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第06話 物語を創る時だ
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坂本さんの表情には明らかな苛立ちが浮かび、黒川さんも同じように険しい顔をしていた。
「それで──あなたは彼にとって何なの? わざわざここに割り込んでくるなんて」
坂本さんは苛立ちを隠そうともせずに問いかけた。
決意を帯びた黒川さんが口を開いた。
「私は……」
………………
…………
……
言葉は途中で途切れた。
さっきまでの自信はどこかへ消え、表情には戸惑いが浮かぶ。
その様子を見た坂本さんは、何かを繋ぎ合わせるように眉を寄せた。まるで危うい結論へたどり着こうとしているかのように。
「もしかして、あなたたち──」
言葉の続きを予感した瞬間、思わず彼女の顔を見返してしまう。
それは、この場にいる全員を巻き込む、とんでもない一言だった。
「和泉君と付き合ってるんじゃないの?」
空気が一瞬で凍りついた。
あまりにも唐突で、馬鹿げているのに。
黒川さんの目が大きく見開かれ、驚きを隠せずにいた。
(どうするつもりなんだ……?)
彼女の表情からは、まるで「どうすればいいの?」と声が聞こえてきそうだった。
周囲の生徒たちもざわつき始める。否定することは簡単だ。だが──問題はそこからだ。
俺と黒川さんは同じアパートで暮らしている。
そんな事実をどう説明できる? いや、説明したところで信じてもらえるのか?
下手に否定すれば、二度と人前でまともに話せなくなるかもしれない。
そのときだった。
黒川さんはふっと俺を見やり、声を出さずに唇を動かした。
──「任せて」
「違うわ。恋人なんかじゃない。ただの幼なじみよ」
坂本さんの眉間にしわが寄る。疑いを晴らすどころか、むしろ深まったようだった。
「……でも、彼、そんなこと一度も言ってなかった。幼なじみなんていないって」
黒川さんの顔が引きつる。しかし、次の瞬間、彼女は落ち着きを取り戻していた。
「……覚えてないだけかもしれないわ。ほんの少しの間しか一緒にいなかったし」
完璧な返しだった。
あとは俺が頷くだけで成立する。
ゆっくりと頷くと、二人の視線が一斉に俺に集まる。
胸の奥がざわめき、妙な緊張が走った。
坂本さんはしばらく黙り込んだあと、ため息をついたように口を開いた。
「……そういうことだったのね。てっきり二人が付き合ってるのかと思った」
「いいえ」
黒川さんの声は冷たく、きっぱりしていた。
「絶対にそんなことはない。彼なんかに興味はないもの。あなたが狙いたいならご自由に」
心臓に小さな針を刺されたような痛みが走った。
(……“彼なんか”ってどういう意味だよ)
「とりあえず、今は彼を連れて行く必要があるの。ちょっと借りてもいいかしら?」
そう言った途端、彼女の頬が赤く染まり、まるで恋人のように俺の腕を取った。
(……おい、何をやってるんだ黒川さん)
「え? 別にいいけど……どうして私に許可を?」坂本さんが戸惑った声を出す。
「え? だって、二人は付き合ってるんでしょ?」
(勝手に決めつけるなよ……!)
