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第三章 暗躍する者達
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目を覚ますと、いつもの部屋だった。
少し埃っぽくて薄暗い、何の面白味もない部屋の中にいた。
外からは声。清々しいようで、陰鬱な朝に響く自由な声が聞こえてくる。
私には自由がない。自由がないはずなのに、つい先程まで夢の中でその自由を謳歌していた。
タルト姫になって、野を駆け回って、喋る花と出会って、大きなカラスに乗って。
そこはまるで子供の頃に思い描いていた空想の世界のようで、その世界で私は――――、
とそこで、彼女ははたと気付く。
何でここにいるの、と。
タルトは目を覚ますと同時、毛布を跳ね上げ、部屋を見回した。
いつもと違う部屋で、彼女は安堵の息を吐きながら、額に玉のように浮いていた汗を拭った。
心臓が早鐘を打ち鳴らし、指先が微かに震えていた。
「もう、なんであんな夢見るのよ……」
良い夢見れそうだと思っていたのに、最悪な寝起きだ。
はぁ、と思わず溜息が零れ出た。
「おはよう」
隣から子供の声がした。
見ると、ヨハンと目が合い、タルトは思わず抱き上げた。
「今の、ヨハンさん?」
「そうだよ。おはよう、デメーテ」
驚きのあまり出そうになった声は、肉球で口を押さえられたことで外に出ず、
「みんな寝てるからさ。静かにしててくれるかい」
タルトはパチパチと目を瞬き、それに頷いた。
「ちょっと外で話さない?」
また頷くと、その途端手が空を切る。
真っ黒な煙に変わったヨハンが宙を移動していき、床に降り立つと猫の姿に戻った。
その時、部屋の扉がすーっと開いたが、向こう側には誰もおらず、彼女は不思議な気持ちでいっぱいになりながら、ベッドから出ると丸い靴を履き、歩き始めたヨハンの後をついていく。
廊下を通り抜けて店の方へいくと、また独りでに扉が開き、外が覗いた。
一緒に外に出て、黒雪が降る空を彼女は見上げる。
白んだ空は、少し黄色みを帯びていた。
「今日は黄色なのね」
朝の清々しい空気が漂い、タルトは大きく伸びをした。そして、ふとマルテが昨日何かを見て肩を竦めていたことを思い出し、それらしきところに目をやる。
そこには店の看板があり、ムーンフラワーと書かれていた。
カタカタっ
何の音かと見てみれば、宙に浮いた梯子がこちらへきて、店に掛かった。
それをターっとヨハンが駆け上がっていく。
「おいで」
タルトは、好奇心を刺激され、駆け上がるように屋根の上に登った。
そして、斜めの道をおっかなびっくり進んで、天辺まで歩いていったヨハンの隣に腰を下ろす。
そこから見える街並みは、昨日と打って変わって整然とした感じがなく、故郷を思い出すような田舎町くさい風景で、それを懐かしんでいる自分がいることに気付いて、彼女は少し笑った。
「喉元過ぎて、私の心は熱さを忘れてしまったのかしら……」
「まぁ、そういう日もあると思うよ」
「そうね。多分、今日はそういう日なんだと思う。だっておかしいもの」
あんな町を懐かしむなんて。
「君は乗ってくるタイプだねー。ドーラだったらツッコんでくれるんだけど。これだけヒントを言ったら僕が関係者だってのは分かるよね?」
タルトは頷いた。
「昨日から薄々そんな気はしてたの。私のことを知ってそうで、黒猫、魔術書、魔女って頭の中で繋がっていって、ヨハンさんはドーラさんの使い魔だったのね」
「違うけど」
「うそ、何か違った?」
「僕はドーラの恋人だよ」
驚愕の事実に、タルトは大きく目を見開いた。
「驚いた? 冗談だって冗談。あれ、もしかして信じちゃってた?」
「……信じちゃって悪い?」
けらけら笑われ、タルトは黙って彼を揺すった。
「君、真に受けやすいタイプだねー」
「もう、からかわないでよ。今度言ったら思い切り撫でまわしてあげるから」
「それは嫌だなー」
ヨハンがするっと手から抜け出す。
「え、うそ、嫌だった? 私知らなくて、その――」
しょんぼりと落ち込む彼女に、ヨハンがまた冗談であることを告げる。
「もう! ヨハンさんー」
「君、本当にからかいがいがあるね。まぁ、ほぐれてきたところで、そろそろ本題に移っていいかな?」
本題、本題ね、とタルトは呟き、分かっていたとばかりの顔をした。
「いいわ、二人っきりで話したかったんでしょ? 今話してることは誰かに聞かれたらまずいことだし、ドーラさんの名前を出した時、寒気がしなかったもの」
ヨハンが少し驚いた顔をしていた。
「ふーん、君ってさ、とぼけてるようで、頭の回転は鈍くないんだね」
「前にも似たようなこと言われたわ。私ってそんなに頭が悪そうに見える?」
「見えるって言ったら怒られそうだから、ここは見えないって言っておくよ」
「じゃあ何で頭の回転は鈍くないなんて言ったの!」
彼女はヨハンを捕まえようとしたが、今度はさっと躱され、頭に乗られていた。
「まぁ聞いてよ。君、人魚姫の話をしてただろう? 精霊になりたいって思ったことはない?」
精霊、精霊ね、と呟いたあと、タルトは一言、ないわと告げた。
「あー、ないんだ。それは残念。でも覚えておいて、声を奪われた人魚姫が泡となって消えたように、君もそうなる運命にあるように僕は思ってるんだよね」
「もう、急に何。不吉なこと言って。また冗談?」
「今度のは冗談じゃないさ。その時君は、人魚姫みたく精霊に生まれ変わりたくはないかなって思ってさ」
そうねぇ、とタルトは間を置いた。
「そうなったら生まれ変わりたいって気持ちはあるけど、魔法が解けて元の姿に戻るんじゃない? だったら私は絶対に嫌よ」
「ご明察。じゃあさ、神に生まれ変わるっていうのはどう?」
嫌悪の気持ちが走り、タルトはツンと横を向いた。
「嫌よ」
「おや、即答。そんなに神になるのは嫌かい?」
「ええ、絶対に嫌。考えたくもないわ」
ふっ、とヨハンが笑った。
「一方的な愛は届かないものだね」
よく分からないことを言われ、タルトが少し眉間に皺を寄せたその時、
「君が神になったら、君が救い出すことが出来るのに。君みたいな子をさ」
衝撃的な言葉が呟かれ、彼女の心を大きく揺さぶった。
「……そうね。確かにその通りだわ。私が神だったら絶対に救う。私みたいな子を放っておいたりするもんですか!」
私なら悲しませたりしない。失望なんてさせたりしない。まして、絶望なんて絶対にさせたりしない。
その前に必ず救い出して、大好きなお母さんのもとへ帰してあげる。
鬼気迫るような表情でそう思う彼女を、頭から飛び降りたヨハンが半笑いで見ていた。
「君ってさー、ほんっと乗せられやすいみたいだね。ちょっと驚いちゃったよ」
タルトは無言で彼を掴み上げ、揺すぶった。
「ごめんごめんって!」
「もう、ヨハンさんのバカっ! 私をバカにしてっ! 真剣に考えこんじゃったじゃない!」
「だからごめんって、お詫びをあげるから許してよ」
「ヨハンさんが? 何をくれるの?」
尋ねた瞬間、手が空を切り、目の前に闇が広がった。
「闇の祝福をあげる」
彼の声が聞こえた直後、見ている闇が迫ってきて、タルトは思わず目を瞑った。
「そろそろ戻ろうか。元から夢の中にいた子達が起きてくるかもしれないし」
隣からヨハンの声がして、目を開けると、景色が戻っていた。
「今の、何?」
「僕からの愛だよ」
そう言うとヨハンはとっとことっとこ歩いて行って、梯子の前で振り返った。
「ほら帰るよー」
意識が先程のことに向き、足元を見ていなかったせいで、タルトは立ち上がろうとした瞬間バランスを崩す。
「うわわわわあっ!」
そして、屋根から転がり落ちていき、頭と背中を強く打って悶絶、転げ回っていた。
「君、結構おっちょこちょいだね。大丈夫?」
涙目で無事ではないことを訴えかける彼女のもとにヨハンがきて、冗談めかしてこう言った。
「痛いの痛いの飛んでけー」
タルトの顔にほんのちょっとの笑みが浮かぶ。
「ありがとう。ちょっと痛みが飛んでいった気がする」
「ここは魂の世界、気持ちが大事だよ。痛くないと思えば、痛くなくなるものさ」
――痛くない痛くない。痛くない痛くない。
やっぱり痛いと思い、しばしの間、タルトは打ちつけた頭を押さえていた。
痛みが引いてくると起き上がり、ヨハンと店に戻ったが、
からんからんっ からんからんっ
さっきは鳴っていなかったように思い、小首を傾げて何度か鳴らしてから扉を閉める。
直後にヨハンが真っ黒な炎を上げ、魔術書に変わった。
『…手を出して…』
「いいけど。その、どうして魔術書になって話すの? 急に恥ずかしくなった? それともただの気まぐれ?」
『…僕が普通に喋れるってことはみんなには内緒にしててね。あまり知られたくないんだ…』
「そうなの。じゃあ、このことは二人だけの秘密ね」
誰も知らない秘密を知った。少しだけ弾むような高揚感があって、タルトはふふっと笑った。
『…さ、手を出して…』
言われた通り手を出すと、ヨハンが紙束を吐き出して上に乗せた。
その紙には、茨の黒枠があって、丸い鏡の中に綺麗な女性が描かれている。
そしてその横には数字の百が刻まれ、ドルドールと書かれていた。
「これ……何?」
『…紙幣だよ。お金。こっちのお金持ってないよね? だからお小遣いをあげようと思ってさ…』
「へぇ、これがお金なの。そんなに価値があるものには見えないけど」
彼女は、お金といったら金貨や銀貨のような硬貨のイメージを持っていた。
故に興味深く、いくらくらいなのか見当もつかないが、物を買えると思うと途端にわくわくした。
「ありがとう。大事に使わせて貰うわね」
『…そんなこと言わずにパーっと使ってきなよ。君のツレでも連れてさ。ああ、それと、メリーも一緒に連れていってくれるかい?…』
「メリーちゃんね。でも私はまだ会ったことなくて」
