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1日目〜2日目
5.翌朝
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——なんだかいい匂いがする。
涼弥はぼんやりとした意識の中、漠然とした幸福感を覚えた。なんだか、妙に温かい。まるで、誰かに抱き締められているかのような——。
「あ、起きた?」
目を開けた時、真っ先に飛び込んできたのは、見慣れない綺麗な顔だった。真っ直ぐな黒髪に、おっとりした目。
「おはよう、先生」
「え……」
涼弥は瞬きを繰り返す。どうやら、目の前の男は幻では無いらしい。
「ハル……?」
「ん、ハルだよ。昨日はよく眠れた?」
「昨日……? 俺……」
ハッとして、涼弥は飛び起きた。昨日、そうだ。昨日から30日間、この男をレンタルしたのだった。そして、添い寝の前に……。
眠る直前、ハルに何をさせてしまったのかを思い出す。彼の艶っぽい笑み、甘い声。全てが一気に頭の中に流れ出した途端、涼弥は堪らなくなって枕に突っ伏した。
「ね、寝れた。……おはよう、ハルさん」
「ふふっ、呼び捨てでいいのに……彼氏なんだから。おはよう」
恥ずかしさに悶えながら、ちらりと視線を上げる。ハルはすでに身支度を整えているようだった。手持ち無沙汰になって、ここで涼弥が起きるのを待っていたようだ。
なんだか、昨夜とは違う匂いがどこからか漂ってくる。いかにも家庭的な匂いだ。落ち着かない頭で思考を迷わせていると、涼弥の言いたかったことを察したかのように、ハルが再び口を開いた。
「朝ごはん作ってるけど、食べる?」
そんなことまでしてくれるのか。普段は朝食をまともに摂ることなんてなかったが、「食べるか」と訊かれた途端、空腹を感じた。
「……食べる」
「おっけー。準備するね」
ハルはにっこり笑うと、颯爽と部屋を出て行った。きっとハルの作ったものならば、涼弥がこれまでに食べたどの朝食よりも美味しいに違いない。昨日の夕食のことも思い出し、涼弥はふと笑みを溢した。
時刻は7時40分。涼弥にしたらいつもの起床時間だ。サイドテーブルに置きっぱなしのスマホを眺め、ため息をついた。昨夜、バタバタしているうちに目覚ましをセットし忘れていたようだ。寝坊しなかったことは幸いである。
涼弥がいつものルーティンをこなして、ダイニングに顔を出した頃には、ハルは完璧な朝食のテーブルを作り上げていた。そんな食器家にあっただろうかと思うような完成度に、またも目を奪われてしまう。
「今朝もすごいな」
「でしょ。さ、座って」
今朝は洋食のようだ。あまり詳しくはないが、エッグベネディクトというものだろう。ホテルの朝食でしか見たことがない。そこへ、手の込んだサラダと、飴色のオニオンスープが添えられている。
一体、ハルはいつの間にこんなに大量の食材を用意したのだろうか。店のスタッフに買いに行かせたと言っていたが、本当にこれだけの注文をしたのだろうか? 普通にスーパーで買うには、種類が多すぎるような気がする。
「食費はちゃんと払うから」
いただきますよりも先に、涼弥はそう言った。しかし、ハルは目を丸くすると、はっきり首を振った。
「いいよ、気にしないで。僕、やる事ないと料理したくなっちゃうんだ。僕の作りたいもの作ってるだけだから」
「それこそ、プロの料理をタダで食べるなんてできない」
「ふはっ、真面目だねぇ。そういうところ好きだけど」
「うっ」
軽々しく「好き」なんて言わないでほしい。今のは完全に不意打ちだ。恋人ごっこをしているからといって、そんなに無理に涼弥を褒める必要はない。
思わず俯いていると、再びハルの笑い声が聞こえた。嘲っているのではなく、優しさから出た笑いだと、なんとなく伝わってくる。
「困らせちゃったみたいだね」
「そんなことは」
「ふふ、いいんだよ。先生は可愛いね。そんな可愛い顔されたら……昨夜のこと思い出しちゃうよ」
「は……」
「あははっ、顔真っ赤。食べよっか」
一体どこまで本気なのか分からない。きっとこの男は、相手をその気にさせるためならどんなことでも平然と言えてしまう人間なのだろう。
——ちょっと怖いな。
ハルなら、もしいつか涼弥が怒らせてしまったとしても、怒ったことを噯にも出さないだろう。それでは困る。こちらが客だからといって、不要な気など使わせたくない。
——今そんなこと考えても仕方ないか。
「いただきます」
気を取り直して、食事に手を伸ばした。
ハルの作ったエッグベネディクトは、予想以上に美味しかった。こんなに料理が上手なのだから、きっといいところのレストランにでも勤めていたのだろう。
ハルは、じっと涼弥の食べる姿を眺めては、時々思い出したように手を動かした。少なくとも、味わってはいないようだ。食事が好きなんだか、無関心なのか、よく分からない。
「美味しい?」
涼弥が半分ほど食べたところで、ハルがうずうずした表情で訊ねてきた。どうやら、これがずっと聞きたかったらしい。
「うん。すごく美味しい」
「ほんと?」
「あまりこういうオシャレなメニューは食べたことなかったんだ。でも……これはすごく好き」
「ん、よかった」
また、とても嬉しそうに笑う。この時の顔ばかりは、「ハル」のハルではない部分のように思える。
——本当に料理が好きなんだろうなぁ。
そんなところも、涼弥にはどうしたって真似できない部分だ。
いつも通りに、涼弥は10時前まで掃除に励んだ。ハルも手伝うと言い張ったが、これは日課なのでと断って、しばらく外に出ていていいと伝えた。彼とて、本当に24時間この家で過ごすなんてきっと苦痛だろう。
今日の打ち合わせも13時からだ。帰りは、おそらく昨日と同じくらいになる。それも込みで、今日は18時に戻ってきて欲しいと伝えた。これだけ時間があったら、きっと彼は一度家に帰る余裕があるだろう。
——正直、24時間一緒じゃ俺の方も持たないからな。
ハルを見ていると、色々と邪な気持ちが湧いてきてしまう。高校の友人に恋していた、あの時と似た感情だ。恋愛感情というより、一方的な欲に塗れた穢らわしいものである。
きっと、彼が同じ空間にいたら、小説なんて書けない。いまは原稿に追われていないので、比較的のんびりできているが、来月にはどうなるか分からない。それに、推理小説はネタが思い浮かんだ時こそ勝負なのだ。いつ何時も、インスピレーションには敏感でなければならない。
「ちょっとくらいインプットもしないとな」
掃除がひと段落ついたところで、事務机に向かった。届いたばかりの自分の新刊のサンプルと、赤木先生が先週送ってくれた彼の新著を、並べて置いた。赤木先生の本は、装丁も美しい。
「俺のもなかなかだな」
流石はプロのデザイナーだ。こんな小洒落た表紙デザインは、素人の涼弥にはきっとできない。家を出るまで、あと2時間はある。これなら、かなり読み進められるだろう。涼弥は眼鏡をかけて、赤木先生の本を開いた。
◆
同日 夕方
「お客さんに追い出されちゃった」
一度帰宅した後、再び外に出たハルは、昼から営業している馴染みのバーに顔を出していた。所謂オカマバーで、仲の良いマスターもオカマだ。とてもガタイのいい男ではあるが、ほとんど気の強い女性のような性格をしている。
「追い出されたって……何があったの? なっちゃん」
「あー、いま一応仕事中だからなっちゃんはやめて。ハルって呼んで」
「アラ、ごめんねハルちゃん。それで? 追い出されたって?」
「掃除の邪魔すんなってさ」
「あらま」
マスターはハルのお気に入りのウイスキーで、生のライムを添えたハイボールを作ってくれた。何も言わなくてもこれを出してくれるのはありがたい。ハルがこの店に通い始めたのは、まだホストクラブで働いていた頃だ。つまり、学生時代。マスターとの付き合いは、7年になる。
「気難しそうな人ね。どんなお客さんなの?」
「初めての人だよ。だいぶ歳下の。でもさ、コースが一カ月なんだよね」
「一カ月!?」
マスターの大声に思わず仰け反る。狭いカウンターで、そういうのはやめて欲しい。といっても、この時間帯だ。他の客がいないことに感謝した。
「5月まで同棲すんの。すごいでしょ」
「それは……すごいわね。でもそんな若い子が、どうやってそんな大金を?」
「……さぁ? 知らない。そんな事関係ないっしょ。払ってくれさえすればお客さんじゃん」
そう言って、ハイボールを一気に半分ほどまで煽った。仕事中に飲酒するのは良くないだろうが、他にやることもないので許して欲しい。それに、外出を許可した以上、外でハルが何をしていても伊良は咎めたりしないだろう。そういう人、のように思える。
「でも、そんな変わった人と一カ月って、大変じゃない?」
「そうでもないよ。可愛いし」
「可愛いの?」
「うん。すげぇ可愛い。とにかく顔がいい。性格も、多分」
「まあ」
ハルはマスターにも同じウイスキーを出すことにした。先に飲んじゃってごめんね、と言ってから、2人で乾杯をする。キープしたつもりはないのに、いつのまにかこのウイスキーボトルはハル専用になっていた。
「ハルちゃんの好みっていうと……ウブな子かしら?」
「そうそう。めちゃくちゃ素直でさ。全然男慣れしてない。ゲイだと思うんだけどな。多分、騙されやすいタイプだよ」
これは間違いない。彼は今のところ、ハルの言うこと全てを素直に聞いてしまっている。別に悪い嘘はついていないから問題ないだろうが、彼が他所でもそうなのかと思うと、他人ながら心配になってしまう。
「ねぇ、あんま意地悪なことしちゃダメよ? そういうタイプの子、今時珍しいんだから」
「分かってるよ。つーか、お客さんに酷いことなんてしないよ、俺」
「そうよね。アンタはそういう子よね……でも、なんだか余計に心配だわぁ」
「ふふっ、そうかよ」
マスターはわざとらしく悩ましげな顔をした。何が言いたいのだろう。まさか、ハルが一線を越えるような真似をするとでも思っているのだろうか。
確かにハルはゲイで、長い間恋人を作っていないが、だからといって分別を失うことはない。伊良のことは、セフレにするならいいだろうと思っている程度だ。
彼だって、きっとハルのことをそういう目で見ているだろう。本気で恋人を求めて呼んだわけではないはずだ。
「頭は良さそうな人だから、大丈夫だと思うよ」
「どういう意味?」
「俺をちゃんと、『レンタル彼氏』って分かってるってこと」
話しながら、グラスに刺さっていたライムを絞り、中に放り込んだ。爽やかな香りが広がる。そのおかげで、ほんの一瞬だけ胸に生じた歪な感情を忘れることができた。
「何言ってるのぉ、ハルちゃん。アタシは何もアンタのお客さんの心配なんてしてないわよぉ」
「え?」
マスターは珍しく、本気で心配そうな顔をしていた。一体なんだというのだ。ハルは思わず、おしぼりを丸める手を止めた。
「ハルちゃんの方が、その子に入れ込んじゃわないか心配してるのぉ」
マスターが何を言っているのか、しばらく理解できなかった。ハルの方が、客に入れ込むだって? 一体何の冗談だ。
「だってアンタ、長いこと……悩んでたでしょ。そっちのことで」
流石に言いにくそうではあったが、マスターはついぞ言い切った。確かにハルは、何年もの間彼に様々な話をしてきた。けれどそれらは、伊良の接客にはなんら関係のない話だ。
——そんなわけない。俺はただ、あの人の体に惹かれただけ。
「あははっ……マスター。その話、あんま面白くないよ」
急にハイボールが苦くなったように感じ、ハルはグラスを置いた。時刻を見る。いつの間にか、17時を少し回っていた。
「そろそろ行かないと。ご馳走様」
「あら、もう?」
「うん。もうすぐお客さん帰ってきちゃうから」
代金を支払って、店を出た。なぜかハルは、心のどこかで、早く伊良に会いたいと思っていた。
涼弥はぼんやりとした意識の中、漠然とした幸福感を覚えた。なんだか、妙に温かい。まるで、誰かに抱き締められているかのような——。
「あ、起きた?」
目を開けた時、真っ先に飛び込んできたのは、見慣れない綺麗な顔だった。真っ直ぐな黒髪に、おっとりした目。
「おはよう、先生」
「え……」
涼弥は瞬きを繰り返す。どうやら、目の前の男は幻では無いらしい。
「ハル……?」
「ん、ハルだよ。昨日はよく眠れた?」
「昨日……? 俺……」
ハッとして、涼弥は飛び起きた。昨日、そうだ。昨日から30日間、この男をレンタルしたのだった。そして、添い寝の前に……。
眠る直前、ハルに何をさせてしまったのかを思い出す。彼の艶っぽい笑み、甘い声。全てが一気に頭の中に流れ出した途端、涼弥は堪らなくなって枕に突っ伏した。
「ね、寝れた。……おはよう、ハルさん」
「ふふっ、呼び捨てでいいのに……彼氏なんだから。おはよう」
恥ずかしさに悶えながら、ちらりと視線を上げる。ハルはすでに身支度を整えているようだった。手持ち無沙汰になって、ここで涼弥が起きるのを待っていたようだ。
なんだか、昨夜とは違う匂いがどこからか漂ってくる。いかにも家庭的な匂いだ。落ち着かない頭で思考を迷わせていると、涼弥の言いたかったことを察したかのように、ハルが再び口を開いた。
「朝ごはん作ってるけど、食べる?」
そんなことまでしてくれるのか。普段は朝食をまともに摂ることなんてなかったが、「食べるか」と訊かれた途端、空腹を感じた。
「……食べる」
「おっけー。準備するね」
ハルはにっこり笑うと、颯爽と部屋を出て行った。きっとハルの作ったものならば、涼弥がこれまでに食べたどの朝食よりも美味しいに違いない。昨日の夕食のことも思い出し、涼弥はふと笑みを溢した。
時刻は7時40分。涼弥にしたらいつもの起床時間だ。サイドテーブルに置きっぱなしのスマホを眺め、ため息をついた。昨夜、バタバタしているうちに目覚ましをセットし忘れていたようだ。寝坊しなかったことは幸いである。
涼弥がいつものルーティンをこなして、ダイニングに顔を出した頃には、ハルは完璧な朝食のテーブルを作り上げていた。そんな食器家にあっただろうかと思うような完成度に、またも目を奪われてしまう。
「今朝もすごいな」
「でしょ。さ、座って」
今朝は洋食のようだ。あまり詳しくはないが、エッグベネディクトというものだろう。ホテルの朝食でしか見たことがない。そこへ、手の込んだサラダと、飴色のオニオンスープが添えられている。
一体、ハルはいつの間にこんなに大量の食材を用意したのだろうか。店のスタッフに買いに行かせたと言っていたが、本当にこれだけの注文をしたのだろうか? 普通にスーパーで買うには、種類が多すぎるような気がする。
「食費はちゃんと払うから」
いただきますよりも先に、涼弥はそう言った。しかし、ハルは目を丸くすると、はっきり首を振った。
「いいよ、気にしないで。僕、やる事ないと料理したくなっちゃうんだ。僕の作りたいもの作ってるだけだから」
「それこそ、プロの料理をタダで食べるなんてできない」
「ふはっ、真面目だねぇ。そういうところ好きだけど」
「うっ」
軽々しく「好き」なんて言わないでほしい。今のは完全に不意打ちだ。恋人ごっこをしているからといって、そんなに無理に涼弥を褒める必要はない。
思わず俯いていると、再びハルの笑い声が聞こえた。嘲っているのではなく、優しさから出た笑いだと、なんとなく伝わってくる。
「困らせちゃったみたいだね」
「そんなことは」
「ふふ、いいんだよ。先生は可愛いね。そんな可愛い顔されたら……昨夜のこと思い出しちゃうよ」
「は……」
「あははっ、顔真っ赤。食べよっか」
一体どこまで本気なのか分からない。きっとこの男は、相手をその気にさせるためならどんなことでも平然と言えてしまう人間なのだろう。
——ちょっと怖いな。
ハルなら、もしいつか涼弥が怒らせてしまったとしても、怒ったことを噯にも出さないだろう。それでは困る。こちらが客だからといって、不要な気など使わせたくない。
——今そんなこと考えても仕方ないか。
「いただきます」
気を取り直して、食事に手を伸ばした。
ハルの作ったエッグベネディクトは、予想以上に美味しかった。こんなに料理が上手なのだから、きっといいところのレストランにでも勤めていたのだろう。
ハルは、じっと涼弥の食べる姿を眺めては、時々思い出したように手を動かした。少なくとも、味わってはいないようだ。食事が好きなんだか、無関心なのか、よく分からない。
「美味しい?」
涼弥が半分ほど食べたところで、ハルがうずうずした表情で訊ねてきた。どうやら、これがずっと聞きたかったらしい。
「うん。すごく美味しい」
「ほんと?」
「あまりこういうオシャレなメニューは食べたことなかったんだ。でも……これはすごく好き」
「ん、よかった」
また、とても嬉しそうに笑う。この時の顔ばかりは、「ハル」のハルではない部分のように思える。
——本当に料理が好きなんだろうなぁ。
そんなところも、涼弥にはどうしたって真似できない部分だ。
いつも通りに、涼弥は10時前まで掃除に励んだ。ハルも手伝うと言い張ったが、これは日課なのでと断って、しばらく外に出ていていいと伝えた。彼とて、本当に24時間この家で過ごすなんてきっと苦痛だろう。
今日の打ち合わせも13時からだ。帰りは、おそらく昨日と同じくらいになる。それも込みで、今日は18時に戻ってきて欲しいと伝えた。これだけ時間があったら、きっと彼は一度家に帰る余裕があるだろう。
——正直、24時間一緒じゃ俺の方も持たないからな。
ハルを見ていると、色々と邪な気持ちが湧いてきてしまう。高校の友人に恋していた、あの時と似た感情だ。恋愛感情というより、一方的な欲に塗れた穢らわしいものである。
きっと、彼が同じ空間にいたら、小説なんて書けない。いまは原稿に追われていないので、比較的のんびりできているが、来月にはどうなるか分からない。それに、推理小説はネタが思い浮かんだ時こそ勝負なのだ。いつ何時も、インスピレーションには敏感でなければならない。
「ちょっとくらいインプットもしないとな」
掃除がひと段落ついたところで、事務机に向かった。届いたばかりの自分の新刊のサンプルと、赤木先生が先週送ってくれた彼の新著を、並べて置いた。赤木先生の本は、装丁も美しい。
「俺のもなかなかだな」
流石はプロのデザイナーだ。こんな小洒落た表紙デザインは、素人の涼弥にはきっとできない。家を出るまで、あと2時間はある。これなら、かなり読み進められるだろう。涼弥は眼鏡をかけて、赤木先生の本を開いた。
◆
同日 夕方
「お客さんに追い出されちゃった」
一度帰宅した後、再び外に出たハルは、昼から営業している馴染みのバーに顔を出していた。所謂オカマバーで、仲の良いマスターもオカマだ。とてもガタイのいい男ではあるが、ほとんど気の強い女性のような性格をしている。
「追い出されたって……何があったの? なっちゃん」
「あー、いま一応仕事中だからなっちゃんはやめて。ハルって呼んで」
「アラ、ごめんねハルちゃん。それで? 追い出されたって?」
「掃除の邪魔すんなってさ」
「あらま」
マスターはハルのお気に入りのウイスキーで、生のライムを添えたハイボールを作ってくれた。何も言わなくてもこれを出してくれるのはありがたい。ハルがこの店に通い始めたのは、まだホストクラブで働いていた頃だ。つまり、学生時代。マスターとの付き合いは、7年になる。
「気難しそうな人ね。どんなお客さんなの?」
「初めての人だよ。だいぶ歳下の。でもさ、コースが一カ月なんだよね」
「一カ月!?」
マスターの大声に思わず仰け反る。狭いカウンターで、そういうのはやめて欲しい。といっても、この時間帯だ。他の客がいないことに感謝した。
「5月まで同棲すんの。すごいでしょ」
「それは……すごいわね。でもそんな若い子が、どうやってそんな大金を?」
「……さぁ? 知らない。そんな事関係ないっしょ。払ってくれさえすればお客さんじゃん」
そう言って、ハイボールを一気に半分ほどまで煽った。仕事中に飲酒するのは良くないだろうが、他にやることもないので許して欲しい。それに、外出を許可した以上、外でハルが何をしていても伊良は咎めたりしないだろう。そういう人、のように思える。
「でも、そんな変わった人と一カ月って、大変じゃない?」
「そうでもないよ。可愛いし」
「可愛いの?」
「うん。すげぇ可愛い。とにかく顔がいい。性格も、多分」
「まあ」
ハルはマスターにも同じウイスキーを出すことにした。先に飲んじゃってごめんね、と言ってから、2人で乾杯をする。キープしたつもりはないのに、いつのまにかこのウイスキーボトルはハル専用になっていた。
「ハルちゃんの好みっていうと……ウブな子かしら?」
「そうそう。めちゃくちゃ素直でさ。全然男慣れしてない。ゲイだと思うんだけどな。多分、騙されやすいタイプだよ」
これは間違いない。彼は今のところ、ハルの言うこと全てを素直に聞いてしまっている。別に悪い嘘はついていないから問題ないだろうが、彼が他所でもそうなのかと思うと、他人ながら心配になってしまう。
「ねぇ、あんま意地悪なことしちゃダメよ? そういうタイプの子、今時珍しいんだから」
「分かってるよ。つーか、お客さんに酷いことなんてしないよ、俺」
「そうよね。アンタはそういう子よね……でも、なんだか余計に心配だわぁ」
「ふふっ、そうかよ」
マスターはわざとらしく悩ましげな顔をした。何が言いたいのだろう。まさか、ハルが一線を越えるような真似をするとでも思っているのだろうか。
確かにハルはゲイで、長い間恋人を作っていないが、だからといって分別を失うことはない。伊良のことは、セフレにするならいいだろうと思っている程度だ。
彼だって、きっとハルのことをそういう目で見ているだろう。本気で恋人を求めて呼んだわけではないはずだ。
「頭は良さそうな人だから、大丈夫だと思うよ」
「どういう意味?」
「俺をちゃんと、『レンタル彼氏』って分かってるってこと」
話しながら、グラスに刺さっていたライムを絞り、中に放り込んだ。爽やかな香りが広がる。そのおかげで、ほんの一瞬だけ胸に生じた歪な感情を忘れることができた。
「何言ってるのぉ、ハルちゃん。アタシは何もアンタのお客さんの心配なんてしてないわよぉ」
「え?」
マスターは珍しく、本気で心配そうな顔をしていた。一体なんだというのだ。ハルは思わず、おしぼりを丸める手を止めた。
「ハルちゃんの方が、その子に入れ込んじゃわないか心配してるのぉ」
マスターが何を言っているのか、しばらく理解できなかった。ハルの方が、客に入れ込むだって? 一体何の冗談だ。
「だってアンタ、長いこと……悩んでたでしょ。そっちのことで」
流石に言いにくそうではあったが、マスターはついぞ言い切った。確かにハルは、何年もの間彼に様々な話をしてきた。けれどそれらは、伊良の接客にはなんら関係のない話だ。
——そんなわけない。俺はただ、あの人の体に惹かれただけ。
「あははっ……マスター。その話、あんま面白くないよ」
急にハイボールが苦くなったように感じ、ハルはグラスを置いた。時刻を見る。いつの間にか、17時を少し回っていた。
「そろそろ行かないと。ご馳走様」
「あら、もう?」
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