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#18 激情の果てに
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執務を終えて邸に戻ったダンテは、決められた未来の重みを背負い、足を引きずるように寝室へと向かった。
そこだけが、彼にとって唯一の「光」が息づく場所――エイドリアンの存在があるはずの場所だった。
だが、隣室である書斎へと視線を移した瞬間、血の気が引いた。分厚い鉄の閂が無造作に外され、床に転がっている。
胸の奥を掴み潰されるような焦燥が、次の瞬間には灼熱の怒りへと変わる。ダンテは扉を荒々しく押し開けた。
書斎は、まるで墓所のように静まり返っていた。暖炉の火はとうに絶え、冷えきった石の空気が頬を刺す。
そこにあるはずの匂いも、気配も、何もかもが奪い去られていた。
窓から差し込む冬の淡い光だけが、空っぽのベッドを青白く照らしている。
「……っ、エイドリアン!」
乾ききった声が喉を裂く。
愛した小鳥が、籠ごと根こそぎ持ち去られたのだ。
裏切りか、それとも――。疑念が胸を抉り、ダンテは憤然と振り返った。問い詰めるべき相手を探すように。
だが、そこに立っていたのは一族の家長、カルロ伯爵だった。
父の姿を認めた瞬間、空気はさらに凍りついた。
「……ダンテ。もういい加減にしろ」
低く響いた声は、父のものではなく支配者のそれだった。深淵のような冷たさが、息子の狂気的な愛を無残に踏みにじる。
ダンテは血の気を失った顔で、震える声を絞り出した。
「父上……まさか、彼を逃がしたのですか」
カルロ伯爵は、冷ややかな眼差しのまま微動だにせず答える。
「逃がしたのではない。――お前の言葉どおり、スパイ容疑として公爵閣下に引き渡した」
その名を聞いた瞬間、ダンテの胸を貫いたのは絶望だった。だがそれはすぐ、灼けるような怒りへと変わる。
「どうしてそんな真似を……!」
叫ぶ息子を前にしても、伯爵の声音は一片の揺らぎもない。
「これまでお前の私的な情熱は黙認してきた。だが――家名と使命に背く行為は、もはや看過できぬ」
その声は、父ではなく当主としてのそれだった。
「愚かにも火種を抱え込んだのはお前自身だ。シエナとの婚姻を円滑に進めるためにも、従者の潔白は公爵自らの裁定に委ねるべきだろう」
冷ややかな言葉が、息を呑むほどの静寂の中に落ちた。
カルロ伯爵の眼差しは、ダンテの心の奥底――秘められた愛と執着の闇を見透かすように、鋭く射抜いていた。
――奪われた。汚された。唯一の光を、父は政略の駒として差し出したのだ。
(私が籠から逃がさなかった小鳥を、貴様はより大きな猛禽の手に渡した……)
絶望が喉を締め上げ、怒りが血を逆流させる。父の視線に、もはや息子への情は一片もない。ただ冷酷な支配者の命令だけがそこにある。
「……余計な情を捨てろ。今はただ、シエナとの婚姻を必ず成功させることだけを考えよ。それこそが、お前に許された唯一の生きる道だ」
その時、ダンテの胸に残ったものはただひとつ――燃え尽きるまで消えぬ、暗く深い憎悪だった。
――だが、ダンテは悟る。反論も怒声も、この男には届かないのだと。
静かな絶望の中で、怒りは氷へと変わる。
血が滲むほどに唇を噛み、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめる。やがて瞼を閉じ、長く息を吐き出したその顔には、冷ややかな仮面が張り付いていた。
「……承知いたしました、父上。私の使命は、あなたがお教えになった通り、この家名を守り、シエナとの同盟を盤石にすること。以後、決して私情に流されることはございません」
彼は頭を垂れた。しかしその所作の陰で、エイドリアンを奪った者すべてを滅ぼすという、冷ややかな誓いが心の奥で固く結ばれていた。
冷徹な誓いの裏で、胸の奥底は荒れ狂っていた。夜のアトリエに独り立った時、それは隠しきれぬほどの姿をあらわにした。
夜の静寂に、乾いた息だけが響く。
ダンテの胸を締めつけるのは、燃え盛る怒りと、どうしようもない自己嫌悪。
愛する者を「敵の手に渡した」のは、紛れもなく自分自身だという罪の自覚だった。
「……ッ、こんなもの!」
テーブルを荒々しく薙ぎ払うと、筆も絵具も水差しも床へ散乱した。
その中で鋼のパレットナイフが甲高い音を立てて転がる。
ダンテは反射的にそれを掴み、震える指先で固く握り締めた。
「こんな幻想、もういらぬ……!」
怒りに任せ、近くの風景画へと刃を突き立てる。
布を裂く鋭い音が響き、色鮮やかな光景は無惨に切り裂かれていく。
次の瞬間には別のキャンバスへ。さらに別の――。
次々と突き刺し、引き裂き、絵は跡形もなく破壊され、破片が床に舞い落ちた。
激しい破壊の嵐の後、ただ一枚だけが残った。
――エイドリアンの肖像画。
穏やかな微笑みが、燭台の灯を受けて静かに浮かび上がっている。
その瞳は、今も変わらず彼を見つめていた。
「……ッ……!」
刃を振り上げる。だが、そこから先に力が入らない。
腕が、肩が、心が、激しく震えた。
どれだけ怒りに呑まれても、この一枚だけは壊せなかった。
カラン、と金属音。
ナイフが床に落ちた。
ダンテは崩れ落ちるように肖像画へと手を伸ばし、胸に引き寄せる。
粗野に裂かれた絵の残骸の中で、その一枚だけが、彼にとっての最後の救いだった。
「……エイドリアンっ……」
絵に縋りつくように額を押し当て、嗚咽が漏れる。
熱い涙が静かに流れ、乾ききった色彩を濡らしていく。
夜のアトリエに響いたのは、ただ彼の名を呼ぶ掠れた声だけだった。
どれほどの時をそうして過ごしたのか。
ダンテは凍てついたアトリエの片隅で、毛布に身をくるみ、椅子の上で膝を抱えたまま、ただエイドリアンの肖像を見つめ続けていた。息は白く曇り、指先はかじかみ、寒さに震えてもなお、その視線だけはキャンバスから離れなかった。
やがて疲労に抗えず、意識が闇に沈む。
目を覚ましたとき、夜明けの光が差し込んでいた。窓辺から斜めに射す柔らかな光が、肖像画の青年の顔に落ちている。
その瞳は、優しさと憂いを宿したまま微笑んでいた。
聖母の慈愛のように、穢れたこの身をも包み込む――そんな錯覚すら覚えるほどに。
ダンテの胸に、静かな震えが広がった。そこにいるのは絵に過ぎないと分かっているのに、救いを求める心はどうしようもなく、彼の名を呼びそうになった。
「……坊ちゃま」
僅かに開いた扉の隙間から、ルチアーナが控えめに声をかけた。
「……なんだ」
低く掠れた声が返る。
「ベッドでお休みになりませんと、お体に障ります」
「……放っておいてくれ」
「――ですが」
「もう私に構うな! 仕事に戻れ!」
叱りつけるような声がアトリエに響く。だがその背は、怒りに燃えているというよりも、ただ深い疲労と絶望に沈んでいた。
ルチアーナはしばし沈黙し、主人の影を見つめた。やがて静かに扉を押し開き、足音も立てずにダンテへと歩み寄る。
そして、両手で大切そうに握りしめていた小さな紙片を差し出した。
「……エイドリアンさんが、坊ちゃまに渡してほしいと託されました」
ダンテは一瞬動きを止め、ルチアーナの瞳を探るように見つめる。震える指先で紙片を受け取ると、息を詰めながらゆっくりと開いた。
そこに刻まれていたのは、たったひとつの短い言葉。
『Il mio cuore è tuo.』
――私の心は、貴方のものです。
視界が滲み、文字が揺れた。ダンテは紙片を胸に押し当て、息を殺すように目を閉じた。
「エイドリアンさんは……邸を出られました。旦那様が、ご温情で祖国へ帰るようにと……そう仰せになったのです」
「では、エイドリアンは……」
「はい。ご無事でございます」
ルチアーナは胸に手を添え、慎重に言葉を選びながら続けた。
「旦那様は、エイドリアンさんのことを最初からスパイとはお疑いではありませんでした。ただ……坊ちゃまを諦めさせるために、あのようにお振る舞いになっただけなのです」
エイドリアンがまだ近くにいる――今なら、もしかしたら間に合うかもしれない。胸の奥で、淡い希望が震えた。しかしその瞬間、ルチアーナの手がそっと自分の手に重ねられた。温もりが伝わり、胸の奥で途切れ途切れに絡まる感情が少しだけ緩む。
「坊ちゃま……。出過ぎたことを申し上げましたら、どうかお許しください。ですが、私にはどうしても――エイドリアンさんが嘘をついてまで、坊ちゃまに取り入ろうとされたとは思えないのです」
「……では、なぜ私の元を離れようとしたのだ」
「それは、エイドリアンさん一人では抗しきれない、背負わねばならぬ使命があるからです。貴方と同じように……」
「…………」
『――僕は遠い未来からきました』
その言葉が、頭の中で何度も反芻された。
胸の奥で絡み合う希望と絶望の狭間で、ダンテは言葉の意味を噛みしめる。
――本当に、彼は未来から来たというのか?
その疑念が、頭の中で渦を巻く。心の奥底では信じたい。あの笑み、あの声、あの仕草――すべてが、今ここにいないはずの彼の存在を証明しているかのようだ。しかし、理性は冷たく突き放す。未来人など、あり得るはずがない。
信じたい自分と、受け入れられない現実がせめぎ合う。胸の奥で熱く、しかしどうしようもなく冷たい感情が絡まり合い、ダンテはただ唇を噛み締めるしかなかった。
「……私の隣にいる時、彼はいつも泣きそうな顔をしていたんだ」
ぽつりと零れた声は、イーゼルに立てかけられたキャンバスへと落ちていく。
――愛を囁くほどに、彼の瞳には影が差した。
その理由を、すべて自分の政略結婚のせいだと決めつけた。
だから、彼の真意を問おうともしなかった。
見ようとさえしなかった。
己の痛みに囚われ、彼を傷つけていたのだ。
そして今さら気づいたところで、彼はもう――。
「……教えてくれルチアーナ。私はこれから、どうすればいい?」
「坊ちゃま……」
ルチアーナの声はわずかに震えていた。その響きに、長く自分を見守ってきた彼女の胸の痛みを感じ取る。
「どうか……そのお心を偽らないでくださいませ。泣きそうなお顔をしていたのは、きっと……エイドリアンさんも同じ思いを抱えていたからです」
ダンテは息を詰めた。
「……同じ思いを?」
ダンテの目は、その一言を掴み取るように、ルチアーナを見下ろした。
「ええ。坊ちゃまの傍らにいられることを願いながらも、叶わぬと知っていた。その苦しみが、あの方のお顔に影を落としていたのでしょう」
ルチアーナの声は震えていた。
「お二人は……互いを想っておられました。ただ、それぞれに背負うものが違う。それだけなのです。どうか――その真実を、お心から追い払わないで」
ダンテは俯いたまま、震える息を吐いた。胸の奥に張り付いていた冷たい絶望の殻が、ルチアーナの言葉という光に、音を立ててひび割れた。
握りしめた紙片に視線を落とす。
『Il mio cuore è tuo.』
――互いを想っていた。ならば。
「……私も――彼に、伝えねばならぬ言葉がある」
かすれた声でそう告げると、自らの中に残っていた力が呼び覚まされる。
「彼が去った理由も、背負うものも、私にはまだ分からない。だが……それでも私が伝えなければならない言葉がある。今、この瞬間に逃せば、私は永遠に彼を失う」
握りしめた紙片を強く胸に抱き、瞳に炎のような光を宿したまま、ダンテはアトリエの椅子から立ち上がった。
それは愛の誓いか、赦しの言葉か、それとも――彼自身すらまだ知らぬ何か。