食事の時に多少話を聞いて知ってはいるが、ずっと隠れていて見掛けることはなかった。
『…僕の部屋で寝てるから起こしてくるよ。君はツレを起こしてきてくれるかい…』
「分かったわ。メイルくんとは約束してるし、メエムちゃんも起こしてみんなでお買い物に出掛けましょう」
『…あの兄妹は夜がこないと動けないから、僕もお留守番してるよ。三人で行ってくるといいよ…』
うーん、とタルトは迷った。どうせなら皆で行きたい。
『…夜まで待つつもりかい? それも良いけど、帰ってきてからみんなでまた一緒に出掛け直すのもありだと思うけどね。そこらへんはまぁ、君の好きにするといいよ…』
ヨハンはパタンと自らを閉じ、奥へ行った。
確かにそれはありなように思い、タルトも寝室に向かった。
そして、中に入るとソフィーを揺すった。
「ソフィー、ソフィー、朝よ、起きて」
んんー、とちょっと煩わしそうにしたあと、ソフィーは茎をもたげた。
「ひかり――ひかりが足りてませんわ。目覚めるには光が……」
ぼそぼそ言うと、彼女はまた茎を倒す。
光、光かとタルトは思い、ソフィーを優しく掴んで店の中に戻り、光が差し込む窓際に置いた。
「ああ、光――眩しい――」
ソフィーがシャキっと茎を起こした。
「おはようございまして。今日も良い天気ですわね」
「おはようソフィー。今はそうだけど、さっきまで黒い雪が降ってたわよ?」
もう降ってはいない。晴れ晴れとした晴天が広がっている。
「あぁ、それは夜の欠片ですわ。朝が来ると降り落ちて、夜まで眠りにつきますのよ」
「え、あれ夜の欠片だったの? どおりで――」
冷たくないと思った。
ソフィーが、タルトの手許を二度見していた。
「何ですのその大金……。どこに隠し持ってましたのよ」
「ああこれ? 隠し持ってた訳じゃなくて、ついさっきヨハンさんから貰ったの」
間が空いた。ソフィーは驚いていた。やはり只者ではないと思って。
「そうでしたの。それなら良いんですのよ。良かったですわね」
「お小遣いって言われて手渡されたけど、この紙束大金なんでしょ? ちょっと持ってて怖くなってきたというか、私お金って持ったことなくて。これっていくらくらいなの?」
「それ全部で良い車が新車で買えますわね」
タルトは少し驚いた。
「これで馬いらずの馬車が買えるの? へぇ、そう、でも買うなら私は普通の馬車の方がいいかな」
馬を引いてみたいというのもあるが、ぱっかぱっかとのんびりいく方が彼女の好みだった。
「車を買った方が安上りですわよ?」
「そうなの? 馬車って高いのね……」
「馬車自体の値段もそうですけど、馬代や御者を雇うのにもお金が掛かりますし、そもそも御者を生業としている者がこの国にはもういないように思いますわね」
御者がいないというのは、割と衝撃的だった。
「どうしていなくなったの?」
「需要の問題、馬車に乗る者がほとんどいなくなりましたのよ。今は車の時代ですわ」
やっぱりここは都会だと、タルトは改めて思った。
「そう、私が住んでたところだと町の領主以外はみんな馬車に乗ってたんだけど」
「まあ、一領主が国の姫を差し置いて一人車に乗ってましたの?」
しまったと彼女は思った。
「な訳ありませんわね。変わり者の領主が変なものに乗ってましたのね」
「え、うん、そう! あの人熊に乗ってたの。馬車嫌いだって」
ソフィーがふき出した。
「本当に変わり者ですわね。ですけど凶暴な熊を手懐けるとは、見上げた領主ですわね」
「そう、凄い人だったの! それで話は変わるけど、これでお買い物に行かない?」
「そういうことは先に言いなさいな。ちょっと時間を貰いますわよ」
ソフィーは人に変身すると、窓を開け放ち、身を乗り出す。
「ああ、光。わたくしに魔力を――際限の無い魔力をっ!」
タルトが少し引いていた。
「何やってるの?」
「光を魔力に変えて蓄えてますのよ。魔法を知っているのだから、魔力がどういったものかくらいは知ってますわよね?」
「魔法を生み出す力、魔法力のことでしょ? 私にもあったらなぁって ちょっとソフィーが羨ましい……」
そうしたら魔法を使って部屋を抜け出して、舞踏会にでも行っていたように思う。帰りは勿論、零時の鐘が鳴る頃だ。
ソフィーがくすっと笑っていた。
「クラツリーにマルテが尋ねてましたでしょう? あなたの内なる魔力の色を」
タルトはそれに驚いた。
「私にも魔力があったのっ!」
「魔力は誰にでもあるもの。量は人それぞれですけど」
タルトは、自らの手のひらを見つめた。
あの時はマルテの変身に度肝を抜かれ、その後すぐにケーキのことで頭がいっぱいになり、そんなことを聞いていたことなど頭から飛んでしまっていたが、よくよく思い出してみると、確かにマルテは魔力の色のことを尋ね、クラツリーがそれに答えていた。
ないと思っていた魔力、あったのだ。
わくわくしてきて、妄想が膨らんだ。
頭の中で、箒で空を飛んでいると、振り返ったソフィーと目が合い、彼女が後ろを見てみろとばかりに顎をしゃくった。
振り向くと、廊下からこそっと顔を出している少し大き目の人形がいた。
お上品に波打つ薄黄金色の頭髪をふわと広げ、綺麗な緑色のドレスを着ている。
話には聞いていたが、本当にお姫様のような子で、
「メリーちゃん?」
くりっとした瑠璃色の両目を見て、タルトがそう言うと、人形はさっと隠れてしまった。
臆病なことも聞いている。
またこそっと覗いてきたので、タルトはニコっと笑い掛けた。
「はっ、初めまして」
掠れたような儚げな声だった。
それを可愛らしく思いながら、タルトは言った。
「初めましてー、私はタルト。よろしくね! メリーちゃんっ」
「よっ、よろしく」
「で、こっちがソフィー」
「もう、前にも言いましたでしょう? ソフィー・ワド・ベクスターと正確にお伝えなさいと。それで、どうしましたの? 気になって見に来ただけでして?」
人形のメリーはかぶりを振った。
「ボスがその、ついていてあげてって」
「……なるほど。分かりましたわ」
お目付け役か、とソフィーはそう思った。
「ひとまずこの時間はあまり店が開いてませんし、まずは神殿ですわね」
そこでソフィーはふと思った。まずいのでは、と。
「構いませんの?」
目を向けられたメリーは、小首を傾げていた。
「何が?」
「いえ、何でもありませんわ」
お目付け役がそういう反応なら問題無いだろう。下手に入れ知恵をしてはいけないように思ったが、考え過ぎだったようだ。
「あ、そういえばソフィー言ってたわね。何をするにしてもまずは神殿に赴き、ここの話を聞いてからだって」
「ええ、そういうことですわ。タクシーを拾いに行きますわよ」
「タクシー? タクシーって何?」
「お金を払うと目的地まで運んでくれる車。正確には違いますけど、まぁここで言うより乗った方が早いですわね。電話線が切れてなければすぐに呼べましたのに……」
ソフィーは残念に思いながら電話を探したが、集めたゴミごと部屋から消えていた。
「隣のおばさん早起きだから、借りられると思う」
メリーがそう言い、ソフィーは幸運に思った。
「良い案ですわ。そうしますわよ」
そう言うと彼女は、タルトの方を向いた。
「その大金、隠せるところはありますの?」
タルトは自らを見る。
「隠そうと思ったら隠せるけど、片腕は塞がるから」
ドレスにポケットなどなく、そうなると内で抱え込むしかなかった。
「ならわたくしが預かっておきますわ」
ソフィーが着ている服にもポケットなどなさそうだったが、帽子の中にでも隠すのかと思ってタルトは金を手渡す。
するとソフィーはその金を、分厚い紙の束を、胸の谷間に押し込んで隠した。
「さ、これで準備万端。行きますわよ」
「……斜め上の所に隠したわね。たまげたわ」
予想もしなかった隠し先にタルトは驚いていた。
「ここに隠すのが一番なんですのよ。そのうちあなたにも分かるようになりますわ。大きく成長すればですけど」
しなかった実績があり、タルトは言った。
「……ほっといてよ」
「成長するのはまだまだ先、その歳で悲観的になる必要はありませんわ」
ほら、行きますわよと背を押され、皆で店の外に出る。
そして隣家に行くと玄関口で人が倒れていて、メリーが駆け寄っていた。
「おばさんっ! おばさんっ!」
揺すられて、んんと呻いたあと、その女性は体を起こし、動転したように首を動かして、パッと起き上がる。
女性の視線はソフィーに注がれており、恥ずかしそうな顔で軽く会釈しこう言った。
「歳のせいか、どうも、お恥ずかしいところをお見せしてしまって」
「大丈夫なのでして?」
「ええ、それはもう。その、ただ寝ていただけで……嫌だわっ、もう、どうして急に。やっぱり歳のせいかしら?」
女性は虚空をぺしっと叩き、考え込むような顔をする。
「一応病院でみて貰った方が」
メリーが心配そうな顔でそう言うと、女性は屈みこみ、彼女の両肩に手を置いた。
「おばさん身体は丈夫だから、平気よ。風邪一つ引いたことない――って、これ前にも言ったわね。嫌だわもう、歳は取りたくないものね。あっ! そうだ! 昨日焼いたクッキーがあるの。沢山あるから持って帰ってみんなで食べて頂戴」
女性の目線が一瞬タルトにいった。
「それはそうと、そっちの子はメリーちゃんの新しいお友達?」
矢継ぎ早な話題転換にメリーはついていけてない様子だったが、そんな流れで籠に入ったクッキーを貰い受け、メリーはそれを店に置きに行き、ソフィーは電話を借りていた。
待っていると一台の車がきて、運転手が開いた窓からソフィーに言った。
「おはようございます。ベクスターさん?」
「そうですわ。神殿までお願いしますわね」
「あーはいはい。神殿ね」
ソフィーはドアを開けて先に乗るよう促し、最後に乗り込む。
運転手はすぐに車を発進させ、前を見ながらこう言った。
「しっかし最初見た時は驚きましたよ。別嬪さんもそうですけど、特にそっちの子。ありゃ、どうしてこんな所に冥界区の子がって、すぐ分かりましたけどね」
