吸血鬼の花嫁

よしゆき

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 透の意識は徐々に覚醒する。
 もう朝だろうか。今は何時なのだろう。アラームは鳴っていないから、まだ寝ていても大丈夫なはずだ。
 体がだるくて、動きたくない。どうしてこんなに疲れているのだろう。柔道で体を動かしても、今まで翌日に影響はなかったのに。
 まだ頭がぼんやりしている。温かくて心地よくて、このままずっと微睡んでいたくなる。
 肌に触れるシーツの感触がサラサラで気持ちいい。まるでシルクのようだ。でも、透のベッドのシーツはもっと安っぽいはずだ。
 というか、ひょっとして自分は今、なにも身につけていないのではないか。気のせいかと思ったが、どう考えても全裸だ。パジャマを着てなければ、パンツも穿いていない。
 どういうことだろう。自分は昨日、裸で寝たのだろうか。それとも寝苦しくて寝ぼけて脱いだのか。そんなことあるだろうか。でも実際、自分は今全裸なのだ。
 そもそも、自分はいつ寝たのだろう。
 記憶を遡ろうとするが、うまくいかない。
 昨日は学校の帰りに、柔道教室へ行った。それは覚えている。いつも通り稽古をして、教室の前で同級生と別れた。それも覚えている。
 でも、そのあとは? 
 そこまで考えて、透ははっと目を開いた。
 目の前には、男の、裸の、胸があった。
 サーッと血の気が引いていく。
 透は恐る恐る顔を上げた。
 そこには、目も眩むような美貌の青年が、蜂蜜のように甘く蕩ける笑みを浮かべこちらを見つめていた。

「おはよう、透」

 愛しい恋人に向けるような甘い甘い声音で挨拶をされても、透はただぱくぱくと口を開くことしかできない。

「ぐっすり眠ってたね。透の可愛い寝顔をたっぷり堪能できて嬉しかったよ。もちろん起きてても可愛いよ。ふふ、目が真ん丸になってる。可愛いなぁ」

 ちゅ、と自然な動作で額にキスをされた。

「うわあああああ!!」

 絶叫とともに透はベッドから逃げ出した。転げ落ちた。
 青年は驚いて、体を起こす。

「透!? 大丈夫!?」
「ここここっちに来るなぁ!!」

 伸ばされた腕を避けるように、透は素早く立ち上がって後退った。背中に壁が当たり、びっくりして尻餅をついてしまう。
 猫のように相手を威嚇する透に、青年は戸惑っていた。

「透? どうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるか!! お前は誰だ!!」
「えっ、教えたのに、俺の名前忘れちゃったの……?」
「そうじゃない!!」

 覚えている。思い出した。忘れていたかったけれど、しっかり記憶に残っている。
 記憶が蘇り、透は青くなったり赤くなったりと忙しい。
 柔道教室の帰り道、彼と出会ったのだ。そしてなぜが意識をなくした透は、目覚めると彼と共にベッドの上にいた。
 彼はシュウと名乗った。そして透にキスをして、そして、そして……。
 ぶわっと一気に熱が上がる。
 
「あ、ああ、あたしはなんつーことを……」

 夢だと思っていた。だって夢を見ているみたいに頭がぼうっとしていた。シュウのような美しい青年が、透のようなちんちくりんに手を出すなんて、現実ではあり得ないと思った。なにをされても気持ちよくて、抱き締められると心地よくて、本当に、まるで夢の中にいるみたいだったのだ。
 夢だったのだと思いたい。
 でも、今、透の意識ははっきりしていて。今、この時間は確かに現実で。夢の中の住人だと思っていたシュウは目の前にいて。つまり彼は夢の中の住人ではなく現実にいる人間で。体はだるくて。脚の間はじんじんしていて。まだ中になにかが挟まっているような感覚が残っていて。
 
