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───次に目を覚ましたら自由の身になってる。
あの悪魔は、確かにそう言っていた。だからコーネリアもそのつもりであのモクテルを飲んだのだ。自分が目を覚ます頃には、自分はもう外の世界にいるだろうと期待して。
しかしどうだろう。次にコーネリアの耳が拾ったのは、酷く騒がしい人々の声で。次いで感じたのは、苦しさと、胃がひっくり返るような嘔吐感だった。
(なに、これ……)
口の中に入れられた長細い何かが舌の付け根を強く押さえ、体は反射的に胃の中の物を出そうとする。その苦しさに抵抗しようという気持ちはあるものの、体に力が入らない。
抵抗することも出来ないまま、反射的に胃の中の物を吐き出して。
「よし、吐いたな……」
すぐ耳元から誰かの安堵したような声が聞こえてきた。
(誰……?)
目を開けようと頭では考えるけれど、瞼を動かすどころか睫毛を揺らすことも出来ない。意識ははっきりとしているのに、指1本すら体を動かすことが出来ないのだ。
(なにこれ、どういうこと……!?)
訳の分からない状況に混乱しているコーネリアを置き去りに、閉じた瞼の向こうで繰り広げられているらしい出来事は進んでいって。
口の中に入れられていた何かは抜き取られ、自分では動かすことの出来ない体は誰かの手によってくるりと向きを変えられる。居心地の悪いそこは誰かの腕の中らしいことが、少しずつ状況を把握しようとしている頭が理解した。
「胃の中の物は吐き出させた。進行は止まると思うが……特定は出来そうか?」
「はっ! 早急に!」
慌ただしく去っていく足音に次いで、どこかの扉が勢いよく開閉する音がして。
聞こえてくる音からでしか状況を知ることが出来ない。だから混乱する頭を落ち着かせながら、とりあえずは自分が今どんな状況に置かれているかを理解しようとして。しかし、理解しきることを周りの人間達は待ってくれない。
口が無理矢理開けられ、口の中に布が入れられる。それはコーネリアに気を使う様子もなく、口の中を強引に拭い始めて。
(苦しい……!!)
今すぐにでも振り払いたいものを、しかし体が動かないのだからどうにもならない。しかも、その苦しさを表情に出すことも許されなくて。その布はすぐに引き抜かれたけれど、不快感を覚えるのには十分な時間だった。
(なんなのよ、もう!)
訳の分からない状況に放り出されて、コーネリアは表に出すことの出来ない怒りで頭をいっぱいにする。
そんな彼女とは正反対の、どこか震えている手が顔に触れてきた。角張った無骨な指が、コーネリアの首筋や唇に触れて。
「脈は……辛うじて。呼吸はもう、ほぼ止まっている……もう既に、全身に回っているようだ」
「そんな……!」
コーネリアの容態を知って受けた大きなショックを顕にした少女の声。その主を、コーネリアは知っていた。
(この子は……)
自分が毒を飲んで仮死状態となった後、家へ使いを出せるようにと来させたメイドだ。それが、どうしてここにいるのだろう。
「まだそう悲観的になるな。毒の種類はすぐに特定されるだろう。それに……ここに私がいる限り、コーネリアは死なせない」
「ッ……そう、ですね……申し訳ございません……どうか、お嬢様をよろしくお願いします、イントリーグ殿下」
(えっ……殿、下……?)
自分を腕に抱いているのが誰か、コーネリアは皆目見当もつかなかったのだ。だから、メイドが呼んだその名前に驚いてしまうのも無理はない。
声で判断出来なかったのだって、それがコーネリアのよく知る彼のものとは違っていたからで。
今までの人生も、今も、無愛想で無口なイントリーグとの会話はあまりなく。返ってくる相槌も、「ああ」とか「そうだな」とか短いものばかりで。会話だって短い最低限の言葉しか返ってこず、あまり続いた記憶がないのだから。
諦めるな? 死なせない?
