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#11 硝子の花
しおりを挟む磨き上げられた床に、深緑の華やかな衣装の影ではなく、くたびれた使用人服の自分が映り込む。
舞踏会で纏った華やかな衣装も、煌めく広間で燃えていた高揚感も、泡のように消え去っていた。あの夜は――まるで遠い異国で見た幻の物語のようだ。
雑巾を握る手に、思わず力がこもる。手に残る熱は、冷たい水で何度洗っても消えてはくれなかった。肩越しに伝わった体温、耳をかすめた吐息、最後に強く、まるで別れを拒むかのように握り返された指先。すべてが心に焼きつき、現実に戻った今も消えてはくれない。
「もう、どうでもよくなった」
彼の低く震える声が、何度も胸に蘇る。あの夜、フィレンツェの静けさを切り裂くように迸った感情――高揚と熱、抑えきれぬ渇望が混ざり合った響きが、今も心に残っていた。
けれど現実は、冷たい石の床のように揺るぎなく、身分も、過去も、未来も、変わることはない。
あの夜の記憶は、誰にも打ち明けられぬ深い傷跡。だが傷跡であるがゆえに、時折、胸を締めつける痛みに変わる。
指先に残る熱は、もう二度と触れられない憧れの象徴だった。エイドリアンは深く息を吐き、いつもの使用人の顔を取り戻そうと立ち上がった――その瞬間、何かにぶつかった。
「わっ……」
顔を上げると、穏やかな微笑みを浮かべたダンテが立っていた。
「も、申し訳ありません……っ」
「……ずいぶん熱心に磨いていたな」
「は、はい……」
(ま、まさか見られて……!?)
クスクスと喉を鳴らして笑うダンテ。だがその瞳は、ただの軽口ではなく、わずかに光を宿していた。
――まるで、あの夜の残り香を、指先の熱を、覚えているかのように。
エイドリアンの心臓は、再び高鳴った。
「……エイドリアン。君に、使いを頼みたい」
「……はい、ダンテ様」
ダンテは手渡す用紙を差し出す瞬間、ほんの一瞬、視線を彼の手元から顔へと移した。
その視線に、エイドリアンは思わず息を呑む。理解しないふりをしても、熱は隠せなかった。
「顔料が切れてしまった。薬種商の〈サンタ・マリア・ノヴェッラ〉に行き、ラピスラズリの粉と亜麻仁油を求めてくれ」
名を聞いた瞬間、エイドリアンは息をのんだ。ラピスラズリ――東方からもたらされる深い群青の石。粉末は黄金に匹敵するほど高価であり、庶民には縁のない代物だ。
「……かしこまりました」
初冬の、澄んだ冷気が肌を刺す。エイドリアンは小袋に収められた銀貨を受け取ると、街の石畳を歩き出す。陽射しを浴びて白く光る大聖堂の大円蓋を横目に、狭い路地を抜ければ、薬種商の店が並ぶ通りに出た。
その「狭い路地」に、一瞬だけ心が揺れる。――あの日も、同じような薄暗がりの中だった。時空の亀裂に呑み込まれ、気がつけばこの地に放り出されていた。未来へ帰れないと知ったときの絶望が、いまも胸の奥に澱のように残っている。
けれど、同じ影の道を歩きながら、不思議とあの頃のような寒さは感じなかった。……帰りたいと願ったはずの未来より、ここに留まりたいとすら思ってしまう自分がいる。
香草や乾いた樹脂の匂いが鼻をくすぐる。修道士の姿をした薬種商が、棚に並ぶ小瓶を整理していた。
「ラピスラズリの粉末と、亜麻仁油を少々」
声を掛けると、商人は目を細め、じろりと彼を見上げた。
「……どこの工房の若造かと思えば。あんた、どっから来た?」
その問いに一瞬身を固くしつつ、エイドリアンは努めて静かに答えた。
「僕はサントロ家の使用人です。ダンテ様のご依頼で」
名を出した途端、商人の態度はがらりと変わった。
「ほぅ、あの御家なら安心だ。ちょっと待ちな」
やがて商人は、小さな陶器壺を二つ布に包み、紐で固く結わえて差し出した。片方には貴重な群青の粉末、もう片方には黄金色の油。
「大事に持って帰んな。落としたら、あんたの命で償ってもらうことになるぞ」
冗談とも本気ともつかぬ声音に、エイドリアンは苦笑し、深く礼をしてその荷を抱え込んだ。
帰り道。胸の奥で、不思議な誇らしさが芽生えていることに気づいた。
(……ダンテの絵に、自分が運んだ青が使われるんだ)
小さな陶器壺の重みが、彼の心をじんわりと温めていた。
お使いを終えたエイドリアンは、そっとダンテの私室へ向かった。扉の前に立ち、軽くノックする。だが、応答は返ってこない。少し首をかしげていると、通りかかった女中のアンナが気さくに声をかけた。
「坊ちゃまなら、アトリエにいるわよ」
「ありがとうございます」
エイドリアンは礼を言い、案内されるままアトリエへ足を向けようとした。その瞬間、アンナがひそひそと耳元で囁く。
「ねぇ、エイドリアン、聞いた? またエンリコ卿から、あんたを引き抜きたいって封書が届いたらしいわよ」
「……えっ?」
思わず声が漏れる。
「それだけじゃないの。フェデリコ公爵から騎士の称号を賜ったジャンニ卿からも手紙が来てたんだって。その時の坊ちゃまの顔――あんたに見せたかったわ」
アンナは言い終えると、ニヤニヤとした笑みを浮かべたまま背を向け、軽やかに去っていった。
エイドリアンはその場に縫い付けられたように立ち尽くし、手に握った包みを少し強く握りしめた。
アトリエの扉をノックすると、静かな声で「どうぞ」と返事が返ってきた。そっと扉を押し開ける。絵具の香りが微かに漂う空間で、キャンバスの前に立つダンテは、筆を握ったまま、まるで世界そのものを描き出すかのように集中している。
「……失礼します、ダンテ様」
エイドリアンは小さな声で告げるが、返事はなく、ダンテの筆は止まらない。
しばらくして、ダンテがゆっくりと顔を上げ、視線がぶつかった瞬間、エイドリアンの胸が小さく跳ねた。
「ありがとう。そこのテーブルの上に置いておいてくれ」
「……はい」
手に抱えた品々をそっと置く。緊張でわずかに震える手を、ダンテはじっと見つめ、やがて口を開いた。
「……エイドリアン。君の絵が完成した」
「……え、もう描き終えたのですか?」
「ああ……君に、最初に見てもらいたくて」
そう言うと、ダンテは立ち上がり、アトリエの奥に並ぶ数多のキャンバスの前へと歩を進めた。布をそっと取り去ると、そこには――まるで夢の中の一場面のように、多彩な色彩で描かれたエイドリアンがいた。儚く、憂いを帯びた瞳で微笑んでいる。
「……これが僕……?」
(ダンテの目には、こんなふうに映っているのか……)
「君の瞳の色を正確に再現するのは難しかった。だから、右と左であえて色を変えて重ねてみたんだ」
「……すごい……でも、この瞳で、貴方を見つめていたのだと思うと……少し不思議な気持ちになります」
ダンテの目が、一瞬やわらかく輝いた。
初冬の光に包まれたその横顔は、冬にひととき訪れる小春日和のように儚く温かくて――その温もりに触れたくなる衝動を、エイドリアンは胸の奥で必死に押しとどめ、しばし肖像に見入った。
ダンテはまるで、繊細なガラス細工でできた花のようだった。
触れれば壊れてしまいそうで、手の届く場所にあっても決して摘むことはできない。
その横顔を見つめるエイドリアンの胸の奥には、焦がれる想いがまるでアクリルケースに閉じ込められた、飛べない小鳥の鼓動のように揺れていた。
「……ありがとう、ございます。この絵に込めてくださった、ダンテ様の想いを……ずっと大切にします」
指先で触れたいという衝動が、静かに胸の奥へと降り積もっていく。けれどその想いは砂粒のように脆く、掌で掬えば零れ落ちてしまう。
だからエイドリアンは、ただ静かにその存在を見つめ、胸の奥深くへと閉じ込めるしかなかった。
「……エイドリアン。私は君に、ひとつ嘘をついていた」
「……え?」
ダンテは、まるで舞踏の始まりを告げるように、そっと彼の手を取った。
「私は芸術家として君に惹かれているんじゃない。……ただ一人の男として、君をどうしようもなく魅力的に感じている。だから――ずっと、私の側にいてほしい」
触れ合う指先が、わずかに震えている。その震えが、どれほどの決意と不安を宿しているのかを、エイドリアンは痛いほど感じ取った。
――今すぐにでも握り返したい。
