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第一章 黒瑪瑙の陰陽師
《十三》
しおりを挟む「オレはすごく頑張ったと思う」
霊力酔いから回復した直後のこと。
春明は第一声に自分自身を褒め称えた。
「妖魔まみれの舞殿を出て、担がれている時滅茶苦茶振り回されて、意識が朦朧としても吐かずに我慢して、なんとか生き延びている。オレ、凄くない?」
「凄いよ、春明!」
「お前、オレを地面にぶん投げただろぉ!」
屈託のない笑顔を浮かべるシリウス。
彼を押し倒し馬乗りするような形で、春明はシリウスの頬を殴り続けた。
「オレ第一優先だったら、何か? 五体満足だったらボール扱いしてもいいってか、あ!?」
「良かったぁ、ほんと元気になって良かったよう……!」
殴りかかる春明の拳を、シリウスは笑顔で顔面に受け止め続けている。
顔を赤く腫れ上がらせながら、少年の無事にに心から安堵していた。
「こんのぉ……!」
だが、春明の怒りは収まることはない。
本気で殴っていないにしても、自分を雑に扱われたことにとてもご立腹だった。
尚且つ、痛みに怯むことのないシリウスに益々悔しさがこみ上げる。
止まる様子がない春明の怒り。
それを、黒い瞳がじっとのぞき込んでいた。
「お取り込み中かな?」
「うわっ!?」
突然下から開いた鉄の扉。
数センチほどの隙間から聞こえた声に、春明は驚いてしまう。
「そんなことないよ。いつでもウェルカム!」
シリウスは嬉々としながら、声の主に呼びかける。
春明はシリウスの上から身を引き、恐る恐る開く扉を眺めていた。
ガタン、と。
大きな鉄の扉が音を立て、そこから結界整備師の青年が現れる。
「おはようございます。調子はどう?」
落ちた声色と、どこか女性のような整った顔立ち。
桜下と相見え、春明は瞬間的に目を大きくさせた。
「あれ、まだ気分が悪い?」
言葉を詰まらせた春明を、桜下が心配そうにじっと見つめる。
青年の瞳は漆黒の夜空のように。
あまりにも純粋な眼差しに、春明は仄かに頬を赤く染めてしまう。
「……オレのこと?」.
「すごく霊力酔いをしていたから……どう? ここならそんなに酔わないはずだけど、吐き気や目眩があったら言ってね。最終兵器出すから」
最終兵器って一体なんなんだ、と春明は指摘した気持ちを抑える。
「普通だな、割と」
「そう、良かった」
桜下は這い出た扉を閉めながら、彼らの横に座り込む。
シリウス、春明、桜下。
上から見れば三角形に位置で座り、互いに対面し合う。
「お前、誰?」
沈黙が耐えきれず、春明は声に出した。
深く眉間に皺を寄せ、桜下をまじまじと見つめる。
「私? 結界整備師の桜下です。よろしくね」
「あ、ハイ。よろしく……じゃなくてさ。経緯を話そう。ここはどこで、なんで結界整備師のお前がここにいるのか。それぐらい話そうぜ?」
「結界整備師が鬼門にいることは、特別おかしなことじゃないよ?」
「そうだけど……、そうじゃないだろ!」
突然現れた謎の結界整備師。
霊力酔いで意識が酩酊していた春明にとって、道中の経緯が抜け落ちていた。
説明を求む、と春明はシリウスに助けを求めると、
「あのね。春明がぐったりしている間、さくが大結界のレベルを上げて、妖魔を抑えてくれていたんだ! でもあの甲冑モンスターが動き回るものだからさ、春明がグルグルで、僕もベリーピンチで、そこにね、さくがね、足でガンって、もうガンって!」
だめだ、こりゃ。
鼻息を鳴らしながら話すシリウスに、少年はこれ以上聞くのはよそうと痛感した。
「……お前も、逃げるのが間に合わなかったのか?」
春明は改めて、桜下に問いかける。
混乱時の結界整備で脱出に間に合わなかった、と。
春明は推測を声に出すと、桜下はゆっくりと否定した。
「いいえ、私は最初からここに残るつもりでいたよ。貴方たち二人のことは、大尉さんと風間さんから聞いていたから」
「ちゃんと脱出出来たのかあいつ!?」
突然出てきた、従者の名前。
何故、この青年が風間を知っているのか疑問が過ぎるも、今は彼の安否が先だった。
同様にシリウスも、自身の上司の名前に身を乗り出して桜下に問いかける。
「キャプテン櫂も一緒に出られた?」
「落ち着いて。あのお二人は大結界閉鎖直前に東門から出たから大丈夫、安心して」
桜下の言葉を聞いて、二人は揃って肩から脱力していく。
二人の安堵仕切った様子に、桜下は小さくため息を漏らした。
「二人とも貴方たちのことを心配していたよ」
「……あのキャプテン櫂が?」
「部下を頼むと。貴方のことでしょう?」
いつも叱咤を繰り返す自分の上司。
そんな櫂が部下の身を案じ頭を下げたと聞いて、シリウスの目頭が自然と熱くなっていった。
「イエス、きっと僕のことだ。そっか……」
思いふけるシリウスの横では、春明がぐっと唇を噛みしめている。
「帰ったら確実に説教だな……」
憂いのあまり顔を赤くさせる風間の姿がすぐに目に浮かぶ。
春明は再びため息を漏らし、その様子に桜下はゆっくりと微笑んだ。
「貴方は……たしか阿部春明様、ですよね?」
「そうだけど……ああそういえば、斉天祭のパンフレットにオレのことも書いてあったっけ」
春明はすぐ目を細め、顔を逸らす。
舞師として認知されるほど、自身は活躍していない。
阿部家の御曹司、混天大聖の息子が今の自分の通称。
きっとパンフレットに記載されたページをたまたま見ただけだろう。
春明は胸の内を抱えたまま何も言わずに黙り込む。
けれど、
「二、三年前くらいかな。神奈川の方でやっていた七夕祭り。祭事の舞を奉納していたでしょう?」
「は?」
桜下から切り出された話題に、春明の声が裏返る。
「たしかに……やった覚えはあるけど……めっちゃ規模も小さかったし、田舎の祭りだぞ? なんでそんなこと知っているんだ?」
桜下は当時のことを思い出しながらゆっくりとした口調で話し始めた。
「私ね、あの辺りの様子をよく見に行っているんですよ。丁度七夕祭りの翌日で、結界の数値が全く変動していなかった。仕事に来ては見たけれど、やれることが全くない。やられた、なんて思わず焦っちゃったな」
桜下は上を仰ぎ見続けていたが、やがて春明の方に視線を切り替える。
「きっと土地の歴史についてすごく勉強したんだな、って思っていたよ。でなければ、結界があそこまで安定しているなんて有り得ない」
「だってあれ、町内の組合員くらいしか見てなかったぞ」
人数は十名と少しばかり。
彼らの為に、春明は一週間に渡り資料を読み漁り、舞の稽古に重んじた。
十人だろうが百人だろうが、そこに舞が必要ならば真剣に向き合う。
彼の性分が、桜下の心を引き寄せた。
「けれど、私は貴方に気がついてしまった。そういうの、嫌だったかな?」
「そんなわけないだろ」
観てくれた客を蔑ろにするわけがない。
春明は桜下と向き合い、力を込めて言い放つ。
「ありがとう」
実際に観てくれた訳ではない。
だが、土地の安泰祈願を通して一人でも多くに自分の名前が知れ渡る。
少年にとって、それは誉だった。
「だが、春明“様”はやめろ。その、お前に言われると、なんでだろうな……すごく痒い」
「わかった。じゃあ、春明君。改めてよろしくね」
「……おう」
様、ではなく君付け。
むず痒さは変わらず、春明は視線を逸らし無愛想に応える。
少年は照れ隠しに口角が上がらないよう、抑えるので精一杯だった。
「それと……、」
桜下は春明の隣を見ると、青い眼差しと目が合った。
「貴方のこと、ちゃんと聞いていなかったね」
あまりにも熱い視線に、眉を潜ませる桜下。
シリウスはここぞとばかりに名乗りを上げた。
「僕はシリウス! 関東域所属の検非違使やってます、よろしくね! 身長は百八十九センチの体重八十キロ、歳は二十。好きなものは日本刀と辛いものとドライブと、ほか色々! 特技は地図読んで道に迷わないこと。座右の銘は『最後に愛は勝つ』。あと出身は、」
「ストップ、ストォップ!」
止まらないシリウスの自己紹介。
それに待ったをかけたのは春明だった。
「なんだい春明。邪魔しないでくれるかな。僕は自己紹介に精一杯なんだ」
「うるさい、初対面でどれだけ語りたいんだ。必死過ぎてどん引きするわ」
「そりゃあ、必死になるよ。さくは春明を知っていて、僕の情報は一ミクロンもノッシングだよ? スーパーテンパるよ」
「勝手にスーパーテンパってろ。おい、お前も言い返したらどうだ?」
春明に催促され、様子を見守っていた桜下は素直に言い放つ。
「うん、長いね。要点は纏めようか」
「ボク、シリウス。刀トクイ。ヨロシクネ」
「シリウス君ね。よろしく」
何故片言なんだ。
眉間に皺を寄せながらシリウスの様子を見る春明は心の内で呟くと、そのまま辺りを見渡す。
天井、壁、扉。
すべて鉄の板で辺りは作られ、部屋の隅には積んだ段ポールやコード、機材が積まれている。
室内は空調が程よく効き、狭いとは感じないが三人でちょうどいい広さ。
下に視線を落とせば、墨のような真っ黒い敷物が敷かれている。
硬い鉄の床に直で座らないように、桜下があらかじめ用意したた敷物だ。
春明は桜下に問いかける。
「ここ、鬼門の中か?」
「そうだよ、大結界の霊力を回す四門の管制室。基本、整備師以外は入らないからさ。お客様を呼ぶような部屋じゃないけど、外よりも安全だから。粗末なところは見逃してね」
「まあ、これくらいは……」
別に我慢できないほどではない。
そもそも急を要して場所を提供してくれたのだ。
春明は黒い敷物の肌を滑らす触り心地が気に入り手の平を沿わせる。
「……」
なんとか、生きてる。
春明にとっては数時間のできごとが、丸一日に縮小されたようだった。
手を床に敷かれた黒い布地に沿わせ、触りの柔らかさが心地よく感じている。
そして横からぐぅ、っと。
腹の鳴る音で、春明は現実に戻された。
「いやー、気力思いっきり使ったから。お腹空いちゃった。ソーリィー」
申し訳なさが欠片もないシリウスの笑みに、春明はまたため息を漏らす。
「お前は……、あっ」
緊張感がないな、と。
指摘しようと思った矢先、春明の腹の音も釣られて鳴ってしまった。
「良い感じでシンクロしたね」
「うるさい、黙れ」
春明の眉間の皺がどんどん寄っていく。
シリウスは春明の心情など気にせず、笑みを増やしていくだけだった。
「二人とも甘い物は好き?」
すると、突然桜下は二人に提案を出す。
予想外の発言に、シリウスと春明は同時に桜下の方を見た。
「辛党って甘いの嫌いって言われるけど、僕甘いのも大好きだよ!」
「別に、それほど苦手意識はねえよ」
二人の言葉に桜下は安堵した。
「余り物だけど、これ食べる?」
そしてそのまま、敷いている黒い布の中に右手を入れた。
「ちょい、ちょーい!?」
目を疑う光景に、思わず春明は絶叫する。
桜下は何も気を止めることなく、腕を黒い布の中に入れていく。
まるで水面に手を入れたように。
ついには右肘まですっぽり、布地の影に吸い込まれている。
「ワォ、スーパーマント」
