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第6話 震え
しおりを挟む家の前に立つと自分の手が震えているのが分かる。
この仕事を始めてから10年は経つというのに。渡辺は腕時計をにらみつけた。
毎回、仕事のたびに自分に言い聞かせる。大丈夫、大丈夫、上手くいくんだと。
でもたった5年前の過去が自分の足元を底無し沼のように引きずりおろしてコンクリートの地面から足が離れなくなる。
「死んだのは、あんたのせいじゃないか!」
頭の奥から響く罵声。すすり泣きの声。冷たい冬の病院の空気。とりなす医者の戸惑う声。
分かっているんだ。本当は。何もかも誰のせいでもなかった事は。
在宅介護の仕事から風呂介助の仕事に仕事量を落としたのは、生活していくうえでも厳しいが、それ以上に心が壊れそうだった。
休職してからこの仕事を辞めようと何度もしたが、在宅介護をしていた時のご家族から何度も渡辺さんはいないのかと職場に連絡が入り、辞められなかった。
こんな自分でも必要とされているのだ。
職場復帰する際に、1日の在宅介護からは降りて風呂介助のみにシフトを替えてもらった。
小さな在宅介護の職場だったため、社長や他の職員の理解もあり今に至る。
それでもまだ5年前、人が目の前で死んだのは事実だ。
介護職だけあり、昼間順調に生活を送っていた人が夜になり突然の高熱を出して、そのまま入院してしまい1週間も経過せずに亡くなるのは、日常茶飯事に近い。
重労働に家族からのクレームや職場と合わずに辞めていく人は山ほどいる仕事だ。
それでも5年前の罵声と共に、記憶からよみがえるのは、風呂介助として仕事復帰した時のあの女性の一言。
「渡辺さんに出逢えて良かったわ」
80歳のその女性は、子供家族は近所に住んでいるが丸1日ヘルパーと在宅医療を雇い、最期は誰一人も逢いにも来なかった。
「誰も悪くないのよ。私は家庭をもって子供と孫が産まれて、それが私の人生なの。世の中の人は動けない私には分からないけれど、納得している人生なのよ、だから、そんな悲しい顔をしないで、渡辺さん」
その女性は、介護ベッドに横たわりながらもゆったりと渡辺に微笑んだ。
その日に静かにその女性は息をひきとった。ゆったりと眠るように。
その女性との出逢いを思い出すと不思議と手の震えがおさまる。
「あれ?渡辺さん、いらっしっゃていたならチャイム鳴らして頂けたら開けます。お時間まで待つなんて大変でしょ」
最近、新規でうけもった家の息子が困ったようにドアを開けていた。
奥からミントの香りがする。息子さんも最初に会った時よりも顔色がいい。
渡辺はいつもの笑顔を引っ張りだした。
「申し訳ないです。前のお風呂介助で田中さんがご満足して頂けたか心配で」
何とか言葉をひねり出す。
息子の田中義雄は少し戸惑い気味の顔をした後に静かに笑った。
「渡辺さんが来て下さった時から、不思議と父親が穏やかなんです。あがって下さい」
その一言で、泥沼の地面はコンクリートに変わり、渡辺は一歩踏み出せた。
ミントの香りのする家に。
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