9 / 10
奈々生の場合
1
しおりを挟む「司紋くん、おはよう」
奈々生は前を歩いていた男の子に元気よく声をかけた。
声をかけられた少年は、こちらを振り返る。
「おはよう」
そっけなく、けれどきちんと挨拶を返してくれる彼は、司紋という名前の小学六年生の男の子だ。数ヵ月前、奈々生の暮らすマンションの隣の部屋に親子三人で引っ越してきた。
誰もが見惚れる美形家族だ。彼らが挨拶に訪ねてきたとき、奈々生も奈々生の両親も例外なく見惚れてしまった。
司紋はまだ小学生だが、可愛いというよりもカッコいいという風貌だ。体格はまだまだ子供だが、鋭い目付きがクールで、性格も大人びている。奈々生は高校生だが、小学生の彼の方がずっと落ち着いていて、年上として恥ずかしい思いをすることが多々あった。
無愛想で、笑うことはあまりないのだが、司紋は挨拶をすればちゃんと返してくれる。彼の方から声をかけてくれることもある。
お互いの両親も顔を合わせる内に次第に親しくなり、家族ぐるみで何度か一緒に食事をするほど親交が深まっていた。
「それでね、今度お母さんとなんとかっていうお菓子を作ってみようって話してて」
「なんとかってなんだよ」
「えーっと……カタカナで、なんか長い名前なの……アプなんだかかんだか……ヨーデル? みたいな?」
「なんだよそれ」
司紋の呆れた視線が突き刺さる。奈々生は笑って誤魔化した。
「あはは。美味しくできたら、司紋くんのとこにお裾分けに行くからね」
「期待して待っててやる」
「えへへ、司紋くんに期待されると嬉しい」
「奈々生の料理だけは期待できるからな」
「……それって誉めてるんだよね?」
「自分で考えろ」
そんな他愛ない会話をしながら、並んで通学路を歩く。
時間が合えばほぼ毎日、こうして途中まで一緒に登校していた。
奈々生にとって司紋は、年の離れた友人のような存在だった。年齢は違うけれど、一緒にいて苦にならない。同年代とは違う彼との会話は新鮮で、楽しかった。大切な、友人の一人。
それだけだったはずなのに。
奈々生の気持ちが変化したのは、本当に些細なことがきっかけだった。
ある日、奈々生は学校帰りにスーパーで買い物をした。ついつい、あれもこれもと手を出して、買いすぎてしまった。
両手いっぱいに荷物を持って、自宅までの道のりを歩いていた。
足元をよく見ていなかった奈々生は、石に躓いて盛大に転んだ。うつ伏せで、大の字に。思い切り顔面をぶつけた。スカートは捲り上がり、パンツが丸見えだった。持っていた荷物は袋から飛び出し辺りに散らばった。
周囲から、クスクスと笑う声が聞こえてくる。恥ずかしくて、俯きながら体を起こす。ポタポタと、地面に血が滴り落ちた。顔面を打ち付けたせいで鼻血が出ていた。
周りからの嘲笑と、自分の惨めさに泣きたくなる。
そのときだ。
「大丈夫か?」
目の前に差し出された、小さな手。
顔を上げると、司紋がそこにいた。
きっと奈々生は酷い状態だっただろう。顔も制服も土で汚れ、鼻血まで垂らしている。
けれど、そんな奈々生を見ても、彼は笑わなかった。ポケットからハンカチを取り出し、鼻血を拭ってくれた。
ずきゅーん、と心臓を撃ち抜かれた。
自分でもチョロすぎるとは思う。でも、そのときの司紋が男らしくて、優しくて、カッコよくて、どうしようもなく胸がときめいてしまったのだ。
奈々生が恋に落ちた瞬間だった。
誓って言うが、奈々生は少年愛者ではない。子供は好きだが、恋愛対象として見たことなど一度もない。もちろん性的な目で見たこともない。
それなのに、小学生に恋をした。
それだけでも大問題なのに、更に厄介なのが奈々生の体質だ。
ご先祖様に兎がいて、その兎の血を受け継いだ奈々生の家系は、好意を抱いた相手の傍にいると発情するという体質を持って生まれる。
つまり奈々生は小学生相手に発情する変質者になってしまったのだ。