イントリーグは何を言っているのだろう。仮死状態になった時、彼には真っ先に見捨てられると思っていたのに。邪魔者はいなくなったと喜ばれ、エーデルワイスの手を取ると思っていたのに。それなのにどうして、自分の命を救うようなことをしようとしているのだろう。
「おい、ナイフを貸せ。コルセットを切る。これだけ締め上げられていては、呼吸を阻害するだけだ。悠長に解いている時間はないからな」
「は、はい! こちらに……!」
「男連中は外で待機していろ。何かあれば呼ぶ」
「はっ!」
ばたばたと忙しない足音の後で、扉が閉まる音がした。騒がしい音が少しばかり小さくなった後で、コーネリアの体は前屈みになる形でイントリーグの腕に支えられる。
背中に、冷たいものが触れた。それが肌を滑る度、ざくざく、ぶちぶちとドレスやコルセットの紐が切られる音がして。冷たい感触が背中から離れる頃には、胸から腹を締め付けていたあの窮屈さはなくなっていた。
ドレスや切られた下着ごと肩から落とされ、両腕が抜き取られる感覚がして。
ゆっくり横たえさせられた先で、背中がふかふかとしたものに包まれる。どうやらここが部屋の寝台らしいということに、ここで初めて気が付いた。
「耐えろよ、ネル」
(……え?)
その弱々しく震えている声も、そして自分を呼ぶその呼び方も、この人生どころか今まで一度も聞いたことがなくて、一体何が起きているのかとわけがわからなくなる。
そんなだから、気付くことが出来なかったのだ。イントリーグの声が、ひどく近くに聞こえたことに。
次の瞬間強引に顎が掴まれ、強い力で鼻が摘まれる。
(何するのよ……!?)
その痛みに意識の中では顔をしかめるけれど、やっぱり表情に出すことは出来なかった。そんな抗議や抵抗すらも出来ず、怒りやら混乱やらで頭の中が埋め尽くされている状況で。コーネリアはふと、唇が何かに塞がれていることに気が付いた。
それまで、苦しくはなくとも自分が最低限の呼吸しか出来ていないことは自覚していたのだ。それもやっぱり無意識のうちに行われていて、自分でコントロールは出来なかったのだけれど。
それがどうだろう。唇が何かに覆われた途端、正常な呼吸と何ら変わらない量の空気が口から肺へと流れ込んできた。
(息が、出来る……?)
一瞬、毒が薄まってしまったのかと焦ったけれど。しかしそうではないらしいとは、直後に上がったメイド達の悲鳴で段々とわかった。
「い、いけませんイントリーグ殿下!」
「そうですわ! 殿下まで毒に倒れられてしまっては……!」
王宮のメイド達だろう。彼女達がどうして慌てふためいているのか、最初はわからなかったけれど。
「案ずるな。口の中に残っていた毒は全て拭った。それに、子供の頃からある程度の毒に耐えられるようにしてきたのは、お前達も知っているだろう?」
唇を覆っていた何かが離れたと同時に、イントリーグのそんな声がすぐ近くから聞こえて。胸が柔く押され、肺を満たしていた空気がゆっくりと押し出される。肺が空になった途端、また空気は少しずつしか吸えなくなって。
「それに」
と。彼にしては弱々しい指が、頬を撫でるのを感じた。
「同じ毒で果てるのであれば、それもまた本望だ」
そんなイントリーグの言葉の後でまた鼻が摘まれ、唇が何かに覆われて空気が肺へと流れ込んでくる。その瞬間、今度は確かに彼の息遣いを感じた。
自分の唇を覆っているのはイントリーグの唇で、彼が口移しで直接息を肺に送り込んでいるのだと、そこでようやく気が付く。口付けなんて今までの人生でただの一度もしたことはなかったから、なおのこと気付くのに時間がかかってしまった。
(一体、どうして……どうしてこんなことを……)
しかしやっぱり。それに気付いたら尚更、そんな疑問で頭がいっぱいになる。
冷静に話していたはずなのに、その唇も、吹き込まれる息もひどく震えていて。
「……ネル」
そうコーネリアを呼ぶ声も、苦しげで弱々しい。
(本当に、殿下なの……?)
