229 / 557
第三章
私の名前はね
その家の中は、歩くと床が軋む。埃が積もっており、蜘蛛の巣もいたるところに張っていた。
その片隅でしゃがみ込んでいたのは――彼女だった。腕の中の熊のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめていた。
特徴的な二つ結びは下ろされていた。長い髪はボサボサのままだ。泣きじゃくっていたのか、目元は腫れたまま。日頃の完璧なそれ、化粧もとれていた。
「あ……」
彼女は顔を上げた。私をじっと見ていた。
「お邪魔します、えっと……」
彼女はリナ・ゼンガーではない。
「……うん、私の名前言っとかないとね。『エマ』。リナ・ゼンガーじゃない。私は養子だから」
「……エマさん」
「……といってもね。これも本当の名前じゃなくて。この子からとっただけだから」
私は彼女が持っているぬいぐるみをみた。足元の刺繍には、確かに『エマ』と刻まれていた。
「……そう、エマ。でもね、あまり呼ばないでほしいな。私は、エマじゃないの」
「えっと……」
「ふふ、困ってる。私、どうしようもない時はここに逃げてくるけど。でも、私は『リナ』なの」
彼女は綺麗に笑っていた。私は彼女がわからなかった。
「エマはね。不気味がられていた。ここに押し込められて生きてきたの――ほら」
「!」
彼女が手をかざすと、積み上げられたところからぬいぐるみ達が出てきた。彼らは意思を持つかのように、こちらへとやってきた。彼女は今度は手を下に下げた。ぬいぐるみ達は、意思を失ったかのように倒れ落ちる。
「これがエマ。生まれつきそうだった……気味が悪いって」
彼女は酷い事、酷い扱いを受けてきたはずだ。それなのに、何も感情がないかのように語る。
「でもね……リナはね、違うの」
でも、リナ・ゼンガーを語る時は違っていた。彼女の瞳は輝いていた。
「リナは生まれた時から、スーパースターだった。愛される容姿、才能。犬も大好きで、泳ぎも得意。なんといっても、その歌声。ゼンガー一族にふさわしいものだって。そんな、誰からも望まれていた子」
一方で、リナのことは恍惚とした表情で語る。そんな晴れやかな表情も曇る。
「……リナはね、死んじゃった。突然の病だった。楽しみにしていた学園の入学前にね。そのタイミングで、私が――」
リナは言いかけて詰まる。一呼吸置いて、また話し始めた。
「……私が、もともと。ゼンガーのおじ様と知り合いだったの。その、ちょっとしたこと。ほんとうに少ししか会ってないんだけど。私を……不憫に思って、なんだと思う」
その時の彼女は虚ろな目をしていた。
「ってなわけ。エマなんて子はいないの。いるのはリナっていう愛されっ子だけ。私は、またリナになるだけ」
虚ろな瞳の少女は、一度目を閉じた。そして、目をゆっくりと開く。
「――てことでぇ! 明日はみんなにもガチ謝りしてきまーす! 放課後にも撮影やるから、あんたも来てよねっ? っていうか、撮影会ってどうかな? みんなとツーショ的な――」
「エマさん」
「……だから、その名で呼ばないでって――」
どこまでもリナであろうとした。私は見ていて心が辛くなっていた。
どこまでも、どこまでも偽ろうとする彼女を――抱きしめていた。
「……ごめんなさい」
「あ……」
私は衝動のままに、彼女を抱きしめたまま。
「あなたがリナさんのままでいたい。それは意味があることだって、私も思うから。止めさせようとか、思ってはいません」
「……」
「でもそうなると、エマさんはどうなっちゃうのかなって。だって、たまに見せてくれた素の顔。それって、エマさんだったんだ」
いくらリナで在ろうとしても。エマは消えたわけではない。私はそう思っていた。
「ずっと、誰かの振りって疲れると思うから。だから、ここに逃げてきたんだって。私はそう思ってます」
「……私は」
彼女の声が震えた。抱えていたぬいぐるみは、隙間から転げ落ちる。
「私、私は……! どれだけ頑張っても、望んでいても、リナが遠くて……! どれだけ思っていても……!」
私に抱きついては、胸元に顔を埋めてきた。
「勝手だけど……疲れる時もあるの。リナでいるべきだって、わかっていても……なんだ」
「はい……」
彼女――エマさんから涙がこぼれ落ちていた。私は彼女の背中を撫でていた。
「私、きっと……あんたの前なら、戻れる。時々でいいから、戻ってもいいかな」
「いつでもいいですよ」
「……ふふ、時々でいいっつってんのに」
エマさんは小さく笑った。それから。
私に体を預けたまま、静かに泣いていた。
あなたにおすすめの小説
せっかく転生したのにモブにすらなれない……はずが溺愛ルートなんて信じられません
嘉月
恋愛
隣国の貴族令嬢である主人公は交換留学生としてやってきた学園でイケメン達と恋に落ちていく。
人気の乙女ゲーム「秘密のエルドラド」のメイン攻略キャラは王立学園の生徒会長にして王弟、氷の殿下こと、クライブ・フォン・ガウンデール。
転生したのはそのゲームの世界なのに……私はモブですらないらしい。
せめて学園の生徒1くらいにはなりたかったけど、どうしようもないので地に足つけてしっかり生きていくつもりです。
少しだけ改題しました。ご迷惑をお掛けしますがよろしくお願いします。
【完結】転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して二年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
偉物騎士様の裏の顔~告白を断ったらムカつく程に執着されたので、徹底的に拒絶した結果~
甘寧
恋愛
「結婚を前提にお付き合いを─」
「全力でお断りします」
主人公であるティナは、園遊会と言う公の場で色気と魅了が服を着ていると言われるユリウスに告白される。
だが、それは罰ゲームで言わされていると言うことを知っているティナは即答で断りを入れた。
…それがよくなかった。プライドを傷けられたユリウスはティナに執着するようになる。そうティナは解釈していたが、ユリウスの本心は違う様で…
一方、ユリウスに関心を持たれたティナの事を面白くないと思う令嬢がいるのも必然。
令嬢達からの嫌がらせと、ユリウスの病的までの執着から逃げる日々だったが……
《完》義弟と継母をいじめ倒したら溺愛ルートに入りました。何故に?
桐生桜月姫
恋愛
公爵令嬢たるクラウディア・ローズバードは自分の前に現れた天敵たる天才な義弟と継母を追い出すために、たくさんのクラウディアの思う最高のいじめを仕掛ける。
だが、義弟は地味にずれているクラウディアの意地悪を糧にしてどんどん賢くなり、継母は陰ながら?クラウディアをものすっごく微笑ましく眺めて溺愛してしまう。
「もう!どうしてなのよ!!」
クラウディアが気がつく頃には外堀が全て埋め尽くされ、大変なことに!?
天然混じりの大人びている?少女と、冷たい天才義弟、そして変わり者な継母の家族の行方はいかに!?
社畜OLが学園系乙女ゲームの世界に転生したらモブでした。
天咲リンネ
恋愛
野々原悠理は高校進学に伴って一人暮らしを始めた。
引越し先のアパートで出会ったのは、見覚えのある男子高校生。
見覚えがあるといっても、それは液晶画面越しの話。
つまり彼は二次元の世界の住人であるはずだった。
ここが前世で遊んでいた学園系乙女ゲームの世界だと知り、愕然とする悠理。
しかし、ヒロインが転入してくるまであと一年ある。
その間、悠理はヒロインの代理を務めようと奮闘するけれど、乙女ゲームの世界はなかなかモブに厳しいようで…?
果たして悠理は無事攻略キャラたちと仲良くなれるのか!?
※たまにシリアスですが、基本は明るいラブコメです。
男女の友人関係は成立する?……無理です。
しゃーりん
恋愛
ローゼマリーには懇意にしている男女の友人がいる。
ローゼマリーと婚約者ロベルト、親友マチルダと婚約者グレッグ。
ある令嬢から、ロベルトとマチルダが二人で一緒にいたと言われても『友人だから』と気に留めなかった。
それでも気にした方がいいと言われたローゼマリーは、母に男女でも友人関係にはなれるよね?と聞いてみたが、母の答えは否定的だった。同性と同じような関係は無理だ、と。
その上、マチルダが親友に相応しくないと母に言われたローゼマリーは腹が立ったが、兄からその理由を説明された。そして父からも20年以上前にあった母の婚約者と友人の裏切りの話を聞くことになるというお話です。
まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?
せいめ
恋愛
政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。
喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。
そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。
その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。
閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。
でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。
家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。
その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。
まずは亡くなったはずの旦那様との話から。
ご都合主義です。
設定は緩いです。
誤字脱字申し訳ありません。
主人公の名前を途中から間違えていました。
アメリアです。すみません。
自称ヒロインに婚約者を……奪われませんでした
影茸
恋愛
平民から突然公爵家の一員、アイリスの妹となったアリミナは異常な程の魅力を持つ少女だった。
若い令息達、それも婚約者がいるものまで彼女を一目見た瞬間恋に落ちる。
そして、とうとう恐ろしい事態が起こってしまう。
……アリミナがアイリスの婚約者である第2王子に目をつけたのだ。