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【BL】次男:文人(ふみひと)の平日【R18】
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兄弟の中で一番淡白と言われるのは、次男の文人(ふみひと)である。
ここで一つ。
田中一族の家訓の一つを紹介しておきたい。
ーーー他者を尊重しない者に対して配慮は無用である
「ぅ…っぁ」
何時でも何処にでも、変質者は一定数存在する。
変質の意味合いにもよるけれど、大概においてソレは性的なニュアンスを含んでいる。
そして文人は、ソレに遭遇する機会が異常に多い。
「ん…ぃ、っ」
混み合った場所で痴漢被害にあう事は多くもないし少なくもない。
善良な人間が間違われる事もある。
混み合った場所と言うのは、まさに木を隠すなら森の中。
何処からか手が伸びて、誰かがその手の主人で、捕まえる寸前に立ち位置を変えて、主人が入れ替わる。
痴漢常習犯が捕まる確率は高くはない。
捕まったとして、無期懲役ではないし。
全てでないにしろ性的犯罪者の再犯率の高さは世界的な統計によって証明されている。
「ぅっ、ぁ」
近年は性的マイノリティを履き違えている人間もいるけれど、結局のところ、少数派だろうが多数派だろうが他者を尊重しない他者は配慮するに値しない。
「ふっ、ぅ」
文人の満員電車デビューは高校生の時だった。
入学式の朝。
知り合いのいない心細さに、息苦しい初めての満員電車。
握り心地の悪い吊り革。
桜並木の河川敷を窓から眺めながら、文人は痴漢に真新しい制服を汚された。
あれから10年以上経っても、相変わらず現在進行形で文人は痴漢にあっている。
「ぁっ、ん」
慣れた手つきの痴漢野郎は、無遠慮に文人の身体を弄る。
スラックスの上から文人の自身を握り込み、背後から臀部に痴漢野郎の反り勃った自身を擦り付けている。
電車の揺れに伴う予想外の刺激に、文人はハンカチで口元を押さえて声を押し殺す。
痴漢野郎は荒い息を隠そうともせず、揺れに乗じて文人を抱き込むと耳元で呟いた。
「次で降りるよ」
素早く腕を取られ、肩に寄りかかるように体制を入れ替えられた。
側から見れば、具合の悪い人と付き添いの人の構図である。
初めて遭遇した痴漢野郎の手口に文人は既視感を覚えた。
ココでようやく、一つ思い出す。
長男の人志がわざわざ電話で言ってきた痴漢野郎の手口を。
「ほら、しっかり歩いて」
電車の扉が開き、プラットホームに向かう人の流れに飲み込まれる。
改札口まで流されると、そのまま通り過ぎ、痴漢野郎は奥まった場所にある多目的トイレに文人を連れ込んだ。
「大人しくしてたら痛い事はしないからね」
お約束のように、便器に座らされる。
文人は初めて今回の痴漢野郎を正面から見た。
何処にでもいる平均的な中堅サラリーマンだった。
見た目は。
痴漢野郎は手荷物をフックに引っ掛けると、文人を見てニヤリと笑う。
平凡な顔が近づいて、顎を掴まれ上を向かされた。
「ぅ、んっ、」
「震えて可愛いね。ほら、口を開けて舌を出すんだ」
毎度の事ながら、文人は虫唾が走った。
それでも、痴漢野郎に言われた通り口を開けて舌を出す。
「いい子だね。気持ちよくしてあげるよ」
「っぁ、ん、ぅ」
痴漢野郎の舌が文人の舌に絡みつく。
控えめに差し出されていた文人の舌を捕まえると、吸い付くように唇を合わせる。
反射的に身体を反らせると、痴漢野郎は後頭部を押さえつけて引き寄せた。
一方的な暴力に、何人の被害者がいるんだろうかと文人は考える。
同情しても始まらないし。
仇を討っても、記憶は無くならない。
それでも、被害者が増え続けるよりはいくらかマシだろうと、自分の行為を正当化している自覚はあった。
結局のところ、淫魔としての自分と人間とでは心の機微が違うのだ。
「は、っ、ぅ、ん」
より深く文人の口腔を犯そうと痴漢野郎は一歩前へ距離を縮める。
くちゅり、くちゅり、と舌と唾液の絡まる音が響く。
痴漢野郎の舌が、文人の歯をなぞり始めた。
歯口をなぞり、一つ一つ奥歯から舌で舐められる。
酷い煙草の悪臭に文人は顔を顰め、我慢の限界とばかりに、自由にされていた両手で痴漢野郎の両肩を掴んだ。
そしてそのまま、力技で体制を入れ替える。
ガタッ、と鈍い音がした。
引き攣った表情で、痴漢野郎は気がつけば自分が便器の上に座らされていた。
「なっ、」
「今度は俺が、気持ちよくしてやるよ」
ニタリ、と笑った文人は痴漢野郎の上に跨り、手早くスラックスのポケットに入れていたミントのタブレットを口に放り込む。
そして、痴漢野郎の頭を両手で固定すると喰らいつくように唇を合わせた。
最初こそ反り勃っていた痴漢野郎の自身は、次第に萎えていく。
文人は唇を離す事も声を漏らす事もない。
多目的トイレ内には、今や痴漢野郎の微かな呻き声が響くのみになっていた。
「…ふぅ」
ホテルのアメニティーは便利だと文人は思う。
特に、使い捨ての歯磨きセット。
貧乏性と言われても良い。
絶対的に全てのアメニティーを持ち帰る派の文人は、お気に入りのアメニティー会社まである程の愛好家だ。
歯磨きを終えた文人は、備え付けのゴミ箱に使用済みのソレを投げ入れる。
大きな洗面台の鏡は身嗜みの確認には便利だった。
「もう二度と、性欲なんてわかねぇーからな」
身嗜みを整えた後、文人は便器の上で廃人のように座っている痴漢野郎に向かって吐き捨てた。
配慮なしに性液を搾り尽くされた痴漢野郎は、髪は所々白くなり皮膚は乾き顔には皺が増えていた。