周りの生徒たちは興味を失い、次第に散っていく。
その間に坂本さんは、ぶんぶんと首と手を振って否定した。
「ち、違う! 私と彼は付き合ってなんかない! 友達なだけ! 本当にそんな関係じゃ……!」
必要以上に強い否定だった。
だが、その表情の奥には──言葉とは裏腹に、消しきれない感情が宿っているように見えた。
その空気の中、黒川さんは俺の腕をしっかり掴み、無言で伝えてきた。
──「行くわよ」
「ありがとう、坂本さん。それじゃ、行くわね」
黒川さんはそう言い残し、俺の腕を引いて歩き出した。
***
高校から少し離れたところで、俺が一番恐れていた“尋問”が始まった。
「……あなたのせいで、どれだけ面倒を見せられたと思ってるの。あと数分遅れてたら、どうなってたか」
声は冷たく、詰問するようだった。
彼女のそういう態度は、どれだけ時間が経っても変わらない。
「本当に助かったよ。ありがとう。……正直、あのままだったら、馬鹿なことを口走ってたかもしれない」
俺の謝罪に、黒川さんは小さくため息をついて頷いた。
「……やっぱり。二人が付き合ってるって思われても仕方なかった」
「は? 付き合うって……」
思わず吹き出してしまった。
あまりに突拍子もなく、現実味がなさすぎて。俺が誰かと付き合うなんて──そんな可能性は、ほとんどゼロに等しい。
その笑いが、彼女の目には“馬鹿にしている”ように映ったのだろう。
次の瞬間、黒川さんの指が俺の腕に食い込み、想像以上の力で締め上げられた。
「……私の言うことを笑わないで」
顔は変わらず無表情に近いのに、その瞳には静かな怒りが宿っていた。
「わ、悪かった! もう言わないから、許して!」
ようやく解放された腕には、じんわりとした痛みが残った。見た目は細いのに、本当に力が強い。
「……あ、そうだ。黒川さん、今日やる予定のやつ、書いてきた?」
俺の問いかけに、彼女は一瞬固まった。
そして、気まずそうに視線を逸らした。
……まさか。
その目つきだけで、答えははっきりしていた。
「ごめん。時間なくて……。帰ってから書こうと思ってたの」
「はぁ……」
思わずため息が漏れた。
結局、彼女は書いていなかった。……まあ、俺も人のことを言えないけど。昨夜は自分の原稿を直すだけで精一杯で、完成度にはまだまだ不安が残っていた。
それでも、アイデアはいくらでもある。物語の“核”にできそうなものが、頭の中には山ほど浮かんでいた。
***
部屋に戻ると、俺たちはテーブルに向かい合って座った。
お互いにスマホを取り出し、それぞれの原稿を見せ合う。
彼女のスマホを手に取り、読み進めていく。
……妙な違和感を覚えた。いや、“違和感”というより、素直に言えば「採用していいのか迷う」ような内容だった。
主人公が──女の子だった。
別に女主人公が悪いわけじゃない。けれど、この手の小説を読む層のほとんどは、男主人公を求めている。実際、九割はそうだ。俺自身、その九割に含まれている。
彼女の話は──友達のいない少女が冒険者になることを夢見て、ある日突然死し、ゲームのような異世界に転生する……というもの。
……正直、このパターンは今やありふれていた。もう一歩、何か違うものを探した方がいい。
そう考えた瞬間、俺の頭に別のアイデアが浮かんでいた。
顔を上げると、黒川さんは俺の原稿に集中していた。
三ページしか書いていないのに、本当に楽しそうに読んでいる。
……少し待とう。彼女が読み終えるまで。
やがて読み終わった黒川さんは、腕を大きく伸ばしながら息をついた。
「で、感想は?」
「うーん……誤字脱字が多すぎ。でも、話そのものは悪くない。ただ、舞台描写が薄いかな。それだけね。あと……最初に決めてたルールから外れてる部分もある」
鋭い目つきで俺のスマホを返しながら言う。
「ああ、それは……ちょっとダークファンタジー寄りにして、できるだけテンプレを避けようとしたんだ」
「テンプレ、避けたつもり……?」
「え、違った?」
「うーん……むしろテンプレだらけよ。ただ、処理の仕方は悪くないと思う。主人公に“すべて”を与える設定は、正直ちょっと不自然。まあ、成り立たなくはないけど……私の好みではないわね。ごめん」
