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第三話 西部キャラバン
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まだ見ぬ世界への期待に胸をふくらませていたキーリだったが、昼ごろには、もう物語の主人公のような気持ちではいられなくなっていた。なにしろ、ずっと体を丸めていなければいけないというのは、想像していた以上につらいのだ。
体のあちこちが痛むし、背中は、思い切り体を伸ばしたい気持ちでぱんぱんになってしまっている。ここにくらべれば、お仕置き小屋の方が、よっぽどいごこちがいい。そのうえ、馬車の揺れに腹の中がかき混ぜられるようで、気持ちが悪かった。早く木箱から出て、うんと体をのばしたい。
そうは思うものの、まだ集落からいくらもはなれていないはずだ。今ここで、ついてきたことがばれてしまったら、集落に送り返されてしまうかもしれない。見つかってしまうにしても、せめて、送り返すのが面倒だと判断してもらえるくらい、集落からはなれてからでなければダメだ。そのためには、あとどれくらい、こうしていればいいんだろう? アーリャの実の香りで、頭が変になってしまいそうだ。
木箱の外からは、ユエンの鼻歌が聞こえる。ユエンが木箱のふたを叩いているらしく、軽く、リズミカルな振動が感じられた。
「なんだ。じゃあ、あの集落に行くのは、はじめてじゃなかったのか」
突然の声に、キーリはびくっとした。もちろん、若い荷運びのこの言葉は、キーリに向けられたものではないのだが。声をかけられたユエンは、木箱のふたを叩く手を止めて――振動が止んだため、きっとそうなのだろうとキーリは思った――答える。
「行ったのは、ずいぶん前のことですが。前回訪れたときとは、だいぶ変わってしまったようでした。旅をしている以上、どこに行ってもそういうものですがね」
ユエンの返事に、キーリはおどろいた。あの集落を訪れたことがあるなんて、キーリといるときには、言わなかったことだ。
そういえば、はじめてユエンと会ったとき、彼は〈叱られに行く〉と言っていたが、彼が何について叱られたのかもきいていない。あとで尋ねたら、教えてくれるだろうか? キーリは、好奇心に動きそうなしっぽをおさえながら、二人の話に耳をすませた。
「大変なんだな、あんた。故郷なんかもそうなのか? 久しぶりに帰ってみたら、知り合いが誰もいなかった! なんてことになったり……」
「あはは、その心配はないでしょう。私に故郷はありませんから」
ユエンは普段と変わらない調子でそう言ったが、きいていたキーリの方は、なんだか申し訳ないような気持ちになった。荷運び人の方も、ユエンの返事が予想外だったのか、黙りこんでしまった。
ユエンが、取りつくろうようにこう続ける。
「もともとは、自分の意思で捨てた故郷ですから、そうお気になさらないでください。ああ、そうだ。せっかくですから、〈赤い宝石〉……アーリャの実にまつわる歌をひとつ、どうでしょう?」
「あ、ああ。なんだか悪いな」
「いいえ」
ユエンがそう答えてからすぐに、転がるような音色が、木箱の隙間からもれ聞こえてきた。ユエンが、リュートを弾きはじめたのだ。
『地面を突き刺す日の光 頭のてっぺんを湿らせる草木の香り
みずみずしい大地につま先を埋めたその肌に かがやく赤い果実
南東の地 遠いむかしの話さ
西の山脈のふもと 広漠たる〈滅び〉が支配する
こごえる夜は長く 彼女の白い肌はかげり 嘆きに黒く染まる
生まれ育った地ははるか東 はるか東……
冷えた土の上 彼女の涙 七日七夜のかなしみ
そこに歩み寄る男 彼女を心から愛した 名前をやったのさ
君はアーリャカバボ 天より与えられし祝福
ここは君の新しい故郷 ともに生きてゆく西の大地
かなしみとよろこびの涙 赤い果実を満たす
遠いむかしの話』