「とりあえず人志にはLINEで写真添付。事後報告…と」
性液は精気と直結している。
故に、生死や加齢とも密接に結びついている為、摂取量については様々な家訓が田中一族には決められていた。
特に文人は、唇を合わせるだけで相手の精気を十二分に引き出すことができる。
身体を交えずに精気を十二分に摂取する事ができるのは、田中一族の中でも一握り。
実際、その一握りには共通点が一つだけあった。
痴漢被害の常連。
痴漢を寄せ付ける体質故の妙技。
痴漢と身体を重ねずにギリギリまで精気を搾り取る為の術。
「ヤベッ、定例会議間に合わねー!」
兄弟で一番淡白と言われるには、それなりの理由がある。
定期的な痴漢被害の都度行われる配慮なしの精気摂取。
腹は常に満たされている。
必要のない行為はしない。
その為、文人は決定的な経験がない。
淫魔なのに、29歳童貞処女。
「悪い佐藤。15分遅れる。予定では秘書課からだが先に営業部の報告あげてくれ」
『なんだ文人、また痴漢か?』
「そーだよ!」
『黒髪メガネ細身スーツってのが痴漢にピンポイントなんじゃね?』
「日本の量産型社畜スタイルだろうが!あぁーくそ。わかったなら上手くやっといてくれ」
『はははは。昼飯奢りなー』
本人曰く、量産型社畜スタイルの文人は、大手企業の秘書課で秘書をしている。
秘書室の個人担当秘書とは違い、秘書課は部署単位でのサポートを要するチーム担当。
文人は営業部サポートチーム長で、電話相手の佐藤は営業部の係長であり同期入社の腐れ縁である。
何故、秘書課で秘書をしているのか。
愚問だろう。
童貞処女を卒業できると思ったからだ。
実際は今だに童貞処女記録更新中。
枕営業、枕接待。
今や時代錯誤。
就職活動中に相談したのが官能小説家の伯父とバブル経済期の元営業の伯父であったのが間違いだった。
全ては、今は昔。
今求められているのは、枕能力ではなく情報収集能力。
不正に分類される枕ではなく、正統な営業力として分類される様々な情報収集能力なのだ。
「冨士(ふじ)の野郎、好き放題言いやがって!技術部長が急な出張って言うのも気に入らん!」
朝の定例会議後、佐藤の機嫌はいつも悪い。
原因は主に技術部だ。
佐藤は文人の同期の営業で係長を任されている。
暑苦しく五月蝿い古典的な体育会系営業マンで現代的にはパワハラ上司と言われる部類だが、本人の竹を割ったような性格と合理主義者的面倒見の良さ、何より顔と身体が良いので事なきを得ている。
「納期までの期間厳守と規格改修の事前相談だと!?んな事してる間に他社に持ってかれるだろうが!!」
「はいはい。唾飛んでるから、やめろ。俺の奢りのランチが不味くなるだろうが」
今日のランチは冒頭の通り、文人の奢りだ。
会社の裏路地にある老舗の洋食店『スバル』。
少し前は古臭いと言われていたのに、今はレトロと言われて若い客も多い。
味は変わらず昔から美味しいのに、不思議なものだと文人は思う。
「むぅ、まぁ、それもそうだな。どれ、お前のオムライス一口くれよ」
「ならお前のキノコクリームパスタも寄越せ」
けれど、客が増える事は喜ばしい。
この味が失われるのは、なんだか堪らない。
「営業部の言い分もわかるが、技術部の言い分は尤もだと思うぞ。安請け合いして間に合いません出来ませんでは困るだろが」
「安請け合いなんてしてねぇーよ。うちの技術部なら出来ると思って契約取ってきてんだぞ、俺達は」
「技術部はそう思ってないんだって。はぁー。仲良くしろよ」
「んな事を言ってもだな。営業部と技術部の仲の悪さは伝統だぞ」
「変え時だろ」
淫魔の血が流れているからと言って、人間の食事に関心がないわけではない。
人間の食事からも微弱だが精気を摂取する事はできる。
純粋な純血の淫魔ではない彼等は、人間と交わり続けながら存在している故に人間に近しい。
田中家四兄弟の場合は、父親が淫魔の血筋であり母親は人間である。
そんな彼等と人間の相違点と言えば、精気摂取の為に性液が必要な事と個人差はあれど少しだけ便利な力が使える程度。
魅了魅惑と準備が不要は標準装備。
姿を見えなくしたり、音を遮断したり、透視できたりと、一般的に超能力と言われる内容は個人差の範囲だ。
「食後の珈琲とデザートのバニラアイスをお持ちしました」
文人も佐藤も大盛りをペロリと平らげた。
目の前に置かれた珈琲とバニラアイス。
文人は迷わず、珈琲にバニラアイスを入れてかき混ぜる。
思わず隣席の若い女性が目を丸くした。
佐藤は慣れた様子でソレを一瞥し、自身はブラックのまま口をつけた。
「はぁ。本当にお子様舌だな」
「入れた方が美味いだろうが。コーヒーフロートとアフォガードを馬鹿にすんのか」
「してねぇーよ。ただ、この場でこの組み合わせでソレはどうなんだよって話だろ」
「甘い方が美味い」
無邪気な笑みを浮かべて、文人は至福の一時と言わんばかりにソレを飲む。
佐藤は呆れたように笑うと、バニラアイスを文人に差し出した。
「やる」
「あれ、そう言えばバニラアイスだ」
一言呟いて文人はキョロキョロと店内を見渡す。
けれど、お目当ての何か、を見つけられずに視線をバニラアイスへと戻した。
「一楼(いちろう)くん、いないな。残念だったな、コーヒーゼリー」
「過剰サービスだろ」
「お前さ、」
「言うな」
「いや、これだけは言わせろ」
「………」
気不味そうに佐藤が視線を外す。
文人は至極楽しそうに、ニヤニヤと少しばかり下品な笑みを浮かべた。
「佐藤が甘い物、苦手とかウケる」
「秘書のくせに語彙力!」
一楼くん、とは、洋食店『スバル』の息子で時々、ホールを手伝っている。