「……どういう意味? “私のスタイルじゃない”って」
「つまりね……私はまだ、こういう物語を書き慣れてないの。男の人のこともよく分かってないし……そういう意味」
「え、ちょっと待て。男を理解してないから、この小説は書けない──そういうこと?」
黒川さんは一度うつむき、すぐに真剣な眼差しで俺を見据えた。
「……そう。正直に言うと、私が描いてる男性キャラは、私の知識の範囲でしか作ってない。本当に深く関わったこともないし。だから、あれが限界なの」
「なるほど……じゃあ、別の方向を探すしかないな。俺だって女性のことを完璧に知ってるわけじゃないけど、多少は調べてきたし。……ちょっと聞きたいんだけど」
彼女は興味を示しながらも、相変わらず真面目な顔でうなずいた。
「何を聞きたいの?」
「どうして男についてもっと調べようとしなかった? そんなに難しいことじゃないだろ。……それに、俺の書く女性キャラって、そこまで不自然に見えないはずだろ? “女の人から見ても女らしい”って思われるくらいに」
「質問は一つって言ったのに……まあ、いいわ。二つとも答える。
まず、調べなかった理由──あの頃はテスト期間で、時間なんてなかった。だから、ほんの数分で《理想の男性》みたいなキャラをでっち上げたのよ。
そして二つ目。あなたの女キャラ……時々、ただのフェティシズムに見えるわ。もちろん悪い意味じゃない。作品としては機能してる。でも、“本当の女性”からは少しズレてるの。だから結局、私の男キャラと同じ欠点を抱えてる」
……早口すぎて、理解するのに少し時間がかかった。
でも、なるほど。つまり彼女の作品には少女漫画(shōjo)っぽさがあるってことか。
「結局さ……俺たち二人とも、恋愛経験ゼロなんだろ。だからキャラが理想寄りになる。──いや、“俺たち二人とも”って言ったのは、黒川さんも付き合ったことないように見えるからなんだけど」
「……失礼ね。でも事実よ。興味もないし。
……あ、そういえば。この前あなたが言ってたこと──あれ、うちの家では結婚のプロポーズになるの」
「は? 俺、何を言ったっけ。……ああ、“守る”とか“支える”って話? あれがプロポーズ!?」
「そう。曾祖父母の代から続いてる伝統なの。“守る”って言葉を言われたら結婚前提ってことになってる。だから……あなた、責任取ってよ。お母さんにも伝えたし」
……最悪だ。あんな軽口を言わなきゃよかった。
しかも、もう母親にまで話がいってるとか。
「ちょ、ちょっと待って! 俺が言いたかったのは“仲間として守る”って意味で──」
「一緒でしょ。言葉を変えただけ」
反論できない。確かにそう聞こえる。
「……はぁ。じゃあ俺、このまま“結婚する”しかないのか?」
半分冗談で言ったつもりだった。
けれど、黒川さんの表情は真剣そのもの。まるで“図星”を突かれたように。
「え……まさか、本気なの?」
「当たり前じゃない。……と言いたいところだけど、私だって数日前に知り合った男と結婚する気なんてないわ。でも、伝統を破ることはできないの。ましてや母にまで報告した以上は」
「いやいや、そんな話、一度も聞いてないぞ! ていうか、いつ母親に話したんだよ!?」
あの時はそんな素振り、一切なかったはずなのに……。
俺が呆れていると、黒川さんはため息をつき、少し不機嫌そうに肩を落とした。
「……分かった。じゃあ話すわ。あなたの疑いを払うためにね」
私は冷たい空気に肩をすくめて、ベッドの上に置いてあった黄色いジャケットを羽織った。もう一度ドアの前に立ち、部屋を出て玄関へと向かう。数日前の出来事が頭から離れず、考え込むのにも疲れていた私は、母に電話をかけることにした。
本当に……あの言葉にそんな意味があったの? 一人で答えを出すには、あまりにも重すぎる疑問だった。
呼び出し音が響く。胸の奥に不安を抱えながら待っていると、やがて通話が繋がった。
「もしもし、お母さん……」
『どうしたの? まさかもう将来について考え直して、くだらない小説なんてやめる気になったわけじゃないでしょうね?』
「違うわ。期待を裏切って悪いけど、小説をやめるつもりはないの。ただ、今日は別のことで聞きたいことがあるの。」