一方、シリウスは特に焦る様子もなく面白そうに光景を眺めていた。
「たしか、入れたはずだけど……あった」
桜下が黒い布から腕を引き上げると、手には紙製の箱があった。
敷物の上に箱を置き、またすぐ布の中に手を入れる。
「これ何?」
「シュークリーム。色々と種類があるから好きなの取っていいよ」
春明が恐る恐る箱を開けると、ビニールで包装されたシュークリームが十個ほど入っていた。
「ついでに水もどうぞ」
桜下は再び手を布から出すとペットボトルの天然水を三本、シュークリームの箱の横に並べる。
「……聞きたいんだけどさ」
並べられ用意されたシュークリームと天然水を前に、春明は桜下に問いかける。
「あ、シュークリームは嫌?」
「違うわ、シュークリームじゃねえよ。オレらこの布の中に沈んだりしない?」
「大丈夫。生き物は入れないから」
安心する部分がズレている気がする。
春明は脳裏に浮かんだ疑問をぐっと飲み込む。
「ありがとう! けど、なんでシュークリーム持ってるの?」
一方シリウスは、差し出されたシュークリームにウキウキとしながら桜下に訊ねた。
「職場の人に配ろうとして、けれど余ったから」
「そっかぁ、ラッキー!」
箱の中をのぞき込むと、種類ごとにまとまったシュークリームを吟味する。
「ほうほう。チョコレート、ストロベリー、グリーンティーに……。なにこれ、しらすミルク? スーパー気になる」
「甘いしょっぱいって感じ。うちの職場の近くに売っていて、この辺りじゃ珍しいかな」
「僕これにする!!」
桜下の話を聞き、シリウスは速決してしらすミルクを手に取る。
「春明ぃ、いっぱいあるよ。一緒に食べようよ」
シリウスは少し距離を取り様子を伺う春明に手招きをする。
春明は恐る恐る近づき、箱の中をのぞき込んだ。
「定番のカスタードが無いじゃん」
「カスタードはうちの先輩がみんな食べちゃった」
桜下の言葉に、そうかと春明は頷く。
しばらく考え、シュークリームを手に取った。
「じゃあ……イチゴと、このしらすミルク」
「春明もしらすミルクが気になる?」
シリウスはしらすミルクのほかに、抹茶味も手に取りながら春明に問いかける。
「味も見ていないのに、評価をするのは失礼なだけだ」
「ふふーん、ナルホド。春明はグルメだね」
「お前よりかはな」
二人がそれぞれ二種類ずつシュークリームを取ると、
「頂きます!」
「頂きます」
同時にしらすミルクのシュークリームにかぶりつく。
すると、中から白いクリームが溢れ、ビニールの底に溜まってしまう。
「アウチ、やってしまったぁ! めっちゃクリームボリュミー」
「皮をこう掬い上げればいけるだろ」
「ナルホド! さっすが春明!」
春明がシュークリームの皮をちぎり底に溜まったクリームを付けて食べている。
シリウスも真似てシュークリーム皮をちぎり食べ始めた。
「美味しい?」
そんな彼らのやりとりを。
桜下はチョコ味のシュークリームを食べながら問いかけた。
「イッツ、グーッ! 微妙に塩加減が効いていて、良い感じ」
「まあ、いいんじゃね?」
シリウスと春明、それぞれ好感触を得た反応に桜下は安堵の息を漏らす。
「そっか」
桜下は何口かシュークリームにかぶりつき、水を口に含んだところで二人に視線を向けた。
「食べながらでいいから、これからについて話そうか」
柔らかかった口調が、ほんの少し引き締まって響いた。
これからどうするか。
シュークリームという緩和剤を添えながら、淡々とした口調で続ける。
「大結界内に発生した妖魔はほぼ全て無力化出来たと言っても過言ではないでしょう。検非違使衆の討伐で数を減らし、残った妖魔も大結界の出力を上げて動きを抑えている。だからこのまま待てば検非違使が救助に来てくれる……と、思いたかったんだけどね」
「何かあるのか?」
不安を覚え、思わず春明は言葉を挟んでしまう。
「だいぶ時間が経っているなぁ、って」
何か心当たりがある、と。
桜下はシリウスに視線を向け、控えめにシュークリームをひとかじりする。
シリウスは回答を促されると、悩みながら言葉を続けた。
「ウーン。そう言われると、もう櫂大尉が来てもいいはずだ。だとすると、退魔武具が不足しているからじゃないかな? 人員は足りているけれど、結局武器が無いと太刀打ち出来ない。舞殿にはまだ妖魔が残っているから、再討伐の為の資材を調達しているところじゃないかな」
「確かに。けれどさ、先に春明君の救助隊が来るはずだよ。大尉さんは春明君が私達と一緒に鬼門にいることは知っているはず。東側と北側は妖魔が比較的少ないと把握しているだろうし、舞殿に乗り込むことを考えると時間のかけ過ぎはあまりよろしくないんじゃない?」
指摘される内容に、シリウスが申し訳なさそうに項垂れる。
「御免なさい」
検非違使全体の対応が遅いと言われたことに、シリウスは責任を感じていた。
すかさず、桜下は否定しながら首を横に振う。
「いや、そういう意味で言ったわけじゃないよ。検非違使衆の対応に落ち度はない。私が思うのは、それとは別の影響で検非違使が動けないんじゃないかって」
「それって、どういうこと?」
疑問にシリウスを見ながら、桜下はシュークリームを頬張る。
水を飲みながら喉に通してく。
「ふぅ」
シュークリームを食べ終えて一呼吸。
やがて、落ち着いた口調で淡々と話していく。
「この騒動の発端は暴走したテムイが原因だから、面倒なことになっているんだよ。あれは、陰陽衆側の所有物。下手に手を出したらしょっぴかれちゃうよ」
……それを蹴り壊したのさくだよね?
シリウスは言葉を挟みたい気持ちをぐっと堪え、桜下の話に耳を傾ける。
「陰陽寮の総督にあたる陰陽衆に対して、検非違使衆は軍事力のみ。テムイに対して権限は何も持ち合わせていないんだよ。だから、陰陽衆の判断が終わるまで大結界は封鎖のまま維持。その影響で、救助に遅れが出るとは思わなかったけれどね」
桜下は説明に区切りを入れるように、もう一つシュークリームの袋の封を開く。
袋の表面には、ピスタチオと書かれていた。
「あとは、舞殿に残っている妖魔討伐に向けて準備かな。あの中にいる妖魔を倒さない限り事態は収束しない。幸い、舞殿の建物自体が一つの結界になっているから妖魔が外に出ることはないよ。けれど、今こうしているうちに妖魔が発生と集合を繰り返して強くなっていく。対抗する為には、それなりの人員と退魔武具が必要になってくるから、シリウス君が言ったことも一理あるんだよね」
クリームがこぼれないように食べながら、桜下は状況を話していった。
「じゃあ、当分はこのままってことか?」
春明は強く拳を握ったまま桜下に問いかける。
ピタリ、と。
声がどこか震えていることに気がつき、桜下のシュークリームを食べる手が止まった。
「そうだね。救助が遅くなってしまうだけで、私たちがここに留まるのに変わりは無い」
「まあ、そうなるよな……」
はっきりと告げられた言葉に春明は歯切れを悪くさせながら相づちを打つ。
胸の内に秘める、不服感。
それを隠し通しながら絞り出した言葉だった。
「貴方はどうしたい?」
けれど、それは無駄な足掻きにすぎない。
桜下の真っ直ぐな黒い瞳が春明を射貫く。
「早くここから出たい?」
「オレは……」
言ったってどうする、春明は自問を重ねた。
シリウスが安全な場所まで避難させてくれた。
その判断に少年は意義を申さない。
早く救助されたい気持ちは、春明にも当然ある。
しかし彼には、それ以上に。それ以上に……、
「春明は、舞を踊りたいんだよ」
シリウスは彼の言葉に代弁を付け加えた。
「ちょ、お前。何勝手に……」
春明は慌てながらシリウスの言動を静止させようとするが、シリウスの大きな体格に適うはずがない。
シリウスは春明の頭を軽く抑えながら、真剣な表情を見せる。
「今日は春明が舞師として活躍する大事な一歩だったんだ。舞を通じて斉天大聖と向き合って、聖人じゃない、一人の生きた人間として別の表現を見つけたい。決意表明だったんだよ。けれど、あの舞台を春明は妖魔に奪われた」
舞殿の様子を思い出しながら、シリウスは静かに語る。
大量に徘徊する妖魔の群れ、逃げ惑う人々。
それでも、震えた足で舞台に立ち続ける春明の姿。
「誰よりも悔しいはずだよ。それなのに、こうして我慢してくれている。だから、護衛しか出来なかった僕も悔しいんだ」
春明の身を守ることしか出来ず、彼が本当にやりたいことを叶えることが出来なかった。
とても歯がゆい想いに、シリウスの言葉に力が入る。
「シリウス君はこう言っているけれど、本当にそうなの?」
桜下は話を聞き終えると、再び春明に問いかけた。
本人から直接声を聞かなければ、青年は納得しない。
黒い瞳を逸らすことができず。
春明は観念して、想いを吐露する。
「……ああ、そうだよ。今日の為にどれだけ練習したと思っているんだ」
「今でも、舞台に立ちたい?」
春明は一瞬息が詰まった。
まだじっと、夜空のような瞳が少年を見つめている。
青年なりの、確認するだけのちょっとした仕草。
それが、春明にとっては試されているような緊張が走った。
「オレは舞師だ。立ちたいに決まっているだろ」
「舞殿は妖魔が溢れている。貴方を見てくれる観客もいないのに……それでも立ちたいの?」
冷たい現実が少年に突き付けられる。
観客が恐怖に立ち退き、席には誰も存在しない。
人の陣地は犯され、妖魔が蹂躙する舞殿でなおも舞を踊り続けたいのか。
桜下の容赦ない問いかけ。
だが、緋色の髪の舞師は夜空を睨み付けるように言い放つ。
「立つべき舞台があるんだったら、オレはどこでだって舞ってみせる」
春明は口角を上げ挑発的な口調を向ける。
少年の底知れない野心。
彼の僅かな心情が垣間見え、桜下はただ黙って様子を伺うことしか出来なかった。
「ただ、舞殿に辿り着く前に妖魔にやられるとか、舞台に上がる前に死ぬとか論外だから。死に無くねぇし、そこのところは間違えるなよ?」
彼は、単純に死ぬ気で舞台に立ちたいだけ。
無闇に死にに行くのはもちろん論外だ。
春明は勘違いさせないよう捕捉を付け足していくと、桜下はゆっくりと首を横に振った。
「そんなことはさせなないよ」
落ち着いた声色。
その中には、ハッキリとした強い意志が宿っていた。
「私が、何とかする」
「何とかって、どういう……」
困惑をする春明に、桜下は少しだけ得意げになりながら笑みを零す。
「まだ意思があるのなら、私が春明君の舞台を整えてあげるよ。妖魔の妨げがない、貴方が立つべき舞台をね」
「……へっ?」
数秒前の自身はどこに行ったのか。
春明は情けない驚いた声を漏らす。
「どうやって?」
最初に胸の内にわき起こった感情は嬉しさだった。
自分の能力を引き出す機会、斉天を舞える時が再びやってくる。
……けれど、どうやって?
妖魔によって蹂躙された舞殿をどうやって取り戻す。
舞殿の光景をと脳裏に起こすと、春明は眉間に皺を寄せていく。
「結界を張る」
桜下は手に持っていた食べかけのシュークリームを食べきると、説明を続けた。
「妖魔がいるから舞殿になんて行けない。だったら、まずはテムイを壊して、春明君の安全圏を確保させる。それくらいは出来るよ」
「おいさっき、テムイ壊したら捕まるって言っていなかったか?」
「……」
春明の疑問に、三秒ほど漂う沈黙。
桜下はすぐ、何事もないように言い放つ。
「今更一つ増えたところで大丈夫、うん」
「大結界のテムイ壊したの、絶対お前だろ」
春明の質問に特に返す素振りもなく、桜下は話を続ける。
「妖魔が近づけない舞台を整えることは出来るよ。けれど……」
桜下は言葉を濁し、視線をシリウスの方向に切り替える。
「ウン、どうしたの?」
不思議そうに首をかしげるシリウスに桜下は問いかける。
「春明君を守る為にここまで逃げてきた上で、貴方は黙って聞いているつもり?」
危険な地に再び赴くという提案。
それを止めるべき相手が、にこやかな笑みを浮かべながら静聴に徹する。
彼の立場なら真っ先に止めるべきだ、と。
桜下はシリウスの態度に我慢が出来ず声を上げてしまった。
「自分から提案しておいて変な話しだけど……私だけ一方的に話すつもりはないよ。検非違使として貴方の意見も聞きたい」
「ファッツ? 僕の意見?」
クエスチョン、とシリウスは顔で表情を描きながら言葉を考える。
何か言葉を捻りだそうとする姿に、桜下は肩を落とす。
「私が言いたいのは、危険な舞殿に戻ろうとしてるのに貴方は止めようとしない……なんで?」
じっと黒い瞳がシリウスの青い瞳を捕らえる。
真っ直ぐな瞳に気脅され、やっとシリウスは漸く真面目な青年の言い分を理解した。
「ウーン、そうだよね……、確かに止めるべきだ……でもね……」
普通の検非違使であれば、真っ先に提案を否定し桜下を拘束したであろう。
だが、シリウスの視線の先には春明の姿があった。
これからの行く末に期待と不安が折り重なった春明の表情。
「今の僕の任務は護衛だからだよ。春明……いや、キミ達が行きたい場所があるなら、止めたくないのが本音。けど、僕が本気で危険と判断したら止めるよ」
友人の悩みながらも前に進もうとするきっかけを、シリウスは守り通す方に賭けた。
「貴方が本気になっていない理由は?」
「僕だけなら逃げるしか出来なかったけど、今はさくがいるからかな。検非違使の僕と結界整備師のさく……うん、なんとかなる気がするんだ」
「……楽観的過ぎない?」
「あ、でも、最後まで話しを聞いてからちゃんと判断する。僕の直感で押し通しちゃ、さくも不安に思うでしょ?」
「……」
桜下は改めて、二人の様子をじっと見つめる。
舞台に上がれる期待と、道中の危険とのせめぎ合いで悩む春明。
結界術という要因が生まれたことで、新たな可能性を見つけ出すシリウス。
それぞれの彼らの反応を見直した上で、桜下は立ち上がった。
「分かった、作戦を練ろう」
よいしょ、と。
桜下は部屋の隅に固まった資材の山に向かって歩き出す。
重ねられた段ボールの山と大きな機材を退かすたびに、擦れた音を響かせていた。
「ヘーイ! 僕、何か手伝おうか?」
「いや平気、今見つけたから」
シリウスが様子を見守っていると、やがて桜下は段ボール山から姿を現す。
青年の手には、筒状に巻かれた大きな模造紙二枚と蛍光色のマーカーペン。
桜下は模造紙の一枚を二人が見えるように広げると、舞殿全体の縮図が描かれていた。
「ここが私たちがいる鬼門。それでこの中心が舞殿ね」
直径一・五キロ、広さ約百七十七ヘクタール。
大結界の外周が、一枚の模造紙にまとめられ、外周を走り回った桜下は密かに肩を落とす。
縮図をマーカーでなぞりながら、説明していくところ、
「ねぇ、これ何?」
シリウスは別の箇所に釘付けになっていた。
そして、隣にいた春明も渋い表情を浮かべる。
「……」
それは縮図の余白を埋め尽くすが如く、びっしり書かれた紐のような黒い線。
大結界の門ごとの出力数値や配線の分岐、業務で扱う内容を細々と。
シリウスと春明には、桜下の直筆の文字だと気がつかなかった。
「うーん。関係ないものだから、ちょっと黙ってて」
説明するのも面倒に思い、桜下はシリウスの問いかけを冷たくあしらう。
そして、縮図にマーカーを引き、話を逸らしていく。
「まず貴方たちは、舞殿を出て東側に向かって進行。東門が閉ざされていたことを確認すると、鬼門に進路を変更させて小魔の集合体と対峙した」
シリウスと春明が辿った経路をマーカー線が辿っていく。
そして、鬼門から少し手前の部分で『×』マークが付けられた。
「経路はこれで合っている?」
「ウン、そんな感じだった」
「あの時戦っていた妖魔以外で、道中妖魔を見かけた?」
桜下の問いかけにシリウスは避難当時の状況を思い返す。
「いたけど、動けないヤツが殆どだったなぁ。僕も妖魔を避けて動いていたからあんまり会っていないけど……あ、でも鬼門の近くで暴れ回っていた人型の妖魔が二体いたかな。そいつらがどっか行った後にあの甲冑妖魔が出てきた」
「やっぱり集合して妖魔が一体にまとまったと考えていいね。仮に妖魔が残っていたとしても、結界の影響で動けない。舞殿に行くとすれば来た道を辿るのが一番理想でしょう」
舞殿までの道のりは決まると、もう一枚用意した模造紙に切り替える。
今度は、舞殿全体が描かれていた。
舞台のフロアを中心に、出演者フロア、観客フロア、VIPフロアがある。
舞台の席数や入り口の場所など、フロアごとの見取り図も追記されているが、VIPフロアに限っては建物の配置図のみ、詳細は描かれていない。
「それで、どこから入るかだけど……」
桜下の持つマーカーペンが地図の出演者フロアに向けられるが、その前にシリウスは声をかけた。
「そこはダメ。今頃、ロビーにあるテムイで妖魔がいっぱいになっているよ」
春明を救出する為に、シリウスは出演者フロアの大ロビーを経由してスタッフ用である長い通路に差し掛かった。
その時、出演者用の入り口として設置してされたテムイが、光り出す場面を目撃している。
「観客の入り口は? 近いから入りやすいんじゃねぇか?」
春明は舞台から一番近い、観客フロアからの侵入を提案するが、桜下はゆっくり否定する。
「たしかに、観客フロアは舞台に近いけれど、チケットがないと入れないようになっているはず。都柄メルのチケット倍率に拍車がかかって、入場間際の警備がすごいことになっているらしいよ。こんな状況だけど、警備に使われている霊術が起動していて、私たちに入る手段がない」
まさか桜下がチケット争奪戦の苦労話に付き合わされていると、思うはずがない。
二人は桜下が何故そこまで詳しいのか経緯を知るはずもなく、話は先に続いていく。
「かと言って、出演者フロアに正面から入ったらロビーにあるテムイのせいで、発生した妖魔と鉢合わせになる」
桜下は見取り図上のテムイを何度もペン先で示し、蛍光色の点の跡を残していく。
「シリウス君、どうやって舞殿から出たの?」
解けない問題の答えを求めるように、桜下は少しだけ悔しさを染みこませながらシリウスに問いかける。
「裏口があったんだ。スタッフ用の廊下と直接繋がっていて、ロビーに出ないで行ける」
「どの辺? だいたいでいい」
「ここだよ」
シリウスは桜下からマーカーペンを受け取ると、正確な位置を図に示していく。
曲がりくねった線はスタッフ用入り口中腹から外に向かって伸びていき、出演者フロアの建物外周に到達する。