車内は煙草臭く、ソフィーは手で軽く扇ぎながら言う。
「どうしてそうじゃないと分かりましたの?」
ハッハッハ、と運転手が笑った。
「お貴族様ってのはタクシーに乗らない。長いことやってますけど、同僚からもヒュプノス乗せたなんて話は聞いたことありませんからね」
「まあ、そうでしたの」
ドライバーならではの視点で分かった訳か。
運転手がラジオをかけていた。
響き始めた歌声を枕にソフィーは目を瞑った。
隣のタルトは車に乗った時から、いや乗り込む前から何にでも興味津々と言った感じのおのぼりさん丸出しで、そんな彼女を傍目にメリーが眺めているのは窓の外だ。
乱雑で灰色な景色が、整然とした白に変わってくると、ナラク区の大通りは目前。
二台の車がすれ違うのがやっと、といったぐらいの道幅が一気に広がり、車が急加速した。
ぐん、と後ろに身体を引かれ、何事と思ってソフィーは目を開ける。
それを察したように、運転手が彼女に言った。
「ああ、すいませんね。ほら、うかうかしてると通勤ラッシュにね」
なるほどと思い、ソフィーはまた目を瞑る。
まだ通る車も少なく、歩道も空いているが、もうすぐどちらもごった返す。
運転手が気を利かせてくれたようだ。
神殿に着くのにそれほど時間は掛からず、料金を払って皆は車を出た。
眼前にある石造りの巨大な神殿の壁面には、いくつもの彫像が彫られていて、タルトが一番上にある象を見ており、ソフィーは胸元から一枚取り出して、ひらひら動かし、彼女に見せた。
「あ、やっぱりその人なの? なんか似てるなぁーって」
「ナラクの偉大なる魔女ドルドール。元はあそこにこの国の女王が彫られていたそうですけど、壊されて、挿げ替えられたそうですわ」
「へぇー、そうなの。でもどうして?」
「中に入ればその手の話は全部聞かせて貰えますわ。さ、行きますわよ」
タルトは深呼吸をしたりして、少し緊張している様子だった。
それをほぐしてやろうと思い、ソフィーは茶化すように彼女に言った。
「長話されますわよー。今から覚悟しておいた方がいいですわ」
「え、そんなに? どれくらい長い?」
「それは行ってのお楽しみ、わたくしはその間――」
すっとソフィーが向いて先には、オープンテラスの小洒落たカフェがあった。
「そうですわね、そこのカフェにでも行って待ってますわ」
てっきりついて来てくれるものとばかり思っていたタルトは、その発言に驚き動揺を露わにした。
「ええっ! 一緒に来てくれないのっ!」
「一緒に行っているではありませんの。一緒に聞くのは御免被りますけど」
「えぇ……。メリーちゃんは一緒に聞いてくれるよね?」
タルトは縋るような目をメリーに向ける。
「私は、ついてないといけないから」
ほっと安堵したのも束の間、ソフィーに背を押され、彼女は先陣を切らされる。
神殿の入り口、その両脇には仁王立ちした首の無い騎士が控えていて、怖、と思いながらおっかなびっくり手前の階段を登り、中に踏み入ると、蜘蛛の巣を被ったような感触があって、彼女は顔や体を払っていた。
広いエントランスには凛と張り詰めたような静かな空気が漂い、気持ちが引き締まる。
人の姿はまばらだ。祭服を着ている者が数名、一般人の姿もあり、小犬を見ながら少し怯えているようだった。
「何よあんた、何見てるのよ」
小犬がそう言うと、その男性は「ひぇっ」と慄き益々怯えの色を濃くしていた。
変なの、とタルトは思いながら、ふと足元を見て、元の姿に戻って大金を大事そうに葉で包んで歩くソフィーを見て、思わず首を傾げそうになった。
その姿で歩くより、人の姿で歩いた方がずっと楽なはずだ。
「どうしてお花に戻ったの?」
「中に入る時、妙な感触がありましたでしょう?」
タルトが頷くと、ソフィーはこう言って溜息を吐いた。
「あれ、魔法を解く結界ですのよ。来るのは久しぶりで、失念してましたわ」
ふーん、くらいの感覚でタルトはそれを一度は聞き流したが、ソフィーをすっと掬い上げた時にはたと気付き、血の気が引く思いをした。
魔法を解く結界、恐ろしいものが張られていたものだ。別段変わった感じもなく、周りの反応からもこの身に掛けられた魔法は解かれていないようだが、気が気ではなく、彼女は焦っていた。
「ありがとうございまして。受付はあそこですわ」
ソフィーは葉で指し示したが、タルトからの返事はない。
「どうしましたの?」
「ううん、何でもない、何でもないの……。ねぇ、やっぱり帰らない?」
「何言ってますのよ。ほら、行きますわよ」
「待って! 私急にお腹痛くなって」
ソフィーは少し呆れ、笑った。
「そんなに緊張せずとも、話を聞くだけですのよ? そもそも一国の姫が何をそんなに、分かりませんわね」
「ごめんねごめんね、ほんとに急に痛くなって」
タルトはメリーに目配せし、帰ろうと言ってそそくさと引き返したが、入り口で足を止める。
魔法を解く結界、それをまた通り抜ける勇気がなく、彼女は指先を伸ばしては戻し、伸ばしては戻しを繰り返しながら、えぇっ! えぇっ! と繰り返す。
そして「もう、どうしたらいいのよ……」と今にも泣きそうな顔できょろきょろ周りを見始め、パニックを起こしているのは誰の目にも明らかで、祭服を着た白髪頭の男性が近付いてくる。
「どうされました?」
落ち着いた声だった。感じは全然違うが、タルトは昔良くしてくれた老爺を思い出し、少しだけ冷静さを取り戻す。
「私その――」
「まあ、司祭アレクシス。この子、ここに来た時の記憶がなくて、わたくし達はその話をしに来ましたの」
稀有な例なのか、ただ忘れただけなのか、未だに判断ついていないが、ソフィーは無難にそう言った。
「それはそれは、さぞお困りでしょう。それでもう一度話を聞きに来たと、資料ももう一度お渡しした方が良さそうですね。さ、どうぞこちらへ」
促されてもタルトは動こうとせず、すると司祭アレクシスはふっと笑い、傅いて彼女の手を取った。
「おぉ、姫よ。どうなされた。何をそんなに憂いておられる」
「えっと――」
「何をそんなに恐れておられる」
「あの、私――」
俯く彼女を見て、アレクシスはこう言った。
「顔をお上げください。怯える必要などないのです。あなたのもとには、こんなにも多くの兵が集った! さ、刮目あれ!」
パっと彼は背後を腕で指し示し、やーやー我こそはと急に演劇を始め、タルトはきょとんとする。しかしそれも束の間、彼女は懐かしさを覚えて笑い出した。
昔良くしてくれた老爺もそういう人だったのだ。
よく分からないことをやって笑わせようとする感じ、本当によく似ていた。
「さ、姫よ。こちらへ。敵が迫ってきております」
「ありがとう。でももう大丈夫だから」
この人なら、例え元の姿に戻ったとしても受け入れてくれそうな気がして、安心できた。
「おや、そうですか。もう少し続けたかったのですが……いやね、こう見えて私は元近衛兵でして、姫を見ていると昔を思い出して――姫は何処の国のお生まれで?」
「えっと、小国だから知らないと思う」
ソフィーの時とは訳が違う。相手は人間だ。もし知っていたらと思うと、怖くて口に出せなかった。
「そうですか。私も小さな国の生まれで、周りの国々に翻弄されながら生きてきたものです。最後は遠い土地から攻めてきた大国に屈し、いや、あの時は本当に生きた心地がしなかった。まるで城壁のような重装歩兵の隊列に息を呑み、差し迫る死に私は妻と子の顔を思い浮かべながら、震える両手で柄をとり――――」
と、すらすら話す彼の言葉はよく耳に入り、自然と後ろをついて歩いていると、ソフィーが手から飛び降りる。
そして、葉を振られ、タルトは軽く手を振り返していた。
もう完全に落ち着いていた。冷静になって考えてみると、今現在解けていないのだから、今後も大丈夫だろう。
あまり楽観視は出来ないが。
身の上話を終え、自らの名を名乗ったアレクシスは、大きな彫刻絵の前で足を止める。
それには、首から上が無い姫君が描き出されていた。
「これは一度壊され、復元されたものではありますが、ここに描かれているのがこの国唯一の女王リングル。少し長くなりますが、ここの歴史を知るのも大切なことです」
オッホン、と咳払いをして、彼はこの地の誕生から語り始めた。
遠い昔、神々の戦があり、その時に混沌の神が冥界とタルタロスを混沌で呑みこみ、この地を新しく産み落とす。
それから数千年、首を刎ねられ、命を失った一人の姫君が魂の姿でそこへ迷い込んだ。
その姫君こそ、リングル。
神の力をその身に宿していた彼女は、そこで出会った異形の者達と混沌としていたこの地を平定し、国を起こして女王の椅子に座ることになった。
そして、名君として長い間この国を治めていたが、突如として狂い、暴虐の限りを尽くすようになる。
しかし、その時立ち上がった一人の英雄がいた。
アレクシスは、そこまで語ると彫刻の隣に掛けられていた絵画を手で指し示した。
それには紙幣の女性が等身大の姿で描き出されていた。
「彼女こそがその英雄、ナラクの偉大なる魔女ドルドール。彼女は魂を捧げてこの都に今なおそびえ立つあの黒城を生み出し、そこに彼の狂い姫を閉じ込め封印した。そしてこの地に平和が訪れ、民はまた安寧の日々を送れるようになった訳ですが、少し、長話が過ぎたようですな」
タルトはその話を楽しそうに聞いていたが、メリーがうとうとしていて、彼に目を向けられてハっとしていた。
「私は、付き添いだから。お構いなく」
「メリーちゃんは退屈? 向こうで休んでる?」
メリーは小さくかぶりを振った。
「駄目。ついてないと」
「無理しないで。私はもう一人でも平気だから」
うーん、とメリーは悩んでいたが、余程聞いているのが辛かったのか、ごめんねと一言言って、座り心地の良さそうな長椅子が置かれている所に向かった。
「では姫よ、次は異形についてです」
「人以外をそう呼んでるのよね?」
