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第十六話 「亡き妻」への想い
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アリシアは、階段を登っていた。
登っても登っても終わりが見えず、一段上がるごとに足がズンと重くなる。
ようやく終わりが見えた瞬間、何者かの手によって絡め取られ、暗い奈落へと落ちる。
次の瞬間、アリシアは水中にいた。
複数の腕によって抑え込まれ、必死に動いても浮き上がれない。
身を切る水の冷たさが全身を刺し、肺に氷のような水が入ってくる。
息が出来ない。苦しい、寒い、痛い……。
「だん……な、さま……」
縋るように腕を伸ばした手は、何も掴まずに終わる……はずだった。
起きた時には忘れているが、幾度も幾度も繰り返して見た夢。終わり方はいつも同じなのだ。
だが、今日だけは違った。伸ばした手はギュッと握られ、優しく、力強く、光の中へ引き寄せられていく……。
・・・・・
ハッと目を覚ますと、ぼやけた視界の中にレイモンドの顔が見えた。
「……大丈夫か? 酷くうなされていたぞ」
無表情ながら、僅かに眉根を寄せたレイモンドがそう声をかけた。深い海の底のような目が、長い前髪の間から見え隠れする。その目にいつものような鋭さはなく、心配の色が表れていた。
ガンガンと痛む頭をゆっくりと回すと、自室のベッドに横たわっていることがわかった。
「ご気分はどうですか? お食事中に熱を出して倒れてから、丸一日眠られていたのですよ」
後ろに立っていたヨゼフが、濡れたタオルを絞りながら声をかける。
「丸一日も? それはご迷惑をおかけして……」
掠れた声で呟き、体を起こそうとしたアリシアを、ヨゼフが慌てて止める。
「奥様!! まだ横になっていてください、しばらく部屋から出るのは禁止ですよ! ……何故倒れたか、ご自分で分かりますよね?」
「ごめんなさい……。町からの帰り、薄着でいたので……」
「それもありますが、体が弱っていたのに働き過ぎましたね。無理をしないと約束しましたのに……」
「すみません……」
「おいヨゼフ、病人にそこまで言わなくても……」
珍しく口を挟んだレイモンドに、ヨゼフはピシャッと反論した。
「奥様は、これくらい念を押さないと聞いてくれないんです。仕事中毒ですから! でも……奥様の体調に気付けなかった私達にも、責任があります。これからは体調のことも仕事のことも、絶対に相談してくださいね」
「……はい、肝に銘じます」
布団をかけ直そうとした瞬間、左手が握られていることに気付いた。ぼんやりと見つめていると、レイモンドがパッと手を離そうとする。
「悪い。うなされているようだったから……」
「いいえ、ありがとうございます。私をあそこから、引っ張り上げてくださって……」
アリシアはレイモンドの手をとり、幸せそうに微笑んだ。薄い手袋越しにも、その手がひんやりとしているのが伝わってくる。ウトウトと微睡みながら、アリシアはその手に頬をすり寄せた。
「旦那様の手……冷たくて気持ちが良いですね。知っていますか? 手が冷たい人は、心が温かい……って……」
そこまで呟くと、アリシアはスヤスヤと眠り込んでしまった。
頬に触れたまま、どうしたら良いか分からず狼狽えるレイモンドを見て、ヨゼフが吹き出す。
「おい……ヨゼフ。笑いすぎだ」
「はははっ、すみません。動揺する旦那様なんて、滅多に見られないので……」
ヨゼフは目の端の涙を拭い姿勢を整えてから、アリシアが町から野菜を運んできた経緯を説明した。
「……というわけで、防寒具やコートについている火の魔石に魔力を込めることで、食材の温度を保って運んできたそうなのです」
「複数の火の魔石に……?」
レイモンドは訝しげに目を細めながら、アリシアを見つめた。
陶器のような肌は熱で赤く染まり、フウフウと苦しそうに呼吸をしている。前髪が張り付いた額に冷たい手のひらを乗せると、幾分か安らいだ表情になった。
その顔を見て何とも言えない感情を抱きながら、レイモンドは呟く。
「火の魔石のコントロールは、かなり難しいはずだ。出力を間違えれば出火しかねないし、少しでも緩めれば冷え切ってしまう。普通は、自分の着ている防寒具一つを操作するので精一杯だろう。それを幾つも同時にコントロールするなんて……」
「あまりに当然になさるので、疑問を持ったこともありませんでしたが……魔法ホウキやハタキを複数使役しているのも、普通ではないですよね。逆に言えば、そうすることで複数の魔力操作の方法に慣れたのかもしれませんが……。いずれにせよ、規格外です」
「魔力も多い、操作にも長けている……そして気立も良いというのに、ロイに婚約破棄されたというのだから──おかしな話だな。まあ貴族の娘としては、変わっていると言う他ない、が……」
黙り込むヨゼフの方を見ると、目を見開き口をあんぐりと開け、こちらを指差して震えていた。
「だ、だ、だ……旦那様が、女性のことを『気立が良い』と……!?」
レイモンドは、「しまった」とでも言うように顔を背ける。
「ええ、ええ! 奥様は気立が良いですよね、呪いも意に介していないようですし! 働き者で明るく、優しく、見目も麗しい! おまけにお嬢様とも仲が良いときた! そんな彼女、なんと……旦那様の奥様なのですよ!」
ヨゼフが目を輝かせながら顔を近づけると、レイモンドは後ろに仰け反って呻き声を漏らした。
「ああ……それは、承知しているが……」
「今度こそ! 正式に末永く、奥様として迎え入れてくださいますね!? ああ、ようやく念願叶って……。王家からうるさく言われることもなくなりますし、何より旦那様が幸せになれるかと思うと……」
どこからかハンカチを取り出して涙を拭うヨゼフを、レイモンドは苦虫を噛み潰したような表情で見つめた。
「やめろヨゼフ。それに俺は、亡き妻しか愛さないと……」
「またそれですか。そんなこと、前の奥様──アリシア様が望んでいらっしゃるのですか? 私は直接お会いしたことがないですけれども……話を聞く限り、旦那様の幸せを一番に望んでいらっしゃると思いますけどね」
ヨゼフは呆れたように肩をすくめ、アリシアの布団をかけ直しながら静かに尋ねる。
「でも、旦那様も……奥様に惹かれているのでしょう?」
レイモンドは黙ったまま、アリシアの寝顔を見つめた。
(ヨゼフが何と言おうと、「亡き妻」しか愛さないというのは、心に決めたことだ。だが……この娘が、アリシアに似過ぎているというのが問題なのだ。)
レイモンドの頭の中で、昨日の食事会のアリシアの笑顔が思い出される。
(彼女の笑顔を見ると、胸がざわめく。あの様な……慈しみと優しさのこもった目で見つめられるのは、久しぶりだから。あの目線は、亡き妻と同じだ。それに、仕草や話し方、考え方さえも……あまりに似ている。)
最初は「アリシアの真似をするな」と、腹が立ったものだが……。今となっては、自然に受け入れてしまっている自分がいる。
自分やブルーベル、使用人達を気遣うあの姿は、真似して出来るものなのだろうか? 彼女は、アリシアに会ったこともないはずなのに?
それは彼女が、心から自分達を信頼して、大切に想っているからこそ成せる行動なのだろう。決して、上っ面だけ誰かを真似して出来るような振る舞いではない。
(確かに、この娘に惹かれている部分があるのは確かだ。でもそれが……純粋に彼女を好ましく思っているのか、彼女を通して「アリシア」に想いを寄せているのか、分からない。それは二人に対して、不誠実なことなのだろうな。)
亡き妻はきっと、「私のことは忘れて、目の前の人を大切にしてください!」と笑うだろう。
しかし自分がこの先、この娘を真に愛せるかどうかは分からない。それに……彼女も他の人と同じく、自分を捨ててここを出て行ってしまうかもしれない。
いつか来るかもしれない未来のことを想像すると、少し胸が痛んだ。それが彼女に惹かれ始めている証拠のようで、レイモンドは苦笑する。
一つだけ、一つだけ確かなことは……「この娘を、絶対に死なせたくない」ということだ。
アリシアのように、一人冷たい水の中で死なせるなんてことは、絶対にあってはならない。それは太陽のような彼女に、相応しい死に方ではないのだ。
必ず守り抜いてみせる。
例えそれが、彼女が自分の側から離れていくという結果となっても。
幸せにするのが自分でなくても良い。ただ幸せに、笑ってさえいてくれたら。
それが、自分を大切に想ってくれている彼女に報いる方法だろう。
(アリシアに出来なかったことを彼女に、というのは……俺の自己満足なのかもしれない。だが、彼女にずっと笑っていてほしいというのは……確かに俺の本心だ。)
レイモンドはそれから長い間、ただアリシアの寝顔を見つめていた。
登っても登っても終わりが見えず、一段上がるごとに足がズンと重くなる。
ようやく終わりが見えた瞬間、何者かの手によって絡め取られ、暗い奈落へと落ちる。
次の瞬間、アリシアは水中にいた。
複数の腕によって抑え込まれ、必死に動いても浮き上がれない。
身を切る水の冷たさが全身を刺し、肺に氷のような水が入ってくる。
息が出来ない。苦しい、寒い、痛い……。
「だん……な、さま……」
縋るように腕を伸ばした手は、何も掴まずに終わる……はずだった。
起きた時には忘れているが、幾度も幾度も繰り返して見た夢。終わり方はいつも同じなのだ。
だが、今日だけは違った。伸ばした手はギュッと握られ、優しく、力強く、光の中へ引き寄せられていく……。
・・・・・
ハッと目を覚ますと、ぼやけた視界の中にレイモンドの顔が見えた。
「……大丈夫か? 酷くうなされていたぞ」
無表情ながら、僅かに眉根を寄せたレイモンドがそう声をかけた。深い海の底のような目が、長い前髪の間から見え隠れする。その目にいつものような鋭さはなく、心配の色が表れていた。
ガンガンと痛む頭をゆっくりと回すと、自室のベッドに横たわっていることがわかった。
「ご気分はどうですか? お食事中に熱を出して倒れてから、丸一日眠られていたのですよ」
後ろに立っていたヨゼフが、濡れたタオルを絞りながら声をかける。
「丸一日も? それはご迷惑をおかけして……」
掠れた声で呟き、体を起こそうとしたアリシアを、ヨゼフが慌てて止める。
「奥様!! まだ横になっていてください、しばらく部屋から出るのは禁止ですよ! ……何故倒れたか、ご自分で分かりますよね?」
「ごめんなさい……。町からの帰り、薄着でいたので……」
「それもありますが、体が弱っていたのに働き過ぎましたね。無理をしないと約束しましたのに……」
「すみません……」
「おいヨゼフ、病人にそこまで言わなくても……」
珍しく口を挟んだレイモンドに、ヨゼフはピシャッと反論した。
「奥様は、これくらい念を押さないと聞いてくれないんです。仕事中毒ですから! でも……奥様の体調に気付けなかった私達にも、責任があります。これからは体調のことも仕事のことも、絶対に相談してくださいね」
「……はい、肝に銘じます」
布団をかけ直そうとした瞬間、左手が握られていることに気付いた。ぼんやりと見つめていると、レイモンドがパッと手を離そうとする。
「悪い。うなされているようだったから……」
「いいえ、ありがとうございます。私をあそこから、引っ張り上げてくださって……」
アリシアはレイモンドの手をとり、幸せそうに微笑んだ。薄い手袋越しにも、その手がひんやりとしているのが伝わってくる。ウトウトと微睡みながら、アリシアはその手に頬をすり寄せた。
「旦那様の手……冷たくて気持ちが良いですね。知っていますか? 手が冷たい人は、心が温かい……って……」
そこまで呟くと、アリシアはスヤスヤと眠り込んでしまった。
頬に触れたまま、どうしたら良いか分からず狼狽えるレイモンドを見て、ヨゼフが吹き出す。
「おい……ヨゼフ。笑いすぎだ」
「はははっ、すみません。動揺する旦那様なんて、滅多に見られないので……」
ヨゼフは目の端の涙を拭い姿勢を整えてから、アリシアが町から野菜を運んできた経緯を説明した。
「……というわけで、防寒具やコートについている火の魔石に魔力を込めることで、食材の温度を保って運んできたそうなのです」
「複数の火の魔石に……?」
レイモンドは訝しげに目を細めながら、アリシアを見つめた。
陶器のような肌は熱で赤く染まり、フウフウと苦しそうに呼吸をしている。前髪が張り付いた額に冷たい手のひらを乗せると、幾分か安らいだ表情になった。
その顔を見て何とも言えない感情を抱きながら、レイモンドは呟く。
「火の魔石のコントロールは、かなり難しいはずだ。出力を間違えれば出火しかねないし、少しでも緩めれば冷え切ってしまう。普通は、自分の着ている防寒具一つを操作するので精一杯だろう。それを幾つも同時にコントロールするなんて……」
「あまりに当然になさるので、疑問を持ったこともありませんでしたが……魔法ホウキやハタキを複数使役しているのも、普通ではないですよね。逆に言えば、そうすることで複数の魔力操作の方法に慣れたのかもしれませんが……。いずれにせよ、規格外です」
「魔力も多い、操作にも長けている……そして気立も良いというのに、ロイに婚約破棄されたというのだから──おかしな話だな。まあ貴族の娘としては、変わっていると言う他ない、が……」
黙り込むヨゼフの方を見ると、目を見開き口をあんぐりと開け、こちらを指差して震えていた。
「だ、だ、だ……旦那様が、女性のことを『気立が良い』と……!?」
レイモンドは、「しまった」とでも言うように顔を背ける。
「ええ、ええ! 奥様は気立が良いですよね、呪いも意に介していないようですし! 働き者で明るく、優しく、見目も麗しい! おまけにお嬢様とも仲が良いときた! そんな彼女、なんと……旦那様の奥様なのですよ!」
ヨゼフが目を輝かせながら顔を近づけると、レイモンドは後ろに仰け反って呻き声を漏らした。
「ああ……それは、承知しているが……」
「今度こそ! 正式に末永く、奥様として迎え入れてくださいますね!? ああ、ようやく念願叶って……。王家からうるさく言われることもなくなりますし、何より旦那様が幸せになれるかと思うと……」
どこからかハンカチを取り出して涙を拭うヨゼフを、レイモンドは苦虫を噛み潰したような表情で見つめた。
「やめろヨゼフ。それに俺は、亡き妻しか愛さないと……」
「またそれですか。そんなこと、前の奥様──アリシア様が望んでいらっしゃるのですか? 私は直接お会いしたことがないですけれども……話を聞く限り、旦那様の幸せを一番に望んでいらっしゃると思いますけどね」
ヨゼフは呆れたように肩をすくめ、アリシアの布団をかけ直しながら静かに尋ねる。
「でも、旦那様も……奥様に惹かれているのでしょう?」
レイモンドは黙ったまま、アリシアの寝顔を見つめた。
(ヨゼフが何と言おうと、「亡き妻」しか愛さないというのは、心に決めたことだ。だが……この娘が、アリシアに似過ぎているというのが問題なのだ。)
レイモンドの頭の中で、昨日の食事会のアリシアの笑顔が思い出される。
(彼女の笑顔を見ると、胸がざわめく。あの様な……慈しみと優しさのこもった目で見つめられるのは、久しぶりだから。あの目線は、亡き妻と同じだ。それに、仕草や話し方、考え方さえも……あまりに似ている。)
最初は「アリシアの真似をするな」と、腹が立ったものだが……。今となっては、自然に受け入れてしまっている自分がいる。
自分やブルーベル、使用人達を気遣うあの姿は、真似して出来るものなのだろうか? 彼女は、アリシアに会ったこともないはずなのに?
それは彼女が、心から自分達を信頼して、大切に想っているからこそ成せる行動なのだろう。決して、上っ面だけ誰かを真似して出来るような振る舞いではない。
(確かに、この娘に惹かれている部分があるのは確かだ。でもそれが……純粋に彼女を好ましく思っているのか、彼女を通して「アリシア」に想いを寄せているのか、分からない。それは二人に対して、不誠実なことなのだろうな。)
亡き妻はきっと、「私のことは忘れて、目の前の人を大切にしてください!」と笑うだろう。
しかし自分がこの先、この娘を真に愛せるかどうかは分からない。それに……彼女も他の人と同じく、自分を捨ててここを出て行ってしまうかもしれない。
いつか来るかもしれない未来のことを想像すると、少し胸が痛んだ。それが彼女に惹かれ始めている証拠のようで、レイモンドは苦笑する。
一つだけ、一つだけ確かなことは……「この娘を、絶対に死なせたくない」ということだ。
アリシアのように、一人冷たい水の中で死なせるなんてことは、絶対にあってはならない。それは太陽のような彼女に、相応しい死に方ではないのだ。
必ず守り抜いてみせる。
例えそれが、彼女が自分の側から離れていくという結果となっても。
幸せにするのが自分でなくても良い。ただ幸せに、笑ってさえいてくれたら。
それが、自分を大切に想ってくれている彼女に報いる方法だろう。
(アリシアに出来なかったことを彼女に、というのは……俺の自己満足なのかもしれない。だが、彼女にずっと笑っていてほしいというのは……確かに俺の本心だ。)
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