『あら、残念ね~。で、何を聞きたいの? こっちはお父さんの会社を回すので忙しいんだから、手短にしてちょうだい。』
「ねえ……まだ話し始めたばかりの男の子から、『守ってやる』なんて言われたら、それってどういう意味だと思う?」
『それはうちの家系では結婚の申し込みよ。ただ言うだけじゃなく、態度で示す必要もある。助け合ったり、一緒に過ごしたり……そうやって形にしていくものなの。あなたのお父さんもね、ちょっと不器用だったけど、その言葉で私にプロポーズしてきたのよ。』
母の声には、懐かしさが混じっていた。子供の頃以来、ほとんど聞いたことがないような響きだった。――でも、今なら分かる。あの時の和泉くんは、すでに条件を満たしていた。ふたりきりで真剣に言葉を口にしたし、一緒に時間を過ごしてもきた。つまり……和泉くんは本当に私にプロポーズしてしまったのだ。
あの馬鹿……自分が何をしたか分かってるの? おかげで私は、高校でとんでもない問題を背負う羽目になった。
「そう……ありがとう、お母さん。おかげでスッキリしたわ。」
『ちょっと待ちなさい。まさか本当にそんなこと、あなたに起きたんじゃないでしょうね?』
やっぱり疑い始めた。でも当然だ。母ならそう反応するに決まっている。――言うべきか、黙っておくか。
「さあね。そうかもしれないし、違うかもしれない。それじゃ、もう切るわ。」
母の反応を聞く前に通話を切った。けれど確信した。――和泉慧翔、あなたと私はもう婚約してる。全部、あなたのせいで。
彼は驚いた顔を見せたが、すぐに疲れたようにため息をつき、うなずいた。
「……分かったよ。じゃあ、付き合うべきなのか? それとも……いや、なんでもない。」
私はソファから立ち上がり、彼をじっと見据える。
「だからって、私が望んでるわけじゃないって言ってるでしょ……もう。本当に一つだけ聞かせて、和泉君。」
「なんだ?」腕を組んで、真剣にこちらを見返してきた。
「私たちはどのくらい小説を書き続けると思う? それに、『完璧な小説』を書く目的って、いったい何なの?」
「そんなの、決まってるだろ。君だって分かってるはずだ。小説家になりたいんだろ? 俺は、世界中の人が愛してくれるような小説を書きたい。どんな小さな場所にでも届くような……それに、俺の才能をちゃんと認めてもらいたいんだ。」
和泉君の言葉は、そのまま私が言いたかった気持ちだった。同じ思い。同じ夢。――もしかしたら、私たちなら。
「私も……」思わず口から漏れた。
彼は顔を上げ、私を見つめる。
「私も、同じ気持ち。だから……これからも一緒に書こう。お母さんが決めた未来なんていらない。私自身の力で、世界に届く誰かになりたい。それが、本当の私の願いだから。」
その言葉を聞いた彼は、まるで背中を押されたかのように笑った。そして立ち上がる。
「よし! じゃあ、一緒に目指そう。俺たちの理想の世界を! これからも頼むぞ、黒川さん。」
「それで──あなたは彼にとって何なの? わざわざここに割り込んでくるなんて」
坂本さんは苛立ちを隠そうともせずに問いかけた。
決意を帯びた黒川さんが口を開いた。
「私は……」
………………
…………
……
言葉は途中で途切れた。
さっきまでの自信はどこかへ消え、表情には戸惑いが浮かぶ。
その様子を見た坂本さんは、何かを繋ぎ合わせるように眉を寄せた。まるで危うい結論へたどり着こうとしているかのように。
「もしかして、あなたたち──」
言葉の続きを予感した瞬間、思わず彼女の顔を見返してしまう。
それは、この場にいる全員を巻き込む、とんでもない一言だった。
「和泉君と付き合ってるんじゃないの?」
空気が一瞬で凍りついた。
あまりにも唐突で、馬鹿げているのに。
黒川さんの目が大きく見開かれ、驚きを隠せずにいた。
(どうするつもりなんだ……?)
彼女の表情からは、まるで「どうすればいいの?」と声が聞こえてきそうだった。
周囲の生徒たちもざわつき始める。否定することは簡単だ。だが──問題はそこからだ。
俺と黒川さんは同じアパートで暮らしている。
そんな事実をどう説明できる? いや、説明したところで信じてもらえるのか?