「ああ、分かった。出演者フロアの北東に非常口を作って、遠回りだけど、より安全な方角に向かいやすいように造っては居るんだ」
出演者フロアの外周北東の位置に、小さく非常口の文字が書かれている。
シリウスと春明が脱出したルートに漸く合点がつき、桜下はマーカーペンのキャップを閉める。
「貴方たちがどうやって鬼門まで来たのか、ちゃんと分かったよ。この道を辿って行こう」
蛍光色で飾られた侵入ルートにシリウスは満足そうに笑みを浮かべる。
桜下はシリウスの反応に胸をなで下ろし、本題に入った。
「で、ここからが私の出番。何せ舞殿のテムイはまだ起動している。二人が脱出した時と比べたら数が多くなっていることでしょう。だから入った瞬間に簡易結界を張る」
「簡易結界ってナニ?」
「大結界の規模を最小限にして、自分の周囲に張る結界のことだよ」
ちょっと待っていて、と桜下は二人に言い残し、また段ボールの山へと向かっていく。
「たしか入ってたはず、簡易結界セット」
「アバウトだなぁ」
「普段はまず使わないからね」
がさごそ、とまた桜下は物音を立てながら段ボールの中身を確認していく。
様子を見ながらシリウスは何気なく問いかけた。
「いざとなったら、さっきの蹴りでパパパっとやっつけちゃうの?」
蹴り倒す桜下の姿を想像し、シリウスはにんまりと顔を緩ませる。
けれど、桜下は段ボールの山を漁りながら否定した。
「……いや、数が多い時は蹴らない」
「そうなの?」
「そうだよ。そもそも私、結界整備師だからそんな武闘派じゃないよ」
「嘘だァ! 絶対に嘘だァ!」
「こら、そんな大きな声出さない」
「……了解」
シリウスは納得がいかず、つい口をへの字に曲げてしまう。
桜下はふて腐れるシリウスを見向きもせずに、簡易結界が入った段ボールをなお探し続ける。
「じゃあ、普段は違うっていうのかよ」
すると今度は、シリウスに代わり春明が質問をした。
「まあ、そうなんだけどね……、本当にどこ行っちゃったんだろ……」
「……まさか、結界の道具見当らねぇのかよ」
「あ、違う。今のはそういう話じゃない。簡易結界はたしかに入れたはず……」
春明は捜索に奮闘する桜下の様子を見ながら、新しいシュークリームを手に取り封を切る。
がさごそ。
探し始めて、二分ほど経過した頃。
大型の機材の影に隠れるように、小さな段ボール箱が隠れていた。
「あった、あった。これがあれば、なんとか行けるでしょう」
箱に詰まった大量の紙札とケースに保管された透明な石を確認すると、桜下は箱を持って立ち上がる。
けれど、待たされた二人は待ちくたびれ興味はシュークリームの方に映っていた。
「いーなー、春明のそれも美味しそうだね」
「お前さっき食ってただろ」
春明がシュークリームを頬張り、隣ではシリウスが物欲しそうに見つめている。
シュークリーム。
桜下の視線は、春明が持つ洋菓子に集中していた。
「あ」
突然、間の抜けた声が部屋に響く。
手にした段ボールをその場に置き、二人の元にやってくる。
「ファッツ? さく、どうしたの?」
桜下は困惑するシリウスの隣に座り、ズボンのポケットから二つ折りの皮財布を取り出す。
青年の表情は、珍しくどこか焦っていた。
「なんで財布?」
春明の問いかけにも答えようとはしなかった。
青年はただ財布を取り出し、紐を解く。
やがて小銭入れの中から、小さく折りたたまれた紙切れが取り出された。
「……」
慎重に、丁寧に。
メモ用紙ほどの大きさの紙を広げていき、やがて桜下の表情は焦りから真顔になる。
「……何か書いてあるの?」
シリウスは取り出された紙が気になり、横からのぞき込む。
そして、そこに在ったモノに目を大きくさせた。
「お前ら何見ている……」
春明も我慢ならず、身を乗り出す。
そして見たモノに後悔し、途端に顔を引きつらせていく。
「ほんと、ゴメンって」
桜下はシリウスにでも春明にでもない。
紙に向かって謝罪した。
開かれた内容はシャトレのロゴと会計金額が表記。
つまり、シュークリームのレシート。
それがいくつもの四角い折り目を重ね、中心にいたソレは憤然と構えていた。
「さく! 毎度毎度……ぜってぇわざとやってるだろ!」
怒号が部屋全体に木霊する。
レシートの紙にくっついた一匹のハエトリ蜘蛛が人語を喋っていた。
「Oh no! It’s fantastic!」
全長二センチほどの蜘蛛が怒りにまかせて上下に飛び跳ねる。
その様子が余りにも可愛らしく、シリウスの口元がどんどん緩んでいく。
「この蜘蛛なに? ハイパー面白い」
「なんだぁ? この金パ、顔近っけえなぁ」
喋ること以外は普通のハエトリ蜘蛛。
興味津々に観察するシリウスを視界から背けると、蜘蛛は桜下に向かって怒りをぶつける。
「おめぇが紙幣を取っている間、俺様に小銭を取らせやがって」
「あの時はありがとう。後ろに人も並んでたし、細かいの取るのって時間かかって大変」
「なーにが大変、だ! 俺様がおめぇの指先にいたから、ついでに手間を省かせたかっただけだろ!」
「うん、そうだよ。よかった、いないと思ったけどレシートに紛れ込んじゃったんだね」
怒りながらも、蜘蛛はレシート離れ桜下の指先に飛び乗る。
桜下は蜘蛛が乗る指先を、自分の視線の高さまで合わせていく。
「さく、その蜘蛛は一体?」
当たり前のように蜘蛛と会話を続ける桜下。
シリウスは密かに期待を潜ませながら、問いかけた。
「ああ、そうだよね。紹介するよ」
桜下が人差し指をピンと伸ばし、指先にいる蜘蛛をシリウスの目の前に見せつける。
「蜘蛛の妖魔、名前は牡丹。大丈夫、口は悪いけど人に危害を加えることは絶対にしないから。ねっ、大先生?」
「ヒャッヒャッヒャ! 飛んで火に入る夏の虫か! その眼くり抜き食ろうてやろうか、えぇ?」
蜘蛛の妖魔、牡丹。
小さい脚でシリウスの眼前に向かって跳躍しようとするが、自身が立つ足場がぐらりと揺れた。
「そんな怖いこと言っちゃダメでしょ」
桜下は瞬時に拳を握り込み、牡丹を手の中に収めていく。
そして、器用に片手で財布を開けいくと牡丹は慌て出した。
「ウソ、ウソ! よく見たら不味そうだった、コイツの目ん玉!」
「あまり変なこと言わないでよ。妖魔に襲撃された直後なんだから」
桜下は困り顔で握った拳に問いかける。
ぴょんぴょんと、手の中では牡丹が飛び跳ねている感触があった。
「仕方ねぇだろ、閉じ込められて腹減ってんだ。何か食わせろ」
「……しょうがないなぁ。シリウス君、シュークリーム一つ出してくれる?」
片手が塞がってうまく袋を開けられない。
桜下はシリウスに自分の代わりにシュークリームを取って欲しいと呼びかける。
すると、
「荒ぶる蜘蛛よ、怒りを沈め給え。ビークワイエッツ、ビークワイエッツ……」
「何を言っているのかな?」
シリウスの冗談が桜下にはさっぱり通用しない。
そのままシュークリームを受け取り、開いた指の隙間から牡丹が現れる。
「ほら、お食べ」
「お、やりぃ!」
桜下はシュークリームの生地をつまみ、食べやすいようちぎる。
小さな蜘蛛でも食べやすいよう生地の断片を渡すと、牡丹は嬉しそうに食べ始めた。
「……これ食べるのに大分時間がかかるんじゃないかな?」
「全部は流石に無理だよ。ちょっとずつね」
牡丹が食べ終えると、桜下はまたシュークリームを小さくちぎり手渡す。
シリウスは甘味に夢中になる蜘蛛を観察しながら続けて問いかけた。
「この蜘蛛、妖魔なんだよね……どうしてこんなに友好的なの?」
「それは……」
途端に、桜下が言いよどんだ。
なにか言葉を続けようと、口を開く。
「専魔、だからじゃねぇのか?」
だが、それよりも早く言葉が遮られた。
桜下とシリウスの後方、部屋の隅にうずくまるように春明がじっとこちらを見つめている。
「春明君、なんでそこに? もしかして、調子が悪い?」
牡丹持ったまま立ち上がろうとする桜下に、春明は身を強ばらせていた。
「いや、違う。断じて違う。だからお前はそこにいろ」
「ん? まあ、それならいいけれど……」
座り直した桜下を見届けると、春明は胸をなで下ろした。
「ねえ、専魔ってなに?」
すると、シリウスの疑問の矛先が春明に切り替わる。
発言を聞いた瞬間、春明が大きく目を見開いた。
「お前、専魔、知らねぇのか!? それやべえだろ、検非違使として!」
「え。マジ、リアリィ?」
「マジだ、マジ! 戦術で取り入れる奴だって検非違使にもいるだろ!」
「ウーン、関東域はみんな退魔武具を使っているからなぁ」
シリウスは記憶を辿り、検非違使たちの戦闘を思い返す。
けれど、妖魔を連れた検非違使に心当たりがない。
「シリウス君、覚えていて損はないから勉強しようか」
「了解!」
「うん、じゃあ春明君よろしく」
あとは任せた、と桜下が春明に向かって手を振る。
一方、桜下が説明するものだと、油断をしていた春明はトレードマークの眉間の皺を増やしていく。
「教えて、春明!」
加えて、屈託のないシリウスが笑顔で迫り逃れられない。
春明は観念して深いため息を漏らした。
「わかった。教えるから。そんな迫ってくるな、顔近ぇって」
「イエス! ヤター!」
「声、でけぇ……」
心底面倒くさい。
春明は表情で言葉を描きながら、隣に座るシリウスに説明する。
「専魔って言うのは、簡単に言えば式神として使役された妖魔のことだ」
専属する妖魔、専魔。
舞師が最も攻撃手段として使う、戦闘法の一つだ。
「帳にいる妖魔と違ってこいつらは契約した霊術者に属して行動をする。だから、帳の外でも行動が出来るし、指示を出さなければ勝手をすることもねぇよ」
「そっかぁ、だからミスター牡丹を見ても危険だと感じなかったんだ!」
春明の説明を聞き終えると、シリウスは桜下に向けてアイコンタクトを取る。
「さくの専魔だから……ねっ、さく!」
「まあ、そんなところかな」
桜下は何気なく返答すると、生地を手渡しながら牡丹に問いかける。
「大先生、これから私たち舞殿に戻るんだ。その時、結界張ってくれないかな」
「あぁ?」
気怠そうな声を響かせながら、牡丹は桜下の方向を振り向く。
「なんで?」
「妖魔がいっぱいいるから」
「そんなこと分かっているわ。俺様が言いてぇのは、なんでわざわざ首突っ込みに行くんだっつってんだ」
牡丹は小さな前足を動かし、顔についた粉状になった生地を取り払う。
「こんなガキの為に、行く道理はねぇだろ」
虫の言葉が、春明の耳に容赦なく突き刺さる。
会って間もない相手の為に、何故危険な場所へ行く。
牡丹の当たり前の反応に、春明は立ち上がった。
「……」
これ以上厄介をかけるわけにはいかない。
春明は自分の願望を押し、桜下の元に近づいていく。
けれど、
「私、春明君のファンだから。いいでしょ、それくらい」
凛とした声が、牡丹の意見に反論した。
少し耳を赤くさせながら、牡丹が食べるシュークリームを半分にちぎる。
露わとなった抹茶色のクリーム。
桜下はそこに人差し指を付けて、牡丹に差し出した。
「はい、クリーム」
「やったぜ、甘味だぁ!」
牡丹の興味は、一気に抹茶色クリームへ向けられる。
桜下の指先に飛び乗ると、脚を器用に動かしクリームを球体状にして食していった。
「よかったね、春明」
様子を見ていたシリウスは、春明に向けて安堵の笑みを浮かばせる。
春明のファン。
その言葉が春明の自信にも繋がると確信していたからだ。
だが、
「春明?」
当の本人の表情は強張っていた。
心配するシリウスを無視し、少年は桜下の近くに座り込む。
「本当にいいのか?」
なるべく視線を下に落とさないように、春明は桜下に問いかける。
ちょうど桜下は、半分になったシュークリームを頬張っているところだった。
「ん?」
「食い終わってからでいい」
「ん」
少年の心情を露知らず。
青年はシュークリームを食べ続ける。
「……」
春明は腕を組み、じっと桜下の横顔を見つめた。
一言で言えば、整った顔。
咀嚼で動く口元はハリがあり艶やか。
シュークリームを食べるだけでも印象が残り、背筋を伸ばしたまま凛としている。
何より、青年の黒目が夜空のような色彩をしていた。
もし桜下が結界整備師ではなく、舞師として活躍していたら。
「何に対して?」
「おわっ」
春明が想像を膨らませていると、シュークリームを食べ終わった桜下が振り向いた。
どきり、と少年は心臓を昂らせるのも束の間。
咳払いを一つおき、問いかけた。
「何にって、お前だよ。なんでそんな優しいんだ」
ただの結界整備師であり、民衆のうちの一人。
初めて出来たファンに、無理強いさせるなど、春明には出来なかった。
「うーん……」
そんな舞師の心中に気がつき、桜下は上を見上げしばし考え始める。
やがて、春明の目を見てはっきりと伝えた。
「前もって言うとね、別に優しいわけじゃないよ」
春明だけでなく、後方で様子を見ていたシリウスも驚きの表情を浮かべる。
大きく目を見開いた二人をそのままに、桜下は話を続ける。
「舞を行えた方が状況を打開しやすいから、こうして春明君に提案しているだけ。結局は、私が春明君を利用しているだけなんだ」
「状況が打開しやすい……?」
いつの間にシリウスは桜下の隣に移動し、問いかける。
「春明が舞をすると、妖魔はどうなるの?」
「舞師が舞をする理由はね、土地に舞を奉納して鎮魂儀を行う……それは同時に人間の支配圏を安定させることなんだよ」
黒い目を薄く細めながら。
桜下は遠くの出来事を思い出すように、二人に語りかけた。
「結界整備師は、地層内の霊力数値を読み取って人間と妖魔の世界に境界を入れる。けど、月日が経てば土地の数値が大きくズレてしまうから、舞師の舞はとっても重要な土台となるんだ。それを利用して、帝魔を弱体化させる。舞台上で、春明君が舞を奉納すれば、霊力数値が下がって妖魔が弱るから」
長い説明を流れるように伝えると、持っていた飲料水で一応喉を潤す。
そして、シリウスに向けて黒く真剣な眼差しを向ける。
「あとは、貴方の技量次第」
「僕?」
「春明君が舞を奉納する間、大先生の結界を使いながら、妖魔の足止めをさせる。私が春明君を守るから、貴方は帝魔を仕留めて」
帝魔が消えれば、帳もろとも妖魔が消滅する。
その言葉に、シリウスはどきりと胸が高鳴った。
濡れた石のような目が、じっと。
改めて、二人に問いかける。
「やるかやらないかは貴方たち次第。どうする?」
シリウスと春明。
双方に選択が委ねられた。
「僕は、」
悪魔の如く鎮座する、あの妖魔にリベンジを果たしたい。
彼の願望が真っ先に頭に浮かぶが、すぐさま躊躇う。
これは春明の挑戦。
彼が明確な決意がなければ、シリウスも動くことは出来ない。
そして、戦闘の現場においてアドリブは必ず存在する。
予想以外の出来事に、反応仕切れるかが問いただされた。
シリウスの直感は良くも悪くも、何も告げていない。
結局は、言葉だけの判断は勘の物差しになりえない。
春明にとって、悪天候の舞台公演。
きっと、断わってしまうだろう。
悩みに形相を強ばらせているに違いない。
そう思い、シリウスが視線を向け、
「ハハッ……!」
思わず笑みを漏らす。
緋色の髪の舞師は危険と鉢合わせになる恐怖を抱きながら。
それでも、また舞台に上がれる期待に爛々と瞳を燃やしていた。
「上等だ、やってやらぁ!!」
天に啖呵を穿つが如く。
春明は舞台への挑戦を選んだ。
舞楽帝に成る。
少年の確固たる意思が、恐怖に怯む身体を突き動かす。
「ただし、お前ら全力でオレを守れ。いいな!?」
春明はシリウスと桜下、双方を睨み付けながら言い放つ。
「勿論! 春明の護衛にとことん付き合うよ。ねっ、さく……、さく?」
シリウスが呼びかけるが、すぐに桜下の声は返ってこない。
青年はゆっくりと視線を向け、強張る少年に言い放つ。
「春明君」
「な、なんだよ」
「貴方、格好いいね」
突然の告白。
余りの唐突さに、春明の感情が一巡する。
驚愕、動揺、困惑。
テンポ良く巡った情緒の先が、冷静だった。
「お前、絶対に天然入っているだろ」
「ちょ、春明、流石に失礼だよ!」
春明の発言にシリウスは慌て注意を促すも、青年はアハハと声を出して笑っていた。
「……当たり、よく言われるよ。凄いね」
桜下は耳を赤くさせながら事実を肯定する。
困ったように笑う様子が、どこか幼さを残していた。
「……さく」
シリウスは表情を引き締め、朗らかに笑う桜下と向き合う。
もう逃げない。必ずこの手で。
舞台での雪辱を晴らす為、改めて誓う。
「あの妖魔は僕が仕留めるよ」
「……お願いしていいの?」
「Of course.」
じっと見つめる青い瞳は動く気配がまったくない。
固い意志に桜下は真剣に彼と向き合った。
「分かった。私も出来るだけサポートするから。仕上げはよろしくね」
「……了解!」
三者三様、彼らはそれぞれ想いを胸に抱く。
一人は、足掻きながらも野心を抱き舞台に立つ。
一人は、魔を退け、最善の可能性を斬り開く。
そして、最後の一人は、
「二人とも、頑張れ」
三本の意志が折り重なり進んで行くも、決してもつれることがない。
重なった色が、新たな色彩を織りなしている。
「なーにが頑張れだ。俺様がいねぇと何も出来やしねぇじゃねぇか」
「あれ、大先生。予想以上に乗り気ですね」
甘味の堪能に満足した蜘蛛が、桜下の指先から離れ肩の上で飛び跳ねながら語る。
「慣らしには丁度良いからな。どこかのとんちんかんのせいで窮屈させられた。少しは暴れさせろ」
「とんちんかんって誰のこと?」
「てめぇだよ! 閉じ込められた恨みは忘れねぇぞ!」
癇癪を起こしながら怒鳴る姿でも、スケジュールは僅か二センチ。
耳元で騒ぐ牡丹を、桜下はそよ風のように受け流している。
一人と一匹、いつも通りの日常。
横で眺めていたシリウスにとって新鮮な刺激を与えていた。
「ウーン、あの蜘蛛いいなぁ。合理的にさくと近づける。ねっ、春明もそう思わない?」
「……」
シリウスが問いかけるに、春明は口を閉ざす。
眉間に皺を寄せながら、食えぬ顔で牡丹の方向を見ていた。
その瞬間、シリウスはある可能性に思い至る。
「さくぅ。僕たちも、ちゃんとミスター牡丹に挨拶していい?」
「いいよ。シリウス君、手出して」
反論することなく承諾した桜下を、牡丹は呆然と立ち止まる。
「あっさりし過ぎじゃね?」
虫の主張が届くはずもなく、そのままシリウスの手のひらへ。
海のように深い青と視線が合い、牡丹は思わず身震いを起こす。
「ナイストゥミーチュー!」
「だから顔近ぇ! そしてうるせえ!」
「ほら、春明!」
蜘蛛を片手に、シリウスは春明に向かってにこやかに手を突きつける。
少年にとって、それは残酷極まりない行為だった。
「やめろぉ!」
「ファッツ?」
「虫を、オレに、近づけるなぁ!!」
慌てふためき逃げる春明をシリウスは蜘蛛を片手に追いかける。
響く蜘蛛の鳴き声。
舞師の少年と検非違使の賑わい。
「……」
彼らのありきたりで輝かしい光景に、結界整備師はただ静かに微笑むだけだった。
応援ありがとうございます!
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