キーリは、ユエンが歌うのをきいたのははじめてだった。節をつけてナヴァドゥルールの冒険譚を語ったときよりも、声に深みが増したように感じられる。
歌い終えたユエンは、余韻を楽しむ間をじゅうぶんに置いてから、つけくわえた。
「アーリャカバボは、本来は温かいところでしか育たないはずの植物です。それがふとしたことであの集落に持ち込まれた。そして、枯れかかっていたところで、しっぽを持つ者の〈名付け〉の力によって新たな名前を得て、別の種となり根付いた……そうしてうまれたのが、あの集落でしか実らない〈赤い宝石〉だとか」
この言い伝えは、キーリもきいたことがあった。たしか、そのときの〈名付け〉を行ったのは、何代か前の長老だったはずだ。
キーリは、長老となる者が生まれ持つ、紫がかった灰色の毛におおわれたしっぽを思い浮かべた。キーリの頭の中で、長老のすらりと長いしっぽが、くり返し床をたたく。見慣れたしぐさを想像しただけで、怒られているような気分になり、キーリは落ち着かなくなった。
そんなキーリをおいて、荷運び人がユエンに問いかける。
「〈名付け〉の力って、そんなにすごいのか? 実は、使ってるのを見たことがないんだ。あの集落には何度も行ってるんだけどな」
「外の者には見せたくない、特別な力なんでしょう。一種の儀式とみてもいいかもしれません」
「へえ。そう言われると、かえって気になるな。今度、見せてくれるようにたのんでみようかなあ。いやがられるかな?」
ここから出られるなら、見せてあげてもいいのに! そう言いたくなる気持ちを、キーリはしっぽをにぎってこらえた。
ユエンの言うとおり、〈名付け〉の力は、特別で尊いものだ。むやみやたらに使ってはならないものであるし、しっぽを持たない者の前で使うことも、よくないこととされる。だが、まだ幼いキーリにしてみれば、そんな戒めよりも、木箱の中でずっと体を丸めているつらさの方が勝っていた。
そんなキーリの気持ちが、しっぽを通じて天に伝わったのかもしれない。ふたたび、木箱のふたでリズムを取りはじめていたユエンが、こんなことを言った。
「そろそろ、水場が近いのでは?」
「へえ。どうしてわかったんだ? そうとも、馬たちを休憩させてやろう。俺たちの方もな。向こうについたら、何か歌ってくれよ」
「ええ、よろこんで」
休憩! 聞こえてきた言葉に、キーリはうれしくなった。人目がなくなったすきに、こっそり箱から出よう。少しだけ体をほぐしてから、木箱に戻ればいいのだ。
しばらくして、ユエンの言ったとおり、荷馬車が止まった。ユエンと、若い荷運び人の気配が消えてしまうと、キーリは、そっと木箱のふたを持ち上げた。体を動かした拍子に箱から飛び出したアーリャの実が、荷台の床に当たって音を立てる。キーリはあわてたが、その音を聞いていたのは、幸いにもキーリだけだったらしい。
人間たちは、キーリからははなれたところで、何やら話をしている。彼らの姿は幌にさえぎられてうかがえないが、近づいてくる足音はない。キーリは慎重に箱を出て、荷台から降りた。やはり、思い切り体を伸ばせるのは気持ちがいい。
体をいつもの姿勢に慣らし、節々の痛みを取り除こうと飛びはねていたキーリは、若い荷運び人が戻ってきたことに気づかなかった。
「わかりました、たぶんこっちの荷台に……。あっ!」
仲間と話しながら、荷台の後方にやってきた荷運び人は、キーリの姿を見て声を上げる。キーリの方はというと、荷運び人の声におどろいたあまり、ものすごい速さで荷台に飛び込んだ。そのひょうしに、キーリが入っていた木箱が引き倒され、中に入っていたアーリャの実が、荷台の床いっぱいに広がった。
キーリは、積まれた木箱の裏で、しっぽを足の間に巻きこんで身をちぢめる。思わず体が動いてしまったのだが、そのために、かえって大きな物音を立ててしまった。
絶望的な気持ちになったキーリの頭に浮かんできたのは、昨日の晩に、ユエンとしたやりとりだった。
(――恐ろしいもの? たとえば、どんな?)
