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<3>神坂宅にて
しおりを挟む「先輩、今日俺ん家でもいいですか」
「え」
「臨時休業なんですよ。店長から連絡来てました」
「ああ、そうなんだ」
(家、か……。神坂の家。行きたくないわけじゃない。ただ……)
神坂からの誘いを断らないのは、神坂のことを下心で見ているからだ。伝わっていないからこそ、裏切るようなことはしたくない。
神坂はバイト中、接客もするがキッチンで調理をすることの方が多いらしく、自炊もある程度はこなすらしい。どこまでも、完璧な男だ。
「何か買ってく?」
「そうですね、鍋とかなら割とすぐできそうです。お腹空いてて」
「いいね、ちょうど寒くなってきたし」
「土鍋とか、雰囲気の出る鍋はないんですけど」
「別にいいんじゃない? 溢れなければ」
「よかったです、俺もそう思ってました」
スーパーで誰かと一緒に買い物するなんて、実家にいた頃以来だ。水炊きにしてあっさりポン酢で食べたいと言う、神坂の提案に乗った。
売り場を歩く中で、冷蔵庫に積まれた缶のアルコールが目に入った。神坂と行くのはいつもあの定食屋で、店長もいる中ではお酒を飲む気にはなれなかった。
「ちょっと飲んでもいい?」
「全然どうぞ、我慢してました?」
「いや、家なら軽く飲むのもありかなって。甘くて弱いのしか飲めないけど」
当然のように神坂が持っているカゴに入れたのは、アルコールが三パーセントの缶チューハイ二本だ。これくらいなら、気分良く酔える。
(状況が都合良すぎて、飲まないとやってられない)
会計は僕がした。神坂は渋ったものの、僕がひとつ年上で神坂の家に上がるのだ。これくらいはさせてほしい。
◇
神坂の部屋は、シンプルかつモノトーンにまとめられていて、セミダブルの大きめベッドとローテーブル、ラグにクッションしかない、いかにも神坂らしい部屋だった。
(神坂の匂いがする……っ)
神坂のデオドラントは特に香りの強いものではなかったが、さすがにこの生活感満載の家では、布に染みついた匂いが充満している。
僕がドキドキしているのは、気付かれていないはずだ。
よっぽどお腹が空いているのだろう、神坂はさっとエプロンを巻くとキッチンに立った。出汁パックを入れた水を沸かす間、ざくざくとんとんとテンポよく野菜を切っていく。
僕がやったことと言えば、ローテーブルに鍋敷きを敷くことと、使い捨ての器を並べたことくらいだ。
缶チューハイを開け、麦茶を用意した神坂と乾杯をする。ひとつの鍋を誰かと突く食事も久々で、神坂と僕の声しかしない部屋が妙に落ち着く。
神坂となら、きっと何をしても楽しい。
出掛けてみたいとも思うが、僕が望んでいるのは友達以上の立ち位置だ。神坂にはそんな気持ち全くないだろうから、言い出す気もない。
「先輩って就活してないんですか」
「いや、したよ? ゼミ推薦で決まったから、あんまり忙しくなかった」
「ああ、なるほど。うらやましい」
神坂が嫌味を言えない性格なのは知っている。心からそう思って、口に出してくれる。裏表がなく、付き合いやすい。
「でも、そのための成績とか媚び作りはやったから」
「就職に強いゼミへ入るために?」
「そう。神坂はこれから本格化? 文系ゼミは三年からだよね」
「そうです、先輩と同じルートで決めたいです」
「それが楽だよ、自分に合う企業があるならね」
いつも通りの、心地良い会話にほっとした。神坂は単純に、僕を先輩として家に誘っただけだ。あの定食屋でのご飯と何も変わらない。
◇
定食屋での量もそれなりに多かったが、いつの間にか胃は膨らんでいたらしい。お腹が少し苦しくなるほどに食べたのはいつぶりだろう。
調子に乗って買いすぎたし、大柄な神坂のペースに乗せられ食べすぎた。
ベッドを背もたれに、床に敷かれたラグの上へ隣同士座っている。
神坂は膝を抱え頭をこてんと傾け、横目で僕を覗き見てくる。その姿と瞳はまるで、子犬のようにくりくりしている。
(可愛く、見えてくる……、こんな、でかいのに)
「……神坂、どうした?」
