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3.プレスコット侯爵家
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夜会の翌日のオリヴィアには、あまりに疲れが残っていた。朝の支度に来たマーサを私室に入れ、部屋の外の様子をうかがってもらいながら、しばらく横になったままでいた。
父と兄に呼び出されるに違いないが、ふたりとも朝に強くない。きっと昨晩も、遅くまで女性とお楽しみだったのだろう。
四歳上の兄メイナードは、オリヴィアの物心つく前から「お前が母上を殺したんだ」とオリヴィアを恨んでいた。侯爵位を継ぐ嫡男である兄を、当然父は邪険に扱わない。
父は、兄には何から何まで買い与え学院の教育をも受けさせたが、オリヴィアには最低限と称し学院には行かせず、家庭教師の体を取った。
近年の貴族社会で、家庭教師が珍しいとオリヴィアが知ったのはデビュタント以降だ。そもそも、プレスコット侯爵邸に家庭教師が来たことは一度もなかった。
オリヴィアは、マーサから文字の読み書きと食事のマナー、テッドが手配した教養本から淑女の振る舞いや嗜みを学んだ。
マナーやカーテシーを実践できるかどうかは、考えても無駄だった。普通の令嬢であれば学院に通い、何度も夜会や茶会を経験するが、オリヴィアにその機会は用意されなかった。
デビュタントで、いかに世間知らずで恥をかくように育てられたのかを知った。一般的な貴族家庭でこの歳を迎えたわけではないと、オリヴィアなりに覚悟して迎えた披露の場だった。
時代遅れのドレスに薄いメイク、コルセットを着けていても凹凸のない身体のオリヴィアは、誰とも話せなかった。
皆が一旦は顔を向けてくれるものの、オリヴィアの知らない学院生活で作られた友人グループに、声を掛ける勇気は出なかった。知り合いを作る間もなく、父や兄、元婚約者による噂が広がり、避けられた。
(だから、みんなが呆れるのは仕方ないの)
ダンスは、全く踊れないことを知った元婚約者が、会いに来る口実として自ら教えてくれた。
オリヴィアが婚約者である以上、社交へ出るなら連れ立つのが自然で、夜会であれば一度は踊らなければならない。彼としても、オリヴィアが踊れるようになることは必要だったため、父と兄の計らいもあってプレスコット侯爵邸の客室では常にふたりきりだった。
デビュタント以降に行われるようになった元婚約者とふたりきりのダンスレッスンは、当然のように元婚約者のしたい放題だった。「脱がせなければセーフ」と言われ、腰や臀部にべたべたと触れられ、ときに揉まれて悪寒が走った。
耳に寄られ「愛している」と囁かれることにも、鳥肌を立てていた。毎回、首元まで詰まったドレスを着て、指先まで隠れる袖があるか、二の腕まで覆う手袋をしていたから、元婚約者は気付きようがなかったはずだ。
オリヴィアが「本当にそんなところに触れて踊るのが普通なのですか」と尋ねても、「知らないから教えてやってるのに口答えするな」と言われ、従うしかなかった。元婚約者に歯向かっていると父や兄に知られれば、食事抜きが待っていた。
父の期待を一心に向けられた兄は兄で、全ての憎しみをオリヴィアに向けた。
兄が屋敷に帰ってくると、のんびりと本を読むオリヴィアがいる。わざわざ私室へ訪れてその姿を確認し、「次期侯爵の自分はこんなに多忙なスケジュールをこなしているというのに」と、執事や使用人に分かるように溜息を吐く。
父や兄が屋敷に居ても居なくても、オリヴィアは食堂に降りずマーサに運んでもらい、冷えた食事を私室で取る。私室に備え付けられた浴室を使う時には、音に気を付けできる限り手短にさっと入る。
父は妻を、兄は母を、オリヴィアが生まれたことで失っている。オリヴィアの味方になってくれるわけがなかった。
まだ兄は、嫌味を言うためだとしても顔を合わせてくれるだけ、マシなのかもしれない。
父に至っては、執務室に呼ばれる以外で顔すら見ない。オリヴィアが避けているのもあるが、執務室に呼び立てられるのは執事や使用人と同じで、きっと家族と認識されていないのだ。
(できるだけ近づかないことが、私を守る。だから、これでいいの)
◇
「お嬢様」
「……マーサ」
「ああ、やっと目をお覚ましになりましたね。失礼いたします」
マーサの手が、オリヴィアの首元に触れる。ひんやりして気持ちがいい。
「うなされていましたよ。少し熱があるようですが」
「夢見が悪かったの……、大丈夫、いつものことよ。すぐに治るわ」
慣れないことをした後、つまり夜会などの社交の場に出ると、翌日には体調を崩してしまう。毎度のことで、マーサも慣れているが、貴族令嬢としては胸を張れない。
父と兄に顔を合わせないように私室に籠っているため体力がなく、部屋の外で過ごした翌日は頭が上がりにくいのだ。
私室のカーテンは、ベッドから遠いところが少し開かれ、光が差し込んでいる。もうだいぶ陽が高いのだろう。
「報告が終わりましたら、こちらでゆっくり過ごしましょう」
「ええ。さすがに、そろそろ支度をお願い」
「かしこまりました」
◇
執事のテッドに呼ばれたのは、オリヴィアが起き上がって、軽めの昼食を取った後だった。髪を低い位置でひとつにまとめてもらい、父の執務室の前に立つ。
マーサは扉の外で待機してくれるが、室内に入るのはオリヴィアひとりだ。何を言われても動揺しないように、唇に力を込めてから、扉をノックする。
「お父様、お兄様、お待たせいたしました」
「入って掛けなさい」
「失礼いたします」
夜会のドレスとは違って、動きやすい普段着だ。淑女の所作ができていないと指摘されることもなく、顎で示されたソファに浅く座った。
「婚約破棄の件、フェルドン辺境伯から話を聞いた。『申し訳ない』と伝えてほしいとのことだった」
「左様ですか」
「公表してから三年、結婚に踏み込めず引き延ばされた理由はこれだった。それなりに賠償はもらう」
「はい」
(やっぱり、私のいないところで、話はついていた)
オリヴィアには、何も還元されないのだろう。賠償金は、父と兄が好き放題に使うだけだ。
「それから、第二王子殿下との件だが」
「申し訳ありませんでした。私には不釣り合いで、お断りするべきでした」
父の言葉を全て聞く前に、謝罪を差し込んだ。この家での立場は、十二分に染みついている。
「ああ、今後期待することなどないように。次の婚約相手が見つかるまで、大人しくしておけ。以上」
「かしこまりました。お時間をいただき、ありがとうございました」
すぐに立ち上がり、深々と一礼をして、執務室を退出する。何も、間違ったことは言っていない。
(殿下が何をなさるか、私の考えが及ぶところではないわ……)
第二王子からの招待状が本当に届くのであれば、王家の印章が使われるはずで、無視することは不敬に当たるはずだ。滅多にお目にかかることのできない代物だろう。父と兄は「見たことがないから分からなかった」などと言い訳するに違いない。
王子は、オリヴィアが自分宛のものを受け取れないことを知っていたし、あの時の言葉を本気と受け取るなら、何か対策を講じるような気がしてしまう。
(はあ……)
期待なんて、持つから裏切られる。初めから諦めていればいいと、分かっているのに。
父と兄への謁見は終わったが、オリヴィアの心は重いままだった。
父と兄に呼び出されるに違いないが、ふたりとも朝に強くない。きっと昨晩も、遅くまで女性とお楽しみだったのだろう。
四歳上の兄メイナードは、オリヴィアの物心つく前から「お前が母上を殺したんだ」とオリヴィアを恨んでいた。侯爵位を継ぐ嫡男である兄を、当然父は邪険に扱わない。
父は、兄には何から何まで買い与え学院の教育をも受けさせたが、オリヴィアには最低限と称し学院には行かせず、家庭教師の体を取った。
近年の貴族社会で、家庭教師が珍しいとオリヴィアが知ったのはデビュタント以降だ。そもそも、プレスコット侯爵邸に家庭教師が来たことは一度もなかった。
オリヴィアは、マーサから文字の読み書きと食事のマナー、テッドが手配した教養本から淑女の振る舞いや嗜みを学んだ。
マナーやカーテシーを実践できるかどうかは、考えても無駄だった。普通の令嬢であれば学院に通い、何度も夜会や茶会を経験するが、オリヴィアにその機会は用意されなかった。
デビュタントで、いかに世間知らずで恥をかくように育てられたのかを知った。一般的な貴族家庭でこの歳を迎えたわけではないと、オリヴィアなりに覚悟して迎えた披露の場だった。
時代遅れのドレスに薄いメイク、コルセットを着けていても凹凸のない身体のオリヴィアは、誰とも話せなかった。
皆が一旦は顔を向けてくれるものの、オリヴィアの知らない学院生活で作られた友人グループに、声を掛ける勇気は出なかった。知り合いを作る間もなく、父や兄、元婚約者による噂が広がり、避けられた。
(だから、みんなが呆れるのは仕方ないの)
ダンスは、全く踊れないことを知った元婚約者が、会いに来る口実として自ら教えてくれた。
オリヴィアが婚約者である以上、社交へ出るなら連れ立つのが自然で、夜会であれば一度は踊らなければならない。彼としても、オリヴィアが踊れるようになることは必要だったため、父と兄の計らいもあってプレスコット侯爵邸の客室では常にふたりきりだった。
デビュタント以降に行われるようになった元婚約者とふたりきりのダンスレッスンは、当然のように元婚約者のしたい放題だった。「脱がせなければセーフ」と言われ、腰や臀部にべたべたと触れられ、ときに揉まれて悪寒が走った。
