時を超えた異邦人、伯爵令息の愛に囚われて

たもゆ

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#02 施療院にて

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 ――どれほどの時が過ぎたのだろう。
 陽光は静かに翳り、石畳を黄金色から茜色へと染め替えてゆく。
 鳩の影が尖塔をかすめ、遠くで鐘の音が重く、静かに響いた。

 ​本来、エイドリアンの目的地はここではなかった。
 未来では絶滅しかけている薬用植物――癌治療に欠かせないカンレンボクの種子を採集し、保護することが任務だった。
 野生種は乱獲と環境の変化により姿を消しつつあり、その恩恵を未来の科学技術で完全に再現することはできない。
 だからこそ、彼は安全な過去の中国へと赴き、原始の自然環境からその命を採取するはずだった。

 中国人に溶け込むために袖を通した、金糸の刺繍が施された上等な中華服が、このフィレンツェではかえって目立ち、自身の異質さと孤独感をより鮮明にした。

 気づけば、肩を撫でる風は昼の温かさを失い、夕刻の冷たさを帯びている。
 背を預けた石壁もじわりと冷え、長く蹲ったせいで足先にはしびれが忍び込んでいた。
 夕暮れの空気はひんやりとして、遠くの鐘の響きと街のざわめきが、孤独の輪郭をより鮮明に浮かび上がらせる。
 世界の片隅で、時間と空間に取り残された感覚が、静かに胸の奥に広がっていた。

 ――それでも、正確な時空座標を本部に連絡せねばならない。
 エイドリアンは小さく息をつき、再び腕の端末に呼びかける。
 「……クロノス機関、本部へリンクを要請」
 しかし、変化はない。雑音だけが虚しく響く。
 ………ダメか。
 項垂れたまま、エイドリアンは肩をすくめる。
 夕暮れの冷気が、静かに彼の肩越しに流れ込んでいった、その時だった。

 「……おや、貴方は」
 路地に蹲ったまま、半ば力なく視線を上げたエイドリアンの目に映ったのは、先ほど大聖堂で暦を教えてくれた司祭だった。
 夕刻の光に照らされたその姿は、荘厳な衣に包まれていながらも、不思議と柔らかな温もりを帯びて見える。

 司祭はなにかを察したのか、目尻をわずかにほころばせ、静かに声をかけてきた。
 「異国の方、なにかお困りですか?」
 「……司祭様」
 思わずそう呼んだきり、エイドリアンは言葉を失った。喉の奥に残るのは、焦燥と疲労と、どうしようもない不安。

 彼の沈黙を見て、司祭は軽く頷いた。
 「なにか事情がおありのようですね。ここで出会ったのはきっと神の采配でしょう」
 その声音には、詮索よりも慈しみがあった。
 エイドリアンは迷いながらも、深く息をつき、慎重に言葉を紡いだ。
 理由があり家に帰れなくなってしまったこと。懐には一銭もなく、今晩を過ごす当てがないこと。
 そのすべてを、嘘を交えず素直に打ち明けた。
 語るうち、胸の奥に絡みついていた孤独が、少しずつ解きほぐされていくのを感じていた。
 司祭は黙って頷き、慈しみを湛えた眼差しを向けてきた。
 「なるほど……異国の旅人。今宵はひとまず、この教会に身を休めなさい。神の家に宿を乞うことを、どうか遠慮なさらぬよう」
 その温かな申し出に、エイドリアンの胸の奥で張りつめていたものが、ふと解けていくのを感じた。
 「……いいんですか? こんな素性もわからない人間なのに」
 司祭は静かに微笑み、荘厳な声で応じた。
 「旅人も、乞食も、富める者も――人は皆、神の御前において等しき子なのです」
 その言葉に、エイドリアンは項垂れるように深く頭を下げ、かすれた声で礼を述べた。
 「……ありがとうございます」
 司祭はゆるやかに頷き、静かな声で告げた。
 「大聖堂そのものには宿の用意はありませんが……巡礼者や旅人のために、付属の施療院せりょういんに小部屋がございます。藁を敷いただけの簡素な寝床ですが、今晩はそこでお休みなさい」

 案内されたのは、大聖堂の裏手に連なる石造りの建物だった。回廊を抜けると、薄暗い廊下に幾つかの小部屋が並び、木の扉の向こうからは寝息や咳払いが漏れ聞こえる。巡礼者や病人たちも、同じように身を寄せているらしい。
 司祭は扉を開け、埃ひとつない藁布団と小さな机が置かれた質素な部屋を示した。
 「粗末ではありますが、神の御前に休む心持ちでお過ごしください」
 静かに微笑むその声に、エイドリアンは一瞬心を落ち着ける。
 「お名前はお聞きしてもよろしいでしょうか?」
 少し迷ったが、沈黙を破り、かすれた声で答えた。
 「エイドリアン・ミズノです」
 名を口にした途端、肩の力がわずかに抜けた。
 司祭はゆっくりと頷き、柔和な眼差しを向ける。
 「では、エイドリアン・ミズノさん。私はフランチェスコ・ベルナルディ。この教会に仕える者です。どうか安心して、今宵は神の家にお休みください。夕餉にはパンとスープをお持ちいたします」
 その言葉に、張りつめていたものが静かに溶けていく。
 エイドリアンは深く頭を垂れ、低く礼を述べた。
 「……ありがとうございます」
 背を伸ばすと、石壁の隙間から差し込む夕光が藁布団をわずかに照らした。豪奢さはどこにもない。それでも、冷え切った石畳に蹲っていた孤独を思えば、このささやかな寝床は何よりも温かかった。
 こうして彼は、ひとまず教会の庇護のもと、一夜を過ごすことになった。
 