常連と言える文人と佐藤とは手短に世間話をする程度の顔見知りで、佐藤が甘い物が苦手と知ってからは食後のデザートのバニラアイスをこっそりとコーヒーゼリーに変更してくれている。
今度はニタニタと笑いながら、文人はバニラアイスを食べ始めた。
佐藤は残り少なくなった珈琲を飲み干すと、なんとなく習慣化してしまった食後のコーヒーゼリーに後ろ髪を引かれる。
珈琲とコーヒーゼリーは別物だとは、誰が最初に言ったのか。
追加で注文するか否か、メニュー表を手に取ろうとした所で社用携帯が鳴った。
「はい、佐藤です。……それで先方は……え?なんで、」
みるみるうちに表情が険しくなる佐藤を見て、文人は相変わらず仕事人間だな、と思った。
同期の中でも出世頭の佐藤は、棚ぼた的に役職付きになった文人とは違い、競争の激しい営業部内で最年少係長の座を実力で掴んだ。
「わかりました。文人も一緒なので今から戻ります」
佐藤の眉間の皺が深くなる。
先方とのトラブルである事は、電話の断片的な会話からも一目瞭然だった。
文人が最後の一口のバニラアイスを飲み込んだ所で、佐藤の電話が終了した。
「ヤバイの?」
「あぁ、すげぇーヤバイ。主にお前が」
社用携帯を握りしめた佐藤が、引き攣った笑顔を貼り付けて席を立つ。
文人は席を立つことも、伝票を手に取る事も忘れて、引き攣った顔で佐藤を見上げた。
青天の霹靂。
「は?」
佐藤は唖然としている文人の腕を引き、伝票に手を伸ばす。
自分が原因で起きる突発的な出来事について文人は過剰に反応する。
現行の思考を停止して、頭の中で半年分の記憶を振り返り原因を究明しようとする。
佐藤は文人の、このどうしようもない振り返り癖を知っているが故に、ため息を吐きながら引っ張って行く。
文人は条件反射のように、引っ張られるままに足をどうにか進めた。
「なぁ佐藤」
「振り返りは終わったか?」
「おう。だがな、思い当たる節がないんだが?」
「そもそも、まだ何も話してないからな?俺は」
再びの佐藤のため息に、文人は首を傾げた。
黙っていれば、理系の冷徹美人系イケメンに見える文人は自分の事になると途端に、文系のゆるふわ天然になる。
佐藤は文人の頭をガシガシ掻き回した。
「佐藤、戻りました」
「文人、戻りました」
今更だが、文人は社内でも文人と呼ばれている。
特別な理由はなく、単純に田中姓が多いからだ。
会社に戻ると、重苦しい空気が充満していた。
同僚が無言で同情の視線を送ってくる。
佐藤も文人もソレを一瞥してから、窓際で顔を曇らせている営業部長と営業課長の元へと急いだ。
「二人とも戻ったか。課長、アレを」
「はい。佐藤、文人くん、コレを」
営業課長から手渡されたタブレットPCには、とある企業情報が開かれていた。
有限会社雲錦(うんきん)、主な取り扱いは和装製品。
本年度で120周年。
前身は呉服問屋、戦後現在の姿に転身。
社長は代々世襲制。
つい先日、若社長に代替わり。
現社長は戸塚葉(とづかよう)、現会長の長男。
簡単な情報からも、大きな要因は推察できた。
代替わりだ、と文人は思った。
「その様子だと、文人は先方と面識無いんだろ?」
「あぁ、ないな」
隣で佐藤が大きく息を吐いた。
「雲錦さんとは長い付き合いですし、課長の担当でしたよね?何で文人が」
「新社長の要望でね。ほら、見てみろ。あの黒塗りの車…裏でずっと待ってるんだよ」
閉め切っているブラインドに指をかけて、営業課長が文人と佐藤を呼び寄せる。
少しばかり広げられたブラインドの隙間から見た窓下には、確かに黒塗りの車が一台停まっていた。
「丁度、契約更新の時期でね。文人くんと、今後の事を話したいと言われたんだ」
「おかしいですよ、課長。文人は秘書であって営業じゃないんですよ?部長も、なんでこんな無茶苦茶な」
「無茶苦茶な要求を受けてでも、逃せない契約なんだ。お前もいつも技術部に言ってるだろう?」
営業部長が声のトーンを落として言った。
佐藤の顔が一瞬強張って、堪えたように、小さく、すみません…と聞こえた。
握り締められた拳が震えている事には、その場にいた全員が気づいていた。
「悪いね、文人くん」
重いため息の後、営業課長は指を離した。
カシャン、と音を立ててブラインドは再び閉め切られた。
「お待たせしました。秘書課の田中文人です」
所詮は、雇われの身。
上の決定は、絶対だ。
佐藤は納得がいかない顔をしていたし、営業部長も営業課長も申し訳ないと顔に書いていた。
唯一楽しそうに、面白そうと顔に書いていたのは直属の上司の秘書課長だけだった。
人間社会は、世知辛い。
けれど、当人の文人は正直、小躍り気味だった。
もしかしたら、初めての枕営業、枕接待になるのでは?…と、期待に胸を膨らませていた。
官能小説家の伯父とバブル経済期の元営業の伯父が語った、なんとも言えない耽美(たんび)な展開を…。
「お待ちしておりました。田中様」
想像していたよりも若いけれどベテランの雰囲気がある運転手。
招かれた後部座席の奥には、先客がいた。
ふわりと微笑まれた筈なのに、何処か刺々しい雰囲気の男。
「戸塚葉です。ご存知の通り、雲錦の社長をしています」
「初めまして、秘書課の田中文人です」
名刺交換をする雰囲気でもなく、文人は戸塚のペースのままに挨拶をする。
そして、促されるまま後部座席に座ると扉は閉められた。
シートベルトを締めたタイミングで、車はゆっくりと走り出す。
車内は静かだった。
意外にも、無言のこの時間が居心地悪くないのが文人は不思議だった。