「んのおおおぉ……!!」

 透は頭を抱えた。
 シュウが名前を呼んでいたが、透の耳には届いていなかった。
 夢じゃなかった。夢ではなかったのだ。
 つまり自分は、初対面の男に簡単に足を開くような尻軽だったということだ。
 夢だと思っていたとはいえ、抵抗もせず、快楽に溺れ、処女のくせに感じまくっていた。
 知らなかった。知りたくなかった。自分は快感に弱い、淫乱な女だという事実なんて。知らずにいたかった。
 あれは決して強姦ではない。合意の上の行為だった。不本意だが、そういうことになる。
 だから、そのことについてはシュウを責められない。
 だがしかし、だ。そもそも、彼は誰なんだ、という話だ。
 取り乱してしまったが、今は冷静に状況を把握する必要がある。そのためには、彼に説明を求めなければならない。
 深呼吸をして心を落ち着けてから、透はベッドの方へ顔を向けた。
 シュウが心配そうにこちらを見ている。

「透、透? 大丈夫? 頭が痛いの?」
「うわあっ、動くな、立ち上がるな、下半身を隠せ!!」

 ベッドを下りてこちらに来ようとするシュウを止める。彼は全裸なのだ。丸見えの状態では目のやり場に困り、話ができなくなる。
 自分も全裸だということを思い出し、今さら腕で胸を隠した。ささやかだろうと貧相だろうと透だって年頃の女の子なのだ。

「なあ、えっと、シュウ……?」
「! うん、なに?」

 名前を呼んだだけで、彼は嬉しそうに顔を綻ばせる。

「なんか、着るものがほしいんだけど……Tシャツでもジャージでも、なんでもいいから」
「わかった」

 頷いて、シュウはパチリと指を鳴らす。
 すると、透の頭上からふわりとなにかが落ちてきた。ヒラヒラと、舞うように透の目の前を通り、床に落ちる。
 透は天井を見上げた。なんの変哲もない天井だ。穴が開いていて、そこから落ちてきたのではないようだ。

「それを着ていいよ」

 シュウの言葉に、視線を下に落とす。
 落ちてきた淡いピンク色の布切れを、指で摘んで広げてみる。
 それはベビードールと呼ばれるものだった。布地が少なく、すけすけで、フリフリで、着たところでなにも隠せないような。

「こんなもん着れるか!!」

 透はそれを床に叩きつけた。
 これを着るくらいなら、全裸でいた方がマシだ。
 シュウがええー! と不満げな声を上げるが知ったことではない。

「着てよ、透。きっと似合うよ」
「似合うわけないだろ!」
「似合うのにー! 透が着てるとこ見たいよ」
「うるさい! もういい、とにかく説明をしろ!」
「説明って?」
「お前は誰だ」
「シュウだよ」
「それは知ってる。昨日、シュウと会ったとき、あたしは気絶したんだよな? それで、シュウがここにあたしを連れてきたってことだよな?」
「うん、まあ、そうだね」
「なんのために?」

 まさか透の体が目当てというわけではあるまい。この美貌なら、女など選り取り見取りのはずだ。

「透が、俺の運命だったから」
「は?」

 透は思いっきり顔を顰めた。
 苦笑を浮かべたシュウは、とんでもないことを言いはじめる。

「俺は吸血鬼なんだ。吸血鬼はずっと、出会うまで運命の相手を捜しつづける。そういう生き物なんだ」
「吸血鬼って、あの、血を吸うやつだよな……?」
「透が考えてるのとは違うかも。十字架もニンニクも朝日も銀も弱点じゃないし、心臓を杭で打たれても死なない。血は吸うけど、自分の運命の相手の血しか飲まない。血は吸うから吸血鬼って呼ばれてるけど、体はほとんど魔物なんだと思う」
「ま、魔物……」

 だめだ、全く話が理解できない。
 
「それって、冗談とかで言ってる?」

 シュウは苦笑を深めた。

「ごめんね。いきなりこんなこと言われても、人間の透には難しいよね。全部、本当のことなんだ」

 言いながら、シュウは全裸のままベッドを下りて立ち上がる。
 透が声を上げようとした次の瞬間には、彼は衣服を身に付けていた。白いシャツに、黒いパンツ。とてもシンプルだが、モデルのように完璧に着こなしている。
 驚愕に目を丸くする透を見ながら、シュウはベッドに腰を下ろした。

「これくらい、簡単なんだ。俺達にとっては」

 透は床に叩きつけた卑猥な布切れを見る。手品かなにかのように思っていたが、これは彼が魔法かなにかで出したものなのだろうか。
 呆然と、視線をシュウに戻す。彼は瞳を曇らせた。

「透、怖い? 俺を気味悪いって思う?」
「別に、そんな風には思わないけど……」

 それは本心だった。便利だな、とは思うけれど、恐怖を感じたりはしていない。
 それにまだ、あまり実感がない。目の前の青年が人間ではないなんて。外見は人間にしか見えないのだ。

「つまり、シュウは吸血鬼で」
「うん」
「あたしが、シュウの捜していた運命の相手? とかいうやつで」
「運命の相手とか、吸血鬼の花嫁や花婿とか、呼ばれ方は色々あるよ。吸血鬼にとっての唯一だね」
「あたしが、シュウにとっての唯一……?」
「そうだよ。運命の相手は、一目見ればすぐにわかる。だから透を見て、この子が俺の花嫁だって思って、嬉しくなって抱き締めちゃったんだ。驚かせてごめんね」

 あのとき、シュウは言ったのだ。透を見て、「やっと会えた」と。その意味が今わかった。

「あのとき気絶したのって、シュウがなにかしたのか?」
「うん、俺が眠らせた」
「で、意識のないあたしをここに運んだ」
「うん」
「誘拐じゃねーか! あたしが運命だか花嫁だか知らないけど、あたしの意思を無視してなに勝手なことを……っつーか、ここってどこ!? 忘れてたけど、家にも連絡してないし! 無断外泊じゃん!」

 透は蒼白になって喚いた。
 無断外泊なんて今まで一度もしたことがないのだ。連絡もせず家に帰らなかったら、きっと事件や事故に巻き込まれていると思われるだろう。実際に誘拐されているし。
 きっと家族は心配している。早く連絡しなくては。鞄にスマホが入っている。部屋の中を見回すが、鞄は見当たらない。

「シュウ、あたしの鞄は!?」
「ちゃんとあるよ。大丈夫だよ、透。ここは現実と切り離された空間だから」
「大丈夫じゃねーし! 警察沙汰になってるかもしれねーんだぞ!」
「透を眠らせたあと、すぐにここに来たから、ここを出ればまたそこから時間が動き出すから。ええっとつまり、ここを出たら、俺達が最初に会ったあの時間に戻れるから大丈夫」
「…………まじか」
「うん」
「ほんとに、そんな漫画みたいなことあり得るのか?」
「うん」

 シュウがあまりにも簡単に言うものだから、いまいち信用に欠ける。じとーっと睨み付けても、彼はニコニコ笑うだけだ。

「まあいいや。とにかくここを出たら昨日に戻るんだよな。あたしもう帰るから」
「ええ、だめだよっ」
「なんでだよっ。とにかく帰る! いい加減、服貸せよ! じゃない、制服返せよ! あと鞄……」

 そのとき、ぐおおおお……という獣の鳴き声のような音が透の腹から響いた。
 女子らしからぬ豪快な腹の音に、さすがの透も赤面する。
 思えば、昨日の夜ご飯を食べ損なっているのだ。寧ろ今までよく空腹を感じずにいられたものだ。

「お腹が空いたんだね、ご飯を食べよう」
「ご飯、あるのか……?」
「うん、ちゃんと用意してあるよ」
「あたしが食べられるやつ?」
「もちろん。ちゃんとした食材で作ったものだよ」

 一度意識すると、耐え難いほどの空腹を感じた。もう、少しも我慢できない。食べられるならなんでもいいから食べたかった。
 帰るのは、食べてからでもいいだろう。まずは腹拵えだ。





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