下手に否定すれば、二度と人前でまともに話せなくなるかもしれない。
そのときだった。
黒川さんはふっと俺を見やり、声を出さずに唇を動かした。
──「任せて」
「違うわ。恋人なんかじゃない。ただの幼なじみよ」
坂本さんの眉間にしわが寄る。疑いを晴らすどころか、むしろ深まったようだった。
「……でも、彼、そんなこと一度も言ってなかった。幼なじみなんていないって」
黒川さんの顔が引きつる。しかし、次の瞬間、彼女は落ち着きを取り戻していた。
「……覚えてないだけかもしれないわ。ほんの少しの間しか一緒にいなかったし」
完璧な返しだった。
あとは俺が頷くだけで成立する。
ゆっくりと頷くと、二人の視線が一斉に俺に集まる。
胸の奥がざわめき、妙な緊張が走った。
坂本さんはしばらく黙り込んだあと、ため息をついたように口を開いた。
「……そういうことだったのね。てっきり二人が付き合ってるのかと思った」
「いいえ」
黒川さんの声は冷たく、きっぱりしていた。
「絶対にそんなことはない。彼なんかに興味はないもの。あなたが狙いたいならご自由に」
心臓に小さな針を刺されたような痛みが走った。
(……“彼なんか”ってどういう意味だよ)
「とりあえず、今は彼を連れて行く必要があるの。ちょっと借りてもいいかしら?」
そう言った途端、彼女の頬が赤く染まり、まるで恋人のように俺の腕を取った。
(……おい、何をやってるんだ黒川さん)
「え? 別にいいけど……どうして私に許可を?」坂本さんが戸惑った声を出す。
「え? だって、二人は付き合ってるんでしょ?」
(勝手に決めつけるなよ……!)
周りの生徒たちは興味を失い、次第に散っていく。
その間に坂本さんは、ぶんぶんと首と手を振って否定した。
「ち、違う! 私と彼は付き合ってなんかない! 友達なだけ! 本当にそんな関係じゃ……!」
必要以上に強い否定だった。
だが、その表情の奥には──言葉とは裏腹に、消しきれない感情が宿っているように見えた。
その空気の中、黒川さんは俺の腕をしっかり掴み、無言で伝えてきた。
──「行くわよ」
「ありがとう、坂本さん。それじゃ、行くわね」
黒川さんはそう言い残し、俺の腕を引いて歩き出した。
***
高校から少し離れたところで、俺が一番恐れていた“尋問”が始まった。
「……あなたのせいで、どれだけ面倒を見せられたと思ってるの。あと数分遅れてたら、どうなってたか」
声は冷たく、詰問するようだった。
彼女のそういう態度は、どれだけ時間が経っても変わらない。
「本当に助かったよ。ありがとう。……正直、あのままだったら、馬鹿なことを口走ってたかもしれない」
俺の謝罪に、黒川さんは小さくため息をついて頷いた。
「……やっぱり。二人が付き合ってるって思われても仕方なかった」
「は? 付き合うって……」
思わず吹き出してしまった。
あまりに突拍子もなく、現実味がなさすぎて。俺が誰かと付き合うなんて──そんな可能性は、ほとんどゼロに等しい。
その笑いが、彼女の目には“馬鹿にしている”ように映ったのだろう。
次の瞬間、黒川さんの指が俺の腕に食い込み、想像以上の力で締め上げられた。
「……私の言うことを笑わないで」
顔は変わらず無表情に近いのに、その瞳には静かな怒りが宿っていた。
「わ、悪かった! もう言わないから、許して!」
ようやく解放された腕には、じんわりとした痛みが残った。見た目は細いのに、本当に力が強い。
「……あ、そうだ。黒川さん、今日やる予定のやつ、書いてきた?」
俺の問いかけに、彼女は一瞬固まった。
そして、気まずそうに視線を逸らした。
……まさか。
その目つきだけで、答えははっきりしていた。
「ごめん。時間なくて……。帰ってから書こうと思ってたの」
「はぁ……」
思わずため息が漏れた。
結局、彼女は書いていなかった。……まあ、俺も人のことを言えないけど。昨夜は自分の原稿を直すだけで精一杯で、完成度にはまだまだ不安が残っていた。
それでも、アイデアはいくらでもある。物語の“核”にできそうなものが、頭の中には山ほど浮かんでいた。
***
部屋に戻ると、俺たちはテーブルに向かい合って座った。
お互いにスマホを取り出し、それぞれの原稿を見せ合う。
彼女のスマホを手に取り、読み進めていく。