「そうです。神は人とそれ以外を明確に分けた。人は決まってこの神の社に送られてくるが、異形はそうではない。例え見放した者達だろうと、自らに似せた者達を他と同じように扱うことは出来なかったのでしょうな。無論私はそのことに感謝など微塵もしておりませんが。聖職者ではあっても、神になど仕えてはおりませんのでね」
聖職者とは、神に仕える者をそう呼ぶのではなかったか。疑問よりも可笑しさが勝って、タルトは笑った。
「ずっと私だけだと思ってたけど、ここにいる人はみんな神が嫌いだって聞いたわ」
「我々は神に見放された魂ですからな。ようこそ、我らが同胞よ。ここはナラク、死者と異形が暮らす国。太陽は昇らず日毎に色を変える空が天を覆い、悍ましき姿の魍魎達が地を跋扈する。あなたを歓迎致しましょう」
すっと差し出された手を彼女は握り返す。
「ありがとう。でもそれ言われるの実は二回目なの」
そして微笑を浮かべてそう言うと、アレクシスが豪快に笑った。
「我らの役目を奪った不届き者がいたようですな。何、構いませんがね。では姫よ、次はこの都での決まり事の話を致しましょう」
彼はそう言うとまた歩き始め、語った。
生前と同じように悪いことをしたらしょっ引かれるという話で、ソフィーから聞いた立ち入り禁止区域の話もあり、大きな異形は都を歩く時、人になって歩くなんて話もあった。
巨体は通行の妨げになるそうで、罰則があるそうだ。
「瘴気のことはご存じで?」
「えーと確か、人には悪いものだけど、異形には力を与えるものって聞いたけど」
「どれくらいの力を与えるかは、お聞きになられましたかな?」
タルトは軽く首を横に振った。
「凄いものですよ。異形は皆そうですが、特に異形区に住んでいる者達はそれで大きく力を増した者達ばかり。雲の上に住むカラスなどもそうで、瘴気との相性が良いのでしょうな。まるで化け物のように大きくなって、初めて目にした時は取って食われるかと思って、私は酷く怯えたものです」
「私も最初は怖かったけど、今は可愛いというか、私の知り合いにオオガラスがいるんだけど、瘴気であんなに大きくなってたのね。ソフィーからは、あのお花さんからは巨人の力を得て大きくなったって聞いたけど」
「そういう者もおりますな。しかし、姫は肝が座っておられる。小心者の私とは違うようだ」
「んー、そう? 自分ではよく分からなくて」
「皆、自分では自分が見えぬものです。さて、では次は魂の話といきましょう。この身体のどこに魂があるか、姫はご存じかな?」
タルトは胸に手を置いた。
「ここでしょ?」
「そう、そこにある。この身体はそこにある魂が生み出した仮初の肉体、この口もそうで、私は今その魂の口で、魂の声を響かせている。それが何を意味するか、姫には分かりますかな?」
「全然。ちっとも分からないわ。普通に口で喋るのと、魂の声を響かせるのとではどう違うの?」
「姫は今私と普通に話をしておられるが、違う言葉で話をしていることにお気付きではないはずだ。魂の声を響かせるとは、そういうことなのですよ」
彼女はそれにひどく驚いていた。
「……うそ。それ本当?」
「無論本当ですとも」
「だって同じ言葉で話して、そう聞こえて……」
「不思議でしょうとも。私も不思議でした。しかしまだまだ不思議なことは沢山ある」
アレクシスは、手帳を取り出してペンを走らせ、書いた文字を彼女に見せた。
「姫よ、何と書かれているか読めますでしょう」
「不思議。不思議って書かれてるわ。前にもそういうことあったけど、本当に不思議ね」
頭が混乱するくらい不思議で、彼女は思わず笑ってしまう。
「その理由は諸説ありますが、ここにある全てのものは魂で出来ていて、文字も僅かながら魂の声を響かせている、というのが一番有力視されておりますな。私はそうではないように思いますが」
「じゃあ、アレクシスさんはどういう風に思ってるの?」
「書いた者の気持ちが、文字を通してこの胸に伝わってきている。私はそのように思っております」
胸に手を置く彼に、ふーんと頷きを返してタルトは言った。
「案外そうかも。魂の世界では気持ちが大事って、その、知り合いが言ってて」
「ええ、ええ、気持ちは大事ですな。姫よ、身体を大きくするのにもここでは気持ちが大事でしてな」
魂の話はそれからも長く続いた。
子供の成長だけでなく、恋人同士や夫婦間のことにも関係していて、子作りにも関わっていた。
死後の世界で新たな生命の誕生などあるはずもなく、作られた魂を腹に入れ、赤子のように中で育てて産むのだとか。手っ取り早いのは堕ちてきた子供を養子に取ることだが、その話を聞いている時、タルトは軽く目眩を覚えていた。
子作りの方法で参っていたのではない。ソフィーが言っていたことを身に染みて理解していただけだ。
「さて、ここまでの話で何か質問はございますかな? 姫はそれよりも休みたいように見えますがね」
アレクシスは、話すついでに神殿の中も案内しており、今は屋外スペースにいた。
広い場所だ。向こう側には的があって、脇には休むベンチが置かれている。
「……当たり。一息つきたいところだったの」
「では、そこのベンチに腰掛けて休まれるといい。それとも気晴らしに魔法の練習でもなさいますかな?」
タルトは驚きのあまり一瞬言葉を失い、そして、食いつくようにこう言った。
「魔法っ! 魔法の練習をさせて! 丁度使いたいと思ってたの!」
「では深く息を吸い込んで吐き、集中なされるといい。心の水面を鎮め、僅かな波紋も立てぬようにするのです」
タルトは言われた通りにやり、心に静かな水面を広げた。
「姫は筋がいい。ここは魔法の修練場、魔法が解かれる心配はない。さ、こう唱えるのです。火よ走れ、大きく伸びろ」
「火よ走れ、大きく伸びろ」
「大地をうねり、炎の蛇よ逆巻け」
タルトは復唱を続ける。
「喰らいつくせ、我が敵を」
唱え終えた瞬間だった。炎の大蛇が姿を現し、タルトは驚愕して集中を乱した。
「姫っ!」
アレクシスが彼女に覆い被さった瞬間、炎の大蛇が大爆発を起こし、二人はその爆風でごろごろと地面を転がった。
下になったアレクシスは咳き込み、それから淡い笑みを浮かべ、彼女に尋ねた。
「姫よ、ご無事か?」
タルトは視線を彷徨わせ、その後彼に言った。
「――その、ごめんなさい」
彼女は魔法を使った時、魔力の流れを感じ取っていた。
それを乱した瞬間あれだ。自分のせいだということは理解出来ていた。
「何、先に言わなかった私が悪いのです。ああなることは予想できていたというのに、姫の力を甘く見ていた。全くもって、凄まじい魔力。蛇ではなく大蛇を生み出されるとは、恐れ入りました」
「……そう?」
タルトはちょっと気分を良くして、アレクシスの上からどいて手を差し伸べる。
アレクシスがその手を取り、起き上がった時だ。
上から闇のような色合いのベールが降ってきて、地面に落ちた。
タルトは、何だろうと思ってそれを拾い上げ、溶けるように消えていって驚く。
「それは――」
「何だったんだろうね? 持ったら消えちゃったけど……」
タルトは空を見上げたが、誰の姿もなく、黄色い晴天が広がっていた。
「先程の爆発に驚き、偶然この上を通りがかった者が落としたか、あるいは――」
ここの結界をものともしない魔法が、先程の衝撃で彼女から剥がれおちたか。
あの常人離れした魔力、アレクシスは後者のように思った。
「姫よ。最後に私は、あなたに酷なことを伝えねばならなかった。しかしそれはこの国が定めたことで、私がこの場にいる意味でもあった。だが、どうやら姫は、ここでも姫だったようだ」
小首を傾げる彼女にアレクシスは苦笑する。
「姫にこれ以上ここで魔法を使わせる訳にはいかなくなりましたな。ここは古老に見い出された者が、ヒュプノスの器が魔法を使って良いようにはできておりませんのでな」
そして、そう言うと彼は「こちらから勧めておいて本当に申し訳ない」と、深々と頭を下げていた。
************************
ナラク区、白い住宅街近くの裏路地。
木箱に腰掛けた首の無い騎士が、子供達が遊ぶ姿を眺めていた。
「おじさんもやらない?」
一人の女の子がその騎士に話し掛けた。
子供達はさっきまで鬼ごっこをしていて、今度はかくれんぼをするようだった。
「んー、そうだねぇ。おじさんは休憩中だから」
そそるお誘いではあったが、騎士にはそれよりもやるべきことがあり、静かに反応を探っていた。
「おい! そんな奴ほっといて早くやろうぜ!」
「えー、人数が多い方が楽しいじゃない」
女の子は騎士に鬼をやってもらいたかった。そうすればみんなで隠れられる。
その時だ、騎士がおぞましい声で言った。
「見ぃーつけた」
しかし、すぐに「ああ、ごめんごめん」と優しい口調でそう言い、子供達にこう言う。
「気が変わってね、私が鬼をしてあげよう。何秒待てばいい?」
急に言われて女の子は反応できなかったが、傍にいた男の子が答えていた。
「二十秒! いややっぱり三十秒だ! ちゃんと目を瞑って数えるんだぞ! ずるすんなよ」
くく、くくく、と騎士が愉快げに笑った。
「ずるか、ずるね。それはこういうのかな?」
騎士の手から無数の黒蛇が解き放たれ、子供達の魂を胸から抉り抜く。
そして、騎士は手から赤黒い炎を迸らせて白銀のグラスを生み、魂をそれに注いでいた。
「かくれんぼっていうのはね、見つからないことが大事なんだ。ここなら誰にも見つからない」
鎧の中から漆黒の顔を覗かせ、騎士はそれを一気にあおった。
「甘いね、実に美味だよ。ありがとう。それが君達の義務であり、生まれた意味だとしても、私はそのことに感謝を忘れる程愚かではない。君達も自慢するといい、私の一部になれたことを」
もう出来ないだろうけど、と騎士は愉快げに笑い、遠くを見つめた。
彼の暗い両の眼には、神殿が映しだされていた。
「こうなることは分かっていた。神の手によって決まっていた」
