時を超えた異邦人、伯爵令息の愛に囚われて

たもゆ

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#07 世界にひとつだけの色彩

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 朝のやわらかな光が窓辺から差し込み、白いカーテン越しに寝室を淡く照らしていた。
 ダンテが朝食へ向かったあと、エイドリアンは静かに部屋へ入り、整えられたシーツの皺を指先でなぞるように直していく。
 この邸に来たばかりの頃は右も左も分からなかったが、ルチアーナの丁寧な指導のおかげで、今では一人でできることも増えた。完璧とは言えなくても、少しずつ自分の居場所を築きつつある――そう感じられるようになっていた。

 ふと顔を上げたとき、壁に掛けられた額縁が目に入り、思わず息を呑む。
 そこに収められていたのは――あの日、自分が震える手で日本列島を描き足した世界地図だった。
 拙い線が羊皮紙の上に島国の形を刻み、金の縁取りの額に守られるように飾られている。それはまるで宝物のように、朝の光を受けて静かに輝いていた。

 「……こんなことをして、本当によかったのだろうか」
 本来なら、この時代に存在しないはずの自分が、未来の痕跡を残すのは危ういことかもしれない。
 けれど、あのときのダンテの真剣な眼差しに抗えず、断り切ることができなかった。
 その視線を思い出すと、胸の奥がじんとする。
 同時に、自分の存在をこの部屋の主がどれほど大切に扱っているのかを思い知らされ、言葉を失った。
 だが親切にされればされるほど、別れの痛みは深くなる。
 ――いつか自分は必ず未来に帰らなければならないのだ。
 エイドリアンは小さく首を振り、胸に広がる想いを断ち切ろうとした。
 そのとき、背後から穏やかな声が響く。
 「……エイドリアン」
 振り返ると、いつの間にかダンテが立っていた。
 「申し訳ありません、ダンテ様。まだベッドのリネンを整えておらず……」
 「いや、ゆっくりで構わない。君の仕事が丁寧なのは、私がよく知っている」
 「……ありがとうございます」
 エイドリアンは少し照れつつも、手を動かしながら改めて額縁に視線を向けた。
 「……あの地図、まさかこんな立派に飾られるなんて、思いませんでした」
 エイドリアンがそう呟くと、ダンテは柔らかく目を細め、同じ方角に視線を向けた。
 「いや。私にとっては、何よりも価値のあるものだ。――世界にひとつしかない代物だからな」
 静かに紡がれた声には、迷いのない温もりが宿っていた。
 その意味を測りかねたまま、エイドリアンは胸の鼓動を押さえきれずにいた。
  
 「……この地図をアンドレアに見せたら、案の定『欲しい』とせがまれてしまったよ」
 苦笑まじりの声に、エイドリアンもつられるように微笑む。その時の少年の顔を思い浮かべ、胸の奥が自然と温かくなるのを感じた。
 「私が譲れないと言ったら、今度は父上に同じものをねだっていた。仕方なく別の地図を渡していたが、ジパングが描かれていないと怒っていたよ」
 ​「……ふふ、アンドレア様らしいですね。本当に、可愛らしいお方です」
 「……ああ、私たちで弟を甘やかしすぎたせいだな」
 くすりと笑いながらも、ダンテの瞳は柔らかく揺れている。
 (本当は、アンドレアの分も描いてあげたい。――けど、だめだ。これ以上、この時代に未来の痕跡を残しては)
​ エイドリアンは口元で笑みを留めたまま、それ以上何も言えなかった。

 ベッドメイクと清掃を終え、道具を手にエイドリアンが部屋を後にしようとしたときだった。
 「……エイドリアン」
 呼び止められ、振り返るより早く、温かな掌がそっと彼の手を掴んだ。
 思わず息を呑む。至近距離で視線が絡み、胸の鼓動が大きく跳ねる。
 「は、はい……なんでしょう……?」
 掠れた声で答えると、ダンテは一瞬口を開きかけて、やめるように目を伏せた。
 ――何か言いかけたのだろうか。
 その沈黙が、逆に二人の間に小さな熱を呼び込む。