なんて、そう疑ってしまうくらいには信じられなかった。
瞼を開ければ、そこにはイントリーグではない誰かがいるような気さえして。しかし相も変わらず、瞼どころか睫毛の一本すら動かすことが出来ないから確認しようもない。
口移しによって空気が肺に送られ、胸を緩く押されることでそれを押し出されて……なんて、そんな強制的な呼吸を幾度となく繰り返させられる。
(いつまで続ける気かしら……)
体感にして数分。何度も何度もそれが繰り返されるものだから、最早驚きを通り越して呆れてしまう。
(本当にどうして、殿下はそうまでしてわたくしを生かしたいのかしら……)
意味が、わからない。
(わたくしに死なれては都合が悪いということかしら……?)
今までの人生とは違って、コーネリアの存在にも価値があるのだろうと判断されたのだろうか。
例えば、コーネリアは正妃のまま迎えて公務を押し付け、エーデルワイスを側室に迎えてしまえば。今から王妃となるための教育を受けたとして、それは付け焼き刃なものでしかないから。
そう考えれば、邪魔者でしかないコーネリアにも傍に置いておく価値はあるだろうけれど。
(……そんなの、惨めなだけよ)
前の人生であれば、まだ少しは喜んでしまったかもしれない。しかし今のコーネリアにとっては、その流れも嬉しくないわけで。
ふと、イントリーグの動きが止まる。口元に彼の手が触れた気がして。
「っ……何故、まだ呼吸が弱まって……毒は全て吐かせたはずだ……!!」
しばらくして大きく動揺した声が聞こえた。
(ああ、通りで)
口移しでない時に吸う空気が少しずつ少なくなっているのは、何となく気付いていたのだ。それでも苦しさを感じないのは、あの毒薬の効果なのかもしれない。
意識だけが戻ったのも、毒を吐かされたことで少しばかり効力が薄まっただけだったのだろう。
(これでまた、眠れるかしら)
今度こそは、目が覚めたら自由の身であったらいいのだけれど。しかし、そうもさせてくれないらしい。
「ダメだ……ネル……!」
両肩を掴まれて、大きく肩を揺さぶられてしまえば眠ろうにも眠れない。
(いい加減、諦めてくださいませ)
コーネリアとしては、このまま諦めて死んだことにしてもらえればそれでいいのに。
次いで彼女の唇を塞ぐイントリーグのその唇は、先程よりも一層震えていて。吹き込まれる息は、少々乱暴とも思える程に強いものだった。
どうして、そこまでして生かそうとしてくるのだろう。コーネリアには、やっぱりわからない。
「ああ、そんな……お嬢様……!」
申し訳なく思うというのであれば、連れてきたメイドの方にだろうか。トラウマになってしまわなければいいのだけれど。
(悪いわね。でもまあ、わたくしのことなんてそのうち忘れてしまうわ)
長く使えるつもりだったのであれば、いつかは迎える出来事なのだ。それが少しばかり早まっただけで。
「ネル……ネル、ネル……! ダメだ……! ちゃんと息をするんだ……!!」
(そんなに大きな声で呼ばなくても、この距離だから聞こえていますわよ。いい加減、眠らせてくださいませ)
いい加減、この場から解放されたい。そう、コーネリアが思い始めた時だ。
「殿下! 御報告が!」
どこからか、そんな男の声が聞こえた。くぐもっているから、扉の外からかけられた声なのだろう。聞き覚えはないけれど、その喋り方からして護衛の誰かだろうか。
「コーネリア様が吐き出したものから検出された毒薬と、全く同じものを所持していた人間を発見いたしました。例の男爵令嬢……エーデルワイス様も関与しているとのことで、共に拘束してあります。本人は否認しておりますが」
そんな報告に、部屋の空気がざわりと揺れたのがわかった。やっぱり、とか。そうだと思った、とか。そんなことをメイド達が口々に言っているのが聞こえる。
「ああ……やはり、か」
イントリーグもそう吐き捨てて。
(どういうこと……?)
そんな中、コーネリアは戸惑い狼狽えていた。
当たり前だ。だって彼女が飲んだ毒は、あの悪魔から飲めと言われて飲んだものだ。となれば、当然のごとくその毒を持っているのは使用人に扮しているあの悪魔しかいないわけで。そして当然、そこにエーデルワイスは何も関与していない。
それなのに何故そこに、さも関係者であるようにエーデルワイスの名前が出てくるのだろう。
(もしかして……違う毒を飲んでしまったのかしら……?)
一瞬、そうも考えてしまった。
バラが添えられたモクテルなんて、2つも存在しないと思っていたのだけれど。実はもう1つあって、取り違えてしまったのだとしたら……なんて、真面目に考えかけてしまうくらいには混乱していた。
「連れてこい」
その低い声は、コーネリアのよく知るイントリーグの声で。
その命令と共に、扉の向こう側が騒がしくなる。
「ネル、少しだけ待っていろ」
次いで聞こえてきたその声は、甘く優しく、コーネリアを気遣うような声だった。
ふわりと体に布が掛けられ、晒されていた胸が隠される。
(あ……これは……)
ひどくゆっくりとした呼吸と共に感じられるその匂いは、イントリーグのもので。その形状や感触から、彼のジャケットであるらしいことがなんとなくわかった。
「……ネル。苦しいとは思うが、もう少しだけ待っていてくれ。大丈夫だ。必ず、解毒薬のある場所を吐かせる」
また、唇が塞がれて息が吹き込まれる。強制的に続けさせられる呼吸の中、頬や髪が優しく撫でられて。
(……何故?)
何故自分を撫でるその手は優しいのか。
何故彼は、そんなにも自分を生かそうとしているのか。
(あれ、そういえば……エーデルワイスは拘束されてしまっているんじゃ……)
そんなことをしてしまえば、今までの彼なら騒ぎ出しそうなものだけれど。しかし、それがさも当然であるかのようにここにいる。
(どうして……?)
彼らは恋人か、もしくはそれに等しい関係ではなかったのだろうか。
だって、これではまるで……
「ち、ちょっと……! 離しなさいよ……!」
にわかに、扉の向こう側が騒がしくなる。騒がしいというよりかは、きゃんきゃんと子犬のように鳴く1人の声が大きいのだけれど。
「殿下! 連れてまいりました!」
「……入れ」
イントリーグの声を合図に扉が開けられ、室内に入ってくる複数人の足音が聞こえた。
「イントリーグ様ぁ……! この人達をどうにかしてください! 私は何もしてないのに~!」
擦り寄るような甘い声が聞こえてくる。
(これは……エーデルワイス……?)
戸惑ってしまったのは、やっぱり彼女に抱いていたイメージとは違う声色の言葉が聞こえてきたからで。
「黙れ」
そんなエーデルワイスの言葉を、イントリーグは冷たく一蹴した。やっぱり、今までの人生では考えられないようなやり取りだ。
彼の手がコーネリアの頭を数回撫で、立ち上がる気配がして。
「……こいつか。ネルの飲んだものに毒を仕込んだのは」
「はっ。この使用人の部屋から、同一の毒薬が発見されました。コーネリア様にモクテルを渡した給仕も、この男の顔を覚えていました」
どさり、と。重いものが床に放り投げられる音がして。
「ぐぁ……」
それと同時に、誰かの呻く声が聞こえた。それが誰だか、最初は心当たりがなかったのだけれど。
「なるほどな。このためにネルに近付いたというわけか」
「違う……! 僕は、コーネリア様を……!」
その声が聞こえた途端、一瞬、全ての会話が頭に入らなくなった。
(悪魔……?)
それは、あの悪魔が扮する使用人の声だった。
あの悪魔は、確かにそう言っていた。だからコーネリアもそのつもりであのモクテルを飲んだのだ。自分が目を覚ます頃には、自分はもう外の世界にいるだろうと期待して。
しかしどうだろう。次にコーネリアの耳が拾ったのは、酷く騒がしい人々の声で。次いで感じたのは、苦しさと、胃がひっくり返るような嘔吐感だった。
(なに、これ……)
口の中に入れられた長細い何かが舌の付け根を強く押さえ、体は反射的に胃の中の物を出そうとする。その苦しさに抵抗しようという気持ちはあるものの、体に力が入らない。
抵抗することも出来ないまま、反射的に胃の中の物を吐き出して。
「よし、吐いたな……」
すぐ耳元から誰かの安堵したような声が聞こえてきた。
(誰……?)
目を開けようと頭では考えるけれど、瞼を動かすどころか睫毛を揺らすことも出来ない。意識ははっきりとしているのに、指1本すら体を動かすことが出来ないのだ。
(なにこれ、どういうこと……!?)
訳の分からない状況に混乱しているコーネリアを置き去りに、閉じた瞼の向こうで繰り広げられているらしい出来事は進んでいって。
口の中に入れられていた何かは抜き取られ、自分では動かすことの出来ない体は誰かの手によってくるりと向きを変えられる。居心地の悪いそこは誰かの腕の中らしいことが、少しずつ状況を把握しようとしている頭が理解した。
「胃の中の物は吐き出させた。進行は止まると思うが……特定は出来そうか?」
「はっ! 早急に!」
慌ただしく去っていく足音に次いで、どこかの扉が勢いよく開閉する音がして。
聞こえてくる音からでしか状況を知ることが出来ない。だから混乱する頭を落ち着かせながら、とりあえずは自分が今どんな状況に置かれているかを理解しようとして。しかし、理解しきることを周りの人間達は待ってくれない。
口が無理矢理開けられ、口の中に布が入れられる。それはコーネリアに気を使う様子もなく、口の中を強引に拭い始めて。
(苦しい……!!)
今すぐにでも振り払いたいものを、しかし体が動かないのだからどうにもならない。しかも、その苦しさを表情に出すことも許されなくて。その布はすぐに引き抜かれたけれど、不快感を覚えるのには十分な時間だった。
(なんなのよ、もう!)
訳の分からない状況に放り出されて、コーネリアは表に出すことの出来ない怒りで頭をいっぱいにする。
そんな彼女とは正反対の、どこか震えている手が顔に触れてきた。角張った無骨な指が、コーネリアの首筋や唇に触れて。
「脈は……辛うじて。呼吸はもう、ほぼ止まっている……もう既に、全身に回っているようだ」
「そんな……!」
コーネリアの容態を知って受けた大きなショックを顕にした少女の声。その主を、コーネリアは知っていた。
(この子は……)
自分が毒を飲んで仮死状態となった後、家へ使いを出せるようにと来させたメイドだ。それが、どうしてここにいるのだろう。
「まだそう悲観的になるな。毒の種類はすぐに特定されるだろう。それに……ここに私がいる限り、コーネリアは死なせない」
「ッ……そう、ですね……申し訳ございません……どうか、お嬢様をよろしくお願いします、イントリーグ殿下」
(えっ……殿、下……?)
自分を腕に抱いているのが誰か、コーネリアは皆目見当もつかなかったのだ。だから、メイドが呼んだその名前に驚いてしまうのも無理はない。
声で判断出来なかったのだって、それがコーネリアのよく知る彼のものとは違っていたからで。
今までの人生も、今も、無愛想で無口なイントリーグとの会話はあまりなく。返ってくる相槌も、「ああ」とか「そうだな」とか短いものばかりで。会話だって短い最低限の言葉しか返ってこず、あまり続いた記憶がないのだから。
諦めるな? 死なせない?
イントリーグは何を言っているのだろう。仮死状態になった時、彼には真っ先に見捨てられると思っていたのに。邪魔者はいなくなったと喜ばれ、エーデルワイスの手を取ると思っていたのに。それなのにどうして、自分の命を救うようなことをしようとしているのだろう。
「おい、ナイフを貸せ。コルセットを切る。これだけ締め上げられていては、呼吸を阻害するだけだ。悠長に解いている時間はないからな」
「は、はい! こちらに……!」
「男連中は外で待機していろ。何かあれば呼ぶ」
「はっ!」
ばたばたと忙しない足音の後で、扉が閉まる音がした。騒がしい音が少しばかり小さくなった後で、コーネリアの体は前屈みになる形でイントリーグの腕に支えられる。
背中に、冷たいものが触れた。それが肌を滑る度、ざくざく、ぶちぶちとドレスやコルセットの紐が切られる音がして。冷たい感触が背中から離れる頃には、胸から腹を締め付けていたあの窮屈さはなくなっていた。
ドレスや切られた下着ごと肩から落とされ、両腕が抜き取られる感覚がして。
ゆっくり横たえさせられた先で、背中がふかふかとしたものに包まれる。どうやらここが部屋の寝台らしいということに、ここで初めて気が付いた。
「耐えろよ、ネル」
(……え?)
その弱々しく震えている声も、そして自分を呼ぶその呼び方も、この人生どころか今まで一度も聞いたことがなくて、一体何が起きているのかとわけがわからなくなる。
そんなだから、気付くことが出来なかったのだ。イントリーグの声が、ひどく近くに聞こえたことに。
次の瞬間強引に顎が掴まれ、強い力で鼻が摘まれる。
(何するのよ……!?)
その痛みに意識の中では顔をしかめるけれど、やっぱり表情に出すことは出来なかった。そんな抗議や抵抗すらも出来ず、怒りやら混乱やらで頭の中が埋め尽くされている状況で。コーネリアはふと、唇が何かに塞がれていることに気が付いた。
それまで、苦しくはなくとも自分が最低限の呼吸しか出来ていないことは自覚していたのだ。それもやっぱり無意識のうちに行われていて、自分でコントロールは出来なかったのだけれど。
それがどうだろう。唇が何かに覆われた途端、正常な呼吸と何ら変わらない量の空気が口から肺へと流れ込んできた。
(息が、出来る……?)
一瞬、毒が薄まってしまったのかと焦ったけれど。しかしそうではないらしいとは、直後に上がったメイド達の悲鳴で段々とわかった。
「い、いけませんイントリーグ殿下!」
「そうですわ! 殿下まで毒に倒れられてしまっては……!」
王宮のメイド達だろう。彼女達がどうして慌てふためいているのか、最初はわからなかったけれど。
「案ずるな。口の中に残っていた毒は全て拭った。それに、子供の頃からある程度の毒に耐えられるようにしてきたのは、お前達も知っているだろう?」
唇を覆っていた何かが離れたと同時に、イントリーグのそんな声がすぐ近くから聞こえて。胸が柔く押され、肺を満たしていた空気がゆっくりと押し出される。肺が空になった途端、また空気は少しずつしか吸えなくなって。
「それに」
と。彼にしては弱々しい指が、頬を撫でるのを感じた。
「同じ毒で果てるのであれば、それもまた本望だ」
そんなイントリーグの言葉の後でまた鼻が摘まれ、唇が何かに覆われて空気が肺へと流れ込んでくる。その瞬間、今度は確かに彼の息遣いを感じた。
自分の唇を覆っているのはイントリーグの唇で、彼が口移しで直接息を肺に送り込んでいるのだと、そこでようやく気が付く。口付けなんて今までの人生でただの一度もしたことはなかったから、なおのこと気付くのに時間がかかってしまった。
(一体、どうして……どうしてこんなことを……)
しかしやっぱり。それに気付いたら尚更、そんな疑問で頭がいっぱいになる。
冷静に話していたはずなのに、その唇も、吹き込まれる息もひどく震えていて。
「……ネル」
そうコーネリアを呼ぶ声も、苦しげで弱々しい。
(本当に、殿下なの……?)
なんて、そう疑ってしまうくらいには信じられなかった。
瞼を開ければ、そこにはイントリーグではない誰かがいるような気さえして。しかし相も変わらず、瞼どころか睫毛の一本すら動かすことが出来ないから確認しようもない。
口移しによって空気が肺に送られ、胸を緩く押されることでそれを押し出されて……なんて、そんな強制的な呼吸を幾度となく繰り返させられる。
(いつまで続ける気かしら……)
体感にして数分。何度も何度もそれが繰り返されるものだから、最早驚きを通り越して呆れてしまう。
(本当にどうして、殿下はそうまでしてわたくしを生かしたいのかしら……)
意味が、わからない。
(わたくしに死なれては都合が悪いということかしら……?)
今までの人生とは違って、コーネリアの存在にも価値があるのだろうと判断されたのだろうか。
例えば、コーネリアは正妃のまま迎えて公務を押し付け、エーデルワイスを側室に迎えてしまえば。今から王妃となるための教育を受けたとして、それは付け焼き刃なものでしかないから。
そう考えれば、邪魔者でしかないコーネリアにも傍に置いておく価値はあるだろうけれど。
(……そんなの、惨めなだけよ)
前の人生であれば、まだ少しは喜んでしまったかもしれない。しかし今のコーネリアにとっては、その流れも嬉しくないわけで。
ふと、イントリーグの動きが止まる。口元に彼の手が触れた気がして。
「っ……何故、まだ呼吸が弱まって……毒は全て吐かせたはずだ……!!」
しばらくして大きく動揺した声が聞こえた。
(ああ、通りで)
口移しでない時に吸う空気が少しずつ少なくなっているのは、何となく気付いていたのだ。それでも苦しさを感じないのは、あの毒薬の効果なのかもしれない。
意識だけが戻ったのも、毒を吐かされたことで少しばかり効力が薄まっただけだったのだろう。
(これでまた、眠れるかしら)
今度こそは、目が覚めたら自由の身であったらいいのだけれど。しかし、そうもさせてくれないらしい。
「ダメだ……ネル……!」
両肩を掴まれて、大きく肩を揺さぶられてしまえば眠ろうにも眠れない。
(いい加減、諦めてくださいませ)
コーネリアとしては、このまま諦めて死んだことにしてもらえればそれでいいのに。
次いで彼女の唇を塞ぐイントリーグのその唇は、先程よりも一層震えていて。吹き込まれる息は、少々乱暴とも思える程に強いものだった。
どうして、そこまでして生かそうとしてくるのだろう。コーネリアには、やっぱりわからない。
「ああ、そんな……お嬢様……!」
申し訳なく思うというのであれば、連れてきたメイドの方にだろうか。トラウマになってしまわなければいいのだけれど。
(悪いわね。でもまあ、わたくしのことなんてそのうち忘れてしまうわ)
長く使えるつもりだったのであれば、いつかは迎える出来事なのだ。それが少しばかり早まっただけで。
「ネル……ネル、ネル……! ダメだ……! ちゃんと息をするんだ……!!」
(そんなに大きな声で呼ばなくても、この距離だから聞こえていますわよ。いい加減、眠らせてくださいませ)
いい加減、この場から解放されたい。そう、コーネリアが思い始めた時だ。
「殿下! 御報告が!」
どこからか、そんな男の声が聞こえた。くぐもっているから、扉の外からかけられた声なのだろう。聞き覚えはないけれど、その喋り方からして護衛の誰かだろうか。
「コーネリア様が吐き出したものから検出された毒薬と、全く同じものを所持していた人間を発見いたしました。例の男爵令嬢……エーデルワイス様も関与しているとのことで、共に拘束してあります。本人は否認しておりますが」
そんな報告に、部屋の空気がざわりと揺れたのがわかった。やっぱり、とか。そうだと思った、とか。そんなことをメイド達が口々に言っているのが聞こえる。
「ああ……やはり、か」
イントリーグもそう吐き捨てて。
(どういうこと……?)
そんな中、コーネリアは戸惑い狼狽えていた。
当たり前だ。だって彼女が飲んだ毒は、あの悪魔から飲めと言われて飲んだものだ。となれば、当然のごとくその毒を持っているのは使用人に扮しているあの悪魔しかいないわけで。そして当然、そこにエーデルワイスは何も関与していない。
それなのに何故そこに、さも関係者であるようにエーデルワイスの名前が出てくるのだろう。
(もしかして……違う毒を飲んでしまったのかしら……?)
一瞬、そうも考えてしまった。
バラが添えられたモクテルなんて、2つも存在しないと思っていたのだけれど。実はもう1つあって、取り違えてしまったのだとしたら……なんて、真面目に考えかけてしまうくらいには混乱していた。
「連れてこい」
その低い声は、コーネリアのよく知るイントリーグの声で。
その命令と共に、扉の向こう側が騒がしくなる。
「ネル、少しだけ待っていろ」
次いで聞こえてきたその声は、甘く優しく、コーネリアを気遣うような声だった。
ふわりと体に布が掛けられ、晒されていた胸が隠される。
(あ……これは……)
ひどくゆっくりとした呼吸と共に感じられるその匂いは、イントリーグのもので。その形状や感触から、彼のジャケットであるらしいことがなんとなくわかった。
「……ネル。苦しいとは思うが、もう少しだけ待っていてくれ。大丈夫だ。必ず、解毒薬のある場所を吐かせる」
また、唇が塞がれて息が吹き込まれる。強制的に続けさせられる呼吸の中、頬や髪が優しく撫でられて。
(……何故?)
何故自分を撫でるその手は優しいのか。
何故彼は、そんなにも自分を生かそうとしているのか。
(あれ、そういえば……エーデルワイスは拘束されてしまっているんじゃ……)
そんなことをしてしまえば、今までの彼なら騒ぎ出しそうなものだけれど。しかし、それがさも当然であるかのようにここにいる。
(どうして……?)
彼らは恋人か、もしくはそれに等しい関係ではなかったのだろうか。
だって、これではまるで……
「ち、ちょっと……! 離しなさいよ……!」
にわかに、扉の向こう側が騒がしくなる。騒がしいというよりかは、きゃんきゃんと子犬のように鳴く1人の声が大きいのだけれど。
「殿下! 連れてまいりました!」
「……入れ」
イントリーグの声を合図に扉が開けられ、室内に入ってくる複数人の足音が聞こえた。
「イントリーグ様ぁ……! この人達をどうにかしてください! 私は何もしてないのに~!」
擦り寄るような甘い声が聞こえてくる。
(これは……エーデルワイス……?)
戸惑ってしまったのは、やっぱり彼女に抱いていたイメージとは違う声色の言葉が聞こえてきたからで。
「黙れ」
そんなエーデルワイスの言葉を、イントリーグは冷たく一蹴した。やっぱり、今までの人生では考えられないようなやり取りだ。
彼の手がコーネリアの頭を数回撫で、立ち上がる気配がして。
「……こいつか。ネルの飲んだものに毒を仕込んだのは」
「はっ。この使用人の部屋から、同一の毒薬が発見されました。コーネリア様にモクテルを渡した給仕も、この男の顔を覚えていました」
どさり、と。重いものが床に放り投げられる音がして。
「ぐぁ……」
それと同時に、誰かの呻く声が聞こえた。それが誰だか、最初は心当たりがなかったのだけれど。
「なるほどな。このためにネルに近付いたというわけか」
「違う……! 僕は、コーネリア様を……!」
その声が聞こえた途端、一瞬、全ての会話が頭に入らなくなった。
(悪魔……?)
それは、あの悪魔が扮する使用人の声だった。
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