かくれんぼは終わりだよ、と最後にそう付け加え、彼はその場から掻き消えた。
少し埃っぽくて薄暗い、何の面白味もない部屋の中にいた。
外からは声。清々しいようで、陰鬱な朝に響く自由な声が聞こえてくる。
私には自由がない。自由がないはずなのに、つい先程まで夢の中でその自由を謳歌していた。
タルト姫になって、野を駆け回って、喋る花と出会って、大きなカラスに乗って。
そこはまるで子供の頃に思い描いていた空想の世界のようで、その世界で私は――――、
とそこで、彼女ははたと気付く。
何でここにいるの、と。
タルトは目を覚ますと同時、毛布を跳ね上げ、部屋を見回した。
いつもと違う部屋で、彼女は安堵の息を吐きながら、額に玉のように浮いていた汗を拭った。
心臓が早鐘を打ち鳴らし、指先が微かに震えていた。
「もう、なんであんな夢見るのよ……」
良い夢見れそうだと思っていたのに、最悪な寝起きだ。
はぁ、と思わず溜息が零れ出た。
「おはよう」
隣から子供の声がした。
見ると、ヨハンと目が合い、タルトは思わず抱き上げた。
「今の、ヨハンさん?」
「そうだよ。おはよう、デメーテ」
驚きのあまり出そうになった声は、肉球で口を押さえられたことで外に出ず、
「みんな寝てるからさ。静かにしててくれるかい」
タルトはパチパチと目を瞬き、それに頷いた。
「ちょっと外で話さない?」
また頷くと、その途端手が空を切る。
真っ黒な煙に変わったヨハンが宙を移動していき、床に降り立つと猫の姿に戻った。
その時、部屋の扉がすーっと開いたが、向こう側には誰もおらず、彼女は不思議な気持ちでいっぱいになりながら、ベッドから出ると丸い靴を履き、歩き始めたヨハンの後をついていく。
廊下を通り抜けて店の方へいくと、また独りでに扉が開き、外が覗いた。
一緒に外に出て、黒雪が降る空を彼女は見上げる。
白んだ空は、少し黄色みを帯びていた。
「今日は黄色なのね」
朝の清々しい空気が漂い、タルトは大きく伸びをした。そして、ふとマルテが昨日何かを見て肩を竦めていたことを思い出し、それらしきところに目をやる。
そこには店の看板があり、ムーンフラワーと書かれていた。
カタカタっ
何の音かと見てみれば、宙に浮いた梯子がこちらへきて、店に掛かった。
それをターっとヨハンが駆け上がっていく。
「おいで」
タルトは、好奇心を刺激され、駆け上がるように屋根の上に登った。
そして、斜めの道をおっかなびっくり進んで、天辺まで歩いていったヨハンの隣に腰を下ろす。
そこから見える街並みは、昨日と打って変わって整然とした感じがなく、故郷を思い出すような田舎町くさい風景で、それを懐かしんでいる自分がいることに気付いて、彼女は少し笑った。
「喉元過ぎて、私の心は熱さを忘れてしまったのかしら……」
「まぁ、そういう日もあると思うよ」
「そうね。多分、今日はそういう日なんだと思う。だっておかしいもの」
あんな町を懐かしむなんて。
「君は乗ってくるタイプだねー。ドーラだったらツッコんでくれるんだけど。これだけヒントを言ったら僕が関係者だってのは分かるよね?」
タルトは頷いた。
「昨日から薄々そんな気はしてたの。私のことを知ってそうで、黒猫、魔術書、魔女って頭の中で繋がっていって、ヨハンさんはドーラさんの使い魔だったのね」
「違うけど」
「うそ、何か違った?」
「僕はドーラの恋人だよ」
驚愕の事実に、タルトは大きく目を見開いた。
「驚いた? 冗談だって冗談。あれ、もしかして信じちゃってた?」
「……信じちゃって悪い?」
けらけら笑われ、タルトは黙って彼を揺すった。
「君、真に受けやすいタイプだねー」
「もう、からかわないでよ。今度言ったら思い切り撫でまわしてあげるから」
「それは嫌だなー」
ヨハンがするっと手から抜け出す。
「え、うそ、嫌だった? 私知らなくて、その――」
しょんぼりと落ち込む彼女に、ヨハンがまた冗談であることを告げる。
「もう! ヨハンさんー」
「君、本当にからかいがいがあるね。まぁ、ほぐれてきたところで、そろそろ本題に移っていいかな?」
本題、本題ね、とタルトは呟き、分かっていたとばかりの顔をした。
「いいわ、二人っきりで話したかったんでしょ? 今話してることは誰かに聞かれたらまずいことだし、ドーラさんの名前を出した時、寒気がしなかったもの」
ヨハンが少し驚いた顔をしていた。
「ふーん、君ってさ、とぼけてるようで、頭の回転は鈍くないんだね」
「前にも似たようなこと言われたわ。私ってそんなに頭が悪そうに見える?」
「見えるって言ったら怒られそうだから、ここは見えないって言っておくよ」
「じゃあ何で頭の回転は鈍くないなんて言ったの!」
彼女はヨハンを捕まえようとしたが、今度はさっと躱され、頭に乗られていた。
「まぁ聞いてよ。君、人魚姫の話をしてただろう? 精霊になりたいって思ったことはない?」
精霊、精霊ね、と呟いたあと、タルトは一言、ないわと告げた。
「あー、ないんだ。それは残念。でも覚えておいて、声を奪われた人魚姫が泡となって消えたように、君もそうなる運命にあるように僕は思ってるんだよね」
「もう、急に何。不吉なこと言って。また冗談?」
「今度のは冗談じゃないさ。その時君は、人魚姫みたく精霊に生まれ変わりたくはないかなって思ってさ」
そうねぇ、とタルトは間を置いた。
「そうなったら生まれ変わりたいって気持ちはあるけど、魔法が解けて元の姿に戻るんじゃない? だったら私は絶対に嫌よ」
「ご明察。じゃあさ、神に生まれ変わるっていうのはどう?」
嫌悪の気持ちが走り、タルトはツンと横を向いた。
「嫌よ」
「おや、即答。そんなに神になるのは嫌かい?」
「ええ、絶対に嫌。考えたくもないわ」
ふっ、とヨハンが笑った。
「一方的な愛は届かないものだね」
よく分からないことを言われ、タルトが少し眉間に皺を寄せたその時、
「君が神になったら、君が救い出すことが出来るのに。君みたいな子をさ」
衝撃的な言葉が呟かれ、彼女の心を大きく揺さぶった。
「……そうね。確かにその通りだわ。私が神だったら絶対に救う。私みたいな子を放っておいたりするもんですか!」
私なら悲しませたりしない。失望なんてさせたりしない。まして、絶望なんて絶対にさせたりしない。
その前に必ず救い出して、大好きなお母さんのもとへ帰してあげる。
鬼気迫るような表情でそう思う彼女を、頭から飛び降りたヨハンが半笑いで見ていた。
「君ってさー、ほんっと乗せられやすいみたいだね。ちょっと驚いちゃったよ」
タルトは無言で彼を掴み上げ、揺すぶった。
「ごめんごめんって!」
「もう、ヨハンさんのバカっ! 私をバカにしてっ! 真剣に考えこんじゃったじゃない!」
「だからごめんって、お詫びをあげるから許してよ」
「ヨハンさんが? 何をくれるの?」
尋ねた瞬間、手が空を切り、目の前に闇が広がった。
「闇の祝福をあげる」
彼の声が聞こえた直後、見ている闇が迫ってきて、タルトは思わず目を瞑った。
「そろそろ戻ろうか。元から夢の中にいた子達が起きてくるかもしれないし」
隣からヨハンの声がして、目を開けると、景色が戻っていた。
「今の、何?」
「僕からの愛だよ」
そう言うとヨハンはとっとことっとこ歩いて行って、梯子の前で振り返った。
「ほら帰るよー」
意識が先程のことに向き、足元を見ていなかったせいで、タルトは立ち上がろうとした瞬間バランスを崩す。
「うわわわわあっ!」
そして、屋根から転がり落ちていき、頭と背中を強く打って悶絶、転げ回っていた。
「君、結構おっちょこちょいだね。大丈夫?」
涙目で無事ではないことを訴えかける彼女のもとにヨハンがきて、冗談めかしてこう言った。
「痛いの痛いの飛んでけー」
タルトの顔にほんのちょっとの笑みが浮かぶ。
「ありがとう。ちょっと痛みが飛んでいった気がする」
「ここは魂の世界、気持ちが大事だよ。痛くないと思えば、痛くなくなるものさ」
――痛くない痛くない。痛くない痛くない。
やっぱり痛いと思い、しばしの間、タルトは打ちつけた頭を押さえていた。
痛みが引いてくると起き上がり、ヨハンと店に戻ったが、
からんからんっ からんからんっ
さっきは鳴っていなかったように思い、小首を傾げて何度か鳴らしてから扉を閉める。
直後にヨハンが真っ黒な炎を上げ、魔術書に変わった。
『…手を出して…』
「いいけど。その、どうして魔術書になって話すの? 急に恥ずかしくなった? それともただの気まぐれ?」
『…僕が普通に喋れるってことはみんなには内緒にしててね。あまり知られたくないんだ…』
「そうなの。じゃあ、このことは二人だけの秘密ね」
誰も知らない秘密を知った。少しだけ弾むような高揚感があって、タルトはふふっと笑った。
『…さ、手を出して…』
言われた通り手を出すと、ヨハンが紙束を吐き出して上に乗せた。
その紙には、茨の黒枠があって、丸い鏡の中に綺麗な女性が描かれている。
そしてその横には数字の百が刻まれ、ドルドールと書かれていた。
「これ……何?」
『…紙幣だよ。お金。こっちのお金持ってないよね? だからお小遣いをあげようと思ってさ…』
「へぇ、これがお金なの。そんなに価値があるものには見えないけど」
彼女は、お金といったら金貨や銀貨のような硬貨のイメージを持っていた。
故に興味深く、いくらくらいなのか見当もつかないが、物を買えると思うと途端にわくわくした。
「ありがとう。大事に使わせて貰うわね」
『…そんなこと言わずにパーっと使ってきなよ。君のツレでも連れてさ。ああ、それと、メリーも一緒に連れていってくれるかい?…』
「メリーちゃんね。でも私はまだ会ったことなくて」
食事の時に多少話を聞いて知ってはいるが、ずっと隠れていて見掛けることはなかった。
『…僕の部屋で寝てるから起こしてくるよ。君はツレを起こしてきてくれるかい…』
「分かったわ。メイルくんとは約束してるし、メエムちゃんも起こしてみんなでお買い物に出掛けましょう」
『…あの兄妹は夜がこないと動けないから、僕もお留守番してるよ。三人で行ってくるといいよ…』
うーん、とタルトは迷った。どうせなら皆で行きたい。
『…夜まで待つつもりかい? それも良いけど、帰ってきてからみんなでまた一緒に出掛け直すのもありだと思うけどね。そこらへんはまぁ、君の好きにするといいよ…』
ヨハンはパタンと自らを閉じ、奥へ行った。
確かにそれはありなように思い、タルトも寝室に向かった。
そして、中に入るとソフィーを揺すった。
「ソフィー、ソフィー、朝よ、起きて」
んんー、とちょっと煩わしそうにしたあと、ソフィーは茎をもたげた。
「ひかり――ひかりが足りてませんわ。目覚めるには光が……」
ぼそぼそ言うと、彼女はまた茎を倒す。
光、光かとタルトは思い、ソフィーを優しく掴んで店の中に戻り、光が差し込む窓際に置いた。
「ああ、光――眩しい――」
ソフィーがシャキっと茎を起こした。
「おはようございまして。今日も良い天気ですわね」
「おはようソフィー。今はそうだけど、さっきまで黒い雪が降ってたわよ?」
もう降ってはいない。晴れ晴れとした晴天が広がっている。
「あぁ、それは夜の欠片ですわ。朝が来ると降り落ちて、夜まで眠りにつきますのよ」
「え、あれ夜の欠片だったの? どおりで――」
冷たくないと思った。
ソフィーが、タルトの手許を二度見していた。
「何ですのその大金……。どこに隠し持ってましたのよ」
「ああこれ? 隠し持ってた訳じゃなくて、ついさっきヨハンさんから貰ったの」
間が空いた。ソフィーは驚いていた。やはり只者ではないと思って。
「そうでしたの。それなら良いんですのよ。良かったですわね」
「お小遣いって言われて手渡されたけど、この紙束大金なんでしょ? ちょっと持ってて怖くなってきたというか、私お金って持ったことなくて。これっていくらくらいなの?」
「それ全部で良い車が新車で買えますわね」
タルトは少し驚いた。
「これで馬いらずの馬車が買えるの? へぇ、そう、でも買うなら私は普通の馬車の方がいいかな」
馬を引いてみたいというのもあるが、ぱっかぱっかとのんびりいく方が彼女の好みだった。
「車を買った方が安上りですわよ?」
「そうなの? 馬車って高いのね……」
「馬車自体の値段もそうですけど、馬代や御者を雇うのにもお金が掛かりますし、そもそも御者を生業としている者がこの国にはもういないように思いますわね」
御者がいないというのは、割と衝撃的だった。
「どうしていなくなったの?」
「需要の問題、馬車に乗る者がほとんどいなくなりましたのよ。今は車の時代ですわ」
やっぱりここは都会だと、タルトは改めて思った。
「そう、私が住んでたところだと町の領主以外はみんな馬車に乗ってたんだけど」
「まあ、一領主が国の姫を差し置いて一人車に乗ってましたの?」
しまったと彼女は思った。
「な訳ありませんわね。変わり者の領主が変なものに乗ってましたのね」
「え、うん、そう! あの人熊に乗ってたの。馬車嫌いだって」
ソフィーがふき出した。
「本当に変わり者ですわね。ですけど凶暴な熊を手懐けるとは、見上げた領主ですわね」
「そう、凄い人だったの! それで話は変わるけど、これでお買い物に行かない?」
「そういうことは先に言いなさいな。ちょっと時間を貰いますわよ」
ソフィーは人に変身すると、窓を開け放ち、身を乗り出す。
「ああ、光。わたくしに魔力を――際限の無い魔力をっ!」
タルトが少し引いていた。
「何やってるの?」
「光を魔力に変えて蓄えてますのよ。魔法を知っているのだから、魔力がどういったものかくらいは知ってますわよね?」
「魔法を生み出す力、魔法力のことでしょ? 私にもあったらなぁって ちょっとソフィーが羨ましい……」
そうしたら魔法を使って部屋を抜け出して、舞踏会にでも行っていたように思う。帰りは勿論、零時の鐘が鳴る頃だ。
ソフィーがくすっと笑っていた。
「クラツリーにマルテが尋ねてましたでしょう? あなたの内なる魔力の色を」
タルトはそれに驚いた。
「私にも魔力があったのっ!」
「魔力は誰にでもあるもの。量は人それぞれですけど」
タルトは、自らの手のひらを見つめた。
あの時はマルテの変身に度肝を抜かれ、その後すぐにケーキのことで頭がいっぱいになり、そんなことを聞いていたことなど頭から飛んでしまっていたが、よくよく思い出してみると、確かにマルテは魔力の色のことを尋ね、クラツリーがそれに答えていた。
ないと思っていた魔力、あったのだ。
わくわくしてきて、妄想が膨らんだ。
頭の中で、箒で空を飛んでいると、振り返ったソフィーと目が合い、彼女が後ろを見てみろとばかりに顎をしゃくった。
振り向くと、廊下からこそっと顔を出している少し大き目の人形がいた。
お上品に波打つ薄黄金色の頭髪をふわと広げ、綺麗な緑色のドレスを着ている。
話には聞いていたが、本当にお姫様のような子で、
「メリーちゃん?」
くりっとした瑠璃色の両目を見て、タルトがそう言うと、人形はさっと隠れてしまった。
臆病なことも聞いている。
またこそっと覗いてきたので、タルトはニコっと笑い掛けた。
「はっ、初めまして」
掠れたような儚げな声だった。
それを可愛らしく思いながら、タルトは言った。
「初めましてー、私はタルト。よろしくね! メリーちゃんっ」
「よっ、よろしく」
「で、こっちがソフィー」
「もう、前にも言いましたでしょう? ソフィー・ワド・ベクスターと正確にお伝えなさいと。それで、どうしましたの? 気になって見に来ただけでして?」
人形のメリーはかぶりを振った。
「ボスがその、ついていてあげてって」
「……なるほど。分かりましたわ」
お目付け役か、とソフィーはそう思った。
「ひとまずこの時間はあまり店が開いてませんし、まずは神殿ですわね」
そこでソフィーはふと思った。まずいのでは、と。
「構いませんの?」
目を向けられたメリーは、小首を傾げていた。
「何が?」
「いえ、何でもありませんわ」
お目付け役がそういう反応なら問題無いだろう。下手に入れ知恵をしてはいけないように思ったが、考え過ぎだったようだ。
「あ、そういえばソフィー言ってたわね。何をするにしてもまずは神殿に赴き、ここの話を聞いてからだって」
「ええ、そういうことですわ。タクシーを拾いに行きますわよ」
「タクシー? タクシーって何?」
「お金を払うと目的地まで運んでくれる車。正確には違いますけど、まぁここで言うより乗った方が早いですわね。電話線が切れてなければすぐに呼べましたのに……」
ソフィーは残念に思いながら電話を探したが、集めたゴミごと部屋から消えていた。
「隣のおばさん早起きだから、借りられると思う」
メリーがそう言い、ソフィーは幸運に思った。
「良い案ですわ。そうしますわよ」
そう言うと彼女は、タルトの方を向いた。
「その大金、隠せるところはありますの?」
タルトは自らを見る。
「隠そうと思ったら隠せるけど、片腕は塞がるから」
ドレスにポケットなどなく、そうなると内で抱え込むしかなかった。
「ならわたくしが預かっておきますわ」
ソフィーが着ている服にもポケットなどなさそうだったが、帽子の中にでも隠すのかと思ってタルトは金を手渡す。
するとソフィーはその金を、分厚い紙の束を、胸の谷間に押し込んで隠した。
「さ、これで準備万端。行きますわよ」
「……斜め上の所に隠したわね。たまげたわ」
予想もしなかった隠し先にタルトは驚いていた。
「ここに隠すのが一番なんですのよ。そのうちあなたにも分かるようになりますわ。大きく成長すればですけど」
しなかった実績があり、タルトは言った。
「……ほっといてよ」
「成長するのはまだまだ先、その歳で悲観的になる必要はありませんわ」
ほら、行きますわよと背を押され、皆で店の外に出る。
そして隣家に行くと玄関口で人が倒れていて、メリーが駆け寄っていた。
「おばさんっ! おばさんっ!」
揺すられて、んんと呻いたあと、その女性は体を起こし、動転したように首を動かして、パッと起き上がる。
女性の視線はソフィーに注がれており、恥ずかしそうな顔で軽く会釈しこう言った。
「歳のせいか、どうも、お恥ずかしいところをお見せしてしまって」
「大丈夫なのでして?」
「ええ、それはもう。その、ただ寝ていただけで……嫌だわっ、もう、どうして急に。やっぱり歳のせいかしら?」
女性は虚空をぺしっと叩き、考え込むような顔をする。
「一応病院でみて貰った方が」
メリーが心配そうな顔でそう言うと、女性は屈みこみ、彼女の両肩に手を置いた。
「おばさん身体は丈夫だから、平気よ。風邪一つ引いたことない――って、これ前にも言ったわね。嫌だわもう、歳は取りたくないものね。あっ! そうだ! 昨日焼いたクッキーがあるの。沢山あるから持って帰ってみんなで食べて頂戴」
女性の目線が一瞬タルトにいった。
「それはそうと、そっちの子はメリーちゃんの新しいお友達?」
矢継ぎ早な話題転換にメリーはついていけてない様子だったが、そんな流れで籠に入ったクッキーを貰い受け、メリーはそれを店に置きに行き、ソフィーは電話を借りていた。
待っていると一台の車がきて、運転手が開いた窓からソフィーに言った。
「おはようございます。ベクスターさん?」
「そうですわ。神殿までお願いしますわね」
「あーはいはい。神殿ね」
ソフィーはドアを開けて先に乗るよう促し、最後に乗り込む。
運転手はすぐに車を発進させ、前を見ながらこう言った。
「しっかし最初見た時は驚きましたよ。別嬪さんもそうですけど、特にそっちの子。ありゃ、どうしてこんな所に冥界区の子がって、すぐ分かりましたけどね」
車内は煙草臭く、ソフィーは手で軽く扇ぎながら言う。
「どうしてそうじゃないと分かりましたの?」
ハッハッハ、と運転手が笑った。