 「……あとで、私のアトリエの片付けも頼みたいんだが、いいだろうか?」
 「はい、もちろんです。今すぐのほうがよろしいですか?」
 「そう、だな……。いや、午後にしよう。ルチアーナには私から伝えておく」
 「はい、かしこまりました」
 手が解放され、エイドリアンは胸を押さえながら小さく息をつく。思わず目をそらし、床の方へ視線を落とす。
 ダンテの横顔は穏やかに微笑んでいたが、その瞳の奥には、言葉にできぬ熱が秘められていた。
 エイドリアンの心臓はまだ早鐘のように打ち、彼は一歩、そそくさと部屋を後にした。


 昼下がりの厨房は、スープの香りと焼き立てパンの匂いで満ちていた。
 木の卓を囲んで賄いを頬張る使用人たちの間に、噂好きの女中アンナが声を弾ませた。
 「ねぇ、エイドリアン! 聞いたわよ。あんた、ダンテ坊ちゃまからアトリエの片付け頼まれたんだって?」
 パンをかじっていたエイドリアンは思わず固まる。
 「……え? あ、あの……はい」
 その瞬間、周囲の使用人たちが一斉に目を見張った。
 「すごいじゃないか! あそこはルチアーナしか入れない聖域だろ?」
 「そうそう、几帳面なダンテ坊ちゃまが、他人を入れるなんてありえない!」
 「も~、完全にぞっこんじゃない!」
 「ぞ、ぞっこん!? ち、ちがいます、そんなんじゃ……! 僕はただ親切にしていただいてるだけで……!」
 エイドリアンは必死に両手を振るが、耳まで真っ赤だ。
 「親切だけで、あそこまで面倒みると思う?」アンナがにやりと笑い、声を潜める。
 「それにね、この前、エンリコ卿から“引き抜き”の話が来たんだって。でもカルロ伯爵、きっぱり断ったらしいのよ。『エイドリアンはうちに必要だから』って!」
 「えぇっ!?」
 「えええ~~!?」
 大げさに驚きの声が上がり、場はますます大盛り上がり。
 「私も他所から聞いただけなんだけど、エンリコ卿のご子息、エイドリアンを見初めたんじゃないかって噂よ」
 「やだ!? 使用人をめぐる三角関係ってこと!?」
 「ねぇねぇ、いつ結婚するの?」
 「ベッドメイクから、ベッドインへ!」
 「ちょっ、ちょっと待ってください……っ」
 エイドリアンは耳まで真っ赤になり、両手で顔を覆った。
 その姿に、使用人たちは「やだぁ、ほんとに図星なんじゃない?」と大笑い。
 笑いに包まれる賄い場の片隅で、エイドリアンはテーブルの上で必死にスープ皿を握りしめていた。
 思い出すのは、今朝のあの視線と、そっと掴まれた手の温もり。
 意を決したように、彼は真剣な表情で口を開いた。
 「……あの、皆さん。ダンテ様って……その……男の人が、お好きなんですか?」

 ――しん。

 一瞬、場の空気が凍りついた。
 次の瞬間、アンナが腹を抱えて笑い出す。
 「ちょ、ちょっと! 本気にしたの!? やだぁ~! 冗談に決まってるでしょ~!」
 「そうだそうだ! ダンテ坊ちゃまがそんなこと、あるわけないじゃん!」
 「まじめすぎて逆に可愛い~!」
 エイドリアンはカァッと耳まで赤くなり、スプーンを落としそうになる。
 「……っ、そ、そうですよね……」
 「いやぁ、いい子だねぇ! ダンテ様に気に入られるわけだわ!」
 「うんうん、こういう素直なとこが可愛いんだろね~!」
 結局、笑いのタネにされたエイドリアンは、顔を真っ赤にしたままスープを飲み干すしかなかった。

 「でもさ、お可哀想よね。貴族の家に生まれたら、自由な恋愛なんてできないんだもの。ダンテ坊ちゃまも、いつかフェデリコ公爵の命令ひとつで他家の婿養子に出されちゃうと思うと気の毒でね」
 ​「ダンテ様が、婿養子に……?」
 エイドリアンは思わず、その言葉を反芻した。
 「そうよ。フェデリコ公爵はトスカーナをほぼ全域掌握してるけど、シエナ共和国の勢力とは未だ軋轢があるの。だから、今、融和のために有力貴族の家に婚姻の形で送り込まれる可能性が高いのよ」
​ その言葉は、まるで冷たい刃のように胸に突き刺さった。自分には関わりのない、貴族の家の事情だ。そう強く言い聞かせても、なぜか心がざわついて落ち着かない。
​ もし本当に彼が遠い地へ送り出されてしまったら――自分は二度と、あの穏やかな声を聞けず、あの優しい眼差しに触れることも許されなくなるのだろうか。
​ ただの想像に過ぎないというのに、胸の奥がきゅうと締めつけられ、喉が渇いたように息苦しさを覚えた。

 (……どうして、こんなにも動揺しているんだ? 僕が未来へ帰っても、それは同じ事じゃないか)
 問いかけても答えは出ない。ただひとつ確かなのは、ダンテの未来が、自分の知らぬところで、まるで鎖で繋がれるように決められてしまうのが、ひどく耐え難く恐ろしいということだった。


 午後。ルチアーナに言われ、エイドリアンは清掃用具を抱えてアトリエの前に立った。
 深呼吸をひとつしてから、扉を軽くノックする。
 「エイドリアンです。片付けに参りました」
 「……ああ、入ってくれ」
 低く落ち着いた声が内側から返る。
 「失礼します」
 そう答えて、エイドリアンはそっと扉を開けた。

 途端に、濃く甘い油絵具の匂いが鼻をくすぐった。
 イーゼルに立てかけられた大小さまざまなキャンバスが、壁際にずらりと並んでいる。
 どれも白布で覆われ、ひそやかに眠る夢のようだった。

 部屋の中央では、ダンテが椅子に腰を下ろし、筆を握ったまま描きかけの絵と向き合っていた。
 キャンバスには異国の風景が細密に描き込まれ、光の反射や水面の揺らぎまでもが、彼の背越しにかすかに覗いている。

 その光景に、エイドリアンは息を呑んだ。

 彼の生きた未来では、風景はAIが瞬時に生成する立体映像であり、絵画とは高精度の分子プリンターが吐き出すデータだった。
 すべてが完璧で、再現可能で、容易に「複製」できた。

 だが、いま目の前にあるのは――ただの布と、土から得た顔料を油で溶いたもの。
 その原始的で不確実な素材が、一人の人間の集中と、筆という小さな道具の動きだけで、キャンバスという限られた空間に「永遠の一瞬」を閉じ込めている。

 エイドリアンは、生の絵画を目にするのはこれが初めてだった。
 彼の目には、その風景が、未来のどの立体映像よりも力強く、確かに“生きて”いるように映った。
 それは――「人間が自らの手で生み出す」という、あまりにも根源的で崇高な営みに対する、衝撃だった。

 ダンテの背は、静かな光を受けてわずかに揺れていた。
 普段の貴族らしい完璧な佇まいとは異なり、そこには野生的な緊張と集中があった。
 彼は、家の名や作法という重い鎧を脱ぎ捨て、自分という存在そのものを剥き出しにして、世界と対話しているようだった。

 エイドリアンは、その集中が自分を拒絶しているわけではないことを感じた。
 むしろ、外界から隔てられたこの小さな空間の中で、彼の魂の奥底にある“祈り”のようなものを覗き見てしまった気がした。
 その横顔の美しさが、視線を離すことを許さなかった。

 彼はいま、技術では決して再現できない“人間の力”を目の当たりにしている。
 すべてをデータ化し、価値を失った未来には存在しなかった――手の温もり、時間の重み、そして芸術の神聖さ。

