【完結】◆胡蝶の夢◆

凍星

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終章

◆永遠の夢 篇

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***

(……………嗚呼)



上も下もない闇。
そんな世界に堕ちた筈の私は。

気付けば、いつの間にか光の中にいた。

ゆっくりと目を開く――


……午後の暮れかかった柔らかな光が、サンルームに差し込んでいる。
開かれたステンドグラスの扉の向こう、翠の芝生が鮮やかな庭では、華夜が仔犬と戯れている声が聞こえた。

小さなアンティークテーブルの上に置かれた碁盤を挟んで。私は、何事もなかったように桐原と差し向かいに座っていた。

「……君の番だよ」

そう促す桐原の声が、いつもと同じように甘く響いた。

いつもの風景だった。
華夜と、私と、桐原と。
三人で、イーゼルを立て、キャンバスを囲み、絵を描いて。
その後のお茶会。
華夜の好きなレモンティーの香りがした。

ああ、そうだ。これが私の日常。これが現実……

「眠っていたね」

そうか。私は微睡んでいたのだ。

「――夢を見ていた。恐ろしい夢を……どうしてあんな夢を見てしまったんだろう」

震えながら溜息を吐き……夢で良かった、と心の底から思う。

「どんな夢だったんだ?」

「………話すにも値しない莫迦莫迦しい夢だよ」

君に裏切られて、君を傷付けようとしてしまった――そんな風に、冗談として告げる事も出来ない自分を嗤いながら。白石を握り、特に迷いもなく適当な場所に置いた。

「そうか」と桐原も静かに笑って。
黒石を置き返す。カチリと硬質な音がする。碁盤の上では、白と黒の星がお互いの領域を広げようと鬩ぎ合っていた。

陰と陽の宇宙。
絡み合う螺旋のような世界。
『禍福は糾える縄の如し』――と。
幼い頃に好きだった、奇想天外な物語。その中で読んだ言葉。それが不意に浮かんだのは不思議な心地がした。

「………千種…っ」
「どうした?」

微笑んでいた桐原が、急に切なげに私を呼んだ。

「……ああ本当に。そちらの方が夢だったら、どんなに良かったか……僕たちは、こんなに幸せな光景を、どうして喪ってしまったんだろうね?」

桐原が。
絶望を笑みの形にして、此方を見ている。
何を言っているのか分からなかった。
何故、彼はこんなに悲しげなのか。
何故――涙を流していて。
その涙が血のように赤いのは、どうしてなのか。

私には分からない。

「千種――

……誰よりも君を望んでいた。その事に、もっと早く気付くべきだった。

だから。

君を――連れて行くことにしたよ」

優しくて寂しげな笑顔。
血の涙を流す、私の友。
大切な人。
そう、とても大切な……

大胆で自由な天使のような。
繊細で臆病な悪魔のような。

相反する心を持つ――
私を魅了した君。

そう、私は……君の事を。



「一緒に行こう」

「……何処へ?」

「さあどうだろう、人が地獄と呼ぶ処かな。何処でも構わない――君がいてくれるなら」

桐原の冷たい指が、喉元に触れた。
心臓まで凍りそうな冷たさが、身体中に広がる。
その瞳に、映るのは憎しみなのか。
それとも――別の、何かだろうか。

「桐原……桐原、きり……」

指が食い込み、呼吸が止まる。
何度も何度も、彼の名を呼んだ。
冷たい身体が、私に寄り添う。

嗚呼。

君を誰にも渡したくないと、そう思った。
華夜にさえ。
その事に気付くのが――遅すぎた。

私は自分の罪の中に沈んでいく。
届かない光に手を伸ばしながら。

華夜――

午後のサンルーム。
あの時間は、私の幸せの全てだった。
永遠に続いて欲しいと願った、穏やかな時間。

それは儚い、ひと時の夢。
永遠とも呼べる、一瞬の夢。

そして。
今は、この地獄こそが――
私の望んだ結末か。

「僕の千種――」

夢だ。
私が生み出した都合の良い幻。
ずっとそう言って欲しかった。
そうして息が止まるくらい強く、抱き締めて――

冷たい水がどっと押し寄せる。
私達二人を呑み込んだ。

昏い。
冷たい。

桐原の体から伝わる熱は無かった。
抱き合っている筈なのに、遠い。
ここにいる筈なのに。

私は、桐原の手を求めた。
私の頸を、締めている筈の。

桐原。
君も同じだったのか?
私を他の誰にも渡したくないと――そう思っていたのか………?



「桐原…………っ」

「――ああ、千種。僕は誰より、君を――」

その先の言葉を。
私が望む言葉を。
彼が口にすることは、永遠に無い。



「別れの来ない國へ行こう――」



それが私達の選んだ世界。

どうして。
どうして、こんな事になったのか。

嗚呼、けれどもう遅い。
私達の心は永遠にすれ違ってしまった。

終わらない闇へと、堕ちるしか。

共にいられる場所はない――――………




***




――深夜二時を告げる鐘の音が聞こえた。

私は書斎で椅子に座ったまま、微睡んでいたようだ。

そろそろ自室に戻らなければと、溜息を吐きながら窓際に近寄った。そして、外を見るともなく見たその時、私は手にした書物を取り落とした。

そこに、よく見知った人間の姿が見えた気がしたからだ。

「……桐原?」

私のよく知る不敵そうな微笑――
その姿は中庭の奥、昏闇へと消えた。
足元に落とした本に躓きながら、私は、二月の深夜に身ひとつで庭に走り出た――……





***





――千種家の子息が、自宅の庭で溺死したことは、全く不可解だと世の人々は噂した。
何しろ庭の池は、大人の腰が浸かるくらいしか深さがなかったのだから。

そのうえ彼が、自分の物とは思えない、使い古された襟巻きを頸に巻いて亡くなっていたのは、いっそう怪しく、謎めいていることだと。
自死なのか事故なのか――皆、不思議そうに囁き合った。

同日の少し前、彼の友人が暴漢らしき男と刺し違えるようにして共に亡くなっていたこと。
そして千種有恒の幼馴染であり、その友人の婚約者でもあった男爵令嬢が。
花嫁衣装を纏った姿で、後にひっそりと命を絶ったことも。

秘密めいた哀しい物語として。

――長く人々に語り継がれたという………







【了】

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