「お貴族様ってのはタクシーに乗らない。長いことやってますけど、同僚からもヒュプノス乗せたなんて話は聞いたことありませんからね」
「まあ、そうでしたの」
ドライバーならではの視点で分かった訳か。
運転手がラジオをかけていた。
響き始めた歌声を枕にソフィーは目を瞑った。
隣のタルトは車に乗った時から、いや乗り込む前から何にでも興味津々と言った感じのおのぼりさん丸出しで、そんな彼女を傍目にメリーが眺めているのは窓の外だ。
乱雑で灰色な景色が、整然とした白に変わってくると、ナラク区の大通りは目前。
二台の車がすれ違うのがやっと、といったぐらいの道幅が一気に広がり、車が急加速した。
ぐん、と後ろに身体を引かれ、何事と思ってソフィーは目を開ける。
それを察したように、運転手が彼女に言った。
「ああ、すいませんね。ほら、うかうかしてると通勤ラッシュにね」
なるほどと思い、ソフィーはまた目を瞑る。
まだ通る車も少なく、歩道も空いているが、もうすぐどちらもごった返す。
運転手が気を利かせてくれたようだ。
神殿に着くのにそれほど時間は掛からず、料金を払って皆は車を出た。
眼前にある石造りの巨大な神殿の壁面には、いくつもの彫像が彫られていて、タルトが一番上にある象を見ており、ソフィーは胸元から一枚取り出して、ひらひら動かし、彼女に見せた。
「あ、やっぱりその人なの? なんか似てるなぁーって」
「ナラクの偉大なる魔女ドルドール。元はあそこにこの国の女王が彫られていたそうですけど、壊されて、挿げ替えられたそうですわ」
「へぇー、そうなの。でもどうして?」
「中に入ればその手の話は全部聞かせて貰えますわ。さ、行きますわよ」
タルトは深呼吸をしたりして、少し緊張している様子だった。
それをほぐしてやろうと思い、ソフィーは茶化すように彼女に言った。
「長話されますわよー。今から覚悟しておいた方がいいですわ」
「え、そんなに? どれくらい長い?」
「それは行ってのお楽しみ、わたくしはその間――」
すっとソフィーが向いて先には、オープンテラスの小洒落たカフェがあった。
「そうですわね、そこのカフェにでも行って待ってますわ」
てっきりついて来てくれるものとばかり思っていたタルトは、その発言に驚き動揺を露わにした。
「ええっ! 一緒に来てくれないのっ!」
「一緒に行っているではありませんの。一緒に聞くのは御免被りますけど」
「えぇ……。メリーちゃんは一緒に聞いてくれるよね?」
タルトは縋るような目をメリーに向ける。
「私は、ついてないといけないから」
ほっと安堵したのも束の間、ソフィーに背を押され、彼女は先陣を切らされる。
神殿の入り口、その両脇には仁王立ちした首の無い騎士が控えていて、怖、と思いながらおっかなびっくり手前の階段を登り、中に踏み入ると、蜘蛛の巣を被ったような感触があって、彼女は顔や体を払っていた。
広いエントランスには凛と張り詰めたような静かな空気が漂い、気持ちが引き締まる。
人の姿はまばらだ。祭服を着ている者が数名、一般人の姿もあり、小犬を見ながら少し怯えているようだった。
「何よあんた、何見てるのよ」
小犬がそう言うと、その男性は「ひぇっ」と慄き益々怯えの色を濃くしていた。
変なの、とタルトは思いながら、ふと足元を見て、元の姿に戻って大金を大事そうに葉で包んで歩くソフィーを見て、思わず首を傾げそうになった。
その姿で歩くより、人の姿で歩いた方がずっと楽なはずだ。
「どうしてお花に戻ったの?」
「中に入る時、妙な感触がありましたでしょう?」
タルトが頷くと、ソフィーはこう言って溜息を吐いた。
「あれ、魔法を解く結界ですのよ。来るのは久しぶりで、失念してましたわ」
ふーん、くらいの感覚でタルトはそれを一度は聞き流したが、ソフィーをすっと掬い上げた時にはたと気付き、血の気が引く思いをした。
魔法を解く結界、恐ろしいものが張られていたものだ。別段変わった感じもなく、周りの反応からもこの身に掛けられた魔法は解かれていないようだが、気が気ではなく、彼女は焦っていた。
「ありがとうございまして。受付はあそこですわ」
ソフィーは葉で指し示したが、タルトからの返事はない。
「どうしましたの?」
「ううん、何でもない、何でもないの……。ねぇ、やっぱり帰らない?」
「何言ってますのよ。ほら、行きますわよ」
「待って! 私急にお腹痛くなって」
ソフィーは少し呆れ、笑った。
「そんなに緊張せずとも、話を聞くだけですのよ? そもそも一国の姫が何をそんなに、分かりませんわね」
「ごめんねごめんね、ほんとに急に痛くなって」
タルトはメリーに目配せし、帰ろうと言ってそそくさと引き返したが、入り口で足を止める。
魔法を解く結界、それをまた通り抜ける勇気がなく、彼女は指先を伸ばしては戻し、伸ばしては戻しを繰り返しながら、えぇっ! えぇっ! と繰り返す。
そして「もう、どうしたらいいのよ……」と今にも泣きそうな顔できょろきょろ周りを見始め、パニックを起こしているのは誰の目にも明らかで、祭服を着た白髪頭の男性が近付いてくる。
「どうされました?」
落ち着いた声だった。感じは全然違うが、タルトは昔良くしてくれた老爺を思い出し、少しだけ冷静さを取り戻す。
「私その――」
「まあ、司祭アレクシス。この子、ここに来た時の記憶がなくて、わたくし達はその話をしに来ましたの」
稀有な例なのか、ただ忘れただけなのか、未だに判断ついていないが、ソフィーは無難にそう言った。
「それはそれは、さぞお困りでしょう。それでもう一度話を聞きに来たと、資料ももう一度お渡しした方が良さそうですね。さ、どうぞこちらへ」
促されてもタルトは動こうとせず、すると司祭アレクシスはふっと笑い、傅いて彼女の手を取った。
「おぉ、姫よ。どうなされた。何をそんなに憂いておられる」
「えっと――」
「何をそんなに恐れておられる」
「あの、私――」
俯く彼女を見て、アレクシスはこう言った。
「顔をお上げください。怯える必要などないのです。あなたのもとには、こんなにも多くの兵が集った! さ、刮目あれ!」
パっと彼は背後を腕で指し示し、やーやー我こそはと急に演劇を始め、タルトはきょとんとする。しかしそれも束の間、彼女は懐かしさを覚えて笑い出した。
昔良くしてくれた老爺もそういう人だったのだ。
よく分からないことをやって笑わせようとする感じ、本当によく似ていた。
「さ、姫よ。こちらへ。敵が迫ってきております」
「ありがとう。でももう大丈夫だから」
この人なら、例え元の姿に戻ったとしても受け入れてくれそうな気がして、安心できた。
「おや、そうですか。もう少し続けたかったのですが……いやね、こう見えて私は元近衛兵でして、姫を見ていると昔を思い出して――姫は何処の国のお生まれで?」
「えっと、小国だから知らないと思う」
ソフィーの時とは訳が違う。相手は人間だ。もし知っていたらと思うと、怖くて口に出せなかった。
「そうですか。私も小さな国の生まれで、周りの国々に翻弄されながら生きてきたものです。最後は遠い土地から攻めてきた大国に屈し、いや、あの時は本当に生きた心地がしなかった。まるで城壁のような重装歩兵の隊列に息を呑み、差し迫る死に私は妻と子の顔を思い浮かべながら、震える両手で柄をとり――――」
と、すらすら話す彼の言葉はよく耳に入り、自然と後ろをついて歩いていると、ソフィーが手から飛び降りる。
そして、葉を振られ、タルトは軽く手を振り返していた。
もう完全に落ち着いていた。冷静になって考えてみると、今現在解けていないのだから、今後も大丈夫だろう。
あまり楽観視は出来ないが。
身の上話を終え、自らの名を名乗ったアレクシスは、大きな彫刻絵の前で足を止める。
それには、首から上が無い姫君が描き出されていた。
「これは一度壊され、復元されたものではありますが、ここに描かれているのがこの国唯一の女王リングル。少し長くなりますが、ここの歴史を知るのも大切なことです」
オッホン、と咳払いをして、彼はこの地の誕生から語り始めた。
遠い昔、神々の戦があり、その時に混沌の神が冥界とタルタロスを混沌で呑みこみ、この地を新しく産み落とす。
それから数千年、首を刎ねられ、命を失った一人の姫君が魂の姿でそこへ迷い込んだ。
その姫君こそ、リングル。
神の力をその身に宿していた彼女は、そこで出会った異形の者達と混沌としていたこの地を平定し、国を起こして女王の椅子に座ることになった。
そして、名君として長い間この国を治めていたが、突如として狂い、暴虐の限りを尽くすようになる。
しかし、その時立ち上がった一人の英雄がいた。
アレクシスは、そこまで語ると彫刻の隣に掛けられていた絵画を手で指し示した。
それには紙幣の女性が等身大の姿で描き出されていた。
「彼女こそがその英雄、ナラクの偉大なる魔女ドルドール。彼女は魂を捧げてこの都に今なおそびえ立つあの黒城を生み出し、そこに彼の狂い姫を閉じ込め封印した。そしてこの地に平和が訪れ、民はまた安寧の日々を送れるようになった訳ですが、少し、長話が過ぎたようですな」
タルトはその話を楽しそうに聞いていたが、メリーがうとうとしていて、彼に目を向けられてハっとしていた。
「私は、付き添いだから。お構いなく」
「メリーちゃんは退屈? 向こうで休んでる?」
メリーは小さくかぶりを振った。
「駄目。ついてないと」
「無理しないで。私はもう一人でも平気だから」
うーん、とメリーは悩んでいたが、余程聞いているのが辛かったのか、ごめんねと一言言って、座り心地の良さそうな長椅子が置かれている所に向かった。
「では姫よ、次は異形についてです」
「人以外をそう呼んでるのよね?」
「そうです。神は人とそれ以外を明確に分けた。人は決まってこの神の社に送られてくるが、異形はそうではない。例え見放した者達だろうと、自らに似せた者達を他と同じように扱うことは出来なかったのでしょうな。無論私はそのことに感謝など微塵もしておりませんが。聖職者ではあっても、神になど仕えてはおりませんのでね」
