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ループの真相エピソード②※R描写あり
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(※性的描写あり)
月明かりだけが静かに二人を照らしていた。
ベッドの上、俺は兄さんの横顔を見つめている。いつもと同じ柔らかな表情。
だけど今夜は、目の奥が揺れていた。
少し怯えてるようで、でも――受け入れようとしてくれてる。
「兄さん……」
そっと指を這わせると、彼の肩がぴくりと震える。
触れるたびに、柔らかく吸い込まれそうになる。
その肌も、表情も、声も――全部、俺の理性を奪っていく。
最初は、ただ抱きしめるだけでよかった。
震える身体を温めて、唇をそっと重ねて。
でも、兄さんが俺のキスに応えてくれるたび、奥底の欲がゆっくりと目を覚ましてしまう。
「……ふ、ぁ……っ、レオ……」
その声がたまらなかった。
艶を帯びて、苦しげで、でも確かに俺を呼んでる。
もっと触れたい、もっと愛したい――
その衝動が、静かに、でも確実に暴れていく。
「無理……そんな顔、されたら……止まれなくなる」
シャツのボタンを外すと、滑らかな肌が露になる。
指先でそっと触れれば、びくりと反応するその様に、喉が鳴った。
俺の唇が、喉元から鎖骨へ、滑らかに這い降りる。
まるで形を確かめるみたいに、ゆっくり、やさしく、でも離れられないほど深く。
指先でゆるやかになぞる胸元、敏感に跳ねる身体。
すべてが俺を煽る。
兄さんの反応が、熱が、俺を煽り狂わせる。
「んっ……ぁ、あっ……や……っ、レオ……」
切なげに漏れる声が、耳腔をくすぐる。
俺の手が、脚の奥を撫でると、彼は無意識に腰を浮かせた。
……ダメだ、もう、止められない。
「ねぇ、兄さん……どうしてそんなに俺を惑わせるの……? もう、触れるだけじゃ足りない」
ふるふると首を横に振る仕草も、俺を誘惑するようで。
だから、愛撫はどんどん深くなっていく。
何度も、優しく、何度も、しつこく。
指先でとろける場所を探りながら、
俺の唇は耳元に触れて、熱を流し込むように囁いた。
「兄さんがこんなになるの、俺しか知らないよね……? 他の誰にも、こんな顔、見せないよね……?」
答えなんて要らなかった。
だってもう、彼の身体が、何より雄弁に語っていたから。
「レオ……もう……だめ、あっ、だめぇ……」
声が裏返るたび、俺の愛撫は狂おしいほど滑らかに深まっていく。
与える快楽が、彼の心を溶かしていくのがわかる。
「好きだよ、兄さん。好きすぎて、壊したくなる……」
唇も、指先も、舌も、すべてを使って彼を貪る。
愛して、愛して、愛し尽くすように。
彼の肌は汗ばんで、指に絡むたび、より艶やかに感じられた。
まるで果実みたいに熟れて、もう俺を拒めない。
「……っ、レオ、……やっ、ん、やだぁ……」
「やじゃないよね? だって……俺のこと、好きでしょ?」
耳元でささやくたび、彼の腰が甘く跳ねる。
愛撫だけでどこまでも蕩けていく姿が、可愛すぎて。
――もう、ほんとに、壊してしまいたい。
でもまだ、愛したい。もっと。
「兄さん、好き。誰より、何より、……欲しい」
唇を重ねると、彼は泣きそうに笑って、俺の名前を呼んだ。
「……レオ……だいすき……っ」
その声に応えるように、俺は再び唇を落とした。
甘く、深く、狂おしいほどに。
吐息が絡まり、シーツが乱れていく。
彼の脚の奥に手を滑らせたとき――
ぴくりと跳ねる反応と、甘い吐息。
「ここ……、触れられるの、初めて……?」
尋ねると、兄さんはうつむいたまま、かすかに頷いた。
頬は真っ赤に染まって、全身が羞恥と戸惑いに震えている。
けれど、それでも逃げない。
「……レオなら……いいよ」
その言葉が、胸の奥を焼いた。
愛しさと、征服欲と、何より、彼が俺を“選んでくれた”という実感。
「ありがとう、兄さん……ちゃんと、優しくする。だから、怖がらないで……俺に、全部、任せて?」
そっと指を濡らし、彼の奥をゆっくりと探っていく。
柔らかく、でも初めての痛みを少しでも和らげるように、細心の注意で。
「……っ、あ、っ……ん、レオ……っ」
声が、吐息が、震えて重なる。
背筋を撫でるたび、繊細な身体が甘く反応して、
その指先の律動で、彼は次第に受け入れる形にゆるんでいく。
「……大丈夫。すごく、柔らかくなってきた」
何度も唇を重ね、キスで不安をほどくように――
そして、彼の膝の間に身体を落としたとき、兄さんはぎゅっと俺の手を握り返した。
「……怖い、けど……レオが欲しい……」
その言葉だけで、もう限界だった。
優しさを保つ理性が、心ごと崩れていく。
彼の腰を支え、少しずつ奥へと繋がっていく。
熱と熱が絡まり、息が止まりそうなほどの一体感。
「……あ、っ……ん、レオ……っ、んあぁ……っ!」
「……兄さん……すごい……中、きつくて……あったかい……。全部、包んでくれてる……っ、すごく……気持ちいい……」
くちづけながら、奥へ、深く、さらに深く――
やさしく愛しながらも、求める気持ちは隠せなくて。
腰を揺らすたび、彼の喉が甘く震える。
「んっ、あっ、んぅ……レオ、もう、やだ、変になるっ……!」
「いいよ、変になって。……俺の中で、全部蕩けて、俺に壊されて……俺にしか、感じられない身体になって……」
快楽と愛情の狭間で、彼の身体は波打つように反応し、
目の端に涙をにじませながら、それでも俺を求めてくる。
「っ、レオ、……もっと、きて……っ」
その声に応えて、強く深く、腰を打ちつける。
「兄さん……俺の中で、全部感じて。……離さない。絶対に、ずっと、俺だけのものだから……」
「……うん……レオのもの、だよ……っ」
とろける瞳、熱に浮かされたような表情――
それを見てしまったら、もう何も我慢できない。
体を貫くたびに、繋がりが深まり、心の奥まで満たされていく。
世界にふたりしかいないような、甘く、狂おしい夜だった。
快楽の渦の中で、もう、互いの名前しか呼べない。
「兄さん……兄さん、好き、好きだ、愛してる……っ」
「……ん、レオ……レオ……っ、すき、だいすき……っ」
最後の一突きと共に、ふたりの身体が強く震える。
熱い鼓動、指の絡み、口づけ、快楽の余韻――
そのすべてが、永遠を誓うように重なり合っていた。
……夜が明けても、彼は俺の腕の中から離れない。
柔らかく微笑むその顔を、何度も、何度もキスで確かめた。
「兄さん、これから何度でも愛する。……壊れるまで、何度でも」
彼は言葉もなく、ただ俺の胸に頬をすり寄せた。
――それが何よりの、返事だった。
***
幸せ、とは、こういうことを言うんだろう。
目が覚めてすぐ、腕の中に兄さんがいる。
まだ微かに熱の残る頬を撫でて、くすぐったそうに眉をひそめるのを見るたび、胸が満たされる。
昼は兄さんの笑顔が太陽よりまぶしい。
話す声、笑う声、何気ない仕草すら愛おしくて――
何度も何度も、時間よ止まれと願ってしまう。
夜は、優しく触れて、求められて、すべてが満たされていく。
(ああ、兄さんは、俺のものだ)
誰にも渡さない。
もう、どこにも行かせない。
世界がどう変わっても、俺はこの手を離さない。
……こんなにも幸せなんだ。
この日々を壊すものがあるとすれば、それは――
「兄さんが、俺以外を見てしまうことだけ」
でも、大丈夫。
兄さんは、ちゃんと俺を見てくれるから。
――ね?
