4 / 7
4
しおりを挟む透の意識は徐々に覚醒する。
もう朝だろうか。今は何時なのだろう。アラームは鳴っていないから、まだ寝ていても大丈夫なはずだ。
体がだるくて、動きたくない。どうしてこんなに疲れているのだろう。柔道で体を動かしても、今まで翌日に影響はなかったのに。
まだ頭がぼんやりしている。温かくて心地よくて、このままずっと微睡んでいたくなる。
肌に触れるシーツの感触がサラサラで気持ちいい。まるでシルクのようだ。でも、透のベッドのシーツはもっと安っぽいはずだ。
というか、ひょっとして自分は今、なにも身につけていないのではないか。気のせいかと思ったが、どう考えても全裸だ。パジャマを着てなければ、パンツも穿いていない。
どういうことだろう。自分は昨日、裸で寝たのだろうか。それとも寝苦しくて寝ぼけて脱いだのか。そんなことあるだろうか。でも実際、自分は今全裸なのだ。
そもそも、自分はいつ寝たのだろう。
記憶を遡ろうとするが、うまくいかない。
昨日は学校の帰りに、柔道教室へ行った。それは覚えている。いつも通り稽古をして、教室の前で同級生と別れた。それも覚えている。
でも、そのあとは?
そこまで考えて、透ははっと目を開いた。
目の前には、男の、裸の、胸があった。
サーッと血の気が引いていく。
透は恐る恐る顔を上げた。
そこには、目も眩むような美貌の青年が、蜂蜜のように甘く蕩ける笑みを浮かべこちらを見つめていた。
「おはよう、透」
愛しい恋人に向けるような甘い甘い声音で挨拶をされても、透はただぱくぱくと口を開くことしかできない。
「ぐっすり眠ってたね。透の可愛い寝顔をたっぷり堪能できて嬉しかったよ。もちろん起きてても可愛いよ。ふふ、目が真ん丸になってる。可愛いなぁ」
ちゅ、と自然な動作で額にキスをされた。
「うわあああああ!!」
絶叫とともに透はベッドから逃げ出した。転げ落ちた。
青年は驚いて、体を起こす。
「透!? 大丈夫!?」
「ここここっちに来るなぁ!!」
伸ばされた腕を避けるように、透は素早く立ち上がって後退った。背中に壁が当たり、びっくりして尻餅をついてしまう。
猫のように相手を威嚇する透に、青年は戸惑っていた。
「透? どうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるか!! お前は誰だ!!」
「えっ、教えたのに、俺の名前忘れちゃったの……?」
「そうじゃない!!」
覚えている。思い出した。忘れていたかったけれど、しっかり記憶に残っている。
記憶が蘇り、透は青くなったり赤くなったりと忙しい。
柔道教室の帰り道、彼と出会ったのだ。そしてなぜが意識をなくした透は、目覚めると彼と共にベッドの上にいた。
彼はシュウと名乗った。そして透にキスをして、そして、そして……。
ぶわっと一気に熱が上がる。
「あ、ああ、あたしはなんつーことを……」
夢だと思っていた。だって夢を見ているみたいに頭がぼうっとしていた。シュウのような美しい青年が、透のようなちんちくりんに手を出すなんて、現実ではあり得ないと思った。なにをされても気持ちよくて、抱き締められると心地よくて、本当に、まるで夢の中にいるみたいだったのだ。
夢だったのだと思いたい。
でも、今、透の意識ははっきりしていて。今、この時間は確かに現実で。夢の中の住人だと思っていたシュウは目の前にいて。つまり彼は夢の中の住人ではなく現実にいる人間で。体はだるくて。脚の間はじんじんしていて。まだ中になにかが挟まっているような感覚が残っていて。
「んのおおおぉ……!!」
透は頭を抱えた。
シュウが名前を呼んでいたが、透の耳には届いていなかった。
夢じゃなかった。夢ではなかったのだ。
つまり自分は、初対面の男に簡単に足を開くような尻軽だったということだ。