その衝動が胸を突き上げる。けれど、彼は耐えるように視線を落とし、足元の影に心を隠した。
言葉に詰まったままのエイドリアンを、ダンテは不安げに覗き込む。
「……エイドリアン?」
その声は、心の奥を優しく叩くようで――返事をすれば、すべてが変わってしまう気がした。
喉が熱く、胸が軋む。
――ああ、なぜ出会ってしまったのか。
もしも自分が、この時代のただの忠実な使用人であったなら。
迷うことなく、この身を差し出せたのに――。
けれど現実は無慈悲に、二人を隔てる。
触れられぬ想いだけが、胸の奥で静かに揺らぎ、熱を帯びては、言葉にならないまま燻り続けていた。
「……なぜ泣く?」
ダンテの問いに、エイドリアンははっとする。頬を伝う雫に気づき、震える手で拭おうとするが、涙は止まらなかった。
「……君を私の隣に招くことが、そんなにも君を傷つけてしまうのか?」
掠れるようなダンテの声は、それでも驚くほど優しかった。
その優しさが、エイドリアンの胸の奥を切り裂き、痛みに変わって突き刺さる。
「……っ、違います」
喉の奥から絞り出すように零れた声に、エイドリアンは嘘を重ねた。
「僕は……貴方の隣にはいられません。貴方は、フェデリコ公爵の命により、いつか国の為に、他の誰かと政略結婚をしなければならない方だ。僕は、貴方のそのような運命を……邪魔することはできません」
ダンテは一瞬、顔から血の気が引いたように白くなった。エイドリアンの指摘が、公爵支配下の旧伯爵家という、彼の逃れようのない現実の核心を突いたからだ。
「政略結婚だと? ……それが、私の愛を断るための、君の唯一の武器か」
彼の声は、今や愛を囁いた時とは違う、冷たい怒りと、抑えきれない絶望を帯びていた。
「公爵に命じられれば、逆らえない。それは分かっている。だが、それがどうした!」
ダンテはエイドリアンの手を掴み、その骨ばった節が白く浮き上がるほど強く握りしめた。
「妻を娶るのは、父上と公爵への義務だ。だが、私の夜を照らすのは君だ。君は私の側仕えとして、この家を去る日まで私だけに従うのだ」
「たとえ、私が他所の王侯の娘を娶るために、このフィレンツェを離れることになったとしても、君だけは必ず連れて行く」
「政略など、私たちが乗り越えるべき壁でしかない。君のその建前を捨てるんだ、エイドリアン!」
ダンテの言葉は、エイドリアンの薄い建前を容赦なく打ち砕いた。
(違う……そうではない)
エイドリアンは唇を噛みしめた。政略など、本当の壁ではない。彼は、この男の愛が、たとえどれほど強く、激しくても、時の流れを支配する未来の規則までは変えられないことを知っていた。
この温もりに縋りつくほど、海の底へ沈む泡のように消えてしまう運命を、より早く引き寄せてしまう。その真の絶望だけが、彼の胸を突き破り、止めどない涙となって溢れ出した。
「……エイドリアン」
その声が響くたび、胸の奥にひそめたひび割れた水槽の水が、静かに心の底から零れ出した。
「――愛している……」
その言葉は、渇いた心に落ちた最初の一滴だった。ダンテの指先が頬をかすめ、エイドリアンの涙を掬い取る。その触れ方は柔らかくも、逃がさず、深く絡め取るようだった。堰を切ったように溢れ出した想いは、もう止まらなかった。
「……っ、僕も……愛して、います……」
ガラスの花をそっと摘むように、頬に添えられた手に指先を重ねた。砕けた花びらは、光を反射しながら、胸の奥で小さく弾け、痛みと熱を伴ってゆっくりと広がる。
エイドリアンは、心の奥に散らばる禁忌という名のガラスの破片を踏みしめるかのように、躊躇わずその手に縋りついた。
唇が重なった瞬間、痛みすら甘美に変わり、世界はただ二人だけの空間に閉じ込められる。鼓動は早まり、息遣いは重なり、指先の温度が心の奥深くまで溶けていく。
それは美しく、甘く、触れれば消えてしまいそうな――けれど確かに存在する、二人だけの真実の告白だった。
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