 言葉では決して言い表せない感情が、胸の奥で膨らみ続ける。

 やがて、ドアの前で立ち尽くしたままのエイドリアンに気づき、ダンテが振り返る。
 「……エイドリアン?」
 穏やかな声に我へ返り、彼は慌てて視線を彷徨わせた。
 「す、すみません……あまりに圧倒されてしまって」
 「……これに、か?」 
 ダンテは小さく息を漏らし、口元に苦笑を浮かべる。
 だがその瞳の奥には、からかいではない、どこか誇らしげな光があった。
 「……はい。すごいですね。この色の重なり方……光の表現がまるで生きているみたいです」
 その言葉に、ダンテの肩がぴくりと震え、頬がわずかに赤く染まった。
 「そうか……ありがとう」
 普段は落ち着いた口調の彼が、少し照れたように目を逸らす。その仕草に、エイドリアンは無意識のうちに目を奪われた。
 微かな笑みを浮かべたままのダンテを横目に、エイドリアンは深呼吸をひとつして心を落ち着ける。
 「どこから始めましょう?」
 「そこのテーブルから頼む」
 ダンテの指示に従い、エイドリアンは慎重に動き出す。
 絵の具や筆、水差しが置かれたテーブルを片付け、使いかけのパレットや筆に触れないようひとつずつ元の位置に戻す。微かに漂う油絵の匂いが、鼻をくすぐる。

 次に床を見渡す。ところどころに絵の具の飛沫が散り、薄く埃が積もっている。
 濡れた雑巾で丁寧に拭き取り、床の板目に沿って動かすたびに、木の温かみが手に伝わった。
 動作はゆっくりだが無駄がなく、集中力は自然と研ぎ澄まされていく。

 時折、ダンテが描きかけの絵に目を落とし、小さな声で指示を出す。
 エイドリアンは頷き、さらに注意深く手を動かす。
 わずかに見えるダンテの視線を意識しながらも、彼のために慎重に、そして丁寧に作業を続けた。

 床の汚れや埃を拭き終え、掃除用具を片付けようとしたエイドリアンは、控えめにキャンバスへ向かうダンテに声をかけた。
 「他に片付けが必要なところはありますか?」
 「いや、もう十分だ。ありがとう」

 その背に返ってきた声は穏やかで、けれどどこか思案を含んでいるように聞こえた。ふと、筆を止めたダンテが静かに口を開く。
 「……君にひとつ、頼み事をしてもいいだろうか」
 「はい、なんなりと」
 振り返ったエイドリアンの視線を、ダンテはまっすぐに受け止めていた。 
 「――私の、絵のモデルになってくれないか」
 
 突拍子もない申し出に、エイドリアンは思わず動きを止める。胸の奥がひりつくように熱を帯びた。
 「……僕が、ですか?」
 「ああ。実は、今まで人物を描いたことがなかったんだ」
 (……ということは、練習のため……?)
 エイドリアンは困惑を隠しながら口を開く。
 「あの……構いませんが、僕なんかよりもっと、絵になる方が――」
 「いや」
 ダンテはきっぱりと遮った。
 「私が描きたいと思った人物は、君が初めてなんだ」
 「……え?」
 気づけばダンテはパレットと筆を置き、いつの間にかエイドリアンのすぐ前に立っていた。
 「初めて、あの施療院で君を見たとき――衝撃だった。今でも、あの鮮烈な感覚は忘れられない」
 その言葉に、エイドリアンは当時の光景を思い出す。豆鉄砲を食らったように固まったダンテの顔。
 (……そうか、あの時)

 「そ、そうだったんですね……。てっきり僕が、無礼を働いたせいかと」
 ダンテは苦笑して肩をすくめ、静かに首を振る。
 「すまない、誤解だ。……私は、その……君をキャンバスに収めたいと思ったんだ」

 エイドリアンは思わず目を瞬かせる。
 まさか自分の容姿が、芸術家である彼の感性に触れるとは――想像もしていなかった。
 だが、異国から来た自分だからこそ、彼の目にはいっそう新鮮に映ったのかもしれない。
 嬉しいような、恥ずかしいような、胸の奥がむず痒くなる。
 「――構わない、だろうか」
 言葉を探すように口ごもるダンテの声音は、妙に熱を帯びていた。
 (……芸術家としての情熱、なんだろうな)
 そう自分に言い聞かせ、エイドリアンは肩の力を抜いて、かすかに微笑む。
 「はい。僕なんかでよろしければ……」

 その言葉を聞いたダンテの肩の力がゆるみ、安堵の笑みがふと顔に浮かんだ。
 思わず胸が高鳴る。エイドリアンは、彼の笑顔に心を軽く打たれ、なんとも言えない温かさに包まれるのを感じた。
 
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