春の女神は知っている。~モフモフと力を合わせて、ヤンデレメリバフラグ回避してみせます!~

古駒フミ

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第三章

私の名前はね



 その家の中は、歩くと床が軋む。埃が積もっており、蜘蛛の巣もいたるところに張っていた。
 その片隅でしゃがみ込んでいたのは――彼女だった。腕の中の熊のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめていた。

 特徴的な二つ結びは下ろされていた。長い髪はボサボサのままだ。泣きじゃくっていたのか、目元は腫れたまま。日頃の完璧なそれ、化粧もとれていた。

「あ……」

 彼女は顔を上げた。私をじっと見ていた。

「お邪魔します、えっと……」

 彼女はリナ・ゼンガーではない。

「……うん、私の名前言っとかないとね。『エマ』。リナ・ゼンガーじゃない。私は養子だから」
「……エマさん」
「……といってもね。これも本当の名前じゃなくて。この子からとっただけだから」

 私は彼女が持っているぬいぐるみをみた。足元の刺繍には、確かに『エマ』と刻まれていた。

「……そう、エマ。でもね、あまり呼ばないでほしいな。私は、エマじゃないの」
「えっと……」
「ふふ、困ってる。私、どうしようもない時はここに逃げてくるけど。でも、私は『リナ』なの」

 彼女は綺麗に笑っていた。私は彼女がわからなかった。

「エマはね。不気味がられていた。ここに押し込められて生きてきたの――ほら」
「!」

 彼女が手をかざすと、積み上げられたところからぬいぐるみ達が出てきた。彼らは意思を持つかのように、こちらへとやってきた。彼女は今度は手を下に下げた。ぬいぐるみ達は、意思を失ったかのように倒れ落ちる。

「これがエマ。生まれつきそうだった……気味が悪いって」

 彼女は酷い事、酷い扱いを受けてきたはずだ。それなのに、何も感情がないかのように語る。

「でもね……リナはね、違うの」

 でも、リナ・ゼンガーを語る時は違っていた。彼女の瞳は輝いていた。

「リナは生まれた時から、スーパースターだった。愛される容姿、才能。犬も大好きで、泳ぎも得意。なんといっても、その歌声。ゼンガー一族にふさわしいものだって。そんな、誰からも望まれていた子」

 一方で、リナのことは恍惚とした表情で語る。そんな晴れやかな表情も曇る。

「……リナはね、死んじゃった。突然の病だった。楽しみにしていた学園の入学前にね。そのタイミングで、私が――」

 リナは言いかけて詰まる。一呼吸置いて、また話し始めた。

「……私が、もともと。ゼンガーのおじ様と知り合いだったの。その、ちょっとしたこと。ほんとうに少ししか会ってないんだけど。私を……不憫に思って、なんだと思う」

 その時の彼女は虚ろな目をしていた。

「ってなわけ。エマなんて子はいないの。いるのはリナっていう愛されっ子だけ。私は、またリナになるだけ」

 虚ろな瞳の少女は、一度目を閉じた。そして、目をゆっくりと開く。

「――てことでぇ! 明日はみんなにもガチ謝りしてきまーす! 放課後にも撮影やるから、あんたも来てよねっ? っていうか、撮影会ってどうかな? みんなとツーショ的な――」
「エマさん」
「……だから、その名で呼ばないでって――」

 どこまでもリナであろうとした。私は見ていて心が辛くなっていた。

 どこまでも、どこまでも偽ろうとする彼女を――抱きしめていた。

「……ごめんなさい」
「あ……」

 私は衝動のままに、彼女を抱きしめたまま。

「あなたがリナさんのままでいたい。それは意味があることだって、私も思うから。止めさせようとか、思ってはいません」
「……」
「でもそうなると、エマさんはどうなっちゃうのかなって。だって、たまに見せてくれた素の顔。それって、エマさんだったんだ」

 いくらリナで在ろうとしても。エマは消えたわけではない。私はそう思っていた。

「ずっと、誰かの振りって疲れると思うから。だから、ここに逃げてきたんだって。私はそう思ってます」
「……私は」

 彼女の声が震えた。抱えていたぬいぐるみは、隙間から転げ落ちる。

「私、私は……! どれだけ頑張っても、望んでいても、リナが遠くて……! どれだけ思っていても……!」

 私に抱きついては、胸元に顔を埋めてきた。

「勝手だけど……疲れる時もあるの。リナでいるべきだって、わかっていても……なんだ」
「はい……」

 彼女――エマさんから涙がこぼれ落ちていた。私は彼女の背中を撫でていた。

「私、きっと……あんたの前なら、戻れる。時々でいいから、戻ってもいいかな」
「いつでもいいですよ」
「……ふふ、時々でいいっつってんのに」

 エマさんは小さく笑った。それから。

 私に体を預けたまま、静かに泣いていた。


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