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第一話 春坊の縁談
障子に開いた、穴
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「どんなものか、気になりますよねえ。だって、あたしみたいな閑な女が始終桜ばかり眺めていますものね」
「いえ、あの、閑だなんて……。さ、桜は綺麗と思いますが……」
何と答えていいか迷って春坊がぼそぼそと呟くと、千代が嬉しそうに頷く。
「ああ、やっぱり」
話しの取っ掛かりを捕まえられたことにほっとしたように、彼女は言った。
「もうすっかり春ですものねえ。つい先頃まで梅が盛りだったのに、いつの間にか、川向こうの桜がもう満開です。
春右衛門様は、桜がお好きなのですか?」
彼女が笑ってつらつら話してくれるのを幸いに、春坊も慌てて応じた。
「ええ、好きです。桜が咲けば、花が咲いたなあと思います」
風流人でもない春坊が冴えない文句を口にすれば、また千代がくすりと笑う。
「そうですねえ。おっしゃる通り、花が咲きました。あたしは桜の花も香りも好きですよ。それから、お味もね」
どこか冗談めかして千代が言うものだから、つい春坊は身を乗り出した。
「あっ、もしかして、桜餅ですか? では、墨田の長命寺にはもう参られましたか。桜餅といえば、長命寺ですね。今年もあすこの桜餅は、大変な売れ行きだと伝え聞きます」
「いいえ、まだ。でも、いつか墨田川の堤でお花見をしながら食べたいものだわ。あの川向こうの一本桜と違って、墨田の桜は川べりをどこまでも続いていますものねえ。花筏も、きっとそこの川のよりもずっと大きいでしょう」※
「……」
春坊は、衝動的に思った。
今すぐ、彼女のために長命寺に飛んでいって、桜餅を買いに行きたい。
今は桜の盛りだ。
きっとうんざりするほどの行列だろうが……。
(千代殿の笑顔が見られるなら、いつまででも俺は阿呆みたいに待てるのだろうな……)
春坊は、朗らかに笑う千代の横顔を見つめながら思った。
そんな春坊の胸の裏を知ってか知らずか、千代の表情がふいに曇る。
「あのう……、春右衛門様。どうか、はしたないと思わないでくださいまし。少しだけ、あたしの話をしてもよろしいでしょうか」
「は……。それは、もちろん……」
彼女の唇を重くした『あたしの話』とやらがぱっとは腑に落ちず、春坊が小首を傾げていると、思い切ったように千代は続けた。
「……あたしが初めて結婚したのは、あなたと同じくらいの年の頃でした」
「!」
千代の切り出しに、つい息を呑む。
その春坊に頷いて、千代は告白した。
「その方は、さる旗本に仕える御家人でございましたが……。契りを交わしてすぐ、お仕えする旗本が京での奉公を任じられ、その方も随行することに相成りました。……それきり、いくら待てども、便りすらもございません」
「……」
「あちらでどなたか新しい方と暮らし、ややこができたと風の噂で聞いたのは、もうどれほど前のことでしょうか……。怒った父が絶縁を伝えましたか、果たして報せは京まで届いたかどうか。何も返事がございませぬゆえ、わかりようもございません」
悲しそうに、千代が瞼を伏せる。
何という身勝手な男だろうか。
彼女の父君の怒りも、当然のことだ。
「その後も、何度か御縁をいただきました。けれど、あたしの心根が悪いのでしょう。どなたもいつしか夜離れてしまいました。こんな身ですから、まだ縁談を受けてくださる方がいるなんて、信じられなくて……」
「……」
夜離れ、という、いやに古めかしい表現に気づかず、春坊は怒りに燃えた。
今度は、彼女の不運な身の上を面白おかしく噂に仕立て上げた、口さがのない者達に。
千代が迎えた夫は皆早々に死んだとかいうが――……、真っ赤な嘘ではないか。
顔をしかめ、内心の憤りを隠して千代を慰めようと顔を上げると、しかし、その目は、春坊を見ていなかった。
「……?」
千代の視線を追って振り返ると、そこには物言わぬ古い障子戸があった。
凝っとよく見れば――指を舐めて開けたと思われる、小さな覗き穴が開いていた。
---
ここまで読んでくださってありがとうございます!
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。
以下、苦手な方はお気を付けください。
※零れ話
隅田川は江戸時代から桜の名所だったそうです!
有名なのは歌川広重の浮世絵ですね…!
参考URL
東都名所 隅田川華盛
歌川広重
https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5523
他に、少し時代は下りますが、当時の様子がイメージできる絵があったので、URLを載せます。
参考URL
東京スカイツリー(R)開業記念年間特集展示「隅田川の情景」
https://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/sonota/tenzi/h24/25nenkeikaku.html
また、長命寺の桜餅は今も食べられるそうです。
文化って凄いですね…!
参考URL
長命寺
https://sakura-mochi.com/info/shiryo.php
「いえ、あの、閑だなんて……。さ、桜は綺麗と思いますが……」
何と答えていいか迷って春坊がぼそぼそと呟くと、千代が嬉しそうに頷く。
「ああ、やっぱり」
話しの取っ掛かりを捕まえられたことにほっとしたように、彼女は言った。
「もうすっかり春ですものねえ。つい先頃まで梅が盛りだったのに、いつの間にか、川向こうの桜がもう満開です。
春右衛門様は、桜がお好きなのですか?」
彼女が笑ってつらつら話してくれるのを幸いに、春坊も慌てて応じた。
「ええ、好きです。桜が咲けば、花が咲いたなあと思います」
風流人でもない春坊が冴えない文句を口にすれば、また千代がくすりと笑う。
「そうですねえ。おっしゃる通り、花が咲きました。あたしは桜の花も香りも好きですよ。それから、お味もね」
どこか冗談めかして千代が言うものだから、つい春坊は身を乗り出した。
「あっ、もしかして、桜餅ですか? では、墨田の長命寺にはもう参られましたか。桜餅といえば、長命寺ですね。今年もあすこの桜餅は、大変な売れ行きだと伝え聞きます」
「いいえ、まだ。でも、いつか墨田川の堤でお花見をしながら食べたいものだわ。あの川向こうの一本桜と違って、墨田の桜は川べりをどこまでも続いていますものねえ。花筏も、きっとそこの川のよりもずっと大きいでしょう」※
「……」
春坊は、衝動的に思った。
今すぐ、彼女のために長命寺に飛んでいって、桜餅を買いに行きたい。
今は桜の盛りだ。
きっとうんざりするほどの行列だろうが……。
(千代殿の笑顔が見られるなら、いつまででも俺は阿呆みたいに待てるのだろうな……)
春坊は、朗らかに笑う千代の横顔を見つめながら思った。
そんな春坊の胸の裏を知ってか知らずか、千代の表情がふいに曇る。
「あのう……、春右衛門様。どうか、はしたないと思わないでくださいまし。少しだけ、あたしの話をしてもよろしいでしょうか」
「は……。それは、もちろん……」
彼女の唇を重くした『あたしの話』とやらがぱっとは腑に落ちず、春坊が小首を傾げていると、思い切ったように千代は続けた。
「……あたしが初めて結婚したのは、あなたと同じくらいの年の頃でした」
「!」
千代の切り出しに、つい息を呑む。
その春坊に頷いて、千代は告白した。
「その方は、さる旗本に仕える御家人でございましたが……。契りを交わしてすぐ、お仕えする旗本が京での奉公を任じられ、その方も随行することに相成りました。……それきり、いくら待てども、便りすらもございません」
「……」
「あちらでどなたか新しい方と暮らし、ややこができたと風の噂で聞いたのは、もうどれほど前のことでしょうか……。怒った父が絶縁を伝えましたか、果たして報せは京まで届いたかどうか。何も返事がございませぬゆえ、わかりようもございません」
悲しそうに、千代が瞼を伏せる。
何という身勝手な男だろうか。
彼女の父君の怒りも、当然のことだ。
「その後も、何度か御縁をいただきました。けれど、あたしの心根が悪いのでしょう。どなたもいつしか夜離れてしまいました。こんな身ですから、まだ縁談を受けてくださる方がいるなんて、信じられなくて……」
「……」
夜離れ、という、いやに古めかしい表現に気づかず、春坊は怒りに燃えた。
今度は、彼女の不運な身の上を面白おかしく噂に仕立て上げた、口さがのない者達に。
千代が迎えた夫は皆早々に死んだとかいうが――……、真っ赤な嘘ではないか。
顔をしかめ、内心の憤りを隠して千代を慰めようと顔を上げると、しかし、その目は、春坊を見ていなかった。
「……?」
千代の視線を追って振り返ると、そこには物言わぬ古い障子戸があった。
凝っとよく見れば――指を舐めて開けたと思われる、小さな覗き穴が開いていた。
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ここまで読んでくださってありがとうございます!
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。
以下、苦手な方はお気を付けください。
※零れ話
隅田川は江戸時代から桜の名所だったそうです!
有名なのは歌川広重の浮世絵ですね…!
参考URL
東都名所 隅田川華盛
歌川広重
https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5523
他に、少し時代は下りますが、当時の様子がイメージできる絵があったので、URLを載せます。
参考URL
東京スカイツリー(R)開業記念年間特集展示「隅田川の情景」
https://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/sonota/tenzi/h24/25nenkeikaku.html
また、長命寺の桜餅は今も食べられるそうです。
文化って凄いですね…!
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