焦った奈々生は、その日から可能な限り司紋と顔を合わせないようにした。登校時間をずらし、一緒に登校するのを避けた。見かけても、彼が気づいていないときは声をかけない。ばったり鉢合わせたときは、挨拶だけして、適当な理由を告げてそそくさと立ち去る。
好きなのに、傍にいられない。本当は会いたい。話がしたい。声が聞きたい。顔を見たい。
でも、彼に恋をしてしまった奈々生はそれだけでは済まないのだ。
会って顔を見て声を聞けば、彼に触れたくて堪らなくなる。触れてほしくて体が疼く。
こんな状態では、とてもじゃないが顔を合わせられない。だからひたすら彼を避けた。
そんな日々がつづいたある日。
帰宅中、奈々生は前を歩く司紋の姿を見つけた。以前なら、なんの気兼ねもなく声をかけられた。駆け寄る奈々生を、彼は待っていてくれる。そして取り留めのない話をしながら一緒に帰るのだ。
でも今は、ストーカーのようにこうして遠くからこっそり見つめることしかできない。
悲しくて泣きたくなった。
更に悲惨なことに、司紋は一人ではなかった。隣に、同年代と思われる女の子がいたのだ。
チラリと見えた少女の顔は、人形のように愛らしかった。
司紋は無表情だけれど、それはいつものことだ。少女の方は可憐な笑顔を浮かべ、一生懸命彼に話しかけている。
どこからどう見ても、可愛いお似合いのカップルだ。
奈々生は足を止めて顔を背けた。
このまま見ていたら、衝動に任せてなにをしてしまうかわからない。二人の間に割り込み、司紋は自分のものだと叫んでしまいそうだった。
少女への嫉妬が胸の内を渦巻いている。
あんな少女より、自分の方がずっと司紋のことが好きだ。好きで好きで毎晩彼のことを考えて悶々としているのだ。奈々生より歳が近くて、美少女だからって、司紋の隣を、まるでそこが自分の特等席のように陣取って、奈々生だって彼と並んで歩きたいのに、話だってしたいのに、奈々生が司紋を好きにさえならなければ、今だって彼の隣にいられたのに。
どうすることもできない現実に胸が苦しくなる。
司紋はあの子が好きなのだろうか。好きになるのだろうか。
あの子の名前を呼んで、好きだと言うのか。手を繋ぐのか。抱き締めたりキスしたり、それ以上のことをあの子とするのだろうか。
そんなの嫌だ。耐えられない。
それならいっそ、無理やりにでも自分のものに──。
そこまで考えて、奈々生は我に返る。首を横に振って沸き上がる欲望を振り払った。
自分で自分が怖くなる。このままでは、嫉妬に狂ってなにをしでかすかわからない。
司紋は男の子だが、まだ小学生なのだ。奈々生より身長も低いし、体重も軽い。奈々生が本気で襲いかかれば、彼は逃げられないかもしれない。
襲われ、必死に助けを求める司紋の姿を想像し、奈々生は震えた。
自分はなんて恐ろしいことを考えてしまったのだろう。
犯罪に走る前に、彼から完全に離れるべきだ。今以上に距離を置き、徹底的に避け、彼の姿を目に写してはいけない。
奈々生は涙を飲んで、今以上に司紋との接触を避けた。
会ってはいけないと思うと余計に会いたくなり、つい司紋の姿を捜してしまいそうになる。そんな自分を必死で押さえつけ、奈々生はほとんど司紋と顔を合わせなくなった。
それでも彼を想う気持ちは薄れることはなく、寧ろ募っていくばかりで、それなのに会えないという辛い日々に奈々生の心は弱っていった。
そんな状態で迎えた大型連休は、なんの楽しみもなかった。
両親は仕事なので家族で出掛ける予定は元々なかった。友達に遊びに誘われたが断った。こんなときこそ遊んで気分を変えるべきなのはわかっているが、どうしても、なにをしてても司紋のことばかり考えてしまうのだ。きっと遊びに出掛けても、司紋のことを思い出してしまうだろう。
だから奈々生はせっかくの連休だというのに、部屋に閉じ籠ってベッドの上でゴロゴロしていた。
なにもする気が起きず、けれどぼうっとしていると司紋のことが頭に浮かぶ。
