孤高の愛の傍らで…。

礼三

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11 乳母

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 グラジオラス公爵家で母が直接雇用していたのは乳母一人だけだった。
 乳母はブプレウム伯爵家の傍系で母の再従姉妹になる。母が兄を妊娠中、乳母は男爵である夫の暴力に耐えられず離婚した経緯があった。
 離婚後も元夫は乳母に付き纏い、それを見兼ねた母が、乳母を匿うためにグラジオラス公爵家へ招きいれたそうだ。
 乳母は元夫との間に子供を授かることはなかったが、乳母として雇用するために、書類上、産まれたばかりの赤子を亡くしたことになっている。
 上流階級の母親たちは子供に直接乳を与えない人が多い。
 だが、母は兄を母乳で育てたかった。グラジオラス公爵家の使用人たちに無用な波風を立てられたくなかった母は、心置きなく相談できる再従姉妹を乳母へ起用したかったのだ。
 その当時、グラジオラス公爵家で母の味方は乳母しかいなかった。


 一人の女性がグラジオラス邸宅にあるシリルの執務室へ入室する。
 焦茶色の髪を一つに結いあげ、身だしなみを整えている女性、イヴは礼儀正しく腰を折った。
 イヴはヒューゴの乳母である。
 少し鋭めの目を伏せてイヴが尋ねた。

「公爵様…。お呼びと伺いましたが…」

 シリルは机上へ広げられた文書へサインを記しながら、視線を合わせることなくイヴへ声をかける。

「今月でこの屋敷を去ると聞いた…」

「はい…。ヒューゴ様も寄宿学校へ進学なさいましたので、私はもう必要ありませんし…」

「だが、この屋敷へ帰ってきたとき、イヴまでいなくなれば、ヒューゴも寂しくなるだろう…」

「そうでしょうか…。ヒューゴ様は立派に成長なさいましたし…。それに私はこの屋敷の居心地が悪過ぎて…」

「どういうことだ?」

 シリルはペンを置き、ようやくイヴの顔を見上げた。

「私は元公爵夫人より直接雇われた身でございますから…。こちらのお屋敷では皆とは言いませんが…。一部使用人たちから奥様は疎まれておりましたし…。私の立場としては居場所がございませんの…」

「メラニーは屋敷のものに虐げられていたのか?」

「いえ…。皆様、仕事はきっちりなさっておいででしたよ…。そうですね…。ぶっちゃっけ…。侍従たち、特に侍女頭ではございますが…。奥様に聞こえる感じで…。オレリア様のことをよく褒められてましたね…」

 イヴの言葉が雑になってきている。
 色々と思い出しながら発言しているうちに、イヴの額へ薄らと青い血管が浮かびでていた。

「…」

 シリルはそれになんの問題があるのか、分からなかった。
 使用人たちはオレリアと面識があるものも多く、幼い頃から出入りしていたオレリアを可愛いがっていたのだから讃えることもあるだろう。
 無言のシリルを横目にイヴは続けた。

「それでも長い月日…。奥様もこの屋敷へいらっしゃいましたから…。ほら?気立てが良い方でございましょう…。幾人の使用人から慕われておいででしたし…。陰口も少なくなっておりましたけど…。ただ、前国王陛下が亡くなられてから…。またね…。復活したといいますか…。王太后様の方が奥様よりずぅっーーーと公爵様に相応しいとか何とか…」

 シリルは初めて聞くことであった。
 メラニーは家人のことをシリルへ告げ口することはなかった。訴えても仕方ないと諦めていたのかもしれない。

「はっ?何を…。昔のことだ…」

 シリルとオレリアの別れ話に尾ひれがつき、大衆の間で国への忠誠心で泣く泣く引き裂かれた二人として騒ぎ立てられていたことをシリル自身も知っていた。
 当時、王太子だったルシアンはそれを黙認していたし、そのうち色褪せて皆も忘れ去るだろうとシリルは思っていた。
 シリルはメラニーと結婚もしたのだ。
 シリルにとって、オレリアは酸いも甘いも遠い過去のことだった。

「彼らにとっては現在進行形でございます…。奥様の存在が邪魔でしかなかったようですよ?」

「私は気づいていなかった…。もっと、彼女を労っていれば…。このようなことになってなかったのだろうか…」

「…」

 イヴはメラニーが肩を震わせて泣いていたあの日を覚えている。不意にメラニーの口から言葉が漏れた。

「奥様が離婚を考え始めたのは…」

 射抜くような視線がイヴへ向けられた。

「何だ?」

「閣下がヒューゴ様をオレリア様のところへ連れて行ったあの日ですわ…」

「どうして…」

 記憶の紐を解き、シリルは幼いヒューゴの手を引き、オレリアの私室へ連れて行った日のことを脳裏へ浮かべた。
 まだあどけないヒューゴが上目遣いでシリルを仰ぐ。大きな扉の前で眼差しが不安に揺れていた。

 あの日…。
 何があったと言うのだ…。

「奥様から口止めされてましたので…」

 思わず、口を滑らせてしまったことにイヴは後悔した。

「頼む…。教えてくれ…」

 焦ったシリルの声は上擦っている。

「ヒューゴ様は決して悪くございません。このことを念頭において聞いてくださるのなら…」

「あぁ…」

「あの日、ヒューゴ様は奥様に仰ったのです。奥様が王妃様へ意地悪をしているのか?と…」

「何故…。そのようなことを?」

 イヴは意を決したように大きく息を吸いこむと捲したてた。

「さぁ、詳細までは存じあげませんが…。そうですね…。どこぞの大人に吹きこまれたのでしょうね…。私の個人的な推測でございます…。王太后様?またはお仕えなされている侍女様であるとか…。呆れますでしょ?公爵夫人の身分でどうして王太后へ意地悪なんぞ出来ましょうか?ですが…。奥様は息子までもが自分を責めているようにお感じになられていたようです。それまで積極的に子育てへ関わってらしたのに…。間違っても…。ヒューゴ様を責めてしまうことのないようにと…。それから私がヒューゴ様のお世話を一任するようになりました…」

「あの頃か…。急に余所余所しくなった…」

「そうそう…。不敬を承知で申し上げますが…。今まで放置していた奥様へ無理矢理に関係を迫られたあの頃でございますね…」

「あれはっ!関係を修復したかったのだ!メラニーが私から離れていきそうで…。夫婦ではないか!」

 そうだ…。あの時は…。

 妻の心が離れていくのを感じとったシリルはメラニーを閨へ誘った。
 ヒューゴが誕生して以来のことだったので、メラニーは戸惑いを隠せなかったが、シリルの誘いに応じてくれた。
 柔らかな肌の感触…。震える睫毛…。濡れた瞳がシリルを満たしていく。
 シリルの激しい動きにメラニーは声をあげるのを我慢していたが、何度も求めてくる荒々しいシリルへメラニーは抗えず吐息を漏らした。
 あの時の生々しいメラニーをシリルは呼び覚ました。
 シリルの傍らへメラニーはもういない…。

「それでもヒューゴ様が誕生されてから、奥様より遠のいてらっしゃいましたよね?」

 イヴはシリルの顔色を伺う。

「メラニーが…。乗り気ではなかったから…」

 それは…。閣下が初夜で他の女の名前を呼んだからでしょうが…。

 喉元まで出かかった言葉をイヴは飲みこんだ。

「どうすれば…。メラニーを取り戻せれるのだろうか…」

「それはご自分でお考えになられたら宜しいのでは?もう遅いとは思いますが…」

 イヴは段々とシリルが不憫に思えてきた。
 娘が「不必要な公女」と呼ばれていたことも、シリルは知らないのではないだろうか…。
 だがこれ以上、シリルを追いつめる必要はない。
 どれ程、シリルが思い悩んでもメラニーとの離婚は成立したのだ。
 それにイヴは今月退職をする。
 全ては今更なのだ…。

「では…。閣下…。私は失礼いたします。退職にあたり荷造りもございますし…。今まで大変お世話になりました…」

 シリルはまだ何か尋ねたそうだったが、イヴは会釈をしてそそくさと部屋を出て行った。
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