(――人間)
ユエンのあの言葉が、冗談でなかったとしたらどうしよう。集落に送り返されるのではなく、もし、こんな荒野に置き去りにされてしまったら?
このキャラバンの人間たちは、キーリの知るかぎり、悪い人たちではない。長老が集落にむかえいれていることからも、それはたしかだ。だが、よく考えてみれば、キーリは彼らのことも、人間のことも、ほとんど知らなかった。
ユエンに言われたように、キーリはナヴァドゥルールとは違うのだ。この場に置き去りにされてしまったとして、歩いて集落まで戻れるとは、とても思えない。
キーリは木箱のかげから顔を出し、荷台をのぞきこんでいる荷運び人に向けて、言った。
「ごめんなさい! 悪いことはしていないし、しないから、降ろさないでください! こんな、知らないところに置き去りにされたら、ぼく……。足には自信があるけど、食べ物だってないし……。とにかく、置いていかないで!」
これをきいた荷運び人は、おどろいたような、きびしい顔をした。彼がそのまま黙りこんでしまったものだから、キーリはしだいに、「ダメだと言われたら、どうやって集落に戻ろうか」なんてことを考えはじめた。
無言の数秒のあと、荷運び人が、こらえきれなくなったように笑い出した。
「わははは! ああ、ごめんよ、キーリ。よく、こんなに長いあいだ隠れていられたもんだ。ずいぶん我慢強いんだな」
「え? あの……ど、どういうこと?」
キーリがたずねても、荷運び人は笑ってみせるだけだ。
この荷運び人と直接話すのは、はじめてのはずだった。だというのに、どうして彼はキーリの名前を知っているのだろうか。いいや、彼の言いぶりからして、キーリの名前だけでなく、キーリがこうして集落からついてきたことにも気づいていたようだ。そんなそぶりは、まるでなかったが……。
騒ぎに気づいたのか、荷運び人の隣に、ユエンが現れる。とまどうキーリを前に、ユエンは胸に手を当てて礼の姿勢を取り、にやりと笑った。
「改めて、西部キャラバンへようこそ。勇敢で忍耐強く、しっぽのすてきなキーリ。おっと、アーリャの汁まみれだな。まずは、体を洗うとしようか。……そんなに情けない顔をするんじゃない、おちびさん。君がくるだろうことは、わかっていたのさ」
ユエンにそう言われて、キーリはぼう然としてしまった。ユエンが言うことが本当なら、彼は、キーリがついてくることを知っていながら、キーリの好きにさせていたのだ。
「わかってたって……。それならどうして、もっと早くに言ってくれなかったの? 置いて行かれるんじゃないかって本気で心配しちゃったし、ずっと木箱の中にいたから、体だって痛いし……」
そこまで言ったキーリは、ようやく、ユエンの考えに気がついた。
キーリが荷運び人に見つかるまで、ユエンは、キーリを探そうとも、キーリに声をかけようともしなかった。そうしていれば、キーリが長らく木箱の中にかくれている必要はなかったというのに。どうしてわざわざ、そんないじわるをしたのだろうか?
「言ったろう、外の世界はおそろしいって」
ようするに、ユエンは、キーリをからかっていたのだ。キーリは怒ることもできず、がっくりと肩を落とした。
◆
アーリャの実をもとめて〈しっぽ人〉の集落を訪れた西部キャラバンは、三台の荷馬車に、三人の商人と二人の荷運び、それに、雑務役と旅芸人の七人という構成だった。
物語の中で見たような、キャラバン付きの護衛がいるのではないかと期待していたキーリは、西部旅行では護衛役は雇わないものなのだと聞いて、残念に思った。西部の荒野では、盗賊や獣をおそれる必要がないため、護衛役は必要ないらしい。
キャラバンのひとりひとりにあいさつをすませたキーリは、荷運びたちの手を借りて、井戸からくみ上げた水で、アーリャの汁まみれになった体を洗った。
体についたアーリャの汁は洗い流せたものの、アーリャの皮から服に移ってしまった色は、なかなか落ちない。若い荷運び人――フリッツと名乗った――なんかは〈これはこれで、染め物として味があるんじゃないか?〉と笑ったが、結局、キーリはユエンが用意してくれていた服に着替えることになった。キーリがついてくるとわかっていたユエンは、長老に頼み込んで、着替えを一式、キーリのために買い取っていたのだという。
〈しっぽ人〉の一般的な装いである、着慣れた砂色の肌着と、すその長いチュニックを身につけたキーリは、チュニックのすそとそでのあたりを見て、目をみはった。
「ねえ、ユエン。これ、長老様のお手伝いをする、とくべつなお役目の人が着るものだよ。ほら、この刺繍。だいじなお役目の人だって意味の、猫の目の柄がついているでしょう。ぼくが着ていたらいけないんだ」
「長老様に、それしかないと言われてしまってね。ここでは誰もその刺繍の意味を知らないのだから、かまわないと思うけれど」
「ダメだよ。どこにいても、ぼくを見ている人が誰もいなくても、ぼくにはしっぽがある」
〈誰の目がなくとも、しっぽがある〉というのは、〈しっぽ人〉たちのことわざだった。〈誰も見ていなくても、神さまは見ている〉といった意味を持つ言葉だ。誰の目がなくとも、しっぽを通じて、神さまがキーリのことを見ている。そう思うと、キーリは悪いことをしたくなくなるのだった。
キーリがそれを言うと、ユエンは、何か言いたそうな顔をしながらも、首を横にふった。そして、雑務係に、刺繍が見えないよう、すそやそでをまくり上げて縫うように頼んでくれた。
体を洗い清め、尊いお役目であることを示す刺繍をかくしたチュニックの上に帯をしめて、キーリはようやくまともなすがたになった。そんなキーリを見たユエンが、荷台から、マントをひとつ持ってきた。
「これから向かうのは、人間たちの暮らしている場所だ。君はまだ子どもだから、体が小さいことについては誰も気にしないだろう。けれど、その服装としっぽは目立ちすぎる。しっぽについては大事なものなんだし、なおのこと、かくしておかないとね。いいかい」
マントに身を包んだキーリは、ユエンの言うことにうなずきながらも、しっぽを隠しておくのは難しいだろうな、と思った。しっぽは、力を入れていないときでも、体から少し浮いている。よほど気をつけていなければ、持ち上がったしっぽが、マントの上からでも見えてしまうのだ。
「まあ、だいじなのは慣れさ。……それで、どうかな。はじめての外の世界は。想像通りかい?」
大きすぎるマントのすそを持ち上げていたキーリは、ユエンに問いかけられて、ようやくあたりを見回した。
荷馬車や、キャラバンの人間たちに背中を向けてみると、視界には、ただ何もない荒野が広がっていた。右手にそびえる〈西の山脈〉は、黒くぬりつぶされた壁のように味気なく、不気味に見える。キーリを見下ろしていた山々はいまや遠く、その足元にあるだろうキーリの村も、もうどこにあるのだかわからない。
キーリは、急に不安になった。なぜだか、世界のすべてが、自分に無関心であるように思えたのだ。
「よくわからない。ううん、なんだか……なんにもなくて、ちょっとこわいや」
「そうか」
ユエンは、短く答える。彼の横顔は、どことなくうれしそうに見えた。