 明け方、まだ冷えを含んだ空気の中で、藁布団にうつ伏せていたエイドリアンは、腕の端末から微かな電子音を拾い、はっと目を覚ました。
 本部からのリンクだ。
 「……っ、こちらエイドリアン」
 しかし返ってくる声は、砂嵐のようなノイズに押し流されている。言葉は断片的で、かろうじて輪郭だけが聞き取れる。
 『……ン、エイ……アン…………か』
 「本部、聞こえますか? 現在の西暦年月日を確認しました。西暦一五三五年八月十八日。現在地はイタリア、フィレンツェ」
 これで座標は定まった。回収班が迎えに来られる――はずだった。だが次に返ってきたのは、望んでいた安堵ではなく、絶望を告げる声だった。
 『……エイドリアン……了解した。だが時空乱流は予想以上に深刻だ……回収まで……最低で半年……最悪は一年……』
 (回収班が来るまで最低でも半年、最悪で一年……!?)
 胸の奥に、氷の刃のような冷たい衝撃が走る。
 「……そんな……」
 声が震えたその時、砂嵐に混じって、まだサトルがなにかを告げようとしているのが聞こえた。
 『……か……ず……迎え……く……』
 しかし、次の瞬間、通信はぷつりと途絶え、暗い沈黙だけが残った。
 膝を抱えて藁布団にうずくまり、肩を小さく震わせる。未来への帰還がこんなにも遠く、果てしなく思えるのは、ただ静寂だけが部屋を支配しているからだ。
 眼前に、朝の柔らかい光が差し込む。しかしその光は、暖かさよりも孤独を映す鏡のようで、エイドリアンの心はひどく凍りついた。

 薄明かりの中、木製のトレイを抱えた修道女が静かに扉を押し開ける。
「朝餉です、旅人よ」と、柔らかな声とともに藁布団の傍に差し出す。
 エイドリアンはまだ眠気の残る目を細め、感謝を込めて軽く頭を下げた。

 朝餉を終えたあと、薄暗い部屋の隙間から射す光が、埃を金色に浮かび上がらせていた。
 エイドリアンは藁布団の端に腰を下ろし、ゆっくりと呼吸を整える。
 「……いつまでも、ここにいるわけにはいかないよな」

 この施療院は、傷病者や巡礼者のための憩いの場だ。
 一夜の施しを受けることは許されても、健康なよそ者が長居をすれば、それは厚意への裏切りになる。

 外からは教会の鐘の音が軽やかに響き、回廊を渡る巡礼者たちの足音がそれに混じる。
 その穏やかな朝の気配を破るように、扉の向こうから控えめなノックの音がした。

 「エイドリアンさん。お加減はいかがですか?」
 声の主は、昨夜寝床を与えてくれた、フランチェスコ司祭だった。
 エイドリアンは身を起こし、少し緊張しながら扉を開ける。司祭はにこやかに微笑み、手にはただ杖を持ち、目線は部屋の中を軽く確認する。
 「よろしければ、少し休めたかどうか教えてください。無理はなさらぬように」
 その温かい声に、エイドリアンはほっと肩の力を抜く。
 「……はい、おかげさまで。昨夜はよく休めました」
 かすれた声で礼を述べ、軽く頭を下げると、司祭はゆっくり頷いた。微笑みを浮かべながら、回廊へ戻ろうとするその背中に、エイドリアンは思わず声をかけた。
 「あ、あの……」
 司祭が振り返る。だが、エイドリアンの喉は強張り、言葉が続かなかった。
 指先が無意識に腕の端末をなぞる。ひんやりとした金属の感触が、逆に現実の孤独を鮮明に思い知らせた。
 やがて、迷いを断ち切るように小さく息を吐き、エイドリアンは心を決めた。
 「……あの、どこかで働かせていただくことは、できないでしょうか」
 
 自然発生した、大規模な時空乱流が収束するのは、最低でも半年――。
 クロノス機関では、過去の人間との接触は厳しく禁じられている。だが、ここで生き延びるには、糧を得る手立てが必要だった。
 ​司祭は思案するように目を伏せた。祈りを捧げるかのように指を組み、しばらくの沈黙が場を満たす。そして、ゆっくりと顔を上げたその眼差しには、慈悲深さと、わずかな思惑が混じっているように見えた。
 ​「確たる保証もないお方をご紹介するのは、少々気が引けます。ですが……」
​司祭は柔らかな笑みを浮かべ、言葉を選びながら続けた。
​ 「ちょうど今、とあるご家庭が、忠実な働き手を求めておられると、それとなく耳にいたしました。かの家も、お人柄を重視するお家柄。貴方のような方であれば、あるいは耳を傾けてくださるかもしれません」
 エイドリアンの瞳がわずかに見開かれる。
 「……本当ですか?」
 「ええ。もっとも、正式に話を通すには少し日を要しましょう。されど、それまでの宿と食事くらいは、教会でお約束いたしましょう」
 司祭の言葉に、エイドリアンは深く頭を下げた。胸の奥で、静かに温かい感謝の念が広がる。
 彼は、こうして見知らぬ地で手を差し伸べてくれる人の存在に、深く慰められたのだった。
 
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