目的地もわからないまま、流れる景色を目で追いかけていた。
見慣れた景色が次第に見慣れない風景へと変わって行く。
信号待ちのタイミングで、バックミラー越しに、運転手と視線がかち合った。
「本当は、ランチでもと思っていたんです」
突然微笑まれた気配に、文人が隣を見た時には既に戸塚は車窓を眺めていた。
文人は一度、視線を手元に落とした。
「…申し訳ありません。丁度、同僚と出ていまして」
「佐藤さん、ですよね。随分と遣り手な方だと知人も言っていました。頼りになる方、なんですね」
「そう、ですね」
何処か棘のある物言いに、文人は苦笑いを浮かべた。
何故だか、再びの無言は居心地が悪かった。
行き着いた先は、古民家を改装したカフェレストランだった。
プレオープンする友人の店に顔を出したいと、戸塚が言ったからだ。
文人に拒否権はなく、中途半端な笑顔のまま戸塚の隣に立っている。
「葉さん。本当に来てくれたんだ」
「結希乃(ゆきの)さんと俺の仲じゃないですか。当たり前ですよ。本当に、おめでとうございます」
「ふふふ。ありがとうございます。丁度、奥の個室が空いてるの案内するわね」
出迎えてくれたのは、柔らかい雰囲気の着物の女性だった。
古民家改装カフェは、今では定番のジャンルだ。
生き残りが大変だろうな、と案内されながら文人は思った。
けれど、すぐに他とは違うと感じた。
「もう懐かしむ世代の方が少ないでしょ?だからね、ブースを分けて、個室は昔の料亭、カウンターは昔の定食屋さん、半個室はおばあちゃん家をイメージしてるの」
「問題児トリオは大丈夫ですか?」
「えぇ。三人とも、張り切ってるわよ。今に見てろって、ね」
案内された個室は、言われた通り高級料亭のようだった。
「ここだけの話。じつは調度品をね、安価で譲ってもらったのよ。ほら、改装工事で洋室を増やすって話あったでしょう?それで、不要になる調度品をね」
「そうだったんですね。どおりで、懐かしい筈です」
戸塚が微笑んだ。
文人は、この時の戸塚の笑みを見て既視感を覚えた。
何処かで、見たことがある気がする…と。
「お二人とも珈琲になさいます?お仕事のお話があるんでしょう?」
「はい。俺は珈琲でお願いします。田中さんは、」
「あ、私は…」
文人は手渡されたメニュー表を急いで見た。
珈琲は、ミルクと砂糖を多めにもらわないと飲めない。
苦い抹茶も飲めない、甘い飲み物…何か、甘くて印象が悪く無いもの……。
「そう言えば、試作段階のチャイティーがあるんですが、苦手でなければお試しいただけますか?」
「え、あ、はい。チャイは、好きです」
「良かった。ご準備してきますね」
結希乃が立ち去った後、戸塚がニコニコと笑みを浮かべて文人に言った。
「結希乃さん、田中さんが苦い物が苦手だって気づいたんですよ」
「え、あ…」
「以前、取引先の旅館で仲居をされてたんです。先に、資料を拝見しても良いですか?」
「あ、はい」
文人は急に恥ずかしくなった。
正直に伝えれば良かったと、見栄を張ったようで、子供じみていて、資料を手渡しながらも戸塚の顔が見れなかった。
暫くして届けられたカフェオレボウルに淹れられたチャイティーは、甘くて優しい味がした。
「…内容的には悪くはない。ですが、来年度から社内のコンピュータを全てオレンジコンピュータに変更する事にしたんです。御社のシステムはオレンジコンピューターとの相性が悪いと、評判ですよね」
ブラック珈琲を片手に、戸塚が資料を文人に差し戻す。
文人は資料を受け取りながら、佐藤に言われた通りだ…と、戸塚のネクタイに視線を向けた。
緊張して相手の目を見れない時はネクタイの結び目に視線を合わせるといい…なんて学生時代の誰かの言葉を、文人は思い出して実行している。
視線が下がって自信がないように見えたって、ソレは今は問題にならないと言い訳を用意して。
「弊社でも相互性については現在対応中です。来年度までには、ご満足いただけるシステムを納品できます」
「それは、絶対にできるって事かな?」
戸塚の細長い瞳が、文人を捉える。
文人は相変わらず視線を合わせられずに、戸塚のネクタイを凝視していた。
「…はい」
「根拠は?」
今までと違う戸塚の声のトーンに、思わず文人は視線を上げた。
酷く覚めた目が其処にはあった。
蛇に睨まれた蛙のようだと思った。
急に心臓が痛くなって、動悸が激しくなる。
「こ…根拠、は」
頭では不味いとわかっているのに、文人は言葉が出てこない。
明確な根拠など、文人は正解を持ち合わせていない。
佐藤であれば、正解をスラスラと答えられるのだろうと此処にいない同期を思う。
「…はぁ。根拠がなければ、」
戸塚が呆れたように文人から視線を外した。
時間の無駄だ、と言わんばかりのため息に、文人の眉間に皺が寄った。
ため息を吐かれたって知るか。
自分は秘書課の所属なんだぞ、営業職じゃねーんだぞ。
このボンボンクソワガママ野郎が。
ガタンっ、と文人がテーブルに両手を付いた。
戸塚は驚いた顔で文人を見上げる。
「弊社の技術部は!オレンジコンピュータ信者ばかりです!」
「………」
「あ、」
「ふ、ふふふあはははは。それは、頼もしいな」
戸塚の笑い声が響く。
屈託のないその笑みに、文人は再び既視感を覚えた。
記憶の引き出しが、勝手に開きそうな妙な感覚に、残りのチャイティーを一気に流し込んだ。
「一先ず。契約は更新するけれど、システム改修の進捗状況によっては契約破棄させてもらうよ」
「はい」
「あぁ、それから、今後も担当は田中さんでお願いしますね」
「え、あの」
「あとコレ、俺のプライベート番号。田中さんのも教えてくれますよね?」