彼は今、どうしているのだろう。両親と旅行に行っているかもしれない。それとも近場のレジャー施設だろうか。
それとも、まさか、あの可愛い女の子とデートしているのだろうか。
司紋とあの子のデートを想像し、ギリギリと胸が締め付けられた。
じわりと涙が滲む。枕に顔を押し付けて、鼻を啜った。
もうずっと、司紋の顔をまともに見ていない。声も聞いていない。
奈々生が司紋を避けていると、当然本人も気づいているはずだ。
彼はどう思っているのだろう。急にわけもわからず避けられて、嫌な気持ちにさせてしまっただろうか。怒っているだろうか。それとも、もう奈々生のことなど気にも留めていないだろうか。奈々生のことなど忘れて、可愛い女の子とデートしているのだろうか。手を繋いで見つめ合ってキャッキャウフフイチャイチャラブラブしているのだろうか。
自分の想像に胸が張り裂けそうになった。
だめだ。一度考えると妄想が止まらなくなる。
嫌な妄想を振り払い、涙を拭って体を起こす。
そろそろお昼だ。食欲はないが、食事にしよう。
立ち上がったところで、インターホンが鳴った。部屋を出て確認すると、ドアの前には司紋の姿があった。
理由がなければ、彼が訪ねてくることはない。なにかあったのだろうか。
居留守を使うという考えはなかった。ただ、彼とまともに顔を合わせてしまうと、自分の理性が保つかどうかが心配だった。
危険を回避するため、奈々生はサングラスをかけた。これで司紋の顔をしっかり目に写すことはできない。司紋の匂いを嗅がないよう、マスクもした。万が一、直接触れてしまわないよう、ゴム手袋も装着する。
これでも不安は残るが、いつまでも司紋を待たせておくわけにはいかない。
装備を整え、奈々生はドアを開けた。
「待たせてごめんね、司紋くん!」
「…………どうしたんだ」
奈々生の出で立ちに、司紋は胡乱げな視線を向ける。
家からサングラスにマスクにゴム手袋という装備で出てきたのだ。当然の反応だろう。
奈々生は司紋を直視しないように気を付けながら声をかける。
「私のことは気にしないで。それよりどうしたの?」
「今日から、父さんと母さんが二人で旅行に出掛けて家にいないんだ。飯、自分で作ろうと思ったんだけどうまくできなくて。奈々生に手伝ってほしいんだけど」
「もちろんいいよ!」
奈々生は即答する。
危険だが、困っている司紋を放っておくことはできない。
できるだけ近づかないように、顔も見ないように注意すれば大丈夫だろう。多分。きっと。危険だと思ったら、すぐに逃げればいい。お隣なのだから。
久々に司紋とまともに会話をして、はしゃいでしまいそうな自分をぐっと戒める。
気を引き締めて、司紋と共に隣の部屋へ移動した。
まっすぐキッチンに向かう。
「司紋くん、なにを作ろうとしてたの?」
「チャーハン」
「わかった」
奈々生は手早く材料を切っていく。司紋が隣でサラダを作っているが、彼の存在を意識しないよう努めた。
「奈々生はもう昼飯食ったのか?」
「まだだよ」
「じゃあ、二人分作って。一緒に食おう」
「え!?」
司紋の誘いは堪らなく嬉しいが、危険すぎる。一緒に食事なんてしたら、理性が保たないのではないか。
硬直する奈々生を、司紋が不満げに見上げてくる。
「嫌なのか?」
「ううん! 嬉しい!」
「じゃあ決まりだな」
反射的に答えてしまい、自分の迂闊さに蒼白になる。だがしかし、奈々生は司紋の頼みは断れない。
今まで散々避けてきたのに、こうしてなんの気兼ねもなく誘ってくれたのだ。彼の厚意を無下にはしたくない。
奈々生がちゃんと理性を働かせていればなんの問題もないのだ。決して発情して本能のままに行動するまいと、奈々生は気合いを入れ直した。
常に気を張って落ち着かなかったが、こうして司紋と話せたのは素直に嬉しかった。本当はずっと会いたくて堪らなかったのだ。顔を見たかった。声を聞きたかった。けれどひたすら我慢しつづけてきた。