……妙な違和感を覚えた。いや、“違和感”というより、素直に言えば「採用していいのか迷う」ような内容だった。
主人公が──女の子だった。
別に女主人公が悪いわけじゃない。けれど、この手の小説を読む層のほとんどは、男主人公を求めている。実際、九割はそうだ。俺自身、その九割に含まれている。
彼女の話は──友達のいない少女が冒険者になることを夢見て、ある日突然死し、ゲームのような異世界に転生する……というもの。
……正直、このパターンは今やありふれていた。もう一歩、何か違うものを探した方がいい。
そう考えた瞬間、俺の頭に別のアイデアが浮かんでいた。
顔を上げると、黒川さんは俺の原稿に集中していた。
三ページしか書いていないのに、本当に楽しそうに読んでいる。
……少し待とう。彼女が読み終えるまで。
やがて読み終わった黒川さんは、腕を大きく伸ばしながら息をついた。
「で、感想は?」
「うーん……誤字脱字が多すぎ。でも、話そのものは悪くない。ただ、舞台描写が薄いかな。それだけね。あと……最初に決めてたルールから外れてる部分もある」
鋭い目つきで俺のスマホを返しながら言う。
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「テンプレ、避けたつもり……?」
「え、違った?」
「うーん……むしろテンプレだらけよ。ただ、処理の仕方は悪くないと思う。主人公に“すべて”を与える設定は、正直ちょっと不自然。まあ、成り立たなくはないけど……私の好みではないわね。ごめん」
「……どういう意味? “私のスタイルじゃない”って」
「つまりね……私はまだ、こういう物語を書き慣れてないの。男の人のこともよく分かってないし……そういう意味」
「え、ちょっと待て。男を理解してないから、この小説は書けない──そういうこと?」
黒川さんは一度うつむき、すぐに真剣な眼差しで俺を見据えた。
「……そう。正直に言うと、私が描いてる男性キャラは、私の知識の範囲でしか作ってない。本当に深く関わったこともないし。だから、あれが限界なの」
「なるほど……じゃあ、別の方向を探すしかないな。俺だって女性のことを完璧に知ってるわけじゃないけど、多少は調べてきたし。……ちょっと聞きたいんだけど」
彼女は興味を示しながらも、相変わらず真面目な顔でうなずいた。
「何を聞きたいの?」
「どうして男についてもっと調べようとしなかった? そんなに難しいことじゃないだろ。……それに、俺の書く女性キャラって、そこまで不自然に見えないはずだろ? “女の人から見ても女らしい”って思われるくらいに」
「質問は一つって言ったのに……まあ、いいわ。二つとも答える。
まず、調べなかった理由──あの頃はテスト期間で、時間なんてなかった。だから、ほんの数分で《理想の男性》みたいなキャラをでっち上げたのよ。
そして二つ目。あなたの女キャラ……時々、ただのフェティシズムに見えるわ。もちろん悪い意味じゃない。作品としては機能してる。でも、“本当の女性”からは少しズレてるの。だから結局、私の男キャラと同じ欠点を抱えてる」
……早口すぎて、理解するのに少し時間がかかった。
でも、なるほど。つまり彼女の作品には少女漫画(shōjo)っぽさがあるってことか。
「結局さ……俺たち二人とも、恋愛経験ゼロなんだろ。だからキャラが理想寄りになる。──いや、“俺たち二人とも”って言ったのは、黒川さんも付き合ったことないように見えるからなんだけど」
「……失礼ね。でも事実よ。興味もないし。
……あ、そういえば。この前あなたが言ってたこと──あれ、うちの家では結婚のプロポーズになるの」
「は? 俺、何を言ったっけ。……ああ、“守る”とか“支える”って話? あれがプロポーズ!?」
「そう。曾祖父母の代から続いてる伝統なの。“守る”って言葉を言われたら結婚前提ってことになってる。だから……あなた、責任取ってよ。お母さんにも伝えたし」
……最悪だ。あんな軽口を言わなきゃよかった。
しかも、もう母親にまで話がいってるとか。
「ちょ、ちょっと待って! 俺が言いたかったのは“仲間として守る”って意味で──」
「一緒でしょ。言葉を変えただけ」
反論できない。確かにそう聞こえる。
「……はぁ。じゃあ俺、このまま“結婚する”しかないのか?」
半分冗談で言ったつもりだった。
けれど、黒川さんの表情は真剣そのもの。まるで“図星”を突かれたように。
「え……まさか、本気なの?」
「当たり前じゃない。……と言いたいところだけど、私だって数日前に知り合った男と結婚する気なんてないわ。でも、伝統を破ることはできないの。ましてや母にまで報告した以上は」
「いやいや、そんな話、一度も聞いてないぞ! ていうか、いつ母親に話したんだよ!?」
あの時はそんな素振り、一切なかったはずなのに……。
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本当に……あの言葉にそんな意味があったの? 一人で答えを出すには、あまりにも重すぎる疑問だった。
呼び出し音が響く。胸の奥に不安を抱えながら待っていると、やがて通話が繋がった。
「もしもし、お母さん……」
『どうしたの? まさかもう将来について考え直して、くだらない小説なんてやめる気になったわけじゃないでしょうね?』
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「ねえ……まだ話し始めたばかりの男の子から、『守ってやる』なんて言われたら、それってどういう意味だと思う?」
『それはうちの家系では結婚の申し込みよ。ただ言うだけじゃなく、態度で示す必要もある。助け合ったり、一緒に過ごしたり……そうやって形にしていくものなの。あなたのお父さんもね、ちょっと不器用だったけど、その言葉で私にプロポーズしてきたのよ。』
母の声には、懐かしさが混じっていた。子供の頃以来、ほとんど聞いたことがないような響きだった。――でも、今なら分かる。あの時の和泉くんは、すでに条件を満たしていた。ふたりきりで真剣に言葉を口にしたし、一緒に時間を過ごしてもきた。つまり……和泉くんは本当に私にプロポーズしてしまったのだ。
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やっぱり疑い始めた。でも当然だ。母ならそう反応するに決まっている。――言うべきか、黙っておくか。
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母の反応を聞く前に通話を切った。けれど確信した。――和泉慧翔、あなたと私はもう婚約してる。全部、あなたのせいで。
彼は驚いた顔を見せたが、すぐに疲れたようにため息をつき、うなずいた。
「……分かったよ。じゃあ、付き合うべきなのか? それとも……いや、なんでもない。」
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「だからって、私が望んでるわけじゃないって言ってるでしょ……もう。本当に一つだけ聞かせて、和泉君。」
「なんだ?」腕を組んで、真剣にこちらを見返してきた。
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「そんなの、決まってるだろ。君だって分かってるはずだ。小説家になりたいんだろ? 俺は、世界中の人が愛してくれるような小説を書きたい。どんな小さな場所にでも届くような……それに、俺の才能をちゃんと認めてもらいたいんだ。」
和泉君の言葉は、そのまま私が言いたかった気持ちだった。同じ思い。同じ夢。――もしかしたら、私たちなら。
「私も……」思わず口から漏れた。
彼は顔を上げ、私を見つめる。
「私も、同じ気持ち。だから……これからも一緒に書こう。お母さんが決めた未来なんていらない。私自身の力で、世界に届く誰かになりたい。それが、本当の私の願いだから。」
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青春
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けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
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