「先輩、帰ります?」
「あ、ごめん。長居しすぎたね」
「違います、帰っちゃうんですか、先輩」
「神坂?」
鍋を食べている間、神坂が「一口だけ」と、お酒を欲しがった。一口と言わず紙コップに半分ほど注ごうとしたら慌てて止められ、僕と同じように弱いのかもとは思っていた。
ただ、そんな表情で上目遣いをするとは聞いてない。この体格で、反則だ。
「……帰ってほしくない?」
「うん」
「ちなみに、泊まるって言ったら、僕、どこで寝るの」
「ベッド」
「神坂は?」
「ベッド。一緒に寝る」
そんなことを、即答する男ではないと思う。顔の色は変わっていないが、酔っているのは明らかだ。
(…………僕が、言い出したんじゃないから)
神坂に、全く警戒されていない。きっとまだ、何も知られていないままだ。体調に変化はなさそうでも、ひとりにしておくのは危険だと、このラッキーを肯定した。
鍋の片付けを請け負った。神坂の視線の先にあった畳まれたスウェットを渡すと、神坂はよろめきながら着替え始めた。
インナーを着ていてくれて助かった。それでも、盛り上がった胸筋は主張が激しく、下半身の盛り上がりも立派で反応しそうになる。
一度大きく跳ねた下心を落ち着けるために、ふうっと一息吐いた。
ふわふわと危なげな神坂が、クローゼットから新しいスウェットを出してくれた。
遠慮なく借りると、神坂の使う柔軟剤の香りが広がる。当然サイズが大きく少し丈が余って、やはり心拍が上がってしまう。
まだ、気付かれたくない。神坂が僕のことをどう思っているのかは、尋ねないと分からない。
この感じは、きっとただの先輩だと気を許してくれているだけだ。嫌われたくはない。
神坂をベッドへ入れると、そのまま手首を引かれた。辛うじて上に乗ることは避けたものの、神坂の真横にうつ伏せで寝そべっている。
酔った神坂が、この体勢に誘ってきたのだ。枕に頬を押し付けているが、動くわけにもいかない。
(う……、ダイレクトは、ヤバいだろっ)
「俺、先輩と居るのなんか安心する」
「……『安心』?」
少しトーンが重い気がして、神坂とほぼ距離がないことにうるさかった心臓が落ち着いていく。神坂の方を向くと、柔らかく口角を上げていた。
やたらと切なげで、あの時に似ていた。名前の話をした時に一瞬見せた、あの表情だ。
「なんていうか、家で落ち着けたことなくて。中学の時は両親が言い争ってて、慣れない文化に戸惑ったんだろうけど、俺が何か言える雰囲気じゃなかったし……。日本に帰ってきてからも両親は顔を合わせないように働いて、俺はほぼ一人暮らし。夜中に親が帰ってきた音で驚くというか……」
「……そう」
素っ気ない返事しかできない自分に腹が立つ。せっかく、酔っているとはいえ完璧な神坂が弱さを見せているのに。
「今はもう離婚して、どっちにも放任されて、連絡も取ってない。お金は入ってくるけど」
「寂しい?」
「そうかも」
「ん、そっか」
名前の由来を保護者に聞いてみましょうなんて宿題は、日本の小学校教育を受けていれば経験があるだろう。
由来がはっきり分からないと言っていた神坂の家庭環境が複雑だと想像するには、些細なものだった。
(泣きそう……、ではないか、さすがに)
酔った神坂なら怒らないだろうと、頭を撫でた。
満足気にふっと頬を緩める神坂がいる。男らしい神坂が、さっきからずっと可愛く見える。
「ありがとう、葉旺先輩」
神坂の顔が近づいてきて、思わず顎を引いて目を伏せてしまった。再度どくどくとうるさくなった鼓動は、伝わっていないと信じたい。
唇は額に当たり、隣にいる大男はそのまま僕を抱え込んで、すうすうと寝息を立て始めた。神坂は酔っている。素面ならきっと後悔する。
明日の朝、この状況に神坂はどんな反応をするのだろう。平謝りされるだろうか。
(いや……)
意外と何もないのかもしれない。普段とのギャップが大きすぎて、神坂が覚えていない方が都合がいい。
その方が、先輩後輩の関係のまま、何もなかったように繕えるはずだ。
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