「私がはじめて故郷を出たときにも、そう思ったんだ。私は、あまりにも何もなくて、拍子抜けしてしまったのだけれど。もちろん、そのときの私には、広い世界のほんの一部しか見えていなかった。私が小さかったころの話だ」
そこまで言ってから、ユエンは、ぐるりと景色を見渡した。そして、こうつけくわえる。
「キーリにも、じきに納得がいくさ。これがナヴァドゥルールが歩いた大地なんだ、ってね」
ユエンの言葉には、ふしぎな重みがあった。
今のユエンの目に、この景色はどう映っているのだろうか。キーリは、ユエンの横顔を見上げて、たずねるのをやめた。きっと、キーリを煮え切らない気持ちにさせるような答えが返ってくるだけだろう。
こうして、あこがれていた世界に突き放されるような感覚とともに、キーリの旅ははじまったのだった。
体のあちこちが痛むし、背中は、思い切り体を伸ばしたい気持ちでぱんぱんになってしまっている。ここにくらべれば、お仕置き小屋の方が、よっぽどいごこちがいい。そのうえ、馬車の揺れに腹の中がかき混ぜられるようで、気持ちが悪かった。早く木箱から出て、うんと体をのばしたい。
そうは思うものの、まだ集落からいくらもはなれていないはずだ。今ここで、ついてきたことがばれてしまったら、集落に送り返されてしまうかもしれない。見つかってしまうにしても、せめて、送り返すのが面倒だと判断してもらえるくらい、集落からはなれてからでなければダメだ。そのためには、あとどれくらい、こうしていればいいんだろう? アーリャの実の香りで、頭が変になってしまいそうだ。
木箱の外からは、ユエンの鼻歌が聞こえる。ユエンが木箱のふたを叩いているらしく、軽く、リズミカルな振動が感じられた。
「なんだ。じゃあ、あの集落に行くのは、はじめてじゃなかったのか」
突然の声に、キーリはびくっとした。もちろん、若い荷運びのこの言葉は、キーリに向けられたものではないのだが。声をかけられたユエンは、木箱のふたを叩く手を止めて――振動が止んだため、きっとそうなのだろうとキーリは思った――答える。
「行ったのは、ずいぶん前のことですが。前回訪れたときとは、だいぶ変わってしまったようでした。旅をしている以上、どこに行ってもそういうものですがね」
ユエンの返事に、キーリはおどろいた。あの集落を訪れたことがあるなんて、キーリといるときには、言わなかったことだ。
そういえば、はじめてユエンと会ったとき、彼は〈叱られに行く〉と言っていたが、彼が何について叱られたのかもきいていない。あとで尋ねたら、教えてくれるだろうか? キーリは、好奇心に動きそうなしっぽをおさえながら、二人の話に耳をすませた。
「大変なんだな、あんた。故郷なんかもそうなのか? 久しぶりに帰ってみたら、知り合いが誰もいなかった! なんてことになったり……」
「あはは、その心配はないでしょう。私に故郷はありませんから」
ユエンは普段と変わらない調子でそう言ったが、きいていたキーリの方は、なんだか申し訳ないような気持ちになった。荷運び人の方も、ユエンの返事が予想外だったのか、黙りこんでしまった。
ユエンが、取りつくろうようにこう続ける。
「もともとは、自分の意思で捨てた故郷ですから、そうお気になさらないでください。ああ、そうだ。せっかくですから、〈赤い宝石〉……アーリャの実にまつわる歌をひとつ、どうでしょう?」
「あ、ああ。なんだか悪いな」
「いいえ」
ユエンがそう答えてからすぐに、転がるような音色が、木箱の隙間からもれ聞こえてきた。ユエンが、リュートを弾きはじめたのだ。
『地面を突き刺す日の光 頭のてっぺんを湿らせる草木の香り
みずみずしい大地につま先を埋めたその肌に かがやく赤い果実
南東の地 遠いむかしの話さ
西の山脈のふもと 広漠たる〈滅び〉が支配する
こごえる夜は長く 彼女の白い肌はかげり 嘆きに黒く染まる
生まれ育った地ははるか東 はるか東……
冷えた土の上 彼女の涙 七日七夜のかなしみ
そこに歩み寄る男 彼女を心から愛した 名前をやったのさ
君はアーリャカバボ 天より与えられし祝福
ここは君の新しい故郷 ともに生きてゆく西の大地
かなしみとよろこびの涙 赤い果実を満たす
遠いむかしの話』
キーリは、ユエンが歌うのをきいたのははじめてだった。節をつけてナヴァドゥルールの冒険譚を語ったときよりも、声に深みが増したように感じられる。
歌い終えたユエンは、余韻を楽しむ間をじゅうぶんに置いてから、つけくわえた。
「アーリャカバボは、本来は温かいところでしか育たないはずの植物です。それがふとしたことであの集落に持ち込まれた。そして、枯れかかっていたところで、しっぽを持つ者の〈名付け〉の力によって新たな名前を得て、別の種となり根付いた……そうしてうまれたのが、あの集落でしか実らない〈赤い宝石〉だとか」
この言い伝えは、キーリもきいたことがあった。たしか、そのときの〈名付け〉を行ったのは、何代か前の長老だったはずだ。
キーリは、長老となる者が生まれ持つ、紫がかった灰色の毛におおわれたしっぽを思い浮かべた。キーリの頭の中で、長老のすらりと長いしっぽが、くり返し床をたたく。見慣れたしぐさを想像しただけで、怒られているような気分になり、キーリは落ち着かなくなった。
そんなキーリをおいて、荷運び人がユエンに問いかける。
「〈名付け〉の力って、そんなにすごいのか? 実は、使ってるのを見たことがないんだ。あの集落には何度も行ってるんだけどな」
「外の者には見せたくない、特別な力なんでしょう。一種の儀式とみてもいいかもしれません」
「へえ。そう言われると、かえって気になるな。今度、見せてくれるようにたのんでみようかなあ。いやがられるかな?」
ここから出られるなら、見せてあげてもいいのに! そう言いたくなる気持ちを、キーリはしっぽをにぎってこらえた。
ユエンの言うとおり、〈名付け〉の力は、特別で尊いものだ。むやみやたらに使ってはならないものであるし、しっぽを持たない者の前で使うことも、よくないこととされる。だが、まだ幼いキーリにしてみれば、そんな戒めよりも、木箱の中でずっと体を丸めているつらさの方が勝っていた。
そんなキーリの気持ちが、しっぽを通じて天に伝わったのかもしれない。ふたたび、木箱のふたでリズムを取りはじめていたユエンが、こんなことを言った。
「そろそろ、水場が近いのでは?」
「へえ。どうしてわかったんだ? そうとも、馬たちを休憩させてやろう。俺たちの方もな。向こうについたら、何か歌ってくれよ」
「ええ、よろこんで」
休憩! 聞こえてきた言葉に、キーリはうれしくなった。人目がなくなったすきに、こっそり箱から出よう。少しだけ体をほぐしてから、木箱に戻ればいいのだ。
しばらくして、ユエンの言ったとおり、荷馬車が止まった。ユエンと、若い荷運び人の気配が消えてしまうと、キーリは、そっと木箱のふたを持ち上げた。体を動かした拍子に箱から飛び出したアーリャの実が、荷台の床に当たって音を立てる。キーリはあわてたが、その音を聞いていたのは、幸いにもキーリだけだったらしい。
人間たちは、キーリからははなれたところで、何やら話をしている。彼らの姿は幌にさえぎられてうかがえないが、近づいてくる足音はない。キーリは慎重に箱を出て、荷台から降りた。やはり、思い切り体を伸ばせるのは気持ちがいい。
体をいつもの姿勢に慣らし、節々の痛みを取り除こうと飛びはねていたキーリは、若い荷運び人が戻ってきたことに気づかなかった。
「わかりました、たぶんこっちの荷台に……。あっ!」
仲間と話しながら、荷台の後方にやってきた荷運び人は、キーリの姿を見て声を上げる。キーリの方はというと、荷運び人の声におどろいたあまり、ものすごい速さで荷台に飛び込んだ。そのひょうしに、キーリが入っていた木箱が引き倒され、中に入っていたアーリャの実が、荷台の床いっぱいに広がった。
キーリは、積まれた木箱の裏で、しっぽを足の間に巻きこんで身をちぢめる。思わず体が動いてしまったのだが、そのために、かえって大きな物音を立ててしまった。
絶望的な気持ちになったキーリの頭に浮かんできたのは、昨日の晩に、ユエンとしたやりとりだった。
(――恐ろしいもの? たとえば、どんな?)
(――人間)
ユエンのあの言葉が、冗談でなかったとしたらどうしよう。集落に送り返されるのではなく、もし、こんな荒野に置き去りにされてしまったら?