だが確かなのは、この場所で沈黙し、運命に敗北すれば、彼は永遠にエイドリアンを失ったまま終わってしまう、ということだった。
そこだけが、彼にとって唯一の「光」が息づく場所――エイドリアンの存在があるはずの場所だった。
だが、隣室である書斎へと視線を移した瞬間、血の気が引いた。分厚い鉄の閂が無造作に外され、床に転がっている。
胸の奥を掴み潰されるような焦燥が、次の瞬間には灼熱の怒りへと変わる。ダンテは扉を荒々しく押し開けた。
書斎は、まるで墓所のように静まり返っていた。暖炉の火はとうに絶え、冷えきった石の空気が頬を刺す。
そこにあるはずの匂いも、気配も、何もかもが奪い去られていた。
窓から差し込む冬の淡い光だけが、空っぽのベッドを青白く照らしている。
「……っ、エイドリアン!」
乾ききった声が喉を裂く。
愛した小鳥が、籠ごと根こそぎ持ち去られたのだ。
裏切りか、それとも――。疑念が胸を抉り、ダンテは憤然と振り返った。問い詰めるべき相手を探すように。
だが、そこに立っていたのは一族の家長、カルロ伯爵だった。
父の姿を認めた瞬間、空気はさらに凍りついた。
「……ダンテ。もういい加減にしろ」
低く響いた声は、父のものではなく支配者のそれだった。深淵のような冷たさが、息子の狂気的な愛を無残に踏みにじる。
ダンテは血の気を失った顔で、震える声を絞り出した。
「父上……まさか、彼を逃がしたのですか」
カルロ伯爵は、冷ややかな眼差しのまま微動だにせず答える。
「逃がしたのではない。――お前の言葉どおり、スパイ容疑として公爵閣下に引き渡した」
その名を聞いた瞬間、ダンテの胸を貫いたのは絶望だった。だがそれはすぐ、灼けるような怒りへと変わる。
「どうしてそんな真似を……!」
叫ぶ息子を前にしても、伯爵の声音は一片の揺らぎもない。
「これまでお前の私的な情熱は黙認してきた。だが――家名と使命に背く行為は、もはや看過できぬ」
その声は、父ではなく当主としてのそれだった。
「愚かにも火種を抱え込んだのはお前自身だ。シエナとの婚姻を円滑に進めるためにも、従者の潔白は公爵自らの裁定に委ねるべきだろう」
冷ややかな言葉が、息を呑むほどの静寂の中に落ちた。
カルロ伯爵の眼差しは、ダンテの心の奥底――秘められた愛と執着の闇を見透かすように、鋭く射抜いていた。
――奪われた。汚された。唯一の光を、父は政略の駒として差し出したのだ。
(私が籠から逃がさなかった小鳥を、貴様はより大きな猛禽の手に渡した……)
絶望が喉を締め上げ、怒りが血を逆流させる。父の視線に、もはや息子への情は一片もない。ただ冷酷な支配者の命令だけがそこにある。
「……余計な情を捨てろ。今はただ、シエナとの婚姻を必ず成功させることだけを考えよ。それこそが、お前に許された唯一の生きる道だ」
その時、ダンテの胸に残ったものはただひとつ――燃え尽きるまで消えぬ、暗く深い憎悪だった。
――だが、ダンテは悟る。反論も怒声も、この男には届かないのだと。
静かな絶望の中で、怒りは氷へと変わる。
血が滲むほどに唇を噛み、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめる。やがて瞼を閉じ、長く息を吐き出したその顔には、冷ややかな仮面が張り付いていた。
「……承知いたしました、父上。私の使命は、あなたがお教えになった通り、この家名を守り、シエナとの同盟を盤石にすること。以後、決して私情に流されることはございません」
彼は頭を垂れた。しかしその所作の陰で、エイドリアンを奪った者すべてを滅ぼすという、冷ややかな誓いが心の奥で固く結ばれていた。
冷徹な誓いの裏で、胸の奥底は荒れ狂っていた。夜のアトリエに独り立った時、それは隠しきれぬほどの姿をあらわにした。
夜の静寂に、乾いた息だけが響く。
ダンテの胸を締めつけるのは、燃え盛る怒りと、どうしようもない自己嫌悪。
愛する者を「敵の手に渡した」のは、紛れもなく自分自身だという罪の自覚だった。
「……ッ、こんなもの!」
テーブルを荒々しく薙ぎ払うと、筆も絵具も水差しも床へ散乱した。
その中で鋼のパレットナイフが甲高い音を立てて転がる。
ダンテは反射的にそれを掴み、震える指先で固く握り締めた。
「こんな幻想、もういらぬ……!」
怒りに任せ、近くの風景画へと刃を突き立てる。
布を裂く鋭い音が響き、色鮮やかな光景は無惨に切り裂かれていく。
次の瞬間には別のキャンバスへ。さらに別の――。
次々と突き刺し、引き裂き、絵は跡形もなく破壊され、破片が床に舞い落ちた。
激しい破壊の嵐の後、ただ一枚だけが残った。
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穏やかな微笑みが、燭台の灯を受けて静かに浮かび上がっている。
その瞳は、今も変わらず彼を見つめていた。
「……ッ……!」
刃を振り上げる。だが、そこから先に力が入らない。
腕が、肩が、心が、激しく震えた。
どれだけ怒りに呑まれても、この一枚だけは壊せなかった。
カラン、と金属音。
ナイフが床に落ちた。
ダンテは崩れ落ちるように肖像画へと手を伸ばし、胸に引き寄せる。
粗野に裂かれた絵の残骸の中で、その一枚だけが、彼にとっての最後の救いだった。
「……エイドリアンっ……」
絵に縋りつくように額を押し当て、嗚咽が漏れる。
熱い涙が静かに流れ、乾ききった色彩を濡らしていく。
夜のアトリエに響いたのは、ただ彼の名を呼ぶ掠れた声だけだった。
どれほどの時をそうして過ごしたのか。
ダンテは凍てついたアトリエの片隅で、毛布に身をくるみ、椅子の上で膝を抱えたまま、ただエイドリアンの肖像を見つめ続けていた。息は白く曇り、指先はかじかみ、寒さに震えてもなお、その視線だけはキャンバスから離れなかった。
やがて疲労に抗えず、意識が闇に沈む。
目を覚ましたとき、夜明けの光が差し込んでいた。窓辺から斜めに射す柔らかな光が、肖像画の青年の顔に落ちている。
その瞳は、優しさと憂いを宿したまま微笑んでいた。
聖母の慈愛のように、穢れたこの身をも包み込む――そんな錯覚すら覚えるほどに。
ダンテの胸に、静かな震えが広がった。そこにいるのは絵に過ぎないと分かっているのに、救いを求める心はどうしようもなく、彼の名を呼びそうになった。
「……坊ちゃま」
僅かに開いた扉の隙間から、ルチアーナが控えめに声をかけた。
「……なんだ」
低く掠れた声が返る。
「ベッドでお休みになりませんと、お体に障ります」
「……放っておいてくれ」
「――ですが」
「もう私に構うな! 仕事に戻れ!」
叱りつけるような声がアトリエに響く。だがその背は、怒りに燃えているというよりも、ただ深い疲労と絶望に沈んでいた。
ルチアーナはしばし沈黙し、主人の影を見つめた。やがて静かに扉を押し開き、足音も立てずにダンテへと歩み寄る。
そして、両手で大切そうに握りしめていた小さな紙片を差し出した。
「……エイドリアンさんが、坊ちゃまに渡してほしいと託されました」
ダンテは一瞬動きを止め、ルチアーナの瞳を探るように見つめる。震える指先で紙片を受け取ると、息を詰めながらゆっくりと開いた。
そこに刻まれていたのは、たったひとつの短い言葉。
『Il mio cuore è tuo.』
――私の心は、貴方のものです。
視界が滲み、文字が揺れた。ダンテは紙片を胸に押し当て、息を殺すように目を閉じた。
「エイドリアンさんは……邸を出られました。旦那様が、ご温情で祖国へ帰るようにと……そう仰せになったのです」
「では、エイドリアンは……」
「はい。ご無事でございます」
ルチアーナは胸に手を添え、慎重に言葉を選びながら続けた。
「旦那様は、エイドリアンさんのことを最初からスパイとはお疑いではありませんでした。ただ……坊ちゃまを諦めさせるために、あのようにお振る舞いになっただけなのです」
エイドリアンがまだ近くにいる――今なら、もしかしたら間に合うかもしれない。胸の奥で、淡い希望が震えた。しかしその瞬間、ルチアーナの手がそっと自分の手に重ねられた。温もりが伝わり、胸の奥で途切れ途切れに絡まる感情が少しだけ緩む。
「坊ちゃま……。出過ぎたことを申し上げましたら、どうかお許しください。ですが、私にはどうしても――エイドリアンさんが嘘をついてまで、坊ちゃまに取り入ろうとされたとは思えないのです」
「……では、なぜ私の元を離れようとしたのだ」
「それは、エイドリアンさん一人では抗しきれない、背負わねばならぬ使命があるからです。貴方と同じように……」
「…………」
『――僕は遠い未来からきました』
その言葉が、頭の中で何度も反芻された。
胸の奥で絡み合う希望と絶望の狭間で、ダンテは言葉の意味を噛みしめる。
――本当に、彼は未来から来たというのか?
その疑念が、頭の中で渦を巻く。心の奥底では信じたい。あの笑み、あの声、あの仕草――すべてが、今ここにいないはずの彼の存在を証明しているかのようだ。しかし、理性は冷たく突き放す。未来人など、あり得るはずがない。
信じたい自分と、受け入れられない現実がせめぎ合う。胸の奥で熱く、しかしどうしようもなく冷たい感情が絡まり合い、ダンテはただ唇を噛み締めるしかなかった。
「……私の隣にいる時、彼はいつも泣きそうな顔をしていたんだ」
ぽつりと零れた声は、イーゼルに立てかけられたキャンバスへと落ちていく。
――愛を囁くほどに、彼の瞳には影が差した。
その理由を、すべて自分の政略結婚のせいだと決めつけた。
だから、彼の真意を問おうともしなかった。
見ようとさえしなかった。
己の痛みに囚われ、彼を傷つけていたのだ。
そして今さら気づいたところで、彼はもう――。
「……教えてくれルチアーナ。私はこれから、どうすればいい?」
「坊ちゃま……」
ルチアーナの声はわずかに震えていた。その響きに、長く自分を見守ってきた彼女の胸の痛みを感じ取る。
「どうか……そのお心を偽らないでくださいませ。泣きそうなお顔をしていたのは、きっと……エイドリアンさんも同じ思いを抱えていたからです」
ダンテは息を詰めた。
「……同じ思いを?」
ダンテの目は、その一言を掴み取るように、ルチアーナを見下ろした。
「ええ。坊ちゃまの傍らにいられることを願いながらも、叶わぬと知っていた。その苦しみが、あの方のお顔に影を落としていたのでしょう」
ルチアーナの声は震えていた。
「お二人は……互いを想っておられました。ただ、それぞれに背負うものが違う。それだけなのです。どうか――その真実を、お心から追い払わないで」
ダンテは俯いたまま、震える息を吐いた。胸の奥に張り付いていた冷たい絶望の殻が、ルチアーナの言葉という光に、音を立ててひび割れた。
握りしめた紙片に視線を落とす。
『Il mio cuore è tuo.』
――互いを想っていた。ならば。
「……私も――彼に、伝えねばならぬ言葉がある」
かすれた声でそう告げると、自らの中に残っていた力が呼び覚まされる。
「彼が去った理由も、背負うものも、私にはまだ分からない。だが……それでも私が伝えなければならない言葉がある。今、この瞬間に逃せば、私は永遠に彼を失う」
握りしめた紙片を強く胸に抱き、瞳に炎のような光を宿したまま、ダンテはアトリエの椅子から立ち上がった。
それは愛の誓いか、赦しの言葉か、それとも――彼自身すらまだ知らぬ何か。
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