だから、こうして以前のように司紋と普通に話せることが嬉しかった。彼に名前を呼ばれるだけで舞い上がってしまう。
「奈々生、お茶でいいか?」
「うん、ありがとう」
奈々生がチャーハンをお皿に移している間に、司紋が飲み物を淹れてくれる。
準備が整い、揃って食卓に着いた。さすがにマスクとゴム手袋は外す。サングラスだけはかけたまま、手を合わせて司紋と一緒にチャーハンを食べた。
「司紋くんのお父さんとお母さんは旅行に行ってるんだよね? 司紋くんは一人でお留守番なの?」
「ああ。俺は、用事があったから残ったんだ」
「そうなんだ……」
用事とは、もしかしてデートだろうか。家族旅行よりもデートを優先したのだろうか。
気になったけれど、訊けなかった。肯定されたらショックで立ち直れない。本当にデートなのだとしたら、知らないままでいたかった。
食事を終え、司紋と一緒に食器を片付ける。
久しぶりに司紋と過ごして、やはり彼が好きだと実感した。あれだけ避けまくったのに気持ちは全く冷めていない。このままずっと一緒にいたい。サングラス越しじゃなく、ちゃんと彼の顔を見たい。匂いを嗅ぎたい。触れたい。抱き締めたい。キスしたい。舐めたい。すりすりしたい。
「おい、奈々生?」
「はい……!?」
声をかけられ、奈々生は我に返る。危険な思考に陥っていた。
危ない。無意識に本能のままに動き、司紋に襲いかかっていたかもしれない。
用は済んだのだ。さっさと司紋から離れるべきだろう。でなければいつ犯罪に走ってもおかしくない状況だ。
じゃあ私はこれで……と言う前に、司紋が尋ねてくる。
「奈々生、このあと少し時間あるか?」
「え?」
「宿題でわかんないとこあって、教えてほしいんだけど」
「う、うん、もちろんいいよ」
いいのか。大丈夫なのか。いや、全然大丈夫ではない。大丈夫ではないけれど、断れない。
引き受けてしまってから不安が込み上げ、だらだらと冷や汗が垂れる。
司紋に頼られたのが純粋に嬉しかったのだ。こんなことは今までも滅多になかった。司紋は基本的に頭もよくて、大抵のことは自分でできてしまうから。
そんな彼が、頼ってくれたのだ。絶対期待に応えたい。
「じゃあ、着いてきて」
「し、司紋くんの部屋に行くの!?」
「ああ」
あっさり頷いて、司紋はすたすたと自室へ向かう。自分に貞操の危機が迫っているとも知らずに。
不安が一気に膨らんだ。司紋の部屋になど入ったら、それだけで興奮してなにをしでかすかわからない。
司紋の匂いを吸い込まないよう、ずっと息を止めているしかない。絶対に顔を合わせないようにして、さっさと終わらせてすぐに部屋を出よう。
覚悟を決め、奈々生は司紋につづいて部屋に入った。
用意してもらったクッションに座り、司紋の広げたノートを覗き込む。
「この問題なんだけど」
司紋が算数の問題を指差す。奈々生は問題の解き方を説明した。
気を張っているのに、段々と眠たくなってきた。眠気をこらえて説明をつづける。
どうしたのだろう。異常に眠い。
食後だからか。司紋のことを考えて、眠れない日がつづいたせいなのか。だからって、こんなに急に眠くなるなんて。
瞼が重い。頭が働かなくなってくる。
「奈々生? どうした?」
司紋の声が遠い。応えなくてはと口を開くが、思うように声が出せない。
「ん……ごめ……」
早く用を済ませて司紋から離れなければならないのに。
強烈な睡魔に抗えず、奈々生は眠りに落ちた。
27
あなたにおすすめの小説
姉の引き立て役の私は
ぴぴみ
恋愛
アリアには完璧な姉がいる。姉は美人で頭も良くてみんなに好かれてる。
「どうしたら、お姉様のようになれるの?」
「ならなくていいのよ。あなたは、そのままでいいの」
姉は優しい。でもあるとき気づいて─
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる