旦那様と僕

三冬月マヨ

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やがて

【五】旦那様はぐったり

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 午前中の早い時間に天野が来て、先日の件を纏めた議事録と、仕事仲間からの見舞金を持って来た。
 良い機会だから、ゆっくりと休めと言われ、仕事が終わったら、ロッカーに置きっぱなしの着替え等を持って来ると言うから、自宅へ来いと言ったら、相楽さがらと同様に呆れられた。
 そんな天野が去って、暫くしてから着替えを持った雪緒が迎えに来た。
 病院から自宅へと戻って来て、雪緒ゆきおが早速風呂を沸かしてくれたのは良いが、ここに来て問題が発生した。

「…な、んだと…?」

「はい。ですから、お背中をお流し致します」

 風呂場の脱衣所で帯に手を掛けたまま、俺は固まってしまった。

「片手ですと、お背中は洗えませんよね? 僭越ながら、僕がお手伝い致します」

 そう言いながら雪緒は、真面目な顔をして着物の袖を捲り、たすきで結んで行く。

「あ。お風呂上がりのお着替えもお手伝い致しますね。片手で褌は締められませんものね」

 着物の裾を捲り上げて帯に挟みながら、雪緒は爽やかに笑う。

「う…あ、いや…」

 そんな爽やかな笑顔で何を言っているんだ、こいつは?

「あ、お脱ぎになるのもお手伝いした方が宜しいでしょうか? 気が利きませんで申し訳ございません」

 頭を下げてから、帯に伸びて来た雪緒の手を慌てて俺は掴んだ。

「いや! 待て!! 風呂は後だ!!」

「如何されたのですか? 汗を掻いて気持ちが悪いと仰っていましたのに」

 慌てる俺に、雪緒は軽く首を傾げて不思議そうに聞いて来た。

「ぐ…っ…! この年で他人に褌なぞ締められてたまるか!! あれだ! 異国の下着を買って来い!! 伸縮性があって、片手でも身に着けられると云う代物だ!! 百貨店に行けば売っているだろう!!」

「それでは、せっかくのお風呂が…お昼も遅くなってしまいますが…」

「構わんっ!!」

 ◇

「…疲れた…」

 渋々と買い物に出掛ける雪緒を見送り、ぐったりとして縁側に座り、微かな風に吹かれながら、俺は長い溜め息を吐いた。
 何を考えているんだ、あいつは。
 いや、悪気は無いのは解っているし、片手で不自由な俺を思っての事だと云うのも、解っている。
 解ってはいるが…。

「…仮にも好いた相手なのだろう…? …あんなにも…躊躇いなく行動出来る物なのか…?」

 いや…まあ…雪緒だし…。…いや、それで片付けてしまうのもどうかと思うが…。そもそも、雪緒はあの発言を覚えては居ないのだから、いっそ聞かなかった事に…。

「おじさん? どしたの? ゆきおは?」

 聞き覚えのある声に、下を向いていた顔を上げれば、門扉の処にせいが立っていた。
 縁側に置いてあるつっかけに足を通して、そちらへと向かう。

「雪緒なら、今買い物に百貨店に向かった処だ。走れば追い付けるかもな」

 俺の言葉に星は首を傾げて見せたが、直ぐにそれに思い至った様だ。百貨店がある方向を見て、口を開く。

「あ、あのでかいとこかあ! ありがと、おいら行ってみる。あ、怪我はだいじょぶなのか? 病院行ったら、帰ったって言われたから、こっちに来たんだけど」

 見舞いに来たのか? いや、雪緒に会いにだな。
 それでも、俺を気遣う気持ちがあるのは嬉しい事だ。

「ああ、大丈夫だ。問題無い。心配掛けたみたいですまんな」

 俺がそう言えば、星は眉と目を下げて、白い歯を見せて笑う。

「うん。ゆきおが泣くから、もう怪我するなよ。じゃ、おいら行くから!」

「ああ。と、待て、星」

 手を振りながら笑顔で走り去ろうとする星を、俺は呼び止めた。

「おじさん、どした?」

 挙げた右腕を宙でぶらぶらさせながら、星が足を止めて振り返って来る。

「雪緒から聞いた。お前、妖を退治してたんだってな。雪緒を守ってくれてありがとうな。あと、ガキだなんて言って悪かったな。お前は立派な男だ」

 病院から帰る道すがら、雪緒から話を聞いた。菅原先生もそうだが、彼等が居なければ雪緒がどうなっていたのか、考えたくもない。

「なんだ、そんな事か! 気にすんな! ゆきおはまぶだちだからな! じゃあ、本当にもう、ゆきおを泣かせるな!」

 星は照れ臭そうに笑いながらそう言って、馬の尻尾を揺らしながら駆けて行った。

「…雪緒を泣かせるな…か…」

 左手でガシガシと頭を掻く。
 泣かせるつもり等、毛頭ないが。
 だが、実際、そうさせてしまったのは事実だ。
 あやかしに襲われた事が怖いのでは無く、俺が居なくなるかも知れない事の方が怖いと、あいつは泣いていた。
 こんな仕事だから、これから先もこんな事が無いとは言い切れない。
 また、あんな日蝕が来たら…いや、それは事前に知っていれば、対策は立てられる筈だ。雪緒が来る前に目を通した議事録には、今回の事を風化させない為に、後世に伝える旨が書かれていた。また、日蝕は天文学で、ある程度の予測を立てられるから、今後はそちらとも協力して行くと。
 今回みたいな事はそうそう無い筈だ。
 そう願いたいが、何があるのか解らないのが現実だ。

「…どうしたもんかな…」

 再び縁側に腰掛けて、視線の先にある向日葵に声を掛ける。
 何時だって陽の射す方を向いている向日葵は、鞠子まりこを彷彿とさせる。
 あの様な家庭環境の中で、鞠子はどの様な思いで過して来たのか。
 何時だって、鞠子は強く前を見て立って居た。
 向日葵の様に、常に陽を見て微笑んでいた。
 自分の辛さよりも、他人の辛さの方を気に掛けて居た。
 そんな鞠子との縁談の話を持って来たのは、あのクソ親父だ。
 親族達が次から次へと、縁談の話を持って来てうんざりとしていた頃だった。
 無論、何度も断った。断ったのだが『…優秀な君が、この街から居なくなるのは遺憾だがね…』と、何処かの僻地へ行かせるような発言をしたから、渋々と受けたに過ぎない。
 しかし、実際に鞠子に会って話をしてみれば…。
 あの親父は、俺の事を知っていたのだろうか?
 そして、鞠子の家での扱いを知っていたのだろう。
 実際に聞いてみた事は無いが、あの場所から鞠子を連れ出したかったのだろう。
 鞠子は尼になると言っていたが、それは実際には不可能だっただろう。
 子が望めないから、娘を尼寺へやったとなれば、醜聞になるのは間違いない。そんな醜聞等、直ぐに広まる物だからな。
 だから、言葉は悪いが飼い殺し…緩やかに死を迎えるだけ…そんな生涯になっていた事だろう…。
 最期に鞠子は言った『幸せだった』と。
 嘘偽りの無い、綺麗な笑顔だった。
 …幸せ…か…。

「…今、お前が居たら何と言ったかな?」

 ぽつりと、陽の光を浴びる向日葵に語り掛ける。
 答え等無いと解ってはいるが。
 それでも、声に出してみたかった。

「…お前は…雪緒を嫁だと言っていたが…。…それは、ただの揶揄では無くて…本当にそう思っていたのか? …雪緒は…本当に…そうなのか…? ただ、身近に居たからでは無く…」

 そこで、俺はまた長い息を吐く。

 …それを聞いてどうする…?
 本当にそうだとして、俺はどうしたいんだ…?
 雪緒の幸せを望むのに、俺がその妨げになるだなんて、誰が想像出来る?

『望まない幸せなんて、不幸でしかない』

 相楽はそう言ったが…だが…。

「…だが…それでも…当たり前の幸せを与えてやりたい…」

 当たり前の事が、当たり前では無かった雪緒に、当たり前の幸せを与えてやりたい。
 そう思うのは、俺の自己満足でしか無いのだろうか?
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