聖職者とは、神に仕える者をそう呼ぶのではなかったか。疑問よりも可笑しさが勝って、タルトは笑った。
「ずっと私だけだと思ってたけど、ここにいる人はみんな神が嫌いだって聞いたわ」
「我々は神に見放された魂ですからな。ようこそ、我らが同胞よ。ここはナラク、死者と異形が暮らす国。太陽は昇らず日毎に色を変える空が天を覆い、悍ましき姿の魍魎達が地を跋扈する。あなたを歓迎致しましょう」
すっと差し出された手を彼女は握り返す。
「ありがとう。でもそれ言われるの実は二回目なの」
そして微笑を浮かべてそう言うと、アレクシスが豪快に笑った。
「我らの役目を奪った不届き者がいたようですな。何、構いませんがね。では姫よ、次はこの都での決まり事の話を致しましょう」
彼はそう言うとまた歩き始め、語った。
生前と同じように悪いことをしたらしょっ引かれるという話で、ソフィーから聞いた立ち入り禁止区域の話もあり、大きな異形は都を歩く時、人になって歩くなんて話もあった。
巨体は通行の妨げになるそうで、罰則があるそうだ。
「瘴気のことはご存じで?」
「えーと確か、人には悪いものだけど、異形には力を与えるものって聞いたけど」
「どれくらいの力を与えるかは、お聞きになられましたかな?」
タルトは軽く首を横に振った。
「凄いものですよ。異形は皆そうですが、特に異形区に住んでいる者達はそれで大きく力を増した者達ばかり。雲の上に住むカラスなどもそうで、瘴気との相性が良いのでしょうな。まるで化け物のように大きくなって、初めて目にした時は取って食われるかと思って、私は酷く怯えたものです」
「私も最初は怖かったけど、今は可愛いというか、私の知り合いにオオガラスがいるんだけど、瘴気であんなに大きくなってたのね。ソフィーからは、あのお花さんからは巨人の力を得て大きくなったって聞いたけど」
「そういう者もおりますな。しかし、姫は肝が座っておられる。小心者の私とは違うようだ」
「んー、そう? 自分ではよく分からなくて」
「皆、自分では自分が見えぬものです。さて、では次は魂の話といきましょう。この身体のどこに魂があるか、姫はご存じかな?」
タルトは胸に手を置いた。
「ここでしょ?」
「そう、そこにある。この身体はそこにある魂が生み出した仮初の肉体、この口もそうで、私は今その魂の口で、魂の声を響かせている。それが何を意味するか、姫には分かりますかな?」
「全然。ちっとも分からないわ。普通に口で喋るのと、魂の声を響かせるのとではどう違うの?」
「姫は今私と普通に話をしておられるが、違う言葉で話をしていることにお気付きではないはずだ。魂の声を響かせるとは、そういうことなのですよ」
彼女はそれにひどく驚いていた。
「……うそ。それ本当?」
「無論本当ですとも」
「だって同じ言葉で話して、そう聞こえて……」
「不思議でしょうとも。私も不思議でした。しかしまだまだ不思議なことは沢山ある」
アレクシスは、手帳を取り出してペンを走らせ、書いた文字を彼女に見せた。
「姫よ、何と書かれているか読めますでしょう」
「不思議。不思議って書かれてるわ。前にもそういうことあったけど、本当に不思議ね」
頭が混乱するくらい不思議で、彼女は思わず笑ってしまう。
「その理由は諸説ありますが、ここにある全てのものは魂で出来ていて、文字も僅かながら魂の声を響かせている、というのが一番有力視されておりますな。私はそうではないように思いますが」
「じゃあ、アレクシスさんはどういう風に思ってるの?」
「書いた者の気持ちが、文字を通してこの胸に伝わってきている。私はそのように思っております」
胸に手を置く彼に、ふーんと頷きを返してタルトは言った。
「案外そうかも。魂の世界では気持ちが大事って、その、知り合いが言ってて」
「ええ、ええ、気持ちは大事ですな。姫よ、身体を大きくするのにもここでは気持ちが大事でしてな」
魂の話はそれからも長く続いた。
子供の成長だけでなく、恋人同士や夫婦間のことにも関係していて、子作りにも関わっていた。
死後の世界で新たな生命の誕生などあるはずもなく、作られた魂を腹に入れ、赤子のように中で育てて産むのだとか。手っ取り早いのは堕ちてきた子供を養子に取ることだが、その話を聞いている時、タルトは軽く目眩を覚えていた。
子作りの方法で参っていたのではない。ソフィーが言っていたことを身に染みて理解していただけだ。
「さて、ここまでの話で何か質問はございますかな? 姫はそれよりも休みたいように見えますがね」
アレクシスは、話すついでに神殿の中も案内しており、今は屋外スペースにいた。
広い場所だ。向こう側には的があって、脇には休むベンチが置かれている。
「……当たり。一息つきたいところだったの」
「では、そこのベンチに腰掛けて休まれるといい。それとも気晴らしに魔法の練習でもなさいますかな?」
タルトは驚きのあまり一瞬言葉を失い、そして、食いつくようにこう言った。
「魔法っ! 魔法の練習をさせて! 丁度使いたいと思ってたの!」
「では深く息を吸い込んで吐き、集中なされるといい。心の水面を鎮め、僅かな波紋も立てぬようにするのです」
タルトは言われた通りにやり、心に静かな水面を広げた。
「姫は筋がいい。ここは魔法の修練場、魔法が解かれる心配はない。さ、こう唱えるのです。火よ走れ、大きく伸びろ」
「火よ走れ、大きく伸びろ」
「大地をうねり、炎の蛇よ逆巻け」
タルトは復唱を続ける。
「喰らいつくせ、我が敵を」
唱え終えた瞬間だった。炎の大蛇が姿を現し、タルトは驚愕して集中を乱した。
「姫っ!」
アレクシスが彼女に覆い被さった瞬間、炎の大蛇が大爆発を起こし、二人はその爆風でごろごろと地面を転がった。
下になったアレクシスは咳き込み、それから淡い笑みを浮かべ、彼女に尋ねた。
「姫よ、ご無事か?」
タルトは視線を彷徨わせ、その後彼に言った。
「――その、ごめんなさい」
彼女は魔法を使った時、魔力の流れを感じ取っていた。
それを乱した瞬間あれだ。自分のせいだということは理解出来ていた。
「何、先に言わなかった私が悪いのです。ああなることは予想できていたというのに、姫の力を甘く見ていた。全くもって、凄まじい魔力。蛇ではなく大蛇を生み出されるとは、恐れ入りました」
「……そう?」
タルトはちょっと気分を良くして、アレクシスの上からどいて手を差し伸べる。
アレクシスがその手を取り、起き上がった時だ。
上から闇のような色合いのベールが降ってきて、地面に落ちた。
タルトは、何だろうと思ってそれを拾い上げ、溶けるように消えていって驚く。
「それは――」
「何だったんだろうね? 持ったら消えちゃったけど……」
タルトは空を見上げたが、誰の姿もなく、黄色い晴天が広がっていた。
「先程の爆発に驚き、偶然この上を通りがかった者が落としたか、あるいは――」
ここの結界をものともしない魔法が、先程の衝撃で彼女から剥がれおちたか。
あの常人離れした魔力、アレクシスは後者のように思った。
「姫よ。最後に私は、あなたに酷なことを伝えねばならなかった。しかしそれはこの国が定めたことで、私がこの場にいる意味でもあった。だが、どうやら姫は、ここでも姫だったようだ」
小首を傾げる彼女にアレクシスは苦笑する。
「姫にこれ以上ここで魔法を使わせる訳にはいかなくなりましたな。ここは古老に見い出された者が、ヒュプノスの器が魔法を使って良いようにはできておりませんのでな」
そして、そう言うと彼は「こちらから勧めておいて本当に申し訳ない」と、深々と頭を下げていた。
************************
ナラク区、白い住宅街近くの裏路地。
木箱に腰掛けた首の無い騎士が、子供達が遊ぶ姿を眺めていた。
「おじさんもやらない?」
一人の女の子がその騎士に話し掛けた。
子供達はさっきまで鬼ごっこをしていて、今度はかくれんぼをするようだった。
「んー、そうだねぇ。おじさんは休憩中だから」
そそるお誘いではあったが、騎士にはそれよりもやるべきことがあり、静かに反応を探っていた。
「おい! そんな奴ほっといて早くやろうぜ!」
「えー、人数が多い方が楽しいじゃない」
女の子は騎士に鬼をやってもらいたかった。そうすればみんなで隠れられる。
その時だ、騎士がおぞましい声で言った。
「見ぃーつけた」
しかし、すぐに「ああ、ごめんごめん」と優しい口調でそう言い、子供達にこう言う。
「気が変わってね、私が鬼をしてあげよう。何秒待てばいい?」
急に言われて女の子は反応できなかったが、傍にいた男の子が答えていた。
「二十秒! いややっぱり三十秒だ! ちゃんと目を瞑って数えるんだぞ! ずるすんなよ」
くく、くくく、と騎士が愉快げに笑った。
「ずるか、ずるね。それはこういうのかな?」
騎士の手から無数の黒蛇が解き放たれ、子供達の魂を胸から抉り抜く。
そして、騎士は手から赤黒い炎を迸らせて白銀のグラスを生み、魂をそれに注いでいた。
「かくれんぼっていうのはね、見つからないことが大事なんだ。ここなら誰にも見つからない」
鎧の中から漆黒の顔を覗かせ、騎士はそれを一気にあおった。
「甘いね、実に美味だよ。ありがとう。それが君達の義務であり、生まれた意味だとしても、私はそのことに感謝を忘れる程愚かではない。君達も自慢するといい、私の一部になれたことを」
もう出来ないだろうけど、と騎士は愉快げに笑い、遠くを見つめた。
彼の暗い両の眼には、神殿が映しだされていた。
「こうなることは分かっていた。神の手によって決まっていた」
かくれんぼは終わりだよ、と最後にそう付け加え、彼はその場から掻き消えた。
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