このキャラバンの人間たちは、キーリの知るかぎり、悪い人たちではない。長老が集落にむかえいれていることからも、それはたしかだ。だが、よく考えてみれば、キーリは彼らのことも、人間のことも、ほとんど知らなかった。
ユエンに言われたように、キーリはナヴァドゥルールとは違うのだ。この場に置き去りにされてしまったとして、歩いて集落まで戻れるとは、とても思えない。
キーリは木箱のかげから顔を出し、荷台をのぞきこんでいる荷運び人に向けて、言った。
「ごめんなさい! 悪いことはしていないし、しないから、降ろさないでください! こんな、知らないところに置き去りにされたら、ぼく……。足には自信があるけど、食べ物だってないし……。とにかく、置いていかないで!」
これをきいた荷運び人は、おどろいたような、きびしい顔をした。彼がそのまま黙りこんでしまったものだから、キーリはしだいに、「ダメだと言われたら、どうやって集落に戻ろうか」なんてことを考えはじめた。
無言の数秒のあと、荷運び人が、こらえきれなくなったように笑い出した。
「わははは! ああ、ごめんよ、キーリ。よく、こんなに長いあいだ隠れていられたもんだ。ずいぶん我慢強いんだな」
「え? あの……ど、どういうこと?」
キーリがたずねても、荷運び人は笑ってみせるだけだ。
この荷運び人と直接話すのは、はじめてのはずだった。だというのに、どうして彼はキーリの名前を知っているのだろうか。いいや、彼の言いぶりからして、キーリの名前だけでなく、キーリがこうして集落からついてきたことにも気づいていたようだ。そんなそぶりは、まるでなかったが……。
騒ぎに気づいたのか、荷運び人の隣に、ユエンが現れる。とまどうキーリを前に、ユエンは胸に手を当てて礼の姿勢を取り、にやりと笑った。
「改めて、西部キャラバンへようこそ。勇敢で忍耐強く、しっぽのすてきなキーリ。おっと、アーリャの汁まみれだな。まずは、体を洗うとしようか。……そんなに情けない顔をするんじゃない、おちびさん。君がくるだろうことは、わかっていたのさ」
ユエンにそう言われて、キーリはぼう然としてしまった。ユエンが言うことが本当なら、彼は、キーリがついてくることを知っていながら、キーリの好きにさせていたのだ。
「わかってたって……。それならどうして、もっと早くに言ってくれなかったの? 置いて行かれるんじゃないかって本気で心配しちゃったし、ずっと木箱の中にいたから、体だって痛いし……」
そこまで言ったキーリは、ようやく、ユエンの考えに気がついた。
キーリが荷運び人に見つかるまで、ユエンは、キーリを探そうとも、キーリに声をかけようともしなかった。そうしていれば、キーリが長らく木箱の中にかくれている必要はなかったというのに。どうしてわざわざ、そんないじわるをしたのだろうか?
「言ったろう、外の世界はおそろしいって」
ようするに、ユエンは、キーリをからかっていたのだ。キーリは怒ることもできず、がっくりと肩を落とした。
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アーリャの実をもとめて〈しっぽ人〉の集落を訪れた西部キャラバンは、三台の荷馬車に、三人の商人と二人の荷運び、それに、雑務役と旅芸人の七人という構成だった。
物語の中で見たような、キャラバン付きの護衛がいるのではないかと期待していたキーリは、西部旅行では護衛役は雇わないものなのだと聞いて、残念に思った。西部の荒野では、盗賊や獣をおそれる必要がないため、護衛役は必要ないらしい。
キャラバンのひとりひとりにあいさつをすませたキーリは、荷運びたちの手を借りて、井戸からくみ上げた水で、アーリャの汁まみれになった体を洗った。
体についたアーリャの汁は洗い流せたものの、アーリャの皮から服に移ってしまった色は、なかなか落ちない。若い荷運び人――フリッツと名乗った――なんかは〈これはこれで、染め物として味があるんじゃないか?〉と笑ったが、結局、キーリはユエンが用意してくれていた服に着替えることになった。キーリがついてくるとわかっていたユエンは、長老に頼み込んで、着替えを一式、キーリのために買い取っていたのだという。
〈しっぽ人〉の一般的な装いである、着慣れた砂色の肌着と、すその長いチュニックを身につけたキーリは、チュニックのすそとそでのあたりを見て、目をみはった。
「ねえ、ユエン。これ、長老様のお手伝いをする、とくべつなお役目の人が着るものだよ。ほら、この刺繍。だいじなお役目の人だって意味の、猫の目の柄がついているでしょう。ぼくが着ていたらいけないんだ」
「長老様に、それしかないと言われてしまってね。ここでは誰もその刺繍の意味を知らないのだから、かまわないと思うけれど」
「ダメだよ。どこにいても、ぼくを見ている人が誰もいなくても、ぼくにはしっぽがある」
〈誰の目がなくとも、しっぽがある〉というのは、〈しっぽ人〉たちのことわざだった。〈誰も見ていなくても、神さまは見ている〉といった意味を持つ言葉だ。誰の目がなくとも、しっぽを通じて、神さまがキーリのことを見ている。そう思うと、キーリは悪いことをしたくなくなるのだった。
キーリがそれを言うと、ユエンは、何か言いたそうな顔をしながらも、首を横にふった。そして、雑務係に、刺繍が見えないよう、すそやそでをまくり上げて縫うように頼んでくれた。
体を洗い清め、尊いお役目であることを示す刺繍をかくしたチュニックの上に帯をしめて、キーリはようやくまともなすがたになった。そんなキーリを見たユエンが、荷台から、マントをひとつ持ってきた。
「これから向かうのは、人間たちの暮らしている場所だ。君はまだ子どもだから、体が小さいことについては誰も気にしないだろう。けれど、その服装としっぽは目立ちすぎる。しっぽについては大事なものなんだし、なおのこと、かくしておかないとね。いいかい」
マントに身を包んだキーリは、ユエンの言うことにうなずきながらも、しっぽを隠しておくのは難しいだろうな、と思った。しっぽは、力を入れていないときでも、体から少し浮いている。よほど気をつけていなければ、持ち上がったしっぽが、マントの上からでも見えてしまうのだ。
「まあ、だいじなのは慣れさ。……それで、どうかな。はじめての外の世界は。想像通りかい?」
大きすぎるマントのすそを持ち上げていたキーリは、ユエンに問いかけられて、ようやくあたりを見回した。
荷馬車や、キャラバンの人間たちに背中を向けてみると、視界には、ただ何もない荒野が広がっていた。右手にそびえる〈西の山脈〉は、黒くぬりつぶされた壁のように味気なく、不気味に見える。キーリを見下ろしていた山々はいまや遠く、その足元にあるだろうキーリの村も、もうどこにあるのだかわからない。
キーリは、急に不安になった。なぜだか、世界のすべてが、自分に無関心であるように思えたのだ。
「よくわからない。ううん、なんだか……なんにもなくて、ちょっとこわいや」
「そうか」
ユエンは、短く答える。彼の横顔は、どことなくうれしそうに見えた。
「私がはじめて故郷を出たときにも、そう思ったんだ。私は、あまりにも何もなくて、拍子抜けしてしまったのだけれど。もちろん、そのときの私には、広い世界のほんの一部しか見えていなかった。私が小さかったころの話だ」
そこまで言ってから、ユエンは、ぐるりと景色を見渡した。そして、こうつけくわえる。
「キーリにも、じきに納得がいくさ。これがナヴァドゥルールが歩いた大地なんだ、ってね」
ユエンの言葉には、ふしぎな重みがあった。
今のユエンの目に、この景色はどう映っているのだろうか。キーリは、ユエンの横顔を見上げて、たずねるのをやめた。きっと、キーリを煮え切らない気持ちにさせるような答えが返ってくるだけだろう。
こうして、あこがれていた世界に突き放されるような感覚とともに、キーリの旅ははじまったのだった。
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※小説家になろう・カクヨムにも同タイトルで投稿しています。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
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