目が笑っていない笑顔で渡された二枚目の名刺の裏には、綺麗な数字が並んでいた。
ここで一つ。
田中一族の家訓の一つを紹介しておきたい。
ーーー他者を尊重しない者に対して配慮は無用である
「ぅ…っぁ」
何時でも何処にでも、変質者は一定数存在する。
変質の意味合いにもよるけれど、大概においてソレは性的なニュアンスを含んでいる。
そして文人は、ソレに遭遇する機会が異常に多い。
「ん…ぃ、っ」
混み合った場所で痴漢被害にあう事は多くもないし少なくもない。
善良な人間が間違われる事もある。
混み合った場所と言うのは、まさに木を隠すなら森の中。
何処からか手が伸びて、誰かがその手の主人で、捕まえる寸前に立ち位置を変えて、主人が入れ替わる。
痴漢常習犯が捕まる確率は高くはない。
捕まったとして、無期懲役ではないし。
全てでないにしろ性的犯罪者の再犯率の高さは世界的な統計によって証明されている。
「ぅっ、ぁ」
近年は性的マイノリティを履き違えている人間もいるけれど、結局のところ、少数派だろうが多数派だろうが他者を尊重しない他者は配慮するに値しない。
「ふっ、ぅ」
文人の満員電車デビューは高校生の時だった。
入学式の朝。
知り合いのいない心細さに、息苦しい初めての満員電車。
握り心地の悪い吊り革。
桜並木の河川敷を窓から眺めながら、文人は痴漢に真新しい制服を汚された。
あれから10年以上経っても、相変わらず現在進行形で文人は痴漢にあっている。
「ぁっ、ん」
慣れた手つきの痴漢野郎は、無遠慮に文人の身体を弄る。
スラックスの上から文人の自身を握り込み、背後から臀部に痴漢野郎の反り勃った自身を擦り付けている。
電車の揺れに伴う予想外の刺激に、文人はハンカチで口元を押さえて声を押し殺す。
痴漢野郎は荒い息を隠そうともせず、揺れに乗じて文人を抱き込むと耳元で呟いた。
「次で降りるよ」
素早く腕を取られ、肩に寄りかかるように体制を入れ替えられた。
側から見れば、具合の悪い人と付き添いの人の構図である。
初めて遭遇した痴漢野郎の手口に文人は既視感を覚えた。
ココでようやく、一つ思い出す。
長男の人志がわざわざ電話で言ってきた痴漢野郎の手口を。
「ほら、しっかり歩いて」
電車の扉が開き、プラットホームに向かう人の流れに飲み込まれる。
改札口まで流されると、そのまま通り過ぎ、痴漢野郎は奥まった場所にある多目的トイレに文人を連れ込んだ。
「大人しくしてたら痛い事はしないからね」
お約束のように、便器に座らされる。
文人は初めて今回の痴漢野郎を正面から見た。
何処にでもいる平均的な中堅サラリーマンだった。
見た目は。
痴漢野郎は手荷物をフックに引っ掛けると、文人を見てニヤリと笑う。
平凡な顔が近づいて、顎を掴まれ上を向かされた。
「ぅ、んっ、」
「震えて可愛いね。ほら、口を開けて舌を出すんだ」
毎度の事ながら、文人は虫唾が走った。
それでも、痴漢野郎に言われた通り口を開けて舌を出す。
「いい子だね。気持ちよくしてあげるよ」
「っぁ、ん、ぅ」
痴漢野郎の舌が文人の舌に絡みつく。
控えめに差し出されていた文人の舌を捕まえると、吸い付くように唇を合わせる。
反射的に身体を反らせると、痴漢野郎は後頭部を押さえつけて引き寄せた。
一方的な暴力に、何人の被害者がいるんだろうかと文人は考える。
同情しても始まらないし。
仇を討っても、記憶は無くならない。
それでも、被害者が増え続けるよりはいくらかマシだろうと、自分の行為を正当化している自覚はあった。
結局のところ、淫魔としての自分と人間とでは心の機微が違うのだ。
「は、っ、ぅ、ん」
より深く文人の口腔を犯そうと痴漢野郎は一歩前へ距離を縮める。
くちゅり、くちゅり、と舌と唾液の絡まる音が響く。
痴漢野郎の舌が、文人の歯をなぞり始めた。
歯口をなぞり、一つ一つ奥歯から舌で舐められる。
酷い煙草の悪臭に文人は顔を顰め、我慢の限界とばかりに、自由にされていた両手で痴漢野郎の両肩を掴んだ。
そしてそのまま、力技で体制を入れ替える。
ガタッ、と鈍い音がした。
引き攣った表情で、痴漢野郎は気がつけば自分が便器の上に座らされていた。
「なっ、」
「今度は俺が、気持ちよくしてやるよ」
ニタリ、と笑った文人は痴漢野郎の上に跨り、手早くスラックスのポケットに入れていたミントのタブレットを口に放り込む。
そして、痴漢野郎の頭を両手で固定すると喰らいつくように唇を合わせた。
最初こそ反り勃っていた痴漢野郎の自身は、次第に萎えていく。
文人は唇を離す事も声を漏らす事もない。
多目的トイレ内には、今や痴漢野郎の微かな呻き声が響くのみになっていた。
「…ふぅ」
ホテルのアメニティーは便利だと文人は思う。
特に、使い捨ての歯磨きセット。
貧乏性と言われても良い。
絶対的に全てのアメニティーを持ち帰る派の文人は、お気に入りのアメニティー会社まである程の愛好家だ。
歯磨きを終えた文人は、備え付けのゴミ箱に使用済みのソレを投げ入れる。
大きな洗面台の鏡は身嗜みの確認には便利だった。
「もう二度と、性欲なんてわかねぇーからな」
身嗜みを整えた後、文人は便器の上で廃人のように座っている痴漢野郎に向かって吐き捨てた。
配慮なしに性液を搾り尽くされた痴漢野郎は、髪は所々白くなり皮膚は乾き顔には皺が増えていた。
「とりあえず人志にはLINEで写真添付。事後報告…と」
性液は精気と直結している。
故に、生死や加齢とも密接に結びついている為、摂取量については様々な家訓が田中一族には決められていた。
特に文人は、唇を合わせるだけで相手の精気を十二分に引き出すことができる。
身体を交えずに精気を十二分に摂取する事ができるのは、田中一族の中でも一握り。
実際、その一握りには共通点が一つだけあった。
痴漢被害の常連。
痴漢を寄せ付ける体質故の妙技。
痴漢と身体を重ねずにギリギリまで精気を搾り取る為の術。
「ヤベッ、定例会議間に合わねー!」
兄弟で一番淡白と言われるには、それなりの理由がある。
定期的な痴漢被害の都度行われる配慮なしの精気摂取。
腹は常に満たされている。
必要のない行為はしない。
その為、文人は決定的な経験がない。
淫魔なのに、29歳童貞処女。
「悪い佐藤。15分遅れる。予定では秘書課からだが先に営業部の報告あげてくれ」
『なんだ文人、また痴漢か?』
「そーだよ!」
『黒髪メガネ細身スーツってのが痴漢にピンポイントなんじゃね?』
「日本の量産型社畜スタイルだろうが!あぁーくそ。わかったなら上手くやっといてくれ」
『はははは。昼飯奢りなー』
本人曰く、量産型社畜スタイルの文人は、大手企業の秘書課で秘書をしている。
秘書室の個人担当秘書とは違い、秘書課は部署単位でのサポートを要するチーム担当。
文人は営業部サポートチーム長で、電話相手の佐藤は営業部の係長であり同期入社の腐れ縁である。
何故、秘書課で秘書をしているのか。
愚問だろう。
童貞処女を卒業できると思ったからだ。
実際は今だに童貞処女記録更新中。
枕営業、枕接待。
今や時代錯誤。
就職活動中に相談したのが官能小説家の伯父とバブル経済期の元営業の伯父であったのが間違いだった。
全ては、今は昔。
今求められているのは、枕能力ではなく情報収集能力。
不正に分類される枕ではなく、正統な営業力として分類される様々な情報収集能力なのだ。
「冨士(ふじ)の野郎、好き放題言いやがって!技術部長が急な出張って言うのも気に入らん!」
朝の定例会議後、佐藤の機嫌はいつも悪い。
原因は主に技術部だ。
佐藤は文人の同期の営業で係長を任されている。
暑苦しく五月蝿い古典的な体育会系営業マンで現代的にはパワハラ上司と言われる部類だが、本人の竹を割ったような性格と合理主義者的面倒見の良さ、何より顔と身体が良いので事なきを得ている。
「納期までの期間厳守と規格改修の事前相談だと!?んな事してる間に他社に持ってかれるだろうが!!」
「はいはい。唾飛んでるから、やめろ。俺の奢りのランチが不味くなるだろうが」
今日のランチは冒頭の通り、文人の奢りだ。
会社の裏路地にある老舗の洋食店『スバル』。
少し前は古臭いと言われていたのに、今はレトロと言われて若い客も多い。
味は変わらず昔から美味しいのに、不思議なものだと文人は思う。
「むぅ、まぁ、それもそうだな。どれ、お前のオムライス一口くれよ」
「ならお前のキノコクリームパスタも寄越せ」
けれど、客が増える事は喜ばしい。
この味が失われるのは、なんだか堪らない。
「営業部の言い分もわかるが、技術部の言い分は尤もだと思うぞ。安請け合いして間に合いません出来ませんでは困るだろが」
「安請け合いなんてしてねぇーよ。うちの技術部なら出来ると思って契約取ってきてんだぞ、俺達は」
「技術部はそう思ってないんだって。はぁー。仲良くしろよ」
「んな事を言ってもだな。営業部と技術部の仲の悪さは伝統だぞ」
「変え時だろ」
淫魔の血が流れているからと言って、人間の食事に関心がないわけではない。
人間の食事からも微弱だが精気を摂取する事はできる。
純粋な純血の淫魔ではない彼等は、人間と交わり続けながら存在している故に人間に近しい。
田中家四兄弟の場合は、父親が淫魔の血筋であり母親は人間である。
そんな彼等と人間の相違点と言えば、精気摂取の為に性液が必要な事と個人差はあれど少しだけ便利な力が使える程度。
魅了魅惑と準備が不要は標準装備。
姿を見えなくしたり、音を遮断したり、透視できたりと、一般的に超能力と言われる内容は個人差の範囲だ。
「食後の珈琲とデザートのバニラアイスをお持ちしました」
文人も佐藤も大盛りをペロリと平らげた。
目の前に置かれた珈琲とバニラアイス。
文人は迷わず、珈琲にバニラアイスを入れてかき混ぜる。
思わず隣席の若い女性が目を丸くした。
佐藤は慣れた様子でソレを一瞥し、自身はブラックのまま口をつけた。
「はぁ。本当にお子様舌だな」
「入れた方が美味いだろうが。コーヒーフロートとアフォガードを馬鹿にすんのか」
「してねぇーよ。ただ、この場でこの組み合わせでソレはどうなんだよって話だろ」
「甘い方が美味い」
無邪気な笑みを浮かべて、文人は至福の一時と言わんばかりにソレを飲む。
佐藤は呆れたように笑うと、バニラアイスを文人に差し出した。
「やる」
「あれ、そう言えばバニラアイスだ」
一言呟いて文人はキョロキョロと店内を見渡す。
けれど、お目当ての何か、を見つけられずに視線をバニラアイスへと戻した。
「一楼(いちろう)くん、いないな。残念だったな、コーヒーゼリー」
「過剰サービスだろ」
「お前さ、」
「言うな」
「いや、これだけは言わせろ」
「………」
気不味そうに佐藤が視線を外す。
文人は至極楽しそうに、ニヤニヤと少しばかり下品な笑みを浮かべた。
「佐藤が甘い物、苦手とかウケる」
「秘書のくせに語彙力!」
一楼くん、とは、洋食店『スバル』の息子で時々、ホールを手伝っている。
常連と言える文人と佐藤とは手短に世間話をする程度の顔見知りで、佐藤が甘い物が苦手と知ってからは食後のデザートのバニラアイスをこっそりとコーヒーゼリーに変更してくれている。
今度はニタニタと笑いながら、文人はバニラアイスを食べ始めた。
佐藤は残り少なくなった珈琲を飲み干すと、なんとなく習慣化してしまった食後のコーヒーゼリーに後ろ髪を引かれる。
珈琲とコーヒーゼリーは別物だとは、誰が最初に言ったのか。
追加で注文するか否か、メニュー表を手に取ろうとした所で社用携帯が鳴った。
「はい、佐藤です。……それで先方は……え?なんで、」
みるみるうちに表情が険しくなる佐藤を見て、文人は相変わらず仕事人間だな、と思った。
同期の中でも出世頭の佐藤は、棚ぼた的に役職付きになった文人とは違い、競争の激しい営業部内で最年少係長の座を実力で掴んだ。
「わかりました。文人も一緒なので今から戻ります」
佐藤の眉間の皺が深くなる。
先方とのトラブルである事は、電話の断片的な会話からも一目瞭然だった。
文人が最後の一口のバニラアイスを飲み込んだ所で、佐藤の電話が終了した。
「ヤバイの?」
「あぁ、すげぇーヤバイ。主にお前が」
社用携帯を握りしめた佐藤が、引き攣った笑顔を貼り付けて席を立つ。
文人は席を立つことも、伝票を手に取る事も忘れて、引き攣った顔で佐藤を見上げた。
青天の霹靂。
「は?」
佐藤は唖然としている文人の腕を引き、伝票に手を伸ばす。
自分が原因で起きる突発的な出来事について文人は過剰に反応する。
現行の思考を停止して、頭の中で半年分の記憶を振り返り原因を究明しようとする。
佐藤は文人の、このどうしようもない振り返り癖を知っているが故に、ため息を吐きながら引っ張って行く。
文人は条件反射のように、引っ張られるままに足をどうにか進めた。
「なぁ佐藤」
「振り返りは終わったか?」
「おう。だがな、思い当たる節がないんだが?」
「そもそも、まだ何も話してないからな?俺は」
再びの佐藤のため息に、文人は首を傾げた。
黙っていれば、理系の冷徹美人系イケメンに見える文人は自分の事になると途端に、文系のゆるふわ天然になる。
佐藤は文人の頭をガシガシ掻き回した。
「佐藤、戻りました」
「文人、戻りました」
今更だが、文人は社内でも文人と呼ばれている。
特別な理由はなく、単純に田中姓が多いからだ。
会社に戻ると、重苦しい空気が充満していた。
同僚が無言で同情の視線を送ってくる。
佐藤も文人もソレを一瞥してから、窓際で顔を曇らせている営業部長と営業課長の元へと急いだ。
「二人とも戻ったか。課長、アレを」
「はい。佐藤、文人くん、コレを」
営業課長から手渡されたタブレットPCには、とある企業情報が開かれていた。
有限会社雲錦(うんきん)、主な取り扱いは和装製品。
本年度で120周年。
前身は呉服問屋、戦後現在の姿に転身。
社長は代々世襲制。
つい先日、若社長に代替わり。
現社長は戸塚葉(とづかよう)、現会長の長男。
簡単な情報からも、大きな要因は推察できた。
代替わりだ、と文人は思った。
「その様子だと、文人は先方と面識無いんだろ?」
「あぁ、ないな」
隣で佐藤が大きく息を吐いた。
「雲錦さんとは長い付き合いですし、課長の担当でしたよね?何で文人が」
「新社長の要望でね。ほら、見てみろ。あの黒塗りの車…裏でずっと待ってるんだよ」
閉め切っているブラインドに指をかけて、営業課長が文人と佐藤を呼び寄せる。
少しばかり広げられたブラインドの隙間から見た窓下には、確かに黒塗りの車が一台停まっていた。
「丁度、契約更新の時期でね。文人くんと、今後の事を話したいと言われたんだ」
「おかしいですよ、課長。文人は秘書であって営業じゃないんですよ?部長も、なんでこんな無茶苦茶な」
「無茶苦茶な要求を受けてでも、逃せない契約なんだ。お前もいつも技術部に言ってるだろう?」
営業部長が声のトーンを落として言った。
佐藤の顔が一瞬強張って、堪えたように、小さく、すみません…と聞こえた。
握り締められた拳が震えている事には、その場にいた全員が気づいていた。
「悪いね、文人くん」
重いため息の後、営業課長は指を離した。
カシャン、と音を立ててブラインドは再び閉め切られた。
「お待たせしました。秘書課の田中文人です」
所詮は、雇われの身。
上の決定は、絶対だ。
佐藤は納得がいかない顔をしていたし、営業部長も営業課長も申し訳ないと顔に書いていた。
唯一楽しそうに、面白そうと顔に書いていたのは直属の上司の秘書課長だけだった。
人間社会は、世知辛い。
けれど、当人の文人は正直、小躍り気味だった。
もしかしたら、初めての枕営業、枕接待になるのでは?…と、期待に胸を膨らませていた。
官能小説家の伯父とバブル経済期の元営業の伯父が語った、なんとも言えない耽美(たんび)な展開を…。
「お待ちしておりました。田中様」
想像していたよりも若いけれどベテランの雰囲気がある運転手。
招かれた後部座席の奥には、先客がいた。
ふわりと微笑まれた筈なのに、何処か刺々しい雰囲気の男。
「戸塚葉です。ご存知の通り、雲錦の社長をしています」
「初めまして、秘書課の田中文人です」
名刺交換をする雰囲気でもなく、文人は戸塚のペースのままに挨拶をする。
そして、促されるまま後部座席に座ると扉は閉められた。
シートベルトを締めたタイミングで、車はゆっくりと走り出す。
車内は静かだった。
意外にも、無言のこの時間が居心地悪くないのが文人は不思議だった。
目的地もわからないまま、流れる景色を目で追いかけていた。
見慣れた景色が次第に見慣れない風景へと変わって行く。
信号待ちのタイミングで、バックミラー越しに、運転手と視線がかち合った。
「本当は、ランチでもと思っていたんです」
突然微笑まれた気配に、文人が隣を見た時には既に戸塚は車窓を眺めていた。
文人は一度、視線を手元に落とした。
「…申し訳ありません。丁度、同僚と出ていまして」
「佐藤さん、ですよね。随分と遣り手な方だと知人も言っていました。頼りになる方、なんですね」
「そう、ですね」
何処か棘のある物言いに、文人は苦笑いを浮かべた。
何故だか、再びの無言は居心地が悪かった。
行き着いた先は、古民家を改装したカフェレストランだった。
プレオープンする友人の店に顔を出したいと、戸塚が言ったからだ。
文人に拒否権はなく、中途半端な笑顔のまま戸塚の隣に立っている。
「葉さん。本当に来てくれたんだ」
「結希乃(ゆきの)さんと俺の仲じゃないですか。当たり前ですよ。本当に、おめでとうございます」
「ふふふ。ありがとうございます。丁度、奥の個室が空いてるの案内するわね」
出迎えてくれたのは、柔らかい雰囲気の着物の女性だった。
古民家改装カフェは、今では定番のジャンルだ。
生き残りが大変だろうな、と案内されながら文人は思った。
けれど、すぐに他とは違うと感じた。
「もう懐かしむ世代の方が少ないでしょ?だからね、ブースを分けて、個室は昔の料亭、カウンターは昔の定食屋さん、半個室はおばあちゃん家をイメージしてるの」
「問題児トリオは大丈夫ですか?」
「えぇ。三人とも、張り切ってるわよ。今に見てろって、ね」
案内された個室は、言われた通り高級料亭のようだった。
「ここだけの話。じつは調度品をね、安価で譲ってもらったのよ。ほら、改装工事で洋室を増やすって話あったでしょう?それで、不要になる調度品をね」
「そうだったんですね。どおりで、懐かしい筈です」
戸塚が微笑んだ。
文人は、この時の戸塚の笑みを見て既視感を覚えた。
何処かで、見たことがある気がする…と。
「お二人とも珈琲になさいます?お仕事のお話があるんでしょう?」
「はい。俺は珈琲でお願いします。田中さんは、」
「あ、私は…」
文人は手渡されたメニュー表を急いで見た。
珈琲は、ミルクと砂糖を多めにもらわないと飲めない。
苦い抹茶も飲めない、甘い飲み物…何か、甘くて印象が悪く無いもの……。
「そう言えば、試作段階のチャイティーがあるんですが、苦手でなければお試しいただけますか?」
「え、あ、はい。チャイは、好きです」
「良かった。ご準備してきますね」
結希乃が立ち去った後、戸塚がニコニコと笑みを浮かべて文人に言った。
「結希乃さん、田中さんが苦い物が苦手だって気づいたんですよ」
「え、あ…」
「以前、取引先の旅館で仲居をされてたんです。先に、資料を拝見しても良いですか?」
「あ、はい」
文人は急に恥ずかしくなった。
正直に伝えれば良かったと、見栄を張ったようで、子供じみていて、資料を手渡しながらも戸塚の顔が見れなかった。
暫くして届けられたカフェオレボウルに淹れられたチャイティーは、甘くて優しい味がした。
「…内容的には悪くはない。ですが、来年度から社内のコンピュータを全てオレンジコンピュータに変更する事にしたんです。御社のシステムはオレンジコンピューターとの相性が悪いと、評判ですよね」
ブラック珈琲を片手に、戸塚が資料を文人に差し戻す。
文人は資料を受け取りながら、佐藤に言われた通りだ…と、戸塚のネクタイに視線を向けた。
緊張して相手の目を見れない時はネクタイの結び目に視線を合わせるといい…なんて学生時代の誰かの言葉を、文人は思い出して実行している。
視線が下がって自信がないように見えたって、ソレは今は問題にならないと言い訳を用意して。
「弊社でも相互性については現在対応中です。来年度までには、ご満足いただけるシステムを納品できます」
「それは、絶対にできるって事かな?」
戸塚の細長い瞳が、文人を捉える。
文人は相変わらず視線を合わせられずに、戸塚のネクタイを凝視していた。
「…はい」
「根拠は?」
今までと違う戸塚の声のトーンに、思わず文人は視線を上げた。
酷く覚めた目が其処にはあった。
蛇に睨まれた蛙のようだと思った。
急に心臓が痛くなって、動悸が激しくなる。
「こ…根拠、は」
頭では不味いとわかっているのに、文人は言葉が出てこない。
明確な根拠など、文人は正解を持ち合わせていない。
佐藤であれば、正解をスラスラと答えられるのだろうと此処にいない同期を思う。
「…はぁ。根拠がなければ、」
戸塚が呆れたように文人から視線を外した。
時間の無駄だ、と言わんばかりのため息に、文人の眉間に皺が寄った。
ため息を吐かれたって知るか。
自分は秘書課の所属なんだぞ、営業職じゃねーんだぞ。
このボンボンクソワガママ野郎が。
ガタンっ、と文人がテーブルに両手を付いた。
戸塚は驚いた顔で文人を見上げる。
「弊社の技術部は!オレンジコンピュータ信者ばかりです!」
「………」
「あ、」
「ふ、ふふふあはははは。それは、頼もしいな」
戸塚の笑い声が響く。
屈託のないその笑みに、文人は再び既視感を覚えた。
記憶の引き出しが、勝手に開きそうな妙な感覚に、残りのチャイティーを一気に流し込んだ。
「一先ず。契約は更新するけれど、システム改修の進捗状況によっては契約破棄させてもらうよ」
「はい」
「あぁ、それから、今後も担当は田中さんでお願いしますね」
「え、あの」
「あとコレ、俺のプライベート番号。田中さんのも教えてくれますよね?」
目が笑っていない笑顔で渡された二枚目の名刺の裏には、綺麗な数字が並んでいた。
応援ありがとうございます!
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