耳に寄られ「愛している」と囁かれることにも、鳥肌を立てていた。毎回、首元まで詰まったドレスを着て、指先まで隠れる袖があるか、二の腕まで覆う手袋をしていたから、元婚約者は気付きようがなかったはずだ。
オリヴィアが「本当にそんなところに触れて踊るのが普通なのですか」と尋ねても、「知らないから教えてやってるのに口答えするな」と言われ、従うしかなかった。元婚約者に歯向かっていると父や兄に知られれば、食事抜きが待っていた。
父の期待を一心に向けられた兄は兄で、全ての憎しみをオリヴィアに向けた。
兄が屋敷に帰ってくると、のんびりと本を読むオリヴィアがいる。わざわざ私室へ訪れてその姿を確認し、「次期侯爵の自分はこんなに多忙なスケジュールをこなしているというのに」と、執事や使用人に分かるように溜息を吐く。
父や兄が屋敷に居ても居なくても、オリヴィアは食堂に降りずマーサに運んでもらい、冷えた食事を私室で取る。私室に備え付けられた浴室を使う時には、音に気を付けできる限り手短にさっと入る。
父は妻を、兄は母を、オリヴィアが生まれたことで失っている。オリヴィアの味方になってくれるわけがなかった。
まだ兄は、嫌味を言うためだとしても顔を合わせてくれるだけ、マシなのかもしれない。
父に至っては、執務室に呼ばれる以外で顔すら見ない。オリヴィアが避けているのもあるが、執務室に呼び立てられるのは執事や使用人と同じで、きっと家族と認識されていないのだ。
(できるだけ近づかないことが、私を守る。だから、これでいいの)
◇
「お嬢様」
「……マーサ」
「ああ、やっと目をお覚ましになりましたね。失礼いたします」
マーサの手が、オリヴィアの首元に触れる。ひんやりして気持ちがいい。
「うなされていましたよ。少し熱があるようですが」
「夢見が悪かったの……、大丈夫、いつものことよ。すぐに治るわ」
慣れないことをした後、つまり夜会などの社交の場に出ると、翌日には体調を崩してしまう。毎度のことで、マーサも慣れているが、貴族令嬢としては胸を張れない。
父と兄に顔を合わせないように私室に籠っているため体力がなく、部屋の外で過ごした翌日は頭が上がりにくいのだ。
私室のカーテンは、ベッドから遠いところが少し開かれ、光が差し込んでいる。もうだいぶ陽が高いのだろう。
「報告が終わりましたら、こちらでゆっくり過ごしましょう」
「ええ。さすがに、そろそろ支度をお願い」
「かしこまりました」
◇
執事のテッドに呼ばれたのは、オリヴィアが起き上がって、軽めの昼食を取った後だった。髪を低い位置でひとつにまとめてもらい、父の執務室の前に立つ。
マーサは扉の外で待機してくれるが、室内に入るのはオリヴィアひとりだ。何を言われても動揺しないように、唇に力を込めてから、扉をノックする。
「お父様、お兄様、お待たせいたしました」
「入って掛けなさい」
「失礼いたします」
夜会のドレスとは違って、動きやすい普段着だ。淑女の所作ができていないと指摘されることもなく、顎で示されたソファに浅く座った。
「婚約破棄の件、フェルドン辺境伯から話を聞いた。『申し訳ない』と伝えてほしいとのことだった」
「左様ですか」
「公表してから三年、結婚に踏み込めず引き延ばされた理由はこれだった。それなりに賠償はもらう」
「はい」
(やっぱり、私のいないところで、話はついていた)
オリヴィアには、何も還元されないのだろう。賠償金は、父と兄が好き放題に使うだけだ。
「それから、第二王子殿下との件だが」
「申し訳ありませんでした。私には不釣り合いで、お断りするべきでした」
父の言葉を全て聞く前に、謝罪を差し込んだ。この家での立場は、十二分に染みついている。
「ああ、今後期待することなどないように。次の婚約相手が見つかるまで、大人しくしておけ。以上」
「かしこまりました。お時間をいただき、ありがとうございました」
すぐに立ち上がり、深々と一礼をして、執務室を退出する。何も、間違ったことは言っていない。
(殿下が何をなさるか、私の考えが及ぶところではないわ……)
第二王子からの招待状が本当に届くのであれば、王家の印章が使われるはずで、無視することは不敬に当たるはずだ。滅多にお目にかかることのできない代物だろう。父と兄は「見たことがないから分からなかった」などと言い訳するに違いない。
王子は、オリヴィアが自分宛のものを受け取れないことを知っていたし、あの時の言葉を本気と受け取るなら、何か対策を講じるような気がしてしまう。
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