夢だと思っていたとはいえ、抵抗もせず、快楽に溺れ、処女のくせに感じまくっていた。
知らなかった。知りたくなかった。自分は快感に弱い、淫乱な女だという事実なんて。知らずにいたかった。
あれは決して強姦ではない。合意の上の行為だった。不本意だが、そういうことになる。
だから、そのことについてはシュウを責められない。
だがしかし、だ。そもそも、彼は誰なんだ、という話だ。
取り乱してしまったが、今は冷静に状況を把握する必要がある。そのためには、彼に説明を求めなければならない。
深呼吸をして心を落ち着けてから、透はベッドの方へ顔を向けた。
シュウが心配そうにこちらを見ている。
「透、透? 大丈夫? 頭が痛いの?」
「うわあっ、動くな、立ち上がるな、下半身を隠せ!!」
ベッドを下りてこちらに来ようとするシュウを止める。彼は全裸なのだ。丸見えの状態では目のやり場に困り、話ができなくなる。
自分も全裸だということを思い出し、今さら腕で胸を隠した。ささやかだろうと貧相だろうと透だって年頃の女の子なのだ。
「なあ、えっと、シュウ……?」
「! うん、なに?」
名前を呼んだだけで、彼は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「なんか、着るものがほしいんだけど……Tシャツでもジャージでも、なんでもいいから」
「わかった」
頷いて、シュウはパチリと指を鳴らす。
すると、透の頭上からふわりとなにかが落ちてきた。ヒラヒラと、舞うように透の目の前を通り、床に落ちる。
透は天井を見上げた。なんの変哲もない天井だ。穴が開いていて、そこから落ちてきたのではないようだ。
「それを着ていいよ」
シュウの言葉に、視線を下に落とす。
落ちてきた淡いピンク色の布切れを、指で摘んで広げてみる。
それはベビードールと呼ばれるものだった。布地が少なく、すけすけで、フリフリで、着たところでなにも隠せないような。
「こんなもん着れるか!!」
透はそれを床に叩きつけた。
これを着るくらいなら、全裸でいた方がマシだ。
シュウがええー! と不満げな声を上げるが知ったことではない。
「着てよ、透。きっと似合うよ」
「似合うわけないだろ!」
「似合うのにー! 透が着てるとこ見たいよ」
「うるさい! もういい、とにかく説明をしろ!」
「説明って?」
「お前は誰だ」
「シュウだよ」
「それは知ってる。昨日、シュウと会ったとき、あたしは気絶したんだよな? それで、シュウがここにあたしを連れてきたってことだよな?」
「うん、まあ、そうだね」
「なんのために?」
まさか透の体が目当てというわけではあるまい。この美貌なら、女など選り取り見取りのはずだ。
「透が、俺の運命だったから」
「は?」
透は思いっきり顔を顰めた。
苦笑を浮かべたシュウは、とんでもないことを言いはじめる。
「俺は吸血鬼なんだ。吸血鬼はずっと、出会うまで運命の相手を捜しつづける。そういう生き物なんだ」
「吸血鬼って、あの、血を吸うやつだよな……?」
「透が考えてるのとは違うかも。十字架もニンニクも朝日も銀も弱点じゃないし、心臓を杭で打たれても死なない。血は吸うけど、自分の運命の相手の血しか飲まない。血は吸うから吸血鬼って呼ばれてるけど、体はほとんど魔物なんだと思う」
「ま、魔物……」
だめだ、全く話が理解できない。
「それって、冗談とかで言ってる?」
シュウは苦笑を深めた。
「ごめんね。いきなりこんなこと言われても、人間の透には難しいよね。全部、本当のことなんだ」
言いながら、シュウは全裸のままベッドを下りて立ち上がる。
透が声を上げようとした次の瞬間には、彼は衣服を身に付けていた。白いシャツに、黒いパンツ。とてもシンプルだが、モデルのように完璧に着こなしている。
驚愕に目を丸くする透を見ながら、シュウはベッドに腰を下ろした。
「これくらい、簡単なんだ。俺達にとっては」
透は床に叩きつけた卑猥な布切れを見る。手品かなにかのように思っていたが、これは彼が魔法かなにかで出したものなのだろうか。
呆然と、視線をシュウに戻す。彼は瞳を曇らせた。
「透、怖い? 俺を気味悪いって思う?」
「別に、そんな風には思わないけど……」
それは本心だった。便利だな、とは思うけれど、恐怖を感じたりはしていない。
それにまだ、あまり実感がない。目の前の青年が人間ではないなんて。外見は人間にしか見えないのだ。
「つまり、シュウは吸血鬼で」
「うん」
「あたしが、シュウの捜していた運命の相手? とかいうやつで」
「運命の相手とか、吸血鬼の花嫁や花婿とか、呼ばれ方は色々あるよ。吸血鬼にとっての唯一だね」
「あたしが、シュウにとっての唯一……?」
「そうだよ。運命の相手は、一目見ればすぐにわかる。だから透を見て、この子が俺の花嫁だって思って、嬉しくなって抱き締めちゃったんだ。驚かせてごめんね」
あのとき、シュウは言ったのだ。透を見て、「やっと会えた」と。その意味が今わかった。
「あのとき気絶したのって、シュウがなにかしたのか?」
「うん、俺が眠らせた」
「で、意識のないあたしをここに運んだ」
「うん」
「誘拐じゃねーか! あたしが運命だか花嫁だか知らないけど、あたしの意思を無視してなに勝手なことを……っつーか、ここってどこ!? 忘れてたけど、家にも連絡してないし! 無断外泊じゃん!」
透は蒼白になって喚いた。
無断外泊なんて今まで一度もしたことがないのだ。連絡もせず家に帰らなかったら、きっと事件や事故に巻き込まれていると思われるだろう。実際に誘拐されているし。
きっと家族は心配している。早く連絡しなくては。鞄にスマホが入っている。部屋の中を見回すが、鞄は見当たらない。
「シュウ、あたしの鞄は!?」
「ちゃんとあるよ。大丈夫だよ、透。ここは現実と切り離された空間だから」
「大丈夫じゃねーし! 警察沙汰になってるかもしれねーんだぞ!」
「透を眠らせたあと、すぐにここに来たから、ここを出ればまたそこから時間が動き出すから。ええっとつまり、ここを出たら、俺達が最初に会ったあの時間に戻れるから大丈夫」
「…………まじか」
「うん」
「ほんとに、そんな漫画みたいなことあり得るのか?」
「うん」
シュウがあまりにも簡単に言うものだから、いまいち信用に欠ける。じとーっと睨み付けても、彼はニコニコ笑うだけだ。
「まあいいや。とにかくここを出たら昨日に戻るんだよな。あたしもう帰るから」
「ええ、だめだよっ」
「なんでだよっ。とにかく帰る! いい加減、服貸せよ! じゃない、制服返せよ! あと鞄……」
そのとき、ぐおおおお……という獣の鳴き声のような音が透の腹から響いた。
女子らしからぬ豪快な腹の音に、さすがの透も赤面する。
思えば、昨日の夜ご飯を食べ損なっているのだ。寧ろ今までよく空腹を感じずにいられたものだ。
「お腹が空いたんだね、ご飯を食べよう」
「ご飯、あるのか……?」
「うん、ちゃんと用意してあるよ」
「あたしが食べられるやつ?」
「もちろん。ちゃんとした食材で作ったものだよ」
一度意識すると、耐え難いほどの空腹を感じた。もう、少しも我慢できない。食べられるならなんでもいいから食べたかった。
帰るのは、食べてからでもいいだろう。まずは腹拵えだ。
────────────
読んでくださってありがとうございます。
応援ありがとうございます!
3
お気に入りに追加
178
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる