旦那様と僕

三冬月マヨ

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はじまって

【七】旦那様は切り替える

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 何時もの様に、旦那様の手が動きました。
 何時もの様に、その腕が伸ばされ、大きな手が近付いて来ました。
 しかし、その手は、何時もとは違う場所にありました。

 …僕はどうしたのでしょうか?
 顔が熱いです。
 おかしいです。
 熱でもあるのでしょうか?

「…雪緒ゆきお?」

 身を屈めて、旦那様が僕の顔を心配そうに覗き込んで来ます。
 旦那様の大きな手は、まだ僕の頭の上にあります。
 何時もは鼻にある筈の手が。

「あ、の! 陽に当たり過ぎたみたいです。顔を冷やして来ますので、旦那様の身支度は、その…」

 そうです。
 今日はお天気が良く、気温も高いのです。
 もしかしましたら、日射病の走りかも知れません。
 旦那様にご迷惑をお掛けする訳には行きません。

「あ、ああ。俺の事は気にするな。着替えて茶の間で待ってる。慌てなくて良いからな」

 旦那様のお言葉に甘えて、僕は遣りかけの洗濯物をそのままに、お風呂場へと急ぎました。
 バシャバシャと音を立てて顔を洗います。
 少しは熱が引いたでしょうか?
 頬に手をあてて確認します。
 はい、冷たくて気持ちが良いです。
 それにしても、びっくりしました。
 いきなり顔があんなに熱くなるだなんて。
 日射病とは恐ろしい物ですね。 

 ◇

「ああ、では行くか」

 濡れた着物を着替えまして、茶の間へと行きましたら、そこには洋装姿の旦那様が居ました。
 白地に薄い灰色の線が入ったしゃつの上に、濃い灰色のべすと、濃い灰色のずぼんのお姿です。
 そして、御髪が。
 お勤めの時と同様に、目に掛かる前髪を後ろへと撫でつけていまして、形の良い額が露わになっていました。

「だ、んな様…あの、お買い物とは…お勤め先に関係のある物なのでしょうか? それでしたら僕は、お帰りをお待ちしていた方が…」

 そう口にしましたら、鼻を摘ままれました。
 何時も通りです。
 頭に手を置かれたのは何だったのでしょうか?
 もしかしましたら、高さ的に肘置きかと思われたのでしょうか?

「何でそうなる。洗濯に必要な物を買いに行く。そう言っただろうが。この格好は…まあ…その…嘗められない為だ」

「ふぁい…」

 僅かばかりに、目の端をぴくぴくと震わせる旦那様に、僕は鼻を摘ままれたまま頷きました。

 それにしても、変な感じです。
 お勤めでは無いのに、洋装姿の旦那様と歩くだなんて。
 旦那様の斜め後ろを歩きながら、その背中を見上げます。
 やはり、旦那様は背がお高いです。
 真っ直ぐに伸びた背筋は、とても綺麗だと思います。
 特に、この様な身体にぴったりとした洋装の時は、それが良く解ります。
 細いけれど、引き締まったお身体です。
 僕とは全然違います。
 すれ違う方々が…主に女性の方ですが、皆、旦那様に目を向けて行きます。
 けれど、旦那様はそれらに気を取られる事なく歩いて行きます。
 その毅然としたお姿は格好良いと思います。
 そう思うのですが。
 何故なのか、胸の辺りがもやもやとします。
 僕はこちらのお姿の旦那様よりも、着物姿で前髪を垂らした旦那様のお姿の方が良いと思います。
 だって、着物姿の時はこれ程に人目を惹きませんから。
 どちらも同じ旦那様である事にお変わりはありませんのに。
 何故なのでしょうか?

 ◇

 ふわああああ…。

「…ええ、そうです。それで、脱水の時には…」

「…おい。聞いているのか、雪緒? お前も使う物だぞ?」

 はっ!?

「あ、はい! 聞いておりました! 水を絞る時には、ここに挟んで、この取っ手を回すのですよね!?」

 旦那様に連れられてやって来ました場所は『百貨店』でした。
 こんくりいとで出来た建物で、とても頑丈そうなその中には、沢山のお店がひしめき合っていました。
 その内の一つの電気屋さんに、僕と旦那様は今居ます。
 そこで、お店の方に説明をして貰っていますのは、何と! 洗濯機です! 物凄い高級品なのです!
 この様な物を、洗濯板が壊れたと口にしただけで、購入する気になるとは流石は旦那様です。

「…聞いていたのなら良い…。配達は…」

 軽く僕を睨んで、旦那様はお店の方との遣り取りを再開しました。
 あまりの事に、気持ちが高揚しすぎてしまいました。
 気を付けなければいけませんね。
 僕の恥は旦那様の恥です。
 旦那様に恥を掻かせる訳にはいきませんものね。
 それにしても、と、僕は周囲に視線を配らせます。
 沢山の方がいらっしゃいます。
 僕の普段のお買い物は、近所の八百屋さんだったり、お魚屋さんだったり、お肉屋さんだったりするのですが、この百貨店ならば、ここに来るだけで、総て済ませてしまう事が出来るのです。
 素晴らしいですね。
 ですから、こんなに沢山の方が集まるのでしょうね。
 そして。
 やはり、旦那様は注目を集めていらっしゃる様です。
 通り過ぎる方々が小さくではありますが、残念そうに囁いて行きます。

『…コブ付きかあ…』

 …こぶ?
 こぶだなんて何処にあるのでしょうか?
 旦那様のお顔にも、お身体にも、その様な物はありませんが?
 僕には見えない何かがあるのでしょうか?

「上にレストランがある。昼を食べに行くぞ」

「あ、はい」

 お店の方との遣り取りを終えた旦那様が、僕の頭に軽く手を置いて動く様に促しました。
 ですが、何故でしょう?
 また、顔が熱くなって来ました。
 人の熱気にあてられたのでしょうか?
 恐らくはそうでしょうね。
 これだけの人がいるのですから。
 おむらいすがどうとか、はんばあぐが、かれえがとか旦那様が仰ってますが、何故でしょうか?
 何故だか上手く頭に入って来ませんでした。
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