でも、あの夜――。
兄さんの寝室の扉が、ガチャリと冷たい音を立てて開いた。
そこにいたのは、リュシアン。
――俺の兄で、俺の恋人だったはずの人。
けれど、その目は――氷のように冷たく、俺のことなど見ていなかった。
「兄さん……おかえり」
笑おうとした声が、少し震えていた。
リュシアンは足を止め、怪訝そうに俺を見る。
その目には――あの夜、俺に抱かれた熱がまるで宿っていない。
「……ただいま、レオ。どうして、俺の部屋に勝手に入っているんだ?」
その声は、よそよそしく、どこか他人行儀だった。
「……え? どうしてって……、兄さんと少し、話がしたくて――」
思わず伸ばした手を、リュシアンは一歩引いて避けた。
「っ、やめろ......! なんの真似だ。お前、少しおかしいんじゃないのか?」
胸の奥に、稲妻が落ちたようだった。
言葉よりも、怯えたようなその目が、何よりも残酷だった。
「……兄さん?」
絞り出すような声。
けれどリュシアンは、また一歩、俺から距離を取った。
「……おーい、リュシアン」
聞き慣れた声。ジークが廊下から顔を覗かせる。
「訓練所付き合ってくれよ」
「ジーク。……うん、今いくよ」
その声は、俺が好きになった兄さんの声だった。
なのに、その笑顔は――俺に向けられたものじゃない。
「……? 何かあったのか?」
ジークが俺に視線を向ける。
「……いや、なんか変なんだ、あいつ」
「……ふーん? おまえらが喧嘩なんて珍しいな。まっ、ほどほどにしとけよ?」
軽く流して、ジークはリュシアンと並んで歩いていく。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
(兄さんに……嫌われた……?)
なんで、どうして。
触れようとしたら、あんなふうに避けるなんて。
昨夜、俺の名前を甘く何度も呼んだくせに。
あんなに優しく、抱きしめてくれたくせに。
(……怒らせてしまった?)
愛を強く求めすぎて、怖がらせた?
重かった? 必死すぎた……?
自分の指先が震えているのがわかる。
まるで血が通っていないように、冷たくて、怖い。
「……兄さん」
呟いても、その姿はもう見えない。
心にぽっかりと、穴が空いた。
まるで、最初からそこに何もなかったかのように。
愛も、温もりも――全部、夢だったみたいに。
夜。
眠れなかった。
やり場のない想いを抱えたまま、気がつけば――兄さんの寝室の前に立っていた。
手が、勝手に扉に触れていた。
軋むこともなく静かに開いた扉の向こう。
部屋には、安らかな寝息だけが満ちていた。
カーテン越しの月明かりが、淡くゆれる。
その影のなかに、兄さんの姿があった。
(……変わってない)
穏やかな寝顔。
ほんの少し眉間に皺を寄せているところも、寝癖のついた髪も――
少し前と同じ、優しかった“兄さん”が、そこにいた。
……だけど。
(昼間の、あの目が……)
焼き付いて、離れない。
あの声で、また俺を突き放すんじゃないか。
もう二度と、触れてはいけないんじゃないか。
――それでも。
「……兄さん……」
声が震える。
ゆっくりと、リュシアンの睫毛が持ち上がる。
半分眠たげな瞳が、月に照らされて揺れた。
「……レオ? どうしたの……?」
その声は、甘くて、柔らかくて――
俺の、知ってる兄さんだった。
たまらなくなって、思わずベッドの縁にすがりついた。
「兄さん……俺のこと、捨てないで……」
震える声。胸の奥にせき止めていたものが、堰を切ったようにあふれ出した。
リュシアンは、戸惑いつつも、俺の背をそっと撫でる。
「……えっ、レオ……? どうしたんだよ……。俺が君を捨てたりするわけ、ないだろ……?」
優しい手。優しい声。
まるで何も変わっていないみたいに、俺を包んでくれる。
その優しさに、余計に胸が痛んだ。
「……ほんとうに?……俺、兄さんの傍にいてもいいの……?」
声が震える。
ほんのわずかな時間だったのに、氷の中にひとり閉じ込められたみたいに、苦しかった。
「……当たり前じゃないか。ずっと一緒にいるよ」
静かに落ちたその声が、胸の奥にじんわりと沁みた。
涙で滲んだ視界で、顔を見上げる。
そこにあるのは、たしかに俺を抱きしめてくれた、優しい“兄さん”だった。
「……レオ、大丈夫だから。今夜はもう、眠ろう?」
そう言って、そっと俺の手を取ってくれる。
そのぬくもりに触れた瞬間、また涙が溢れた。
「……うん」
その夜は、ただ抱きしめ合って眠った。
何も怖くないと思えるほど、あたたかな夜だった。
――それなのに。
あんなにもやさしく抱いてくれたこの手が、
翌日、何の前触れもなく――また、俺を拒んだ。
「……兄さん?」
振り向いたその顔は、あの夜の人ではなかった。
「……なに?」
その目に、昨夜の記憶は一片もなかった。
(……また、変わってる)
夢じゃなかった。あの夜、ちゃんと手を取ってくれたのに。
こんなにも、俺を――愛してくれたのに。
「兄さん、昨日……俺の事、抱きしめてくれたよね……?」
「……知らない。何のことだ?」
「……っ、俺のこと……もう好きじゃなくなった?」
言ってから、自分の声の弱さが恥ずかしかった。
「……何を言ってるんだ。お前は……弟だろ?」
“弟”。
その言葉が、ナイフよりも鋭く胸に刺さる。
もうだめだ。
もう、壊れてしまいそうだ。
あの夜、あんなに優しかったくせに。
あの手で抱きしめてくれたくせに――
なぜ今、俺を見る目は、こんなにも遠いんだ。
リュシアンは訝しげに眉をひそめながら足早に立ち去った。
「……ひどいよ、兄さん……」
背中に向けて呟いた言葉は、届かない。
あとに残された部屋で、俺はただ、立ち尽くすしかなかった。
指先が震えていた。
冷たい空気の中に、温もりだけが、置いていかれていた。
息が詰まりそうだった。
もう何日、あの人の笑顔を見ていないんだろう。
何度名前を呼んでも、俺を見るその瞳には、“俺”がいなかった。
触れようとするたび、振り払われた手。
「やめろ」と吐き捨てられた言葉。
なのに、夜だけ。
あの部屋でだけ、優しく笑ってくれる“兄さん”が、まだそこにいるような気がして。
……だけど、それは一夜限りの夢。
朝にはまた、何もかもを忘れてしまう。
だったら、いっそ――
その夜、俺はナイフを隠して部屋に入った。
「レオ?」
声が優しい。懐かしくて、泣きたくなる。
目が合った。やっぱり今夜の兄さんは、“俺の知ってる”兄さん……みたいだった。
いや、そうであってほしかっただけかもしれない。
「兄さん……俺のこと、覚えてる?」
「……レオ? 当たり前だよ。そんな顔して……どうしたの?」
そう言って、そっと手を伸ばしてくれる。
俺の髪に触れるその手が、あまりにも優しくて、心臓がひりつく。
兄さんの笑顔が近くて。
ぬくもりに包まれて。
ああ、なんて幸せなんだろう――そう思いながら、俺はその背を、ぎゅっと抱きしめてキスをした。
ずっと、こうしていたかった。
この時間が永遠に続けばいいって、本気で願った。
だから。
――怖かった。
また、明日にはいなくなるのが。
また、突き放されるのが。
また、どうせ明日には“知らない顔”をするんでしょう……?
もう、耐えられなかった。
「兄さん……愛してる」
俺がそう言うと、少しだけ驚いた顔をした後、兄さんは静かに微笑んだ。
「……うん。俺も、愛してるよ」
その言葉で、決意が固まった。
こんなに、優しくしないで。
忘れてしまうくらいなら……
失ってしまうくらいなら……
もういっそ、この手で――
「……兄さん」
そっと耳元に口を寄せて、囁いた。
「俺と一緒に死んで……?」
「……え――?」
次の瞬間。
刃が、兄さんの胸に沈んでいた。
ぬるりとした感触が、掌に伝わってくる。
目の前で、兄さんの顔が驚きに歪んでいく。
声にならない叫びを飲み込んで、唇をわななかせながら、崩れる身体を抱きしめた。
その目が、俺を見ていた。
血に濡れた唇が、かすかに動く。
「……レ、オ……どうして……?」
その目が、“ただの兄さん”のものだったと気づいたのは――その時だった。
「っ……やだ、嘘だよ、……こんなの……!」
(ああ……なんで、今になって……!)
「……っ、やだよ、兄さん……行かないで……置いていかないで……っ」
俺が刺したのは、“本当に戻っていた”兄さんだったんだ。
なんで、今、戻ってきたの。
どうして、そんな優しい顔をするの。
だったら――もっと早く戻ってきてよ……!
俺は――
俺は――……!!
ナイフを抜く。
兄さんの身体が、ぐったりと沈んだ。
赤が、広がっていく。
血の温もりだけが、まだ生きていた証のようで――
俺はその身体を、壊れ物のように抱きしめた。
「にい、さん……?」
名を呼んでも、もう返事は返ってこない。
触れても、笑ってくれない。撫でても、もう……。
肩を揺らしても、体温は逃げていくばかり。
涙が、止まらない。声が、詰まる。
兄さんの胸にすがりついて、何度も何度も「ごめん」と呟いた。
けれど、もうその言葉が届く場所は、どこにもない。
世界が、色を失っていく。
音も匂いも感触も、兄さんを失った瞬間に、すべてが死んでしまったようだった。
ただ、血のにおいだけが、やけに鮮明で。
俺の手も、服も、兄さんも、ぐしゃぐしゃに染まっていた。
俺のせいで、全部終わった。
だったら――俺も、ここで終わらなきゃいけない。
兄さんのいない世界で、生きていく理由なんか、もうどこにもないから。
ナイフを握り直し、
切っ先を自分に向けた、その瞬間――
世界が、ひっくり返った。
真っ白く塗りつぶされた世界。頭の奥で、耳鳴りのようなキーンという音が、途切れなく響いている。
眩しさに目を細め、もう一度あたりを見渡すと、そこは――見覚えのある場所だった。
高い天井、石造りの柱、整然と並ぶ騎士たち。
ここは、俺と兄さんが三年間を過ごしたこの城の、謁見の間だった。
(なんで……?)
さっきまで、確かに血の中にいた。
震える手でナイフを握っていたはずだったのに。
どく、どくと心臓が煩く鳴っている。
正面の扉が、音を立てて開いた。
衛兵が敬礼するその隙間から、三人の人影が現れた。
美しい衣装を纏った、この国の王子たち。
――そしてその中央にいたのは、
(……嘘だ)
俺の呼吸が止まりかける。
三年前のリュシアンだった。
あの瞳。あの立ち姿。
……見間違えるはずがない。
何度も夢に見て、何度も触れて、何度も泣いて失った、“俺の兄さん”が、そこにいた。
変わらぬ栗色の髪が肩で揺れ、ゆっくりとこちらに視線を向ける。
目が合った。
瞬間、俺の中で何かが崩れた。
震えが止まらなくなった。
わかってた。俺が何をしたか。
あんなにも好きだったのに、俺は――
「う、ぁ……っ、ぅあ……」
嗚咽が、堰を切ったように溢れた。
情けないほど、声が震えて、立っていられなくなりそうだった。
父が、兄たちが、驚いてこちらを振り向いている。
侍従が何事かと動き出す。
でも、誰よりも先に――
兄さんが、俺の前に来てくれた。
何も言わず、ただ真っ直ぐに歩いてきて、
泣き崩れる俺の肩を、そっと抱きしめてくれた。
「……大丈夫だよ、レオ」
耳元で優しく囁かれる声。
いつか夢の中で聞いたような、あの夜の声。
温かくて、懐かしくて、恋しくて。
――泣きながら、何度も謝った相手が、今ここにいる。
(ほんとうに……兄さんなの?)
でも、腕の感触が答えてくれる。
これは夢なんかじゃない。
俺はもう、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。
だけど――
それでも、兄さんは俺を赦してくれた。
何も問わず、何も責めず、
ただ“弟”として、抱きしめてくれた。
「兄さん……兄さん……!」
泣きながら、その胸に顔を押しつけて、
俺は、やっと赦されたような気がした。
これはきっと、神様が俺にくれた贈り物なのかもしれない。
そう、思った。
一度は全てを失った俺に、やり直す機会をくれたのだと――。
だって、兄さんはあの時と同じ瞳で、俺を見て、笑ってくれたから。
何もかも知っているように、優しくて、あたたかくて、
俺が縋れば抱きしめてくれて、呼べば返事をくれて。
「レオ」
その声が、俺の全てだった。
兄さんが傍にいてくれたら、もう何も要らない。
王位も、誉れも、未来さえも。
ただ、ただ――兄さんさえいてくれたら、それでよかった。
深く、深く愛し合った。
何度も唇を重ね、名を呼び合い、
この腕の中に兄さんがいてくれる幸せに、
俺は、何度も神に感謝した。
この時間が永遠に続けばいいと、
もう二度と“壊れない”と、
俺は、信じたかったんだ。
でも――
やはりまた、兄さんは『壊れて』しまう。
朝起きて隣を見たら、そこにいるのは、
冷たい目をした、知らない“兄さん”だった。
「レオ……お前、最近、変じゃないか?」
そう言って、触れようとする俺の手を、
まるで汚らわしいものでも見るように、避ける。
「……兄さん、俺だよ……?」
必死で訴えても、兄さんの目は、俺を映していない。
まるで、なにもなかったかのように。
昨日の夜、あんなに熱を分け合ったというのに。
どうして……?
なにがいけなかった……?
また俺は、間違えたのか……?
胸の奥が、焼けるように痛む。
俺がどれだけ、兄さんを愛していたか。
どれだけの夜を、涙で濡らしていたか。
誰にも、わかってなんか……っ!
そして俺は――
また、兄さんを……手に掛けた。
あの時と同じ、優しい目をしてた。
「どうしたの……?」って、俺を心配してくれて。
何も知らずに、笑って、俺に近づいてくれた兄さんだったのに――
隠していたナイフが、胸に吸い込まれる感触。
「……レオ……?」
名前を呼ばれた気がして、
俺は泣きながらその体を抱きしめた。
どうして、こんなに愛しているのに、
どうして、こんなに求めているのに。
ねえ、兄さん――
いっそ、ずっと“壊れたまま”でいてくれたら、
俺は、こんなに苦しまなかったのに。
どうせまた、壊れるなら。
どうせまた、俺を忘れてしまうなら。
その前に――
壊してしまいたかったんだよ。
俺だけの兄さんにしたかったんだ。
世界は、何度でも繰り返す。
気づけば、また俺は――15歳の姿で、謁見の間に立っていた。
胸に残るのは、焼き付くような後悔と、愛と、絶望。
どうしたら“俺の兄さん”を失わずに済むのか。
どうすれば、壊れてしまう運命を変えられるのか。
考え得る限りの手段に、俺は手を尽くしてきた。
あらゆる選択を試した。
俺の存在を控えめにしてみたこともあったし、逆に愛を注ぎ続けたこともある。
怒らせないようにした。守るようにした。
何もかも、すべて、兄さんのためだった。
……それでも、変わらなかった。
必ず、ある時を境に、兄さんは“壊れる”。
温かく、優しく、愛をくれた兄さんが、
まるで知らない誰かみたいに、俺を見ない。
触れようとした手を、拒絶するように振り払われたあの瞬間。
俺の名前を呼ばない。
俺のことを――“ただの弟”としか、認識していない瞳。
(なんで……? どうして……?)
わからなかった。
理解なんて、できるわけがなかった。
そうして俺は、
兄さんが俺に冷たくなるたびに、
“それ以外の方法”を選べなくなっていった。
……兄さんを――殺した。
何度も。
何度も、何度も、何度も。
そのたびに、兄さんは驚いたように目を見開いて、怯えたように俺を見つめた。
「どうして……?」
そう訴えるような目で。
俺は……それに、答えることができなかった。
できるわけがない。
だって、俺にとって兄さんは、
失いたくない、ただひとりだったのだから。
壊れる前に戻ってくれるのなら、それでよかった。
それだけでよかったのに……。
――でも、たまに。ほんの少しだけ。
兄さんの目が、違うときがある。
驚きでも怯えでもなく、俺の狂気すら、まるごと抱きしめるような、そんな瞳。
哀しくて、優しくて、痛いほどに温かい――
“あの頃の兄さん”のまなざし。
そのときだけは、俺も泣いてしまう。
何度目かの再会だったとしても、
何百回目の殺害のあとだったとしても、
そのまなざしに、俺はどうしようもなく惹き寄せられてしまう。
それでも、
また、壊れる。
何をしても、変わらない。
……けど、諦めるつもりなんて、なかった。
俺はまた、世界のはじまりに戻っていた。
「……レオといいます。よろしくお願いします……」
いつものように、声をかける。
それだけの、はずだった。
けれど――今回は違った。
兄さんが、言葉を失ったように俺を見つめ、
怯えたように目を見開いたあと、
確かな“決意”を宿した眼差しで、まっすぐ俺を見返してきた。
「……よろしくね、レオ」
そう微笑んだ兄さんに、俺は確信した。
物語が、今ようやく“別の道”へ進みはじめた。
これは、終わりじゃない。
やっと、始まりに手が届いたんだ。
月明かりだけが静かに二人を照らしていた。
ベッドの上、俺は兄さんの横顔を見つめている。いつもと同じ柔らかな表情。
だけど今夜は、目の奥が揺れていた。
少し怯えてるようで、でも――受け入れようとしてくれてる。
「兄さん……」
そっと指を這わせると、彼の肩がぴくりと震える。
触れるたびに、柔らかく吸い込まれそうになる。
その肌も、表情も、声も――全部、俺の理性を奪っていく。
最初は、ただ抱きしめるだけでよかった。
震える身体を温めて、唇をそっと重ねて。
でも、兄さんが俺のキスに応えてくれるたび、奥底の欲がゆっくりと目を覚ましてしまう。
「……ふ、ぁ……っ、レオ……」
その声がたまらなかった。
艶を帯びて、苦しげで、でも確かに俺を呼んでる。
もっと触れたい、もっと愛したい――
その衝動が、静かに、でも確実に暴れていく。
「無理……そんな顔、されたら……止まれなくなる」
シャツのボタンを外すと、滑らかな肌が露になる。
指先でそっと触れれば、びくりと反応するその様に、喉が鳴った。
俺の唇が、喉元から鎖骨へ、滑らかに這い降りる。
まるで形を確かめるみたいに、ゆっくり、やさしく、でも離れられないほど深く。
指先でゆるやかになぞる胸元、敏感に跳ねる身体。
すべてが俺を煽る。
兄さんの反応が、熱が、俺を煽り狂わせる。
「んっ……ぁ、あっ……や……っ、レオ……」
切なげに漏れる声が、耳腔をくすぐる。
俺の手が、脚の奥を撫でると、彼は無意識に腰を浮かせた。
……ダメだ、もう、止められない。
「ねぇ、兄さん……どうしてそんなに俺を惑わせるの……? もう、触れるだけじゃ足りない」
ふるふると首を横に振る仕草も、俺を誘惑するようで。
だから、愛撫はどんどん深くなっていく。
何度も、優しく、何度も、しつこく。
指先でとろける場所を探りながら、
俺の唇は耳元に触れて、熱を流し込むように囁いた。
「兄さんがこんなになるの、俺しか知らないよね……? 他の誰にも、こんな顔、見せないよね……?」
答えなんて要らなかった。
だってもう、彼の身体が、何より雄弁に語っていたから。
「レオ……もう……だめ、あっ、だめぇ……」
声が裏返るたび、俺の愛撫は狂おしいほど滑らかに深まっていく。
与える快楽が、彼の心を溶かしていくのがわかる。
「好きだよ、兄さん。好きすぎて、壊したくなる……」
唇も、指先も、舌も、すべてを使って彼を貪る。
愛して、愛して、愛し尽くすように。
彼の肌は汗ばんで、指に絡むたび、より艶やかに感じられた。
まるで果実みたいに熟れて、もう俺を拒めない。
「……っ、レオ、……やっ、ん、やだぁ……」
「やじゃないよね? だって……俺のこと、好きでしょ?」
耳元でささやくたび、彼の腰が甘く跳ねる。
愛撫だけでどこまでも蕩けていく姿が、可愛すぎて。
――もう、ほんとに、壊してしまいたい。
でもまだ、愛したい。もっと。
「兄さん、好き。誰より、何より、……欲しい」
唇を重ねると、彼は泣きそうに笑って、俺の名前を呼んだ。
「……レオ……だいすき……っ」
その声に応えるように、俺は再び唇を落とした。
甘く、深く、狂おしいほどに。
吐息が絡まり、シーツが乱れていく。
彼の脚の奥に手を滑らせたとき――
ぴくりと跳ねる反応と、甘い吐息。
「ここ……、触れられるの、初めて……?」
尋ねると、兄さんはうつむいたまま、かすかに頷いた。
頬は真っ赤に染まって、全身が羞恥と戸惑いに震えている。
けれど、それでも逃げない。
「……レオなら……いいよ」
その言葉が、胸の奥を焼いた。
愛しさと、征服欲と、何より、彼が俺を“選んでくれた”という実感。
「ありがとう、兄さん……ちゃんと、優しくする。だから、怖がらないで……俺に、全部、任せて?」
そっと指を濡らし、彼の奥をゆっくりと探っていく。
柔らかく、でも初めての痛みを少しでも和らげるように、細心の注意で。
「……っ、あ、っ……ん、レオ……っ」
声が、吐息が、震えて重なる。
背筋を撫でるたび、繊細な身体が甘く反応して、
その指先の律動で、彼は次第に受け入れる形にゆるんでいく。
「……大丈夫。すごく、柔らかくなってきた」
何度も唇を重ね、キスで不安をほどくように――
そして、彼の膝の間に身体を落としたとき、兄さんはぎゅっと俺の手を握り返した。
「……怖い、けど……レオが欲しい……」
その言葉だけで、もう限界だった。
優しさを保つ理性が、心ごと崩れていく。
彼の腰を支え、少しずつ奥へと繋がっていく。
熱と熱が絡まり、息が止まりそうなほどの一体感。
「……あ、っ……ん、レオ……っ、んあぁ……っ!」
「……兄さん……すごい……中、きつくて……あったかい……。全部、包んでくれてる……っ、すごく……気持ちいい……」
くちづけながら、奥へ、深く、さらに深く――
やさしく愛しながらも、求める気持ちは隠せなくて。
腰を揺らすたび、彼の喉が甘く震える。
「んっ、あっ、んぅ……レオ、もう、やだ、変になるっ……!」
「いいよ、変になって。……俺の中で、全部蕩けて、俺に壊されて……俺にしか、感じられない身体になって……」
快楽と愛情の狭間で、彼の身体は波打つように反応し、
目の端に涙をにじませながら、それでも俺を求めてくる。
「っ、レオ、……もっと、きて……っ」
その声に応えて、強く深く、腰を打ちつける。
「兄さん……俺の中で、全部感じて。……離さない。絶対に、ずっと、俺だけのものだから……」
「……うん……レオのもの、だよ……っ」
とろける瞳、熱に浮かされたような表情――
それを見てしまったら、もう何も我慢できない。
体を貫くたびに、繋がりが深まり、心の奥まで満たされていく。
世界にふたりしかいないような、甘く、狂おしい夜だった。
快楽の渦の中で、もう、互いの名前しか呼べない。
「兄さん……兄さん、好き、好きだ、愛してる……っ」
「……ん、レオ……レオ……っ、すき、だいすき……っ」
最後の一突きと共に、ふたりの身体が強く震える。
熱い鼓動、指の絡み、口づけ、快楽の余韻――
そのすべてが、永遠を誓うように重なり合っていた。
……夜が明けても、彼は俺の腕の中から離れない。
柔らかく微笑むその顔を、何度も、何度もキスで確かめた。
「兄さん、これから何度でも愛する。……壊れるまで、何度でも」
彼は言葉もなく、ただ俺の胸に頬をすり寄せた。
――それが何よりの、返事だった。
***
幸せ、とは、こういうことを言うんだろう。
目が覚めてすぐ、腕の中に兄さんがいる。
まだ微かに熱の残る頬を撫でて、くすぐったそうに眉をひそめるのを見るたび、胸が満たされる。
昼は兄さんの笑顔が太陽よりまぶしい。
話す声、笑う声、何気ない仕草すら愛おしくて――
何度も何度も、時間よ止まれと願ってしまう。
夜は、優しく触れて、求められて、すべてが満たされていく。
(ああ、兄さんは、俺のものだ)
誰にも渡さない。
もう、どこにも行かせない。
世界がどう変わっても、俺はこの手を離さない。
……こんなにも幸せなんだ。
この日々を壊すものがあるとすれば、それは――
「兄さんが、俺以外を見てしまうことだけ」
でも、大丈夫。
兄さんは、ちゃんと俺を見てくれるから。
――ね?
でも、あの夜――。
兄さんの寝室の扉が、ガチャリと冷たい音を立てて開いた。
そこにいたのは、リュシアン。
――俺の兄で、俺の恋人だったはずの人。
けれど、その目は――氷のように冷たく、俺のことなど見ていなかった。
「兄さん……おかえり」
笑おうとした声が、少し震えていた。
リュシアンは足を止め、怪訝そうに俺を見る。
その目には――あの夜、俺に抱かれた熱がまるで宿っていない。
「……ただいま、レオ。どうして、俺の部屋に勝手に入っているんだ?」
その声は、よそよそしく、どこか他人行儀だった。
「……え? どうしてって……、兄さんと少し、話がしたくて――」
思わず伸ばした手を、リュシアンは一歩引いて避けた。
「っ、やめろ......! なんの真似だ。お前、少しおかしいんじゃないのか?」
胸の奥に、稲妻が落ちたようだった。
言葉よりも、怯えたようなその目が、何よりも残酷だった。
「……兄さん?」
絞り出すような声。
けれどリュシアンは、また一歩、俺から距離を取った。
「……おーい、リュシアン」
聞き慣れた声。ジークが廊下から顔を覗かせる。
「訓練所付き合ってくれよ」
「ジーク。……うん、今いくよ」
その声は、俺が好きになった兄さんの声だった。
なのに、その笑顔は――俺に向けられたものじゃない。
「……? 何かあったのか?」
ジークが俺に視線を向ける。
「……いや、なんか変なんだ、あいつ」
「……ふーん? おまえらが喧嘩なんて珍しいな。まっ、ほどほどにしとけよ?」
軽く流して、ジークはリュシアンと並んで歩いていく。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
(兄さんに……嫌われた……?)
なんで、どうして。
触れようとしたら、あんなふうに避けるなんて。
昨夜、俺の名前を甘く何度も呼んだくせに。
あんなに優しく、抱きしめてくれたくせに。
(……怒らせてしまった?)
愛を強く求めすぎて、怖がらせた?
重かった? 必死すぎた……?
自分の指先が震えているのがわかる。
まるで血が通っていないように、冷たくて、怖い。
「……兄さん」
呟いても、その姿はもう見えない。
心にぽっかりと、穴が空いた。
まるで、最初からそこに何もなかったかのように。
愛も、温もりも――全部、夢だったみたいに。
夜。
眠れなかった。
やり場のない想いを抱えたまま、気がつけば――兄さんの寝室の前に立っていた。
手が、勝手に扉に触れていた。
軋むこともなく静かに開いた扉の向こう。
部屋には、安らかな寝息だけが満ちていた。
カーテン越しの月明かりが、淡くゆれる。
その影のなかに、兄さんの姿があった。
(……変わってない)
穏やかな寝顔。
ほんの少し眉間に皺を寄せているところも、寝癖のついた髪も――
少し前と同じ、優しかった“兄さん”が、そこにいた。
……だけど。
(昼間の、あの目が……)
焼き付いて、離れない。
あの声で、また俺を突き放すんじゃないか。
もう二度と、触れてはいけないんじゃないか。
――それでも。
「……兄さん……」
声が震える。
ゆっくりと、リュシアンの睫毛が持ち上がる。
半分眠たげな瞳が、月に照らされて揺れた。
「……レオ? どうしたの……?」
その声は、甘くて、柔らかくて――
俺の、知ってる兄さんだった。
たまらなくなって、思わずベッドの縁にすがりついた。
「兄さん……俺のこと、捨てないで……」
震える声。胸の奥にせき止めていたものが、堰を切ったようにあふれ出した。
リュシアンは、戸惑いつつも、俺の背をそっと撫でる。
「……えっ、レオ……? どうしたんだよ……。俺が君を捨てたりするわけ、ないだろ……?」
優しい手。優しい声。
まるで何も変わっていないみたいに、俺を包んでくれる。
その優しさに、余計に胸が痛んだ。
「……ほんとうに?……俺、兄さんの傍にいてもいいの……?」
声が震える。
ほんのわずかな時間だったのに、氷の中にひとり閉じ込められたみたいに、苦しかった。
「……当たり前じゃないか。ずっと一緒にいるよ」
静かに落ちたその声が、胸の奥にじんわりと沁みた。
涙で滲んだ視界で、顔を見上げる。
そこにあるのは、たしかに俺を抱きしめてくれた、優しい“兄さん”だった。
「……レオ、大丈夫だから。今夜はもう、眠ろう?」
そう言って、そっと俺の手を取ってくれる。
そのぬくもりに触れた瞬間、また涙が溢れた。
「……うん」
その夜は、ただ抱きしめ合って眠った。
何も怖くないと思えるほど、あたたかな夜だった。
――それなのに。
あんなにもやさしく抱いてくれたこの手が、
翌日、何の前触れもなく――また、俺を拒んだ。
「……兄さん?」
振り向いたその顔は、あの夜の人ではなかった。
「……なに?」
その目に、昨夜の記憶は一片もなかった。
(……また、変わってる)
夢じゃなかった。あの夜、ちゃんと手を取ってくれたのに。
こんなにも、俺を――愛してくれたのに。
「兄さん、昨日……俺の事、抱きしめてくれたよね……?」
「……知らない。何のことだ?」
「……っ、俺のこと……もう好きじゃなくなった?」
言ってから、自分の声の弱さが恥ずかしかった。
「……何を言ってるんだ。お前は……弟だろ?」
“弟”。
その言葉が、ナイフよりも鋭く胸に刺さる。
もうだめだ。
もう、壊れてしまいそうだ。
あの夜、あんなに優しかったくせに。
あの手で抱きしめてくれたくせに――
なぜ今、俺を見る目は、こんなにも遠いんだ。
リュシアンは訝しげに眉をひそめながら足早に立ち去った。
「……ひどいよ、兄さん……」
背中に向けて呟いた言葉は、届かない。
あとに残された部屋で、俺はただ、立ち尽くすしかなかった。
指先が震えていた。
冷たい空気の中に、温もりだけが、置いていかれていた。
息が詰まりそうだった。
もう何日、あの人の笑顔を見ていないんだろう。
何度名前を呼んでも、俺を見るその瞳には、“俺”がいなかった。
触れようとするたび、振り払われた手。
「やめろ」と吐き捨てられた言葉。
なのに、夜だけ。
あの部屋でだけ、優しく笑ってくれる“兄さん”が、まだそこにいるような気がして。
……だけど、それは一夜限りの夢。
朝にはまた、何もかもを忘れてしまう。
だったら、いっそ――
その夜、俺はナイフを隠して部屋に入った。
「レオ?」
声が優しい。懐かしくて、泣きたくなる。
目が合った。やっぱり今夜の兄さんは、“俺の知ってる”兄さん……みたいだった。
いや、そうであってほしかっただけかもしれない。
「兄さん……俺のこと、覚えてる?」
「……レオ? 当たり前だよ。そんな顔して……どうしたの?」
そう言って、そっと手を伸ばしてくれる。
俺の髪に触れるその手が、あまりにも優しくて、心臓がひりつく。
兄さんの笑顔が近くて。
ぬくもりに包まれて。
ああ、なんて幸せなんだろう――そう思いながら、俺はその背を、ぎゅっと抱きしめてキスをした。
ずっと、こうしていたかった。
この時間が永遠に続けばいいって、本気で願った。
だから。
――怖かった。
また、明日にはいなくなるのが。
また、突き放されるのが。
また、どうせ明日には“知らない顔”をするんでしょう……?
もう、耐えられなかった。
「兄さん……愛してる」
俺がそう言うと、少しだけ驚いた顔をした後、兄さんは静かに微笑んだ。
「……うん。俺も、愛してるよ」
その言葉で、決意が固まった。
こんなに、優しくしないで。
忘れてしまうくらいなら……
失ってしまうくらいなら……
もういっそ、この手で――
「……兄さん」
そっと耳元に口を寄せて、囁いた。
「俺と一緒に死んで……?」
「……え――?」
次の瞬間。
刃が、兄さんの胸に沈んでいた。
ぬるりとした感触が、掌に伝わってくる。
目の前で、兄さんの顔が驚きに歪んでいく。
声にならない叫びを飲み込んで、唇をわななかせながら、崩れる身体を抱きしめた。
その目が、俺を見ていた。
血に濡れた唇が、かすかに動く。
「……レ、オ……どうして……?」
その目が、“ただの兄さん”のものだったと気づいたのは――その時だった。
「っ……やだ、嘘だよ、……こんなの……!」
(ああ……なんで、今になって……!)
「……っ、やだよ、兄さん……行かないで……置いていかないで……っ」
俺が刺したのは、“本当に戻っていた”兄さんだったんだ。
なんで、今、戻ってきたの。
どうして、そんな優しい顔をするの。
だったら――もっと早く戻ってきてよ……!
俺は――
俺は――……!!
ナイフを抜く。
兄さんの身体が、ぐったりと沈んだ。
赤が、広がっていく。
血の温もりだけが、まだ生きていた証のようで――
俺はその身体を、壊れ物のように抱きしめた。
「にい、さん……?」
名を呼んでも、もう返事は返ってこない。
触れても、笑ってくれない。撫でても、もう……。
肩を揺らしても、体温は逃げていくばかり。
涙が、止まらない。声が、詰まる。
兄さんの胸にすがりついて、何度も何度も「ごめん」と呟いた。
けれど、もうその言葉が届く場所は、どこにもない。
世界が、色を失っていく。
音も匂いも感触も、兄さんを失った瞬間に、すべてが死んでしまったようだった。
ただ、血のにおいだけが、やけに鮮明で。
俺の手も、服も、兄さんも、ぐしゃぐしゃに染まっていた。
俺のせいで、全部終わった。
だったら――俺も、ここで終わらなきゃいけない。
兄さんのいない世界で、生きていく理由なんか、もうどこにもないから。
ナイフを握り直し、
切っ先を自分に向けた、その瞬間――
世界が、ひっくり返った。
真っ白く塗りつぶされた世界。頭の奥で、耳鳴りのようなキーンという音が、途切れなく響いている。
眩しさに目を細め、もう一度あたりを見渡すと、そこは――見覚えのある場所だった。
高い天井、石造りの柱、整然と並ぶ騎士たち。
ここは、俺と兄さんが三年間を過ごしたこの城の、謁見の間だった。
(なんで……?)
さっきまで、確かに血の中にいた。
震える手でナイフを握っていたはずだったのに。
どく、どくと心臓が煩く鳴っている。
正面の扉が、音を立てて開いた。
衛兵が敬礼するその隙間から、三人の人影が現れた。
美しい衣装を纏った、この国の王子たち。
――そしてその中央にいたのは、
(……嘘だ)
俺の呼吸が止まりかける。
三年前のリュシアンだった。
あの瞳。あの立ち姿。
……見間違えるはずがない。
何度も夢に見て、何度も触れて、何度も泣いて失った、“俺の兄さん”が、そこにいた。
変わらぬ栗色の髪が肩で揺れ、ゆっくりとこちらに視線を向ける。
目が合った。
瞬間、俺の中で何かが崩れた。
震えが止まらなくなった。
わかってた。俺が何をしたか。
あんなにも好きだったのに、俺は――
「う、ぁ……っ、ぅあ……」
嗚咽が、堰を切ったように溢れた。
情けないほど、声が震えて、立っていられなくなりそうだった。
父が、兄たちが、驚いてこちらを振り向いている。
侍従が何事かと動き出す。
でも、誰よりも先に――
兄さんが、俺の前に来てくれた。
何も言わず、ただ真っ直ぐに歩いてきて、
泣き崩れる俺の肩を、そっと抱きしめてくれた。
「……大丈夫だよ、レオ」
耳元で優しく囁かれる声。
いつか夢の中で聞いたような、あの夜の声。
温かくて、懐かしくて、恋しくて。
――泣きながら、何度も謝った相手が、今ここにいる。
(ほんとうに……兄さんなの?)
でも、腕の感触が答えてくれる。
これは夢なんかじゃない。
俺はもう、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。
だけど――
それでも、兄さんは俺を赦してくれた。
何も問わず、何も責めず、
ただ“弟”として、抱きしめてくれた。
「兄さん……兄さん……!」
泣きながら、その胸に顔を押しつけて、
俺は、やっと赦されたような気がした。
これはきっと、神様が俺にくれた贈り物なのかもしれない。
そう、思った。
一度は全てを失った俺に、やり直す機会をくれたのだと――。
だって、兄さんはあの時と同じ瞳で、俺を見て、笑ってくれたから。
何もかも知っているように、優しくて、あたたかくて、
俺が縋れば抱きしめてくれて、呼べば返事をくれて。
「レオ」
その声が、俺の全てだった。
兄さんが傍にいてくれたら、もう何も要らない。
王位も、誉れも、未来さえも。
ただ、ただ――兄さんさえいてくれたら、それでよかった。
深く、深く愛し合った。
何度も唇を重ね、名を呼び合い、
この腕の中に兄さんがいてくれる幸せに、
俺は、何度も神に感謝した。
この時間が永遠に続けばいいと、
もう二度と“壊れない”と、
俺は、信じたかったんだ。
でも――
やはりまた、兄さんは『壊れて』しまう。
朝起きて隣を見たら、そこにいるのは、
冷たい目をした、知らない“兄さん”だった。
「レオ……お前、最近、変じゃないか?」
そう言って、触れようとする俺の手を、
まるで汚らわしいものでも見るように、避ける。
「……兄さん、俺だよ……?」
必死で訴えても、兄さんの目は、俺を映していない。
まるで、なにもなかったかのように。
昨日の夜、あんなに熱を分け合ったというのに。
どうして……?
なにがいけなかった……?
また俺は、間違えたのか……?
胸の奥が、焼けるように痛む。
俺がどれだけ、兄さんを愛していたか。
どれだけの夜を、涙で濡らしていたか。
誰にも、わかってなんか……っ!
そして俺は――
また、兄さんを……手に掛けた。
あの時と同じ、優しい目をしてた。
「どうしたの……?」って、俺を心配してくれて。
何も知らずに、笑って、俺に近づいてくれた兄さんだったのに――
隠していたナイフが、胸に吸い込まれる感触。
「……レオ……?」
名前を呼ばれた気がして、
俺は泣きながらその体を抱きしめた。
どうして、こんなに愛しているのに、
どうして、こんなに求めているのに。
ねえ、兄さん――
いっそ、ずっと“壊れたまま”でいてくれたら、
俺は、こんなに苦しまなかったのに。
どうせまた、壊れるなら。
どうせまた、俺を忘れてしまうなら。
その前に――
壊してしまいたかったんだよ。
俺だけの兄さんにしたかったんだ。
世界は、何度でも繰り返す。
気づけば、また俺は――15歳の姿で、謁見の間に立っていた。
胸に残るのは、焼き付くような後悔と、愛と、絶望。
どうしたら“俺の兄さん”を失わずに済むのか。
どうすれば、壊れてしまう運命を変えられるのか。
考え得る限りの手段に、俺は手を尽くしてきた。
あらゆる選択を試した。
俺の存在を控えめにしてみたこともあったし、逆に愛を注ぎ続けたこともある。
怒らせないようにした。守るようにした。
何もかも、すべて、兄さんのためだった。
……それでも、変わらなかった。
必ず、ある時を境に、兄さんは“壊れる”。
温かく、優しく、愛をくれた兄さんが、
まるで知らない誰かみたいに、俺を見ない。
触れようとした手を、拒絶するように振り払われたあの瞬間。
俺の名前を呼ばない。
俺のことを――“ただの弟”としか、認識していない瞳。
(なんで……? どうして……?)
わからなかった。
理解なんて、できるわけがなかった。
そうして俺は、
兄さんが俺に冷たくなるたびに、
“それ以外の方法”を選べなくなっていった。
……兄さんを――殺した。
何度も。
何度も、何度も、何度も。
そのたびに、兄さんは驚いたように目を見開いて、怯えたように俺を見つめた。
「どうして……?」
そう訴えるような目で。
俺は……それに、答えることができなかった。
できるわけがない。
だって、俺にとって兄さんは、
失いたくない、ただひとりだったのだから。
壊れる前に戻ってくれるのなら、それでよかった。
それだけでよかったのに……。
――でも、たまに。ほんの少しだけ。
兄さんの目が、違うときがある。
驚きでも怯えでもなく、俺の狂気すら、まるごと抱きしめるような、そんな瞳。
哀しくて、優しくて、痛いほどに温かい――
“あの頃の兄さん”のまなざし。
そのときだけは、俺も泣いてしまう。
何度目かの再会だったとしても、
何百回目の殺害のあとだったとしても、
そのまなざしに、俺はどうしようもなく惹き寄せられてしまう。
それでも、
また、壊れる。
何をしても、変わらない。
……けど、諦めるつもりなんて、なかった。
俺はまた、世界のはじまりに戻っていた。
「……レオといいます。よろしくお願いします……」
いつものように、声をかける。
それだけの、はずだった。
けれど――今回は違った。
兄さんが、言葉を失ったように俺を見つめ、
怯えたように目を見開いたあと、
確かな“決意”を宿した眼差しで、まっすぐ俺を見返してきた。
「……よろしくね、レオ」
そう微笑んだ兄さんに、俺は確信した。
物語が、今ようやく“別の道”へ進みはじめた。
これは、終わりじゃない。
やっと、始まりに手が届いたんだ。
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