み出すのをいつも待ってくれている。
  愛しさが湧き上がってきて、彼が大切だと心から思う。
  だからこそ余計に、覆ることのない自らの過去が彼を傷つけ苦しめることは許せない。今日と未来は変えることができても、過去は決して変わらないのだから。
  過去に穂高と出会ったことも、愛したことも、そこで起きた出来事も、どれだけ後悔しても覆らない。愛したことを後悔しているとは言えないのは……後悔してもどうしようもないことだと思うからであって、愛さなければよかったと本当は何度も思った。
  手を伸ばさなければよかった、と後悔している。
  バーに行かなければよかった、と後悔している。
  名前を知ろうとしなければよかった、と後悔している。
  会いに行かなければよかった、と後悔している。
  智晃を愛したことを……後悔している。
  愛する人を苦しめる好意など「好き」とはいえない、「愛」とは呼べない。
  智晃の寝顔がだんだんぼやけてきた。悠花は目を閉じて涙を追い出す。声も嗚咽もおさえてただ目の奥から勝手にあふれでてくる涙を外に出し続ける。
  悠花は智晃の姿をずっと眺めていたけれど、自ら手